《じっくり解説》コリントとは?

コリントとは?

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コリント…

([ギリシャ語]Korinthos) 中央ギリシヤとペロポンネソス半島を結ぶ地峡の2.5キロ南にある都市.福音を伝えるための拠点としてパウロがこの都市を選んだのは,コリントが西と東との海路の接続点,また北と南との陸路の接続点にあり,通商,交通の要路であったことによる.この地峡は東西からの交易隊が自然に出会う地点であった.小アジヤ,シリヤ,エジプトからの船は地峡の東側の港ケンクレヤ(ロマ16:1)に入り,イタリヤ,シシリー,スペインからの船は西側の港レカイオンに着いた.この2港間の距離は8キロで,大型船舶の荷物が船から船に移されている間に,小さな舟は舟ごと一種の市街鉄道で運ばれた.そうでない場合には,船は風の強いマレアス岬を320キロも迂回して周航しなければならなかった.
地峡を横切る運河を掘る必要性がアレクサンドロス大王,ユリウス・カイザル,ネロなど多くの者たちに認められ,紀元66年にネロが工事を始めたが失敗し,今日の運河が掘られたのは1881年ないし1893年のことであった.運河は6.4キロあり,このような貿易によって,肥沃でない平野にあったコリントも,大いに繁