《じっくり解説》ヒゼキヤとは?

ヒゼキヤとは?

ヒゼキヤ…

([ヘブル語]hizqiyyāh, hizqiyyāhû, yehizqiyyāh, yehizqiyyāhû) 「主は(私の)力」という意味.⒈南王国ユダの王アハズの子.25歳で治世を始め,29年間王であった(Ⅱ列18:2).彼はその敬虔のゆえに際立ち(Ⅱ列18:5),また古い伝統と教えを愛した(箴25:1).彼の重要性は3つの統治の記録に反映されている(Ⅱ列18‐20章,イザ36‐39章,Ⅱ歴29‐32章).彼の統治の年代を明らかにするのは困難であるが,前729年頃にアハズと共同統治をし,前716年頃に王になったと思われる.サマリヤの陥落(前722年)は「共同統治」の第6年に起こった(Ⅱ列18:10).一方セナケリブのユダ侵入は,「単独統治」の第14年(前701年)に起こった(Ⅱ列18:13).王の病気と回復はセナケリブの侵入の直前に起こったようである.その時王は15年寿命を延ばされた.
ヒゼキヤは彼の統治の間アッシリヤとの諸問題に遭遇した.アハズはアッシリヤに従属したため,ユダには異教の慣習が導入され,アハズは子どもたちを火の中で焼くモアブ人の忌むべき儀式に従った(Ⅱ歴28:3).アハズが預言者ホセア,ミカ,イザヤの警告を無視したため,主はイスラエルとアラムによってユダを打たれた.ヒゼキヤは父王のもとで蔓延した偶像崇拝に徹底的反動政策を始めた.アッシリヤの南下政策によって北王国イスラエルが徐々に崩壊し,降伏するのを観察して,ヒゼキヤはイスラエルの捕囚は神の律法への不従順のためであると鋭く悟った.彼は宮の修理ときよめを行い,主と民との契約の更新をして過越の祭りを盛大に祝った(Ⅱ歴30:26).彼はその時,北のイスラエル人がそれに参加するよう招待さえした(Ⅱ歴30:5).彼は周辺の地域から高き所を取り除き,モーセが荒野で作ったものであったが,後に偶像視されるようになった青銅の蛇(民21:4‐9)をも打ち砕いた(Ⅱ列18:4).国民も王に鼓舞されてアシェラ像等を粉砕した.
ヒゼキヤは,政治的に反アッシリヤの態度をとった.それでエジプトが扇動し,アシュドデが指揮した対アッシリヤの反乱に参加したが,この反乱は成立する前にアッシリヤのサルゴン2世によって粉砕された.サルゴンが死んだ時(前705年),ヒゼキヤはその子セナケリブに反抗する好機と見て,バビロンの王メロダク・バルアダンの使節をもてなし(Ⅱ列20:12‐19,イザ39章),エジプトの支持を取りつけた.彼はまた,エルサレムの防備を強化し,水の供給を確保するため,堅い岩を掘って城壁内のシロアムの池とギホンの泉を結ぶ533メートルの水道(1880年に水道とシロアム碑文発見)を作った(Ⅱ列20:20,イザ22:9‐11).メロダク・バルアダンが彼のもとに使者を遣わした真の目的は,ユダの王がアッシリヤに対抗して彼らと秘密同盟を結ぶように説得することであった.ヒゼキヤはバビロン王の使節が示した親切に気をよくして,宝物など倉庫のすべての物を見せた.その時イザヤはヒゼキヤに,ユダの人々がバビロンに捕囚となるだろうと預言した(Ⅱ列20:12‐19,イザ39:1‐8).セナケリブの即位は新たな反乱を巻き起こした.セナケリブは鎮圧のため前701年にペリシテまで遠征し,その途上フェニキヤを征服,アシュドデ,アモン,モアブ,エドムからは講和使節を受けた.セナケリブの記録は,ヒゼキヤを反乱の指導者として描いている(Pritchard, J. B. ed., Ancient Near Eastern Texts Relating to the Old Testament, pp.287-288).セナケリブは反抗するヨッパ,ベテ・ダゴン,アシュケロン,その他の所へ攻め込み,東方へ転じてラキシュを占領した時,恐れをなしたヒゼキヤから貢ぎ物を受けた.セナケリブの碑文(角柱,セナケリブの年代記)は次のように言っている.「我が支配に服さなかったユダのヒゼキヤに関しては,堅固な城壁を有する彼の46都市をその付近にある無数の小都市とともに占領した.20万150人の人々を,捕らえ去り,戦利品とした.彼自身をその王都エルサレムにおいて籠の鳥の如く閉じ込めた……」.この貢ぎ物は金30タラントと銀300タラント(アッシリヤの記録では銀800タラント)であった.アッシリヤ側はそのほか,宝石,材木,象牙細工,ヒゼキヤの娘たちも含まれていたと告げる.しかし彼らがラキシュにいる時,ペリシテ,エジプト,エチオピヤ同盟の報がセナケリブに届き,彼はエルサレムの周囲を分遣隊に守らせて去った.ヒゼキヤはエクロンの抵抗を聞き,また彼の主への信仰もイザヤの奨励によって回復したので,アッシリヤ軍のエルサレム入城を拒絶した.ヒゼキヤの反抗を聞いてセナケリブは脅迫状を突きつけてきた.そしてエジプト軍を撃退したが,エルサレム攻略は,彼の軍隊に疫病が発生し,一夜に18万5千の兵が死んだため果たせなかった(Ⅱ列19:35‐36,Ⅱ歴32:20‐22,イザ37:36‐38)(本辞典「セナケリブ」の項を参照).ヒゼキヤとセナケリブの関係の聖書の記録は考古学上の新発見によって解釈し直された.Ⅱ列19:9にエチオピヤの王ティルハカへの言及があることによって,前688年頃にセナケリブがユダに対して2回目の侵略を行ったと提唱する者もいる.なぜならティルハカは前701年には幼すぎて戦いに参加できなかったであろうし,その時はまだ「王」と呼ばれていなかったであろうから.しかしまた,この時ティルハカは20―21歳であって,「王」という称号は,事件そのものが起こった時のものでなく,それを文章に書いた時の表現だと解釈することもできる(Kitchen, K. A., The Third Intermediate Period in Egypt, 1972).
⒉ユダの王族の親族,ネアルヤの子(Ⅰ歴3:23).
⒊シャルムの子.ペカの治世に,エフライム族のかしらの一人として,ユダの捕虜解放に助力した(Ⅱ歴28:12).
⒋ゼルバベルと共に捕囚から帰還した一族の父(エズ2:16,ネヘ7:21).
⒌預言者ゼパニヤの先祖(ゼパ1:1).
(油井義昭)

(出典:油井義昭『新聖書辞典 新装版』いのちのことば社, 2014)

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