《じっくり解説》ペルシアとは?

ペルシアとは?

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ペルシア…

(新共同訳)([ヘブル語][アラム語]pāras)
地域と民.ペルシヤは,東はインダス川から西はティグリス,ユーフラテス川に至るまでの地域に位置する.固有の領土としては現在のイランにほぼ相当する.ペルシヤ人はインド・ヨーロッパ語族の遊牧民で,おそらく前2千年期の後期に南ロシヤからイラン高原に入ってきた.前836年にアッシリヤのシャルマヌエセル3世がウルミヤ湖の近くのパルスアの支配者たちから貢ぎ物を受け取ったという記録がある.彼らは前7世紀までに,ペルシヤ湾の東の,現在もなおファルシスタンと呼ばれる地域に定着した.その中心都市はペルセポリスとパルサガルダであり,[ヘブル語]パーラスはこの地域に言及している.
ペルシヤとユダヤの歴史.ペルシヤ人は10あまりの部族に分かれていたが,前7世紀の初め,バサルガダイ部族の王アケメネスによって統一王国が創建された.ペルシヤ帝国の歴史は,その王統を継ぐクロス2世大王(前559―530年)に始まる.クロスは王位につくとすぐ,メディヤ人の王アステュアゲスを反乱によって破り,その首都エクバタナを陥落させた(前550年).クロスは続いて,リュディアを破り(前546年),小アジヤ西岸のイオニア諸邦をも勢力下に収めた.次に彼は東に転じ,イラン高原一帯を制圧した後,バビロニヤ平原に入り,ついには戦わずして首都バビロンを征服した(前539年).
クロスは被征服民が忠誠を誓うかぎり,彼らが自分たちの慣習や宗教に従うことを許す宥和政策をとった.彼は,バビロンに捕囚となっていた諸国の民を解放し,持ち込まれていた偶像をそれぞれの地方の神殿に返した.イスラエルの神には「偶像」がなかったので,クロスは,ユダヤ人が,ネブカデネザルの軍隊によってバビロンに運ばれていた神殿器具を持ってエルサレムに帰ることを許した(エズ1:5‐11).さらに彼は,ユダに帰還することを望むすべてのユダヤ人に対して,主の宮を再建することを公認した(エズ1:1‐4).こうしたことのゆえに,彼はイザヤによって,「油そそがれた者クロス」(イザ45:1)と呼ばれた.
ペルシヤ帝国の統治機構は,クロス2世によって計画され,ダリヨス1世(前522―486年)に至って完成した.クロスは帝国の全領土を約20の属州に分け,各州に大守(サトラップ)をおいて統治させた.太守は,ペルシヤおよびメディヤの貴族から選ばれ,彼らの下にはさらに地方官職がおかれ,太守の権限の分散化がはかられた(参照ダニ6章).捕囚の民を率いてエルサレムに帰還したシェシュバツァルは,クロスによって任命された特別の総督であった(エズ5:14).ユダヤに住み着いていた民による神殿再建事業に対する妨害は,クロスの時代からダリヨスの治世に至るまで続いた(エズ4:5).前520年に,「川向こう」(ユーフラテス川の西の地域)の領地の総督は,神殿再建を非難して,バビロンと西方に権限を持つ太守に手紙を書き送った.彼らはクロスの布告を知らなかったのである.その際,クロスの布告の記録がアフメタ(エクバタナ)で発見された.そこは,クロスが,その治世の第1年に住んだ所である.ダリヨスはその布告を確認し,ユダヤ人を助けるように命令した(エズ5‐6章).
ダリヨスとその後継者クセルクセス1世(前486―465年.エズ4:6,エステル記では「アハシュエロス」)は,ギリシヤ征服のために多大な精力を費やしたが失敗した.クロスの後継者カンビュセス2世(前530―522年)は,前525年にエジプトを征服していたので,ギリシヤは,当時の世界でペルシヤ帝国の外にあったほぼ唯一の地域であった.マラトンの戦いにおける敗北(前490年)は,ダリヨスが味わった唯一の挫折であった.ダリヨスが行った行政組織(サトラッピ)の再編,それに基づく新税制の制定,通貨制の導入,交通通信網の整備等の成果は,帝国の終わりまで存続した.それらは,彼の非常に寛容な宗教政策と共に,帝国の安定と発展に大いに貢献した.ユダのような小さな属国が存続し得たのも,そのような帝国の統一機構によるところが大きい.
アルタクセルクセス1世(前465―424年.エズ4:7では「アルタシャスタ」)の治世下,エズラは,エルサレムの神殿礼拝を再興するために,王の特使として派遣された.それに励まされた熱心なユダヤ人は,エズラに託された権限を越えて町の城壁を再建した.このことは,サマリヤの総督によって王に報告され,王はその事業を中止するよう命令した(エズ4:7‐24).しかし,王の献酌官ネヘミヤは,自ら城壁再建の認可を受けたユダの「総督」(ネヘ8:9)に任命されることで,王にこの布告を破棄するようにさせた(前445年.ネヘ2章).これ以降,ペルシヤの支配者とユダヤ人との間の記録は残っていない.アルタクセルクセス1世の死と,アケメネス王朝の最後のペルシヤ王ダリヨス3世の死(前331年)の間には,約90年の年月が流れている.その間6人が王位についたが,ペルシヤのかつての偉大さを回復できる者は1人もいなかった.ペルシヤ帝国がアレクサンドロスの支配下に落ちた時(前331年),ユダヤは簡単に新しい君主に仕えた.
ペルシヤ文化.ペルシヤ語は,51の楔形文字から成る.しかし,その使用は専ら王室の記念碑に限られていた.行政的にはおもにアラム語が用いられ(参照エズ4:7),その地方の言語に翻訳された(参照エス3:12,8:9).エステル記に描かれているようなペルシヤ王室の贅沢さはいくつかの遺跡の発掘で証明されている.ダリヨスによって造営が始められ,クセルクセス1世が完成し,さらにアルタクセルクセスが増築したペルセポリスの大宮殿は,メディヤ・ペルシヤ的な伝統芸術の上に,バビロニヤ,アッシリヤ,エジプト,ギリシヤの様式を巧みに取り入れており,いわば当時の一大総合芸術の様相を呈している.ペルシヤ文化は総合文化と呼ぶことができる.
ペルシヤの宗教.ペルシヤ人は初め自然崇拝者であったが,おそらくダリヨス1世の治世にゾロアスター教を取り入れたと思われる.経典「アヴェスタ」に保存されているその教えによれば,世界は善そのものである最高神アフラマズダ(きよめの火と水によって象徴される)と,それに敵対する悪神アングラ・マイニュ(アーリマン)の不断の戦場である.しかし結局は,善の方に凱歌があがり,最後の審判では,それぞれにくみした人間の霊がさばかれて,天国に,あるいは地獄に送られると説かれる.このゾロアスター教の教義の影響は初期ユダヤ教の文書にもたどることができる.(後藤敏夫)

(出典:後藤敏夫『新聖書辞典 新装版』いのちのことば社, 2014)

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