《じっくり解説》バビロニヤとは?

バビロニヤとは?

バビロニヤ…

その範囲と由来.ティグリス,ユーフラテス両河川の流域に形成された沖積層平原の南部地域であり,東はザグロス山脈,南西はアラビヤ砂漠,南東はペルシヤ湾,北はアッシリヤに囲まれており,現在のバグダードからバスラに相当する.
「バビロニヤ」はギリシヤ語の用法からきており,ハムラビが「バビロン」を政治,文化の中心地とし,他の都市国家を制覇して統治下において以降はその地域全体の呼称としても使われるようになった.その地域は前3千年期の状況を背景として「シュメールとアッカド」,後代には「アッカド」と呼ばれていた.聖書においては「シヌアルの地」(創10:10,11:2,14:1,イザ11:11,ダニ1:2,ゼカ5:11),「カルデヤ人の地」(エレ24:5,エゼ12:13)と呼ばれている.この地域は,いわゆる有史時代において宗教的背景に由来すると思われる共通した性格の文化と言語が見られ,一つの呼称で呼ばれるだけの理由があると思われる.
歴史.⑴バビロニヤ初期の歴史に関しては議論の余地があるが,おそらく前6千年期中葉には遊牧や灌漑農業に従事する住民の存在が認められる.土器の発見地名により呼ばれるのが慣例であるが,次の3期に分けられる.a.エリドゥ期.ペルシヤ湾に近いエリドゥ,南部のウル,ウベイド,ハッジ・モハムメド,中部のニップル,ラースエルアムヤなどから彩色土器が発見された.単彩で紫や緑色系のものが多い.口縁部の広い平鉢で,取っ手のついたものはないが,注ぎ口のついたものが散見される.b.ウベイド期.高熱で焼かれ下地は淡黄色から緑色まであり,黒褐色あるいは青黒色の塗料で鳥獣が描かれている.取っ手がつき始める.おそらく「ろくろ」が使われた.この期の特徴を持つ土器は,地域差が認められ,バビロニヤ以外の諸地域で発見されている.c.ウルク期.ろくろが頻繁に使用されるようになり,彩色土器に代わって赤または灰色の上塗りが施され,取っ手や注ぎ口のついたつぼが多く現れる.ウルク期の最古層は,放射性炭素年代測定法により前4300―4000年頃とされ,バビロニヤ初期はおそらく前5000年頃から3100年と考えられる.この期間の影響はシリヤおよび南部アナトリアに及んでいる.ウルク期に続く前3100―2800年は「原文字」期と呼ばれている.ウルク第4層(a)出土の粘土板には約2千の文字があり,一部分は「絵文字」であるが,大多数は意図的に簡略化されたものである.楔形文字の発明はシュメール人に帰せられ,古代エジプト文字に先行すると言われる.シュメール語は他のいかなる既知の言語とも近い関係にないため,その帰属する語族は不明である.シュメール語にはセム語からの借用語があり,バビロニヤ初期の文化の担い手としてのシュメール人と共に,セム語系の人種が存在したと言える.
⑵初期王朝時代(前2900―2334年頃).発達した灌漑農業と牧畜を基盤とした神殿中心の経済活動が盛んであり,新しい土器の出現,ろくろの使用,文字の発明などと同時に村落から都市国家への移行が前3千年頃には進行していたと思われる.これらの諸都市国家はそれぞれの守護神のもとに王朝を形成し,町々や村落や領地を有して並立し,あるいは相互に覇権を競った.「シュメール王名表」によれば,「洪水」前には8ないし10人の支配者がエリドゥ,バドティビラ,ララク,シッパル,シュルパクにおいて統治した.「洪水」後にはキシュの王エンメバラギシ(アッカド帝国のサルゴン時代から逆算して前2700年頃と推定される)あるいはその子アッガと,ウルクのギルガメシュとが抗争した.多くの初期の人物は神話上の英雄にすぎないとして退けられてきたが,今日では歴史的実在者と認められ始めている.このほか諸資料から知られる都市国家はシッパル,アクシャク,ニップル,アダブ,ウンマ,ラガシュ,ラルサである.神殿建設と運河の増設で知られるウル・ナンシェが前2520年頃ラガシュに王朝を創立した.その後継者エナンナトゥムは宿敵エラム人を排除し,ウンマ,ウル,ウルク,アクシャク,キシュなどの都市国家を支配下におき,遠くユーフラテス中流域にあったマリをも打ち破った.後にウンマのルガルザゲシがラガシュを完全に破壊し,ウルクに首都を定めて全バビロニヤを統治した.ニップルの守護神エン・リルに奉献したかめに刻まれた記録にその経緯が述べられており,彼が「下海から上海」,すなわちペルシヤ湾から地中海沿岸まで征服したことがわかる.
