《じっくり解説》ダビデとは?

ダビデとは?

ダビデ…

([ヘブル語]dāwid, dāwîd,[ギリシャ語]Dauid) イスラエル王国2代目の王.前1010年から970年頃までの40年間統治した.その記録はⅠサム16章以降,サムエル記第二,Ⅰ列2章までに詳しい.Ⅰ歴11‐29章にも,ダビデに関する記録が伝えられているが,こちらは,神殿礼拝という視点からダビデの生涯が描かれている.
ヘブル語「ダビデ」の語源および意味は明らかではない.ユーフラテス河畔で発見されたマリ文書には「ダビドゥム」という語が頻出する.この古代バビロニヤ語は「司令官」あるいは「将軍」という称号を表す.そこで,ダビデという名の由来をこの称号に関係づけようとする学者もいるが,いまだ推測の域を出ない.
「ダビデ」という名称は,新約聖書の中に58回登場する.これはダビデ王自身を指す場合も少なくないが,「ダビデの子」としてイエスを指すことも多い.それは,イエスが「肉によればダビデの子孫として生まれ」(ロマ1:3.参照マタ1:1),ダビデに与えられた約束の成就者である(Ⅱサム7:8‐17)という事実に由来する.主イエス御自身,自らを「わたしはダビデの根,また子孫,輝く明けの明星である」と宣言された(黙22:16).
少年時代.ダビデは,ユダ族でベツレヘムに住むエッサイの息子で,8人兄弟の末弟であった.彼は「血色の良い顔で,目が美しく,姿もりっぱだった」,また「琴がじょうずで勇士であり,戦士です.ことばには分別があり,体格も良い」(Ⅰサム16:12,18)と描かれている.
もともと彼は羊飼いであった(Ⅰサム16:11,17:28).この職業が,後に武将として必要な勇気と決断力を身につけさせたことはダビデ自身の告白により確認できる(Ⅰサム17:34‐36).さらに羊飼いとしての経験は,彼の神理解を豊かで深いものにしたことであろう(参照詩23篇).
しかし,ダビデは彼の兄たちからはよく思われていなかったようである(Ⅰサム17:28).ヨセフ同様,小さな時からその非凡な才能が目立ち,兄弟たちのねたみを買っていたのかもしれない.
宮廷での時代.サウルは,サムエルに代わって全焼のいけにえをささげたり(Ⅰサム13:8‐9),アマレクとの戦いで聖絶すべきものを聖絶しないでとっておいたりしたため(Ⅰサム15:9),ついに神から見捨てられてしまった.神はサウルを王位から退けると,次期王をエッサイの子の中から選ぶことを預言者サムエルに示した.サムエルはベツレヘムに赴き,エッサイの子の中から8番目の子ダビデが王となることを示された.そこで彼はダビデに油を注ぎ,イスラエルの2代目の王となることを宣言した(Ⅰサム16:1‐13).といっても,この場合の油注ぎの儀式は,国民全体に対して公式に王として即位したという宣言であったわけではない.むしろ,ダビデ自身に次期の王になる備えを自覚させるためになされた非公式のものであった.ダビデが王になるためには,それ相応の準備が必要だったのである.
油注がれたダビデは,まず立琴の奏者として宮廷に召された(Ⅰサム16:14‐20).サウル王は,ダビデの演奏によって大きな慰めを得た.サウルに仕えるダビデは,宮廷でしだいにその才能を発揮し,ついに側近の兵士「道具持ち」に登用された(Ⅰサム16:21).
その後,ダビデの名を一躍国中にとどろかせる出来事が起こった.イスラエル軍を罵倒するペリシテの巨人ゴリヤテを,石投げの石1つをもって見事に倒したのである(Ⅰサム17章).以来,ダビデは戦いのたびに名をあげ,サウル軍の最高位の地位にまで登りつめた(Ⅰサム18:5).
荒野での逃亡生活.サウルはすでに神から見捨てられ,悪霊に悩まされていた.サウルは若いダビデに助けられることを感謝し,彼を重んじていた.しかしダビデの名声が高くなるにつれ,心中穏やかでなくなってきた.そんな時,「サウルは千を打ち,ダビデは万を打った」(Ⅰサム18:7‐8)と,女たちが歌うのを聞いた.この歌はサウルとダビデの間に決定的な亀裂をもたらした.それまでサウルの中にあったダビデに対するねたみと恐れが一気に噴出した.サウルは,ダビデが謀反を起こし王位を奪うのではないかと心配し始めたのである(Ⅰサム18:9).
