《じっくり解説》ヘロデとは?

ヘロデとは?

ヘロデ…

([ギリシャ語]Hērōdēs) ⒈ユダヤの王ヘロデ(マタ2:1‐22,ルカ1:5).いわゆるヘロデ大王.幼児イエスを殺そうとしたことで有名.前37―4年までローマの後ろだてでユダヤの王として在位した.死んだ時は70歳に近かったと思われる.
彼は,前73年頃ユダヤの実質的な支配者アンティパテル2世の第2子として生まれ,前47年にガリラヤ州の知事,前37年にユダヤの王となり,権勢を振るった.彼の生涯を詳しく見る前に,ヘロデ家の歴史を概観しよう.
⑴ヘロデ家の歴史.ヘロデの祖父はアンティパテル1世.イドマヤ人で,ユダヤの支配者ハスモン王家の引き立てで将軍になった.ハスモン家はマカベア戦争でユダヤの指導者となったマッタティヤの子孫の家系で,前2世紀以後王権と祭司職とを兼備した.
ヘロデの父アンティパテル2世は,ハスモン家の内紛に乗じて巧みに権力を握った.アンティパテル1世を登用した当主ヤンナエウスの死後,その妃で後継者となったサロメ・アレクサンドラが女性だったため大祭司になれないので(王位のみ継いだ),長男ヒルカノス2世が大祭司となった.女王の死(前63年)後,次男アリストブロスが反乱を起こし,兄を退けて王,大祭司職を奪った.この兄を支援したのがヘロデの父アンティパテルで,アリストブロスと戦わせ,またローマの将軍ポンペイウスの支持を得てヒルカノス2世を復位させることに成功した.
後,ユリウス・カイザルがライバルのポンペイウスを倒してローマの実権を握ると,アンティパテルはカイザルに仕え忠誠を示した.カイザルはヒルカノス2世の地位を保証する一方,アンティパテルを寵愛して実権を(ユダヤの徴税官という形で)彼に与えた.アンティパテルの政治的手腕,行動力,弁舌の才等はヘロデにおいて,よりまさって発揮されることになる.
アンティパテルは表面上あくまでヒルカノスを王として立て,自らはユダヤ全土の代官に任じられる一方,長男ファサエルをエルサレムと周辺の知事に,次男ヘロデをガリラヤの知事に就任させた(前47年).当時ヘロデは25歳くらいであったと思われる.前43年,アンティパテルは臣下マリクスに毒殺された.
⑵ヘロデの人物と生涯.ヘロデは身体強健,精力的で馬術,弓術,投槍等にすぐれ,弁舌の才,経済の才にも恵まれ,しかも勇敢な武人で統率者としての天分を持っていたようである.肉親に対しては情が厚い反面,敵対者には容赦のない憎しみを注いだ.建築に関しても趣味と才能を示している.
ヘロデはガリラヤに赴任すると間もなく山賊退治で武勇を示し,好評を博した.ヒルカノスは一面ではこの若者を愛し,一面ではねたみと危惧を感じていた.中傷する者もあって,彼はヘロデを裁判にかけるためにサンヘドリンに召喚した.ヘロデを支持するシリヤ総督の干渉もあって,ヘロデは赦免されたが,ヒルカノスとの関係はこじれ,ヘロデはヒルカノスを退位させようとはかった.しかしこの時は父と兄の説得で中止した.
保身,立身に関するヘロデの感覚は,父に劣らず鋭かった.彼はローマの実力者の抗争に際して,常に的確に身を処して勝者の側についた.
ユリウス・カイザルを暗殺(前44年)したカッシウスがシリヤを押さえた時,ヘロデは徴税において有能ぶりを示してカッシウスに気に入られ,シリヤの総督に任じられた.しかしカッシウスが,アントニウスとオクタヴィアヌス(後のアウグストゥス)の連合軍に破られると,ヘロデは巨額の賄賂をアントニウスに贈り,ガリラヤ分封の領主の地位を得た.
ローマの実力者の支持を得る一方,ヘロデはユダヤ人の支持を得るためにも腐心した.父アンティパテルも同じ目的からユダヤ教に改宗したが,イドマヤ出身のゆえに白眼視されることは続いた.そこでヘロデはヒルカノスの孫娘マリアンメと婚約し,ハスモン王家の一員となることに成功した.
しかし反ヘロデ派はおさまらず,アントニウスに訴えたが成功しなかったので,彼らはヒルカノス王のおいに当たるアンティゴノスを立てた.アンティゴノスはパルテヤ人の支援をも得てヒルカノスとヘロデ兄弟に反抗し,自らユダヤ王と称し,両派の抗争でユダヤは内戦状態に陥った.