⑶アッカド帝国時代(前2334―2154年頃).初期王朝時代からアッカド人が南下してマリを中心に北部バビロニヤに勢力を確保し,シュメール人の言語,社会構造,建築などに影響を及ぼした.帝国の建国者となったサルゴンは「年代記」によればキシュ第4王朝の官吏からキシュの王となり,ウルクのルガルザゲシを破り,シッパル近くのアガデ(アッカド)を首都とした.「四界の王」の称号の通りに東方ではエラムを占領し,北方では北部メソポタミヤ地域を支配下におき,さらに西方への遠征を繰り返してアナトリア,地中海にまで進軍し,北シリヤではエブラと覇権を競った.サルゴン王朝の後継者では孫のナラーム・シンが特筆される.彼はバビロニヤ国内の反乱を鎮圧して即位し,サルゴンと同様に「四界」を征服した.アッカド王朝の諸王は中央集権化を推進し,交易を重視して繁栄を計った.首都アッカドは金属,宝石,木材,香料,奴隷など交易品の集散地となり,シュメール文化を継いだだけでなく独自の文化を生み出した.しかし,シュメール王名表によれば「だれが王であったか.だれが王でなかったか」わからないという混乱の中に急速に衰弱していった.
⑷ウル第3王朝時代(前2120―2004年).この時期のバビロニヤは,シュメール復興の時期を迎える.アッカド帝国の崩壊後,ウルク第4,第5王朝期の一世紀余はグティ人の支配下におかれた.ウルク第5王朝のウトゥヘガルはグティ人の王ティリカンを打ち,シュメール復興の道を開いた.ウル第3王朝のウル・ナンムはバビロニヤを平定し,秩序と繁栄を計り,ウル,ラガシュ,ニップルで神殿を造営し,聖塔(ジッグラト)を建てた.また活発な交易により,経済的にも繁栄した.その繁栄は後継者で「シュメール法典」の発布に関して知られるシュルギの時代まで続く.しかしシュルギの治世にウル第3王朝の国力はしだいに衰退していった.セム人の圧迫がその一因である.
⑸エモリ人による支配(前2000―1595年).ウル第3王朝の崩壊はシュメール人がその政治的勢力を失うことでバビロニヤの歴史の転換点の一つともなった.前2600年頃からシュメールにエモリ人が現れているが,しだいに人数と影響力が増大し,古アッカド期においては経済,文化,軍事的な一勢力となっている.前2千年頃には彼らの拠点はマリにあり,そこからシュメールを脅かしていたと思われる.ウル第3王朝崩壊により,イシンにおいてイシュビ・エラ,ラルサにおいてナプラヌム,バビロンにおいてはスムアブムがそれぞれ独立して支配した.やがてバビロン王朝に属するハムラビがイシン(前1794年),ラルサ(前1763年)を破り,バビロニヤ統一を果たした.ハムラビはペルシヤ湾からマリまでを統治したが以遠への制覇には着手せず,シュメール・アッカド全土に給水した運河の増設,神殿建築,法律の総集,芸術など国内問題に力を注いだと言われる.その後継者サムスイルナの治世に反乱が起こり,バビロニヤは北部と南部に分裂した.さらにヒッタイト(ハッティ)王ムルシリシュ1世が東方に遠征してバビロンを奪略し,バビロン第1王朝を滅亡させた.