そこでサウルは,ダビデを早く片付けてしまおうと考えた.まず彼は宮廷で琴を弾くダビデを殺害しようと槍を投げたが,ダビデは身をかわして難を逃れた(Ⅰサム18:10‐11).すると今度は,ペリシテ人の手によってダビデを抹殺しようとはかったが,これも失敗した(Ⅰサム18:17‐29).その後,サウルとダビデの間はサウルの息子ヨナタンのとりなしにより一時的に和解が成立するが(Ⅰサム19:1‐7),それも長続きしなかった.ペリシテとの戦いでダビデが再び名をあげると,サウルはまたもダビデ殺害を試みる.ダビデはその時,妻ミカルの助言により窓から脱出し,かろうじて逃げ延びた(Ⅰサム19:8‐17).
宮廷を去ったダビデは,ラマのナヨテに住む預言者サムエルを訪ねた(Ⅰサム19:18‐24).そして自分の身に起こったことの一部始終を話し,神の導きを仰ごうとしたのである.ダビデは,まずノブの祭司アヒメレクのところに立ち寄り,次にガテの王アキシュを尋ねたが受け入れられず,アドラムの洞穴に避難した(Ⅰサム21:1‐22:1/21:2-22:1).続いて,モアブのミツパ,ハレテの森などを放浪する(Ⅰサム22:3,5).このように居場所を次々と変えなければならなかったのは,サウルによる追及の手がきわめてきびしいものであったことを暗示する.たとえば,ケイラでペリシテ人を打破すると,その知らせはすぐサウルに届いて,サウルの出兵を招き,再び荒野や要害,ジフの山地をさまようことを余儀なくされる(Ⅰサム23:1‐5,14).そこでもまた,逃れた先の住民がサウルに密告したため,サウル自身が軍を率いてダビデを追ってきた.しかしその時は,ペリシテ軍によるイスラエル侵略という報がサウルに伝えられ,サウル軍は急きょ首都に引きあげたため,ダビデはまたも難を逃れることができた(Ⅰサム23:19‐29/23:19-24:1).それ以降も,サウルの迫害は激しくなるばかりで,最後は敵国ペリシテの地に1年4か月も滞在せざるを得なくなった(Ⅰサム27:7).
このような荒野放浪中も,ダビデの非凡な才能は遺憾なく発揮され,彼のもとにしだいに兵士たちが集まってきた.Ⅰサム22:2では400人とあるが,Ⅰサム23:13では600人にふくれあがっている(Ⅰサム25:13,27:2,30:9).彼らの政治的,民族的背景は明らかではないが,後のダビデ軍の中核的存在となっていったことは間違いない.ところで,これだけの集団が生き延びていくことは大変なことであった.戦利品を手に入れるほか,おそらく大土地の所有者に申し出て,その地域の治安維持に協力し,必要なものを得たのであろう(Ⅰサム25:21).
ダビデの家庭の状況はどうだったろうか.彼はかつてサウルの宮廷に仕えていた頃,サウルの娘ミカルと結婚した(Ⅰサム18:27).しかし,その後ダビデが逃亡生活を送るようになるとミカルとは離れ離れとなり,彼女は他の人の妻となった(Ⅰサム25:44).荒野放浪中,ダビデはアヒノアムとアビガイルの2人と結婚したようである(Ⅰサム25:39‐43).また,モアブのミツパに滞在した時には,両親を呼び寄せている(Ⅰサム22:3‐4).
荒野放浪時代は,ダビデにとって神の訓練を受ける時であった.たとい荒野であっても神はダビデと共におられ,ダビデを祝福した(Ⅰサム23:2,14,30:6).ダビデも,その歩みが完全であったとは言いがたいが(参照Ⅰサム21:12‐15/21:13-16),神に立てられた者としての歩みを続けることができた.特に,自分のいのちを執拗にねらい続けるサウル王に対して,「主に油そそがれた方」として敬意を払い続けた(Ⅰサム24:6/24:7,26:9‐10,16,23,Ⅱサム1:14).これは,サウル家の復讐を恐れたというのではなく,神の権威と秩序を深く信じ,受け入れていたからにほかならない.