この抗争の中でヒルカノスは,ヘロデの兄ファサエルと共にアンティゴノスの手に捕らわれ,ファサエルは殺された.ヘロデはローマへ逃げて再びアントニウスとオクタヴィアヌスの支援を得,ローマの元老院からユダヤの王という称号を贈られた.この後ヘロデはまずガリラヤを手中に収め,次にユダヤを攻めてアンティゴノスの軍を破り,この政敵を処刑した.前37年,つまりヘロデが王の称号を得てから3年たった年,まだエルサレム攻略が終わらない時に,ヘロデは(戦いの合間に,ゆとりを見せて)マリアンメとの結婚式を挙行した.
この年からヘロデ王の治世が始まるわけであるが,それは3期に分けられる.a.王権確立期(前37―23年),b.全盛期(前23―13年),c.衰退期(前13―4年)である.
a.王権確立期.ヘロデは最大の敵アンティゴノスを破って実質的な王権を得たが,なお4種の敵対者があった.第1はパリサイ人の強硬派とそれを支持する民衆で,彼らはヘロデを「半ユダヤ人」と呼んでさげすみ,ローマに友好的であるためにヘロデを憎んだ.しかしパリサイ派の中にも,こういう半異邦人に支配されることは神の懲らしめであるとして,ヘロデ家の支配を肯定する者もあった.ヘロデは前者には強権をもって臨み,後者には懐柔を策した.
第2はユダヤ貴族階級で,アンティゴノス支持派のサドカイ人である.そのうち45人をヘロデは処刑しているが,その多くはサンヘドリンの議員であった.
第3はエジプトの女王クレオパトラで,彼女はアントニウスを利用して,ユダヤやその周辺への領土的野心を遂げようとし,折あるごとにヘロデに敵対的行動をとった.
第4はハスモン家で,ヒルカノスは無害な老人で,利用できたが,問題はマリアンメの母,つまりヘロデのしゅうとめに当たるアレクサンドラであり,その息子(ヘロデには義弟)アリストブロスの存在であった.この義弟は年少だったが大祭司の後継者としての資格を持っていた.それを妨害するためにヘロデはバビロンからツァドクの子孫と称されるアナネルを連れてきて大祭司にした.怒ったアレクサンドラはクレオパトラに訴え,この女王の干渉によってアナネルは廃され,少年アリストブロスが大祭司に立てられた.だがこの少年は間もなくプールで水死した.これをヘロデの陰謀と確信したアレクサンドラは再びクレオパトラに訴え,こうしてヘロデはアントニウスに呼びつけられた.彼は死を覚悟して行ったが,アントニウスはヘロデの利用価値を認め,彼を罰しなかった.この時ヘロデは愛妻マリアンメをおじヨセフ(同時にヘロデの妹サロメの夫)に託し,もし自分が殺されたら彼女を殺してくれと頼んだ.しかしこれが中傷の種となり,後日ヨセフもマリアンメもヘロデに処刑されることになる.ヘロデは引き続きアントニウスに忠誠を示していた.しかしアントニウスとオクタヴィアヌスが対立し,戦うに至った時,ヘロデは前者の側について戦うはずだったが,クレオパトラがそれを妨げた.それが幸いして,アントニウスが敗北し,オクタヴィアヌスが皇帝に即位(アウグストゥス)した時,ヘロデは新皇帝から赦されたのみならず信頼を受け,ユダヤ王の地位を強固にした.
b.全盛期.ローマ皇帝の信任を得たヘロデは対外的には領土を拡張し,内政的には独裁的権力を確立した.その領域はダビデの全盛期に匹敵するほどになった.また大祭司やサンヘドリンから政治権力を奪い,宗教的権威だけに限定した.ヘロデは税金取り立ての天才で,あらゆる名目の税を課し,着実に徴収し,王室財政を豊かにした.その富は自己の地位強化のために巧妙に用い,王の意のままになる軍隊,警察,スパイ制度が採用された.派手な建築事業も王権誇示が目的であった.ローマ風の都市建設,宮殿,劇場,競技場など,ローマ文化の移入に熱心であったのみならず,それらに皇帝の名をつけて追従の道具とした.たとえば「カイザリヤ」などがそうである.
一方ヘロデは,ユダヤ人の歓心を買うための手を打つことも忘れなかった.その最大のものが,神殿修築事業である.「ヘロデは治世第15年に神殿を修復すると共に,周囲に新しい石垣を巡らして神域を2倍に広げた.計り知れないほどの工費を投じ,その規模の壮大なことは他に類がなかった」と,歴史家ヨセフォスは記している(『ユダヤ戦記』21:1).労力も費用も(マコ13:1),そして年月も(ヨハ2:20)惜しみなくかけた評判の建築であった.