⑹カッシート人による支配(前1595―1155年).ヒッタイト王のバビロン支配は永続的ではなかったために,混乱に乗じて,バビロン第1王朝期より東方のザグロス山脈から奴隷(おそらく馬の調教師など)として移住してきたカッシート人が支配権を獲得した.「バビロニヤ王名表」によれば36名のカッシート人王が576年間統治した.その統治についてはよくわからないが,「カッシート人の王」という称号はアグム2世(前1568―1495年頃)が初めて使用し,アグム3世(前1450―1432年頃)は「海の国」を陥落させ,バビロニヤを統一した.カッシート人が初めて馬を持ち込んだとするのは不正確であるが,この時期にカッシート人とフルリ人によって馬が広く使役用の動物として飼われたのは事実である.彼らはバビロニヤ文化に同化していき,その言語はわずかしか残されておらず,はっきりしたことはわからない.王の治世を即位後の新年から数えることや,境界石(アッカド語kudurru「辺境,境界」という意味)と呼ばれる土地付与の記録などは彼らに帰せられる.テル・エル・アマルナ文書はカッシート人諸王がエジプトに金を求め続けたことを明らかにしている.エラムのシュトルク・ナフンティとその子キティル・ナフンティがバビロニヤに侵入し,略奪して「ハムラビ法典」やマルドゥク像などをシュシャン(スサ)に持ち去り,その後カッシート人王朝は消滅した.エラムのバビロニヤ占領は広大な占領地の維持に勢力をそがれたかあるいは他の敵の圧迫かによって長くは続かず,バビロン第4王朝(イシン第2王朝)が成立した.ネブカデネザル1世(前1126―1103年)は勢力を広げてエラムを打ち破り,マルドゥク神像を奪還した.アッシリヤ王ティグラテ・ピレセル(前1115―1076年)はしばらくバビロンとの友好関係を維持したが後に南下してそれを征服し,バビロニヤに覇権を確立した.彼の死後はアッシリヤもバビロニヤも衰退していき,小国家分立の時代が続いた.
⑺アッシリヤによる支配(前745―627年).アダド・ニラーリ2世(前912―891年)がアラム人を放逐して領土を回復してからアッシリヤには有能な王が現れた.シャルマヌエセル3世はバビロンの王位継承問題から南北に分裂したバビロニヤを前850年頃鎮めて支配下においた.ティグラテ・ピレセル3世は前745年に即位するとバビロニヤからアラム人勢力を排除し,「シュメール,アッカドの王」の称号を得た.後に「プル」の名で自らバビロン王となった(参照Ⅰ歴5:26).彼は「専制君主政治」,属州制を確立させて「ペルシヤ湾から地中海エジプトまで」を支配し,アッシリヤを世界帝国の地位に引き上げた.また,被征服民族を,支配と融和のために移住させて諸民族を混交わした.エジプトと同盟を結んでイスラエルが反逆したためにシャルマヌエセル5世とサルゴン2世がサマリヤを攻略している間に,東方ではエラムの支援を受けたメロダク・バルアダンがバビロン王となり反逆した.サルゴン2世は平定に成功し,バビロニヤ全体を統治した.しかし彼の死が知れ渡ると帝国の各地で反乱が頻発し,後継者であるセナケリブは鎮圧に忙殺された.おそらくセナケリブが西方で戦っている間に,メロダク・バルアダンは再びエラムと同盟を結び反乱を起こした(参照Ⅱ列20:12‐19,イザ37:36,39章).メロダク・バルアダンは追撃されてエラムに逃れ,そこで死んだ.セナケリブは前689年バビロンを徹底的に破壊し,その神像を持ち帰った.エサル・ハドンは父セナケリブの政策を廃し,バビロン復興に力を尽くした.前652年バビロニヤとエラムで反乱が起こり,アッシリヤ軍は南部バビロニヤを占領し,バビロンを略奪した.前648年以降,バビロンはアッシリヤの属州となった.アッシュール・バーン・アプリは,神殿や王宮の建築,資料収集の努力,芸術の振興で知られるが,その治世末期に西方領土を有効に支配したかどうかは疑わしい.
