《じっくり解説》サマリアとは?

サマリアとは?

スポンサーリンク

サマリア…

(新共同訳)([ヘブル語]šōmerôn,[アラム語]šāmerayin,[ギリシャ語]Samareia) 北王国イスラエルの首都,およびその周辺地域の名称.
歴史.イスラエルの王オムリはティルツァで6年間統治した後に,当時エスドラエロン平野の主要商業ルートを占めていたシェケムの北西11キロの丘に,北王国の新しい首都を築いた.オムリはこの土地をシェメルから買ったので,彼の名にちなんでサマリヤと名づけたのである(Ⅰ列16:24).
6年の間オムリはサマリヤ建設を続けた.建設はオムリの子アハブによって引き継がれ,アハブはそこに象牙の家を建てた(Ⅰ列22:39).アハブはまた,イゼベルが奨励したシドンのバアル神の神殿をそこに建て,祭壇の近くに石の柱を築いたが,それはアハブの子ヨラムによって取り除かれた(Ⅱ列3:2).その他の異教の神殿や建物もアハブの時代にサマリヤに造られ,エフーの改革によって破壊されるまでそこで偶像礼拝が行われていた(Ⅱ列10:19).サマリヤは,長い間,預言者たちに偶像礼拝の中心地としてとらえられていた(イザ8:4,9:9,エレ23:13,エゼ23:4,ホセ7:1,ミカ1:6).
アラムの王ベン・ハダデは何度かサマリヤを攻撃したが,そのたびに敗北した(Ⅰ列20:1‐21,Ⅱ列6:24,7:6‐7).
アハブはサマリヤに住み,サマリヤで葬られた.他のイスラエルの王たちもサマリヤに葬られた(Ⅰ列22:37,Ⅱ列13:9,13,14:16).アハブの70人の子どもたちは,サマリヤでエフーの命令によって殺された(Ⅱ列10:1‐7).サマリヤに身を隠したアハズヤもエフーのもとで殺された(Ⅱ歴22:9).エフーは,サマリヤにいたバアルの預言者をも殺し,バアルの石の柱を壊し,神殿も破壊した(Ⅱ列10:12‐28).
イスラエルの王ヤロブアム2世の時代に,サマリヤは最も繁栄した.アラムがアッシリヤの度重なる攻撃に弱体化していた機に乗じ,ヤロブアム2世は北イスラエルの支配を拡大した(Ⅱ列14:25‐27).
ヤロブアム2世の死後間もなく,サマリヤの繁栄は終わりを告げ,後の王メナヘムは,アッシリヤの攻撃からサマリヤを守るために,アッシリヤの王プル(ティグラテ・ピレセル3世)に貢を納めなければならなかった(Ⅱ列15:17‐20).
後の王ペカがアラムの王と共謀してエルサレムを攻めたため,ユダの王アハズはアッシリヤに援護を求め,アッシリヤは出撃した(Ⅱ列16:5‐9).ホセアの治世に,アッシリヤ王シャルマヌエセルが来てサマリヤを攻め,3年間これを包囲した.そしてアッシリヤの新王サルゴン2世はサマリヤを占領し,イスラエル人をアッシリヤに捕らえ移した(Ⅱ列17:1‐6).預言者イザヤとミカは,サマリヤの破局を教訓とするようにユダの人々に警告している(イザ8:4,10:9‐11,ミカ1:1‐7).
サルゴン2世の年代記によると,王は2万7270人ないし2万7290人を捕らえ移したと言う.その結果,北王国イスラエルは独立国としては存在しなくなった.アッシリヤ王は,帝国各地から人々を連れてきてサマリヤに住まわせた(Ⅱ列17:24).移住民は,そこにそれぞれの国の神々の宮を建て,偶像礼拝を始めた(Ⅱ列17:29‐31).主への礼拝も行われたが,人々は主を礼拝しつつ,他の神々にも仕えるという有様であった(Ⅱ列17:32‐33).アッシリヤ王エサル・ハドンやオスナパルも,バビロンやエラムから人々を連れてきてはサマリヤに住まわせた(エズ4:2,9‐10).
アッシリヤ帝国が滅び,続いてバビロニヤ帝国も滅びてペルシヤ帝国時代を迎えると,多くのユダヤ人がエルサレムに帰り,エルサレム再建に励むようになった.しかしこの再建問題を巡って帰還者たちとサマリヤ人との間の対立がいよいよ激しいものとなっていった(エズ4:8‐24,ネヘ2:9‐20,4:1‐9,6:1‐14).
エリコの北14キロにあるワディ・ダリヤ洞穴で発見されたパピルスによると,前330年にサマリヤを占領したアレクサンドロス大王は,当初この町に好意的であった.ところが,王のエジプト遠征中に,サマリヤ人はシリヤ州知事を殺害した.その復讐として,アレクサンドロス大王はサマリヤを滅ぼし,指導者を虐殺した.以後250年余り,サマリヤはマケドニヤ,プトレマイオス王朝,セレウコス王朝の諸帝国,ユダヤ王国に属するようになる.
前111年と107年にヨハネ・ヒルカノスはサマリヤを包囲し,1年後にこれを攻略した(『ユダヤ古代誌』13:10:2‐3).
ローマ時代になってポンペイウスとガビニウスがサマリヤ再建を始めたが(『ユダヤ古代誌』14:5:3),本格的な再建事業を行ったのはヘロデであった(『ユダヤ戦記』1:21:2).ヘロデは再建した町を,皇帝を記念して,セバステ(ローマ皇帝の称号である「アウグストゥス」のギリシヤ語訳)と名づけた.ヘロデはまた,ここに一大神殿を建て,周囲3キロの城壁で町を固めた.
イエスの時代も,ユダヤ人とサマリヤ人とは不仲であったが,イエスはサマリヤのスカルという町に行き,そこで会った婦人に御自身をお示しになった.その結果,その町の多くのサマリヤ人がイエスを信じた(ヨハ4章).イエスは,隣人とはだれかを教えるたとえの中でサマリヤ人を例にあげ,かたくななユダヤ人の非を指摘された(ルカ10:29‐37).
伝道者ピリポはサマリヤに伝道し,大きな成果を収めた.それを聞いた使徒たちは,ペテロとヨハネをサマリヤに遣わし,バプテスマを受けた人たちが,聖霊を受けるようにと祈った(使8:5‐25).
考古学.ハーバード大学(1908―10年),後にはハーバード大学,ヘブル大学,在エルサレムの英国考古学研究所の合同発掘調査(1931―35年)によって,サマリヤの遺跡は16層になっていることが認められた.さらに1965年にはヨルダン政府の古代遺物局,1968年には在エルサレムの英国考古学研究所が発掘調査を行った.
発掘されたもののうち7つの層は北王国イスラエル時代のものであるが,そのうちの第1層,第2層は,オムリ―アハブ時代(28年間)のものである.内壁(厚さ1.5メートル)と外壁(厚さ6メートル)が高台にある町を囲んでいる.これは後代の王によって完成されたものである.後にヤロブアム2世に引き継がれた宮殿には広い庭があり,縦10メートル横5メートルの池があった.アハブの血に染まった戦車を洗ったのはおそらくこの池であろう(Ⅰ列22:38).隣接した倉庫からは200個以上の象牙片が発見されたが,これは,アハブの象牙の家(Ⅰ列22:39)に影響を与えたフェニキヤ・擬エジプトスタイルを示すものであろう.
第3層はエフーの時代のものである.次いで,第4層から第6層まではヤロブアム2世時代と前8世紀のものであり,第7層は滅亡期である.町は,前722年にアッシリヤに滅ぼされる直前の10年の間に修復された跡が見られる.
ヘレニズム時代の遺跡はよく保存されており,円形の塔,要塞,城壁,貨幣,ギリシヤ風陶器などが見られる.
ローマ時代のヘロデの町は,アウグストゥスにささげた大神殿が有名である.そのほか3つの円形の塔,820メートルに及ぶ列柱を備えた道,イシス神殿,バジリカなどが残っている.
〔参考文献〕Parrot, A., Samaria, 1958; Blaiklock, E. M./Harrison, R. K. eds., The New International Dictionary of Biblical Archaeology, Zondervan, 1983; Aharoni, Y., The Land of the Bible, Westminster, 1979.

(出典:中村寿夫『新聖書辞典 新装版』いのちのことば社, 2014)

新装版 新聖書辞典
定価6900円+税
いのちのことば社