《5分で分かる》ダマスコとは?

ダマスコとは?

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ダマスコ…

([ヘブル語]dammeśeq, dûmmeśeq, darmeśeq,[ギリシャ語]Damaskos) シリヤ(アラム)地方の中心地.ヘルモン山の東方,アンティ・レバノンの南東を流れるアマナ川とパルパル川の流域にある(参照Ⅱ列5:12).その一帯はナハル・バラダと呼ばれるオアシスで,遅くとも前2千年期前半(中期青銅器時代)には村落があったと思われる.パレスチナ南西部から北東に向かう大路と,ヨルダン川の東を南北に走る「王の道」の合流地点であり,商業的にも軍事的にも非常に重要な場所であった.
アブラハムはメソポタミヤ方面からの侵略者を追撃し,ダマスコ以北まで追い払った(創14:15).彼に仕えたしもべの長は,この地の出身者であった(創15:2).前1400年頃にはエモリ王国の首都とされ,エジプトの介入を牽制しながら,ギリシヤ世界との通商が行われていたことが知られている.前1200年頃,小アジヤで影響を及ぼしていたヒッタイト王国が衰微したのを機に,アラム人がダマスコを占領し,その地を王国の中心とした.
ダビデはアラムの軍隊を撃ち破り,その拠点ダマスコに守備隊を駐屯させて支配した(Ⅱサム8:5‐6,Ⅰ歴18:5‐6).ソロモンの時代には,ツォバ出身のレゾンがアラム王国を建て,イスラエルに敵対した(Ⅰ列11:23‐25).続くタブリモン王(前915―900年頃)とベン・ハダデ1世(前900―860年頃)は南王国ユダのアビヤム,アサと連盟を結び,北王国イスラエルに対立した(Ⅰ列15:18‐20,Ⅱ歴16:2‐4).ベン・ハダデは一時,北王国イスラエルのアハブ王にダマスコの市場を解放したが(Ⅰ列20:34),後には南王国ユダとの連合軍が差し向けられたので,応戦してアハブを戦死させた(前853年,Ⅰ列22:29‐40).一時期ベン・ハダデはサマリヤを攻め,包囲したが,陥落させることはできなかった(Ⅱ列6:24,7:5‐7).将軍ハザエルが,エリヤの預言の通り,先王ベン・ハダデ1世を殺害して登位した(Ⅱ列8:7‐15).ヤロブアム2世はダマスコを属国とした(Ⅱ列14:28).アッシリヤの台頭に伴い,独立を脅かされたダマスコの王レツィンはペカ王とアハズ王に連盟を呼びかけたが,アハズはアッシリヤの側についた(参照Ⅱ列16:5‐7).前733年頃,ティグラテ・ピレセル3世はダマスコを陥落させ,レツィンも殺した(Ⅱ列16:9).アハズ王は,この時ダマスコにあった祭壇に似せてエルサレム神殿を改造した(Ⅱ列16:10‐18).ダマスコはこの頃から独立国家としての機能を奪われ,バビロニヤ,ペルシヤ,アレクサンドロスが率いるマケドニヤ等に屈し続けた.ローマの介入が比較的少なかった頃,ペトラを首都とするナバテヤ王国が台頭し(前87年以降),ダマスコを北の拠点とした.しかし,アレタ3世の晩年には,この町はローマ代官の支配下におかれた(前65年頃).
新約時代,ローマの管理下にあったダマスコにはナバテヤ王国のアレタ4世が遣わした代官がいた(参照Ⅱコリ11:32).パウロはこの町に赴く途上で復活のキリストに会い,回心した(使9章,22:6‐11,26:12以下).有名な「まっすぐ」と呼ばれる街路(使9:11)は,町のほぼ中央を東西に貫いている.アンティ・レバノンの東側山麓にある現在のダマスコの町には,キリスト教化された時代のあかしとして,バプテスマのヨハネの教会などが建てられている.

(出典:石黒則年『新聖書辞典 新装版』いのちのことば社, 2014)

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