⑻新バビロニヤ帝国(前625―539年).アッシュール・バーン・アプリの死後,アッシリヤの内紛に乗じてメディヤとバビロンの連合軍は前612年ニネベを陥落させた.アッシリヤ再興の悲願は前605年カルケミシュの戦いに破れてついえてしまった.シリヤ・パレスチナはエジプト国境に至るまでバビロニヤ軍の支配下におかれた.前605年ナボポラッサルの後を継いだネブカデネザル2世はハムラビを模範として大建設政策を実施し,特にバビロンにおける建築には注目すべきものがある.ネブカデネザル2世の治世にシリヤ・パレスチナは彼に服してはいたが反乱も少なからず起こり,それを鎮めなければならなかった.南王国ユダの王エホヤキムは「3年間彼のしもべとなった」(Ⅱ列24:1)が,その後エレミヤの勧告に従わずに反逆した(エレ27:1‐11).次の王エホヤキンはネブカデネザルに降伏して捕囚としてバビロンへ連行され,主の宮と王宮の財産が奪われた(Ⅱ列24:10‐17).ネブカデネザル2世はゼデキヤを王としたが,彼は,エジプト王アプリエスがガザを占領してツロとシドンを攻撃したのに呼応したのか,新バビロニヤに反逆した.そしてゼデキヤはエリコで捕らえられ,エルサレムは焼き払われ,破壊された(前586年).
⑼アケメネス王朝による支配(前539―331年).新バビロニヤ帝国はネブカデネザル2世の死後急速に衰微していき,前539年ペルシヤ王クロスがバビロンを占領し,捕囚民の解放が行われた.その後継者カンビュセスの死後ダリヨス1世(前522―486年)が王位につき,20州から成る広大な帝国を建てた.その後,クセルクセス1世(前486―465年.参照エズ4:6「アハシュエロス」),アルタクセルクセス1世(前465―424年),ダリヨス2世(前424―405年)などが支配した.しかし,前331年アレクサンドロス大王がバビロンを占領し,ギリシヤ時代が始まる.新バビロニヤ帝国以降バビロニヤには多数のユダヤ人が存在し(ディアスポラ),重要な役割を果たした.
文化と宗教.バビロニヤにおける主要な言語は前3千年期にはシュメール語,前2千年期にはバビロニヤ語,前1千年期にはアラム語に変遷している.しかしその発明がシュメール人に帰される「楔形文字」は,前1800年頃までに,おそらく話しことばとしては使われなくなったが,古代オリエント世界において宗教および学術用語としては歴史的にも地理的にも広く使用されていた.バビロニヤ文化はシュメール文化の継承とそれのセム化という側面を持っているのである.
⑴都市の文明.灌漑農業と牧畜を基盤として都市国家が初期から成立しており,都市居住者の多数が農業に従事していたから都市と村落とを分離して考えることは必ずしも正しいとは言えないとしても,そこには特別な職人やその組合が生まれていた.ウルクの神殿域から粘土板文書や神殿所有の家畜を刻んだ円筒印章や浮き彫り,さらに陶工,石工,鋳金工の工房が発見されている.特に,大規模の社会組織を維持するために「書記」は重要な職業となった.おそらく前3000年頃,神殿所有の財産や土地の管理のために行政上の諸目的で文字が使われた.書記の社会的地位についてはあまり知られていないが,中期および新アッシリヤにおいて高級官吏の間に現れ,ネブカデネザル2世の治世には王宮書記がいた.書記の訓練に使われた無数の練習用粘土板文書,シュメール語テキストのバビロニヤ語への翻訳,2言語併用の語彙集,文法書など諸種の文書がある.
⑵「前兆」(占い).あらゆる種類の現象から因果関係を求めて吉凶を予言しようとする.幾百枚もの粘土板に前兆とその結果を記し,それらを収集した.奇形の前兆―諸動物の奇形や,ふたごなど.人相の前兆―身体の特徴,毛髪の色,爪の長さなど.夢の前兆―多様であるため夢の中の行為が記される.動物の肝臓の形をした粘土板文書がハツォルで発見されたが,それはアマルナ期に前兆に関する文書がパレスチナまで広まっていたことを示す(参照エゼ13:18,21:21).呪文はシュメール語,バビロニヤ語,その他の言語において,場合によってはそれを唱える時の儀式に関する指示も含めて粘土板文書に記された(参照ダニ2:2).