しかし一方ではヘロデは異教的なものをも盛んに国内各地に持ち込んで,信仰深いユダヤ人の反感を買った.神殿建築も真の敬神の動機からでないことは見抜かれていた.ヨセフォスも,上の記述の後ヘロデの宮殿について記して「2つのきわめて大きく美しい建物から成り,これと比べれば神殿そのものも比較にならなかった」と皮肉っている.
ヘロデの建てた最大の造営物はヘロディウムであろう.ベツレヘムの南東5キロに現存する人工の丘(高さ50メートル)で,要塞兼宮殿であり,死後彼はここに葬られた.このようなヘロデによる建造物,建築物は今も遺跡として数多くイスラエルの地に見られる.
c.衰退期.誕生50年を記念して工事(前24―15年)を始めたヘロディウムが完成する頃から,ヘロデの心身の衰えと共に,宮廷内の闘争が陰惨かつ醜悪な様相を露骨に示すようになった.
10人の妻により15人の子を得たヘロデの家庭は,惨憺たる末期症状を呈していた.最初の妻ドリスは「家柄の卑しくないユダヤ婦人」で,アンティパテル(3世)という息子を産んだ.王になってから第2の妻,最愛のマリアンメを迎えると,ドリスとその子は遠ざけられ,マリアンメの2人の息子が父王の愛を占有した.
第3の妻はアレキサンドリヤの祭司の娘でやはりマリアンメという名.その息子ヘロデ(ピリポ)はサロメの父(マコ6:17).
第4の妻の子はアケラオ(マタ2:22)とアンテパス(ルカ3:19,13:31).
第5の妻の子がピリポ(ルカ3:1).
中傷をうのみにして最愛の妻マリアンメを処刑してしまった後,傷心のヘロデはその愛を彼女の2人の息子に注いだ.だが,彼らの父に対する気持ちは複雑だった(母のことが理由の一つ).そこにヘロデの妹サロメの存在がからむ.その2人の王子のうち兄アレクサンドロスの妻はペルシヤ王家とギリシヤ王家の血統で,それを誇ってヘロデ家の女性たちを見下すところがあり,一方弟のアリストブロスの妻は父ヘロデの妹サロメの娘(つまりいとこ)ベルニケであるが,彼はベルニケを愛さず夫婦仲が悪かった.それゆえサロメはヘロデの2王子を陥れるため,ヘロデに中傷を告げた.ヘロデは「2人の王子が父のいのちと王座とをねらっている」という訴えを半信半疑で聞き,2人を試す意味も兼ねて久しく遠ざけていた長男アンティパテルを呼び寄せ,彼を王位継承者に定めた.
事態はもつれにもつれ,ついにヘロデは2王子をローマ皇帝に訴えたが,アウグストゥス帝は2王子とアンティパテルを和解させ,一応最悪の事態は避けられたかに見えた.しかし疑心暗鬼のとりこになったヘロデは2王子を処刑し,その後長男も処刑してしまった.その処刑の5日後,ヘロデ大王は国民からも近親からも憎悪され,不信と病苦にさいなまれつつ死んだ.ベツレヘムの幼児殺し(マタ2:16)はこういう状況下の事件であった.
⒉ヘロデ・ピリポ.マタ14:3,マコ6:17,ルカ3:19に「ヘロデの兄弟ピリポ」として記されている.ヘロデ大王の第3の妻が産んだ息子.
⒊ヘロデ・アンテパス.ヘロデ大王の第4の妻の息子.ガリラヤとペレヤの国主.異母兄ヘロデ・ピリポの妻と通じ,後彼女と結婚した.マタ14章,マコ6章,ルカ3章,9:7,13:31,23:7‐12などに出てくる「ヘロデ」とはこの人物のこと.
⒋ヘロデ・アグリッパ1世(使12章).ヘロデ大王の孫.マリアンメの息子アリストブロスの次男(?).
⒌ヘロデ・アグリッパ2世.使25‐26章に「アグリッパ王」として記されている人物.大王の曾孫.上記⒋の息子.ローマの総督ペリクスの妻ドルシラ(使24:24)と,その後任総督フェストを表敬訪問したベルニケ(使25:13)は,共にこの人物ヘロデ・アグリッパ2世の妹に当たる.(千代崎秀雄)

(出典:千代崎秀雄『新聖書辞典 新装版』いのちのことば社, 2014)

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