サウルによる激しい迫害の中で,サウルの子ヨナタンはダビデに協力し,数度にわたってダビデを助けた.彼は元来王位継承の筆頭の立場にあり,ダビデとはライバル関係にある.その彼が,終生変わらぬ友情をダビデに示したのである.ダビデもまた,ヨナタンを信頼し続けた.ヨナタンの訃報に接し,ダビデは哀歌を歌ったが,その内容は2人がどれほど深いきずなで結ばれていたかを示している(Ⅱサム1:25‐26).
ユダの王として.ギルボア山上でサウルやヨナタンがペリシテに破れ(Ⅰサム31章),彼らの戦死の報がダビデに届けられた.そこでダビデは神の御旨を求め,彼自身が属するユダの地ヘブロンに戻った(Ⅱサム2:1‐3).いよいよ王に即位すべき時がきたと自覚したのであろう.事実,ユダ族の人々はこのヘブロンで彼を王として立てた(Ⅱサム2:4).
しかし,イスラエルの全部族がただちにダビデに服したわけではない.北方の諸部族は,サウル軍の将アブネルを中心にして,サウルの子イシュ・ボシェテを擁立し,マハナイムで王に即位させた(Ⅱサム2:8‐9).その結果,サウル家とダビデ家の間には激しい争いがおよそ2年にわたって続けられた(Ⅱサム2:10).
しかし間もなく,将軍アブネルとイシュ・ボシェテの間に争いが生じ,その結果アブネルはダビデの側に寝返った.しかしダビデ軍の将ヨアブは,アブネルの挙動に疑いを抱き,アブネルを殺害した(Ⅱサム3:6‐30).一方,イシュ・ボシェテも部下によって暗殺されてしまった(Ⅱサム4:5‐12).その結果,サウル家は壊滅状態に陥り,ダビデに対する組織立った反抗は不可能になった.このような状況の中で,北方のイスラエルの指導者たちもまた,ダビデこそ王位を継承する者だと悟り,ヘブロンにいるダビデを訪ねた(Ⅱサム5:3).その結果,ダビデは全イスラエル王国の2代目の王に即位した.そしてダビデはそれまでの期間と合わせると合計7年半,ヘブロンで統治した.
イスラエルの王として.ダビデは全イスラエルを統治するに当たり,首都はヘブロンよりエルサレムの方がふさわしいことをよく知っていた.何よりもエルサレムは,強固な天然の要塞都市であったからである.加えて南方のユダ族と北方の諸部族の境界線上にあり,両者に目が届き,公平な統治ができた.それまでエルサレムはエブス人によって強固な要塞が築かれていた.しかしダビデは彼らを打ち破ってエルサレムを「ダビデの町」と呼び,イスラエル王国統治の足場にした(Ⅱサム5:6‐10).
以上のように王国の基礎をつくったダビデは,ペリシテ人(Ⅱサム5:25),モアブ人(Ⅱサム8:2),エドム人(Ⅱサム8:14)など周辺の近隣諸部族を次々に征服し,王国の勢力を拡張していった.当時,南方エジプトにも,北方メソポタミヤにも強大な国家は存在しなかった.したがってダビデは,エジプト国境およびアカバ湾から,上ユーフラテス地方に至るまで,強大な影響を与えることができたのである.
このように王国が繁栄を誇り,ダビデの全盛時代とも言うべき時に,バテ・シェバ事件が起こる.部下が戦いに出ている間,ダビデは安逸をむさぼり,ヘテ人ウリヤの妻バテ・シェバと姦淫の罪を犯した.そのうえ,その罪を覆い隠すため,夫ウリヤを戦いの最前線に送り込み,戦死させてしまったのである(Ⅱサム11章).この時ダビデは預言者ナタンからきびしい叱責を受けるが,その時の苦悩は詩51篇に赤裸々に告白されている.
ダビデのもう一つの弱点は,子どもの養育にあった.外に対しては向かうところ敵なし,という勇将ダビデも,家庭の管理という点では失敗したと言えよう.聖書には,長子アムノンが異母妹のタマルを辱める事件や(Ⅱサム13章),三男アブシャロムが父ダビデに反逆して王位をねらう事件などが詳細に報告されている(Ⅱサム14‐18章).死の直前,王位継承を巡って,ソロモンとアドニヤが激しく争うが(Ⅰ列1章),これもまた,彼が子どもの養育に失敗した証拠であろう.
さらに,晩年ダビデが行った人口調査は神の怒りを招き,国民の上に神のさばきをもたらした.すなわち3日間疫病が猛威を振るい,合計7万人が死ぬという事件が起きたのである(Ⅱサム24:1‐17).その原因は明らかにされていないが,おそらくダビデの中に高慢な心が起こり,神よりも,自分の力や兵士の数に頼るという罪があったためであろう.
宗教的功績.確かに,ダビデは偉大な軍事的指導者で,諸部族を征服し,平和国家を築いた.そして,王宮を建て直し,通商路を回復し,街道を設けるなどして諸外国との通商交易を活発にし,王国に未曾有の物質的繁栄をもたらした.しかし,イスラエル史にとってダビデの最大の功績はこのような外面的出来事にあるのではなく,むしろ彼の偉大な信仰にあった.
ダビデの信仰は,少年時代巨人ゴリヤテを打ち破った時から確かなものであった.それは,サウルの宮廷時代においても,荒野逃亡から,全イスラエルの王に即位して後も一貫して変わっていない.外国を征服するという世俗的出来事も,単にダビデの軍事的才能から見るだけでは不十分である.神がダビデの信仰にこたえられたという側面を無視してはならない.なぜなら聖書は,「こうして主は,ダビデの行く先々で,彼に勝利を与えられた」(Ⅱサム8:6,14)と繰り返して述べているからである.
むろん,すでにふれたように,ダビデの信仰が完全無欠であったというわけではない.多くの弱さと罪を露呈させながらも,絶えず砕かれた心を持って悔い改め,神の赦しと恵みを味わい続けたのである.
ダビデの信仰は神の箱の取り扱いに端的に現れている.彼はエルサレムに首都を移した時,それまでキルヤテ・エアリムに約70年もの間置かれていた神の箱をただちにエルサレムに運ばせた(Ⅱサム6:1‐19).これは彼が,王国建設の中心に神信仰をおこうとしたからにほかならない.ダビデは神の箱を安置する所として,神殿建設を切望した.しかし神はそれを許されなかった(Ⅱサム7:1‐7).そこでダビデは息子ソロモンが神殿を建てられるよう資材の準備をした(Ⅰ歴22:1‐19,28:2).さらに,神殿聖歌隊を初め,礼拝に必要なさまざまな組織作りをして,後代の人々のために備えたのである(Ⅰ歴23‐27章).
さて,今日の聖書に残されている詩篇のうち,73はダビデの名が冠されている.「ダビデによる」というヘブル語は,必ずしも,ダビデ著作説を意味するものではない.しかしその多くはダビデの作,またはその起源はダビデにあると考えて差し支えないであろう.
ダビデは若い頃から立琴を弾き,多くの叙情詩を作った.しかし,荒野の逃亡生活,罪を犯した時の苦悩,息子に裏切られた経験などは,ダビデの神体験を深め,たましいの深みにまで迫る数多くの詩を生み出させた.そのあるものは聖書に書きとめられ,長くユダヤ人の間で,否,世界のキリスト者の間で今日に至るまで至高の歌として歌われ,学び続けられている.詩篇という宝庫は,ダビデなしではその価値は半減してしまうと言えよう.
〔参考文献〕興梠正敏『旧約聖書の人々』新教新書,1960;竹森満佐一『ダビデ』日本基督教団出版局,1977;F・ジェイムズ『旧約聖書の人びと』1,山本書店,1967;アラン・レッドパス『神の人ダビデ』CLC暮しの光社,1978;Barrow, G. de S., David: Shepherd, Poet, Warrior, King, 1946; Yeivin, S., “Social, Religious and Cultural Trends in Jerusalem under the Davidic Dynasty,” Vetus Testamentum, 3, 1953, pp. 149-166; Carlson, R. A., David, the Chosen King, 1964; Gunn, D. M., “The Story of King David, Genre and Interpretation,” JSOTS, 6, 1978.(中沢啓介)

(出典:中沢啓介『新聖書辞典 新装版』いのちのことば社, 2014)

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