《じっくり解説》ソロモンとは?

ソロモンとは?

スポンサーリンク

ソロモン…

([ヘブル語]šelōmōh,[ギリシャ語]Solomōn) 「平和,平安」という意味の[ヘブル語]シャーロームに由来する.イスラエル統一王国時代の3番目の王(前971―931年在位).バテ・シェバによるダビデの子で,レハブアムらの父.ソロモンの生涯はⅠ列1‐11章およびⅠ歴28‐Ⅱ歴9章に伝えられ,その業績に関する言及は,旧約,新約聖書中にかなり散見される.彼の年表は,およそ次の通りである.前990年頃,誕生.前971年,父ダビデの後を継いで即位.前966―946年頃,神殿,王宮の建築.前931年没(王国の分裂).
誕生から即位まで.ダビデが姦淫によって召し入れたバテ・シェバとの間に生まれた最初の子が死んで後,ソロモンはエルサレムで誕生した(Ⅱサム5:14,12:24,Ⅰ歴14:4).この時すでに何人かの異母兄がいた(Ⅰ歴3:1‐5).預言者ナタンは彼にエディデヤ(「主に愛される者」という意味)という愛称を与え,その誕生を祝った(Ⅱサム12:25).
ダビデの晩年,イスラエル人の母を持ち,おそらく生存する最年長の実子であったアドニヤ(Ⅱサム3:2)は,王位につくことを切望した.彼は軍将ヨアブと祭司エブヤタルの支持を取りつけ,エン・ロゲルで前祝いの宴を催した(Ⅰ列1:5‐9).これを聞きつけた預言者ナタンは,王の寵愛を受けていたバテ・シェバと共に,すでに世継ぎと決まっていたソロモンを即位させるようダビデに推挙した(Ⅰ列1:11‐27).そこでダビデは護衛長ベナヤと祭司ツァドクを召し,ギホンの泉のほとりでソロモンを王に任職するよう命じた(Ⅰ列1:28‐40).ダビデの死後,王座についたソロモンは,王権をねらい続けるアドニヤを処刑し(Ⅰ列2:25),エブヤタルをアナトテに追放し(Ⅰ列2:26‐27),さらにヨアブ,また父をのろった謀反人シムイを打ち取ってその座を確固としたものにした(Ⅰ列2:34,46).
ソロモンの信仰と英知.ソロモンの知的優秀さは後代までの語り草となったが,それは当初,敬虔な信仰に裏づけられたものであった.彼は「主を愛し」,父王ダビデの慣例に従って施政を始めた(Ⅰ列3:3).神は彼と共におられた(Ⅱ歴1:1等).当時の王は最高位の裁判官でもあったので,ギブオンでの一夜,ソロモンが神に正しい判断力を願い求めたことはきわめて適切であった(Ⅰ列3:6‐9,Ⅱ歴1:8‐10).遊女の子を巡る名裁判は,その知恵が発揮された場面の一つであった(Ⅰ列3:16‐28).彼の英知は神からの賜物であり,その名声は国外にまで広まった(Ⅰ列4:29‐34/5:9-14,10:23‐25).自然界についての理解と洞察力,それらを人間社会に当てはめて説く箴言は,卓越していた.現存する箴言のすべてが彼個人の作であるわけではないが(参照箴30,31章等),箴1:1,10:1,25:1などからしてソロモン時代に由来する資料が中心となっていることは確実である.それは教育の場でも活用された.人生に関する思索をつづった伝道者の書/コヘレトの言葉もソロモンの洞察を反映している(伝1:1,12,16).彼にはまた詩歌を作る能力が与えられた.ソロモンの名がつけられている詩篇があり(詩72,127篇),伝統的に,雅歌も彼の作と伝えられる(雅1:1).以上のことは,彼の個人的有能さを示すだけでなく,彼がいわゆる知恵文学の発達を促進したことを暗示する.その周囲に多くの賢人が集まり,情報や知識の交換が行われた(Ⅰ列10:23‐25,Ⅱ歴9:22‐24).ある者は,この時,知恵の「学派」が作られたと推測する.ヨブ記に登場する人物は族長時代を思わせるが,神学的内容からして,この書の成立はソロモン時代とする説が有力である.旧約外典中に「ソロモンの知恵(知恵の書)」,偽典中に「ソロモンの詩篇」,新約外典に「ソロモンの頌歌」と呼ばれる書物があるが,それらは彼の作品ではない.
国内政治と対外政策.ソロモンはダビデが拡大した王国を受け継ぎ,その治安を固めた.彼は領土を広げるという野望を抱かず,むしろ平穏な内実的繁栄を望んだ.おもにキリキヤのケベおよびエジプトから馬と戦車を購入して各地に配置したのも,平和を維持して商業活動の基盤を整えるためであり,戦争を始めるためではなかった(Ⅰ列9:15‐19,10:26‐29,Ⅱ歴1:14‐17,9:25‐28).ハツォル,タナク,エグロン,ゲゼルなどでソロモン時代の馬屋が見つかっている.特にメギドでは,450頭以上の馬を収容できる施設が長官の家などと共に発掘された.
ソロモンは従来の12部族の境界に修正を加えながらイスラエル全土を12区に分け,それぞれに守護官を置いて租税を納めさせた(Ⅰ列4:7‐25/4:7-5:5).この時,ユダ部族だけは特別に好遇されたようである.彼はまた南北交通の中間点にあるという地の利を生かし,通行税をとって富を増し加えた(Ⅰ列10:14‐15,Ⅱ歴9:13‐14).またアカバ湾のエツヨン・ゲベルに船団を設け,そこを拠点として南方航路を開き,アラビヤ南部にあったとされるオフィルと交易した.また地中海方面では,ツロを媒介として「タルシシュの船団」を組織した.この交易によって貴金属類,良質の木材,王室で珍重された愛玩動物が輸入された(Ⅰ列9:26‐28,10:11‐12,22,Ⅱ歴8:17‐18,9:10‐11,21).この時代に国民の生活水準が著しく向上したことは容易に推測できる.
国際関係について言えば,エドムのハダデおよびダマスコのレゾンとの緊張を例外とすれば(参照Ⅰ列11:14‐25),概して良好であった.エジプトとはパロの娘をめとって姻戚関係を結び,ゲゼルを譲り受けた(Ⅰ列3:1,9:16).フェニキヤの王ヒラム(フラム)との間にもダビデ以来の友好関係が保たれた(Ⅰ列5:1,12/5:15,26).ツロとの親交は,ソロモンの建築事業とのかかわりにおいて特に重要視される.シェバの女王が多くの貴重品を携えて来訪したのは,ソロモンの英知を確かめるためだけでなく,商業上の交渉も意図してのことであったろう(Ⅰ列10:1‐13,Ⅱ歴9:1‐12).エチオピヤの伝承によれば,彼女はソロモンの血を引く男子を産み,彼がエチオピヤの王メネリク1世となったとされるが,根拠はない.
神殿と王宮の建築.首都エルサレムや地方の要害を固めることに始まったソロモンの事業は,エルサレムに神殿と王宮を建てることにおいて頂点に達した.旧来の質素な天幕聖所に代えて豪華で恒久的な神殿を建てることは先王ダビデの念願であった.しかし,神はその事業をソロモンに期待された(参照Ⅱサム7章).ソロモンは父の遺志を継ぎ,すでに蓄えられた資材に加え,ツロのヒラムの協力を得て,古都ダビデの町の北方の丘に神殿を建てた(Ⅰ列5‐6章,Ⅱ歴3‐5章).その本堂の大きさは長さ約27メートル,幅約9メートル,高さ約13メートルで,荒野時代の天幕聖所のほぼ4倍の面積を持っていた.神殿の建築には7年を要し,完成後の盛大な献堂式の様子が,Ⅰ列7‐8章,Ⅱ歴5‐7章に描かれている.そこでソロモンがささげた祈りは,彼が敬虔な信仰理解を失っていなかったことを反映しているが,一面では,王が祭司職をも掌握するという前代未聞の行為でもあった.この神殿は後に,バビロン軍による破壊(前586年),捕囚後の再建,ローマ軍による破壊,ヘロデによる第3神殿の建築,ローマ軍による再度の破壊(紀元70年),イスラム教徒による再構築という歴史を経ているため,正確な図面を描くことは容易でない.しかし,旧約の叙述はシリヤなどの神殿構造と著しく類似している.ことに本堂入口に作られ,それぞれヤキン,ボアズと呼ばれた2本の柱は,天井を支えない独立したものであったが,近年の考古学的発掘により,フェニキヤの神殿構造物に似たものであることが判明した(Ⅰ列7:15‐22,Ⅱ歴3:15‐17.参照エレ52:20‐23).また,10個の小型の洗盤とは別個に設けられた青銅の「海」は,祭司が身をきよめるという実用目的だけでなく(Ⅱ歴4:6),象徴的な意味があったと思われる(Ⅰ列7:23‐26,39,Ⅱ歴4:2‐5).ソロモンはツロから建築材料だけでなく,神殿の構造に関する提案も受け入れたのであろう.祭司,レビ人,門衛など神殿の職員が整備されたのも,ダビデ,ソロモンの時代であった(Ⅱ歴8:14,35:4,ネヘ12:45).
ソロモンはまた,神殿と同じ丘の上に王宮を新築し,ダビデの町にあった旧廷を後にした(Ⅰ列7:1‐12,Ⅱ歴8:1,11).この事業にもツロの協力を得ている.王宮の南部に作った「レバノンの森の宮殿」と呼ばれる建物には武器を整え,威光を内外に示した(Ⅰ列10:16‐17.参照イザ22:8).また,王座の広間,王の宮殿,王妃の宮などを良質の木材や貴金属を用いて作らせた.王宮に関係した多くの雑役夫は「ソロモンのしもべたち」と呼ばれるようになった(参照エズ2:55,58,ネヘ7:57,60,11:3).
ソロモンの位置と問題点.歴史上,イスラエルの領土が最大限に拡大され,物質面で急速な繁栄を遂げたのは,ダビデ,ソロモンの時代であった.この黄金時代を築いたソロモンについて,その治世初期の敬虔さと賢者としての貢献は,正しく評価されなければならない.他方,世俗的繁栄の背後にあった問題点も無視してはならない.つまり,前述の建築事業を完遂するための圧政と,外国から迎えた妻やそばめに対する必要以上の妥協である.
豪華な神殿と王宮の建設につぎ込まれた資材の代金を支払いきれなくなったソロモンは,ヒラムにガリラヤの20の町を代償として譲ったが,それはヒラムに対する莫大な負債に見合うものではなかった(Ⅰ列9:10‐14).彼はその事業に在留異国人を奴隷として酷使しただけでなく(Ⅰ列9:20‐21,Ⅱ歴8:7‐8,17‐18,9:10),イスラエル人をも強制労働に服させた(Ⅰ列5:13‐18/5:27-32,9:15).この政策は,ユダ部族が優遇されたことと並んで,国民のうちに反感を生じさせた.この不満を巧みに掌握したのが,後に北王国イスラエルの初代の王となるヤロブアムであった(参照Ⅰ列11:26‐39,12:20).ソロモンの配下で強制労働の監督をしていたアドラムが殺害されたのは,反抗心の顕著な表れである(参照Ⅰ列12:18).圧政は王国の基盤である一致を損なっていたのである.
エジプトとの政略結婚が効果をあげたのを見たソロモンは,他の近隣諸国とも同様な姻戚関係を結び,モアブ,アモン,エドム,シドン,ヘテなどから妻やそばめを召し入れた.その数は,妻700人,そばめ300人と聖書に記されている(Ⅰ列11:1‐3).王はそれぞれが異教的な聖所を作るのを許したので,信仰の堕落が始まり,晩年にはソロモン自身の信仰も薄れていった(Ⅰ列11:4‐8).ことにエルサレム東方のオリーブ山には人身供犠を主要な祭儀とするモレクの神殿までが建てられた(参照Ⅱ列23:10).列王記の記者は,これが王国分裂の一因であったと明言している(Ⅰ列11:9‐13.参照Ⅰ列9:6‐9).この時代に許容された悪弊は,ヨシヤの時代まで残存した(参照Ⅱ列23:13‐14).このようなゆがみが,急速な隆盛の裏に生じたのであった.
新約聖書におけるソロモン.ソロモン時代の繁栄は,新約時代にもいきいきと語り継がれていた(マタ6:29,ルカ12:27).彼はダビデ王の跡継ぎであり(マタ1:6),神殿の建築者である(使7:47).その境内には彼の名で呼ばれる廊があった(ヨハ10:23,使3:11,5:12).シェバの女王はソロモンの知恵を慕ってエルサレムにきたが,すべての人は,彼よりもはるかに偉大なキリストに聞き従うべきであると言われる(マタ12:42,ルカ11:31).
〔参考文献〕服部嘉明「列王記」(『新聖書注解』旧約2)いのちのことば社,1977;H・タデモル『ユダヤ民族史』1,六興出版,1976;ジョン・ブライト『イスラエル史』上,聖文舎,1974;W・F・オールブライト『考古学とイスラエルの宗教』日本基督教団出版局,1973;M・ノート『イスラエル史』日本基督教団出版局,1983;G・E・ライト『概説聖書考古学』山本書店,1973.(石黒則年)

(出典:石黒則年『新聖書辞典 新装版』いのちのことば社, 2014)

新装版 新聖書辞典
定価6900円+税
いのちのことば社