⑶神殿.「初期」に属するエリドゥにおいて主神エンキの礼拝所が設けられていたことが知られている.ウルク期に入ると建築技術を駆使して神殿建築がなされ,ウルク第6層からはイナンナ(イシュタル)の神殿エアンナと,アン(アヌ)の神殿クラバが発見された.諸都市国家には守護神を祭る神殿(主神以外の神々を礼拝する施設が併設される場合もある)があり,その建築,装飾,機能はそれぞれの時代の特徴を帯びつつ大規模,壮麗,複雑になっていった.神殿は経済活動と社会生活の中心であり,初期の文字や多量の行政文書は神殿から発見された.初期王朝期の文書により,領地を所有する神殿が都市国家内にあったことが知られる.その神殿所有地は,「主の土地」(神殿の収益のためにその共同体全体で耕作する),「食物の土地」(gána-ku-ra神殿に帰属する者たちへ割り当てられる),「耕作地」(収穫の7―8分の1を地代として小作人に貸しつける)に3分割された.神殿は耕作に必要な種,道具,動物の確保や運河などにも関与していた.どの時代の神殿も経済力を有していたと思われる.神殿の奉仕者の間に呼称の異なる神官がおり,神殿活動の行政と礼拝儀式とを分担していたらしい.その賛美歌,呪文,典礼が知られている.バビロニヤにおけるささげ物は「神々を養うため」であり,カナンおよびイスラエルにおける犠牲に対応するものはないと言われる.前3千年期以降,神々の名,通称,神殿名を記した「神名表」が作成された.シュメールまで系譜をたどることのできる2500の神々は,バビロン第1王朝(前1800年頃)以降,セム化された.シュメールにおいて形成されたパンテオンにおける神々の組織はバビロニヤにおいて修正される.前3千年期末にアヌとエン・リルはパンテオンの主神であったが,バビロニヤにおいてバビロンが優勢になり,覇権を確立するとその守護神であるマルドゥクがパンテオンにおいて主神となる.「エヌマ・エリシュ」(バビロニヤ創造神話)はバビロンの神マルドゥクが主権者となるまでの過程を述べているが,それはバビロンのバビロニヤ支配に対応している(創世記における「天地創造」と「エヌマ・エリシュ」との直接的関係には疑念が表明されている.a.古代オリエントにおいては単純な記事や伝承が増補されて壮大な伝説になることがあっても,その逆にはならず,多神論は最後まで多神論である.b.創1:2にある「大いなる水」はバビロニヤ語のTi’amatへの依存関係を示すと主張されたことがあったが,「大いなる水」は共通セム語であり,借用関係は証明されない.c.両者の目的が全く異なる).マルドゥクは「ベル」という名で知られる(イザ46:1,エレ50:2,51:44).マルドゥクの子ナブーは前8世紀頃ボルシッパの主神であったが新バビロニヤ帝国においてはベルと共に統治者に昇格した(参照イザ46:1「ベル……ネボ」).
⑷法律.初期王朝時代に「ラガシュおよびシュメールの王」の称号を持つウルガギナ(前2360年頃)が「ニンギルス」神との契約により貧民,寡婦,孤児などを保護する法律を発布し,バビロニヤ最初の法律付与者とされている.ウル第3王朝のウル・ナンムは約30条から成ると推定される法律を制定したが,それは楔形文字法で最古のものとされる.ウルナンムの後継者シュルギは「シュメール法典」の発布に関与した.イシン王朝のリピト・イシュタルは法律を制定しており,破損は激しいがその38条までが確認されている.最もよく保存されているのは,古代楔形文字法律の規範とされるハムラビ法典である.
⑸数学(60進法),天文学(占星学),医学(薬草)などの文書.
〔参考文献〕杉勇『古代オリエント』(世界の歴史1)講談社,1984;K・A・キッチン『古代オリエントと旧約聖書』いのちのことば社,1979;W・F・オールブライト『考古学とイスラエルの宗教』日本基督教団出版局,1973;C・H・ゴードン『古代文字の謎・オリエント諸語の解読』(現代教養文庫)社会思想社,1979;H・フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』岩波書店,1969;C・F・ファイファー『旧約歴史シリーズ』5,補,1974;Lambert, G. W., “The Babylonians and Chaldeans,” Peoples of Old Testament Times, 1973; Blaiklock, E. M. / Harrison, R. K., The New International Dictionary of Biblical Archaeology, 1983; Kitchen, K. A., The Bible in its World, Archaeology and the Bible Today, 1977; Roux, G., Ancient Iraq, Penguin Books, 1964.(下村 茂)

(出典:下村茂『新聖書辞典 新装版』いのちのことば社, 2014)

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