《3分で分かる》テサロニケとは?

テサロニケとは?

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テサロニケ…

([ギリシャ語]Thessalonikē) マケドニヤのテルマ湾の北端に位置する海港で,港として絶好の地であった.トルコ領であった時はサロニキと呼ばれたが,1913年ギリシヤ領土となって以来,昔の名に戻りテッサロニキと呼ばれ,アテネに次ぐギリシヤ第2の都市となった.
前315年頃マケドニヤの王カサンドロスが近隣の26の町村の住民を集めて新しい市を創設し,妻テサロニカ(アレクサンドロス大王の異母妹)にちなんでテサロニケと命名した.吸収された町の一つにテルマ(「温泉」という意味)があり,ここに温泉があったことからそう呼ばれていたが,古くはテサロニケの町自体がテルマと呼ばれていた.マケドニヤがローマの所領となり,統治上4つの地区に分割された時,テサロニケはそのうちの一地区の首都となった.前146年にはそれら4地区が統一され,ローマの属州マケドニヤとなり,テサロニケがその首都となった.この時代にテサロニケは「全マケドニヤの母」と呼ばれた.前42年には自由都市となり,「町の役人」(使17:6,8.7人から成っていたと思われる)が市政をつかさどった.テサロニケが通商上重要な地位を占めたのは,良港のためだけではなく,ローマ東方諸国をつなぐ大街道(エグナティア街道)に沿っていたからである.パウロが第2回伝道旅行で訪れた時には人口は12万人と推定される.テサロニケにはユダヤ植民地も多数あり,会堂もあった(使17:1).このようにテサロニケには種々雑多な人々が住み,多くの民族と宗教とが共存していた.たとえば宗教的には,ディオニュソス,オルフェウスなどのギリシヤ古来の神秘宗教や皇帝崇拝,ヘレニズムの哲学などが混じり合っていたと推察される.こうした中で,パウロは3週間にわたって宣教した.その結果,何人かのユダヤ人と,貴婦人を含む神を敬うギリシヤ人が大勢回心した.そして彼らはやがてキリスト教会の中核となっていった(使17:1‐4).パウロはこの教会に2通の手紙を送っている.また,パウロの同労者アリスタルコとセクンドはテサロニケ人であった(使20:4,27:2).
パウロ時代の町は,度重なる戦禍と火災により失われ,現在見られるものは主としてビザンティン時代の遺跡である.町は城壁で囲まれ,城壁の一部が現存している.

(出典:村上宣道『新聖書辞典 新装版』いのちのことば社, 2014)

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