《じっくり解説》シェケムとは?

シェケムとは?

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シェケム…

([ヘブル語]šekem)
位置.パレスチナのほぼ中央,ゲリジム山の東側斜面に位置していた地.エバル山とゲリジム山の間に狭い山道があり,古い時代から重要な通路であった.このヨルダン東岸と地中海沿岸の間を通っている道路は,シェケムで南北の幹線道路と交差している.シェケムの東側には肥沃な平原が開け,外敵を防ぐためには高地としての利点がなく,慎重に要塞化する必要があった.前1750年頃から,大規模な防壁が築かれるようになった.しかし,この地理的条件のゆえに,カナン北部山岳地帯の主要道路のいくつかを支配することができ,軍事上重要な位置を占めていた.シェケムの名は,前19世紀の呪詛文書から前17世紀のものに至るまで,エジプトの文献に出てくる.
発掘.シェケムは,今日のテル・エル・バラータと同定されている.遺跡の考古学的調査は,カール・ワッティンガーによって1907―08年,E・ゼリン等により1913―34年に指揮された.1956年,新しい発掘が,ドルー・マコミック調査団とアメリカ・オリエント研究所の協力,G・E・ライトの指導のもとに開始された.これらの調査の結果,前4000年から前108年に至るまでの,この町の歴史が明らかになった.
発掘により,前4000年頃の陶器の破片が発見され,その頃すでに最初の住居があったと考えられている.しかし,この遺跡は,前1800年頃のエモリ人侵入までは,再び占有されることはなかった.ヒクソス(前1710―1540年)のもとで,急速にその繁栄の頂点に達した.
ヒクソス時代の初め以後,この町の歩みは,建築と再建の歴史であった.前1750年頃,巨大な城壁が町の周囲に築かれ,その中に大きな宮殿が建てられたが,前1650年頃,宮殿の地域は覆われ,神殿がその場所に建築された.これは,厚さ数メートルもある石壁で造られた城塞式神殿である.1世紀後,エジプトの遠征隊が神殿を破壊し,その後,小規模な形で再建された.この神殿は,イスラエルが入国した時に建っていたものと思われる.アビメレクによるこの町の破壊(士9:45)は,考古学上の記録からも明らかである.前9―8世紀にこの町はかなり繁栄したと思われるが,ヒクソス時代の繁栄には比ぶべくもない.前724―722年のアッシリヤの侵入の際にシェケムが滅ぼされたことを示す証拠がある.
その後4世紀の間,サマリヤ時代まで,シェケムは単なる村の位置に逆戻りしてしまった.前325年と108年の間に宮殿が再建され,ある程度繁栄したが,前108年頃,ヨハネ・ヒルカノスが,サマリヤの町と共に滅ぼした.
聖書におけるシェケム.シェケムが,聖書に最初に登場するのは,創12:6以下である.アブラハムは家族を伴い,所持品を持ってハランを去り,カナンへ旅立った.アブラハムの最初の滞在地は,シェケムがその近くにあった,モレの樫の木のある場所であった.カナン人たちはまだそこにいたが,主なる神はアブラハムに現れ,契約の約束を更新された.アブラハムはそこに祭壇を築き,そこから32キロ南のベテルに移動した.
後にヤコブは,パダン・アラムからの帰途シェケムの前で宿営し,ここでハモルの息子たちから一区画の土地を買い,祭壇を築き,エル・エロヘ・イスラエルと名づけた(創33:18‐20).ヒビ人ハモルの子シェケムは,ヤコブの娘ディナを辱めた(創34:2).これに対して,シメオンとレビは復讐をした(創34:25‐29).
ヤコブが,彼の家族が持っていた外国の神々を樫の木の下に隠したのは,シェケムの近くであった(創35:4).後にヤコブの子どもたちがシェケムの近くで羊の群れを飼っていた時,ヨセフが彼らを捜しに来た(創37:12以下).ヤコブは,シェケムの人々と友好関係を保つことを望んでいたと思われる(創34:30,49:5‐7).ヨセフの遺体はエジプトから運び出され,シェケムに葬られたと記録されている(ヨシ24:32.使7:16では「シケム」).
イスラエルのカナン入国後,ヨシュアは民をシェケムに召集し(ヨシ24:1以下),厳粛な集会を開いた.ユーフラテス川の彼方におけるイスラエルの民の起源から,カナン征服に至るまでの民の歴史を回顧し,徹底的に主に仕えるよう民に要求し,神とイスラエルの契約のあかしとして,主の聖所にある樫の木の下に大きな石を立てた(ヨシ24:25‐27).シェケムは,エフライムとマナセの境界としての位置を占め(ヨシ17:7),逃れの町(ヨシ20:7,21:21),レビ人の町としてケハテの子たちに与えられた(Ⅰ歴6:67/6:52).ギデオンの子,アビメレクの母親は,シェケムの人であった(士8:31).ギデオンの死に際して,アビメレクはシェケムに行き,母親の家族を通してシェケムの人々が自分を支配者とするように説き伏せ,実現させた(士9:1以下).アビメレクはイスラエルを3年間統治したが,すぐにシェケムの人々の支持を失った(士9:22‐23).最終的にアビメレクは,シェケムを徹底的に破壊してしまった(士9:41‐49).
統一王国の期間は,シェケムについて何も言及されていない.後に北部の部族がレハブアムを拒絶してヤロブアムを王とし,分裂王国を打ち建てたのは,シェケムにおいてであった(Ⅰ列12:1‐19,Ⅱ歴10:1‐19).シェケムは,少なくともしばらくの間北王国イスラエルの首都となり,再建された(Ⅰ列12:25).しかし,間もなくヤロブアムは,首都をペヌエル,さらにティルツァに移し,ユダの攻撃から身を守った.
ホセアの時代(ホセ6:9)やエレミヤの時代も(エレ41:5),シェケムは引き続き重要な場所であったが,この期間の様子についてはほとんど何も記述がない.たとえば,アッシリヤやバビロン侵入の際,シェケムがどうなったのか,何も語られていない.捕囚期のシェケムについても,旧約聖書は何も言及していないが,他の資料から,シェケムがサマリヤの中心的な町になり(ヨセフォス『ユダヤ古代誌』11:8:6),前108年頃ヨハネ・ヒルカノスによって破壊されたことが知られる(『ユダヤ古代誌』13:9:1).(宮村武夫)

(出典:宮村武夫『新聖書辞典 新装版』いのちのことば社, 2014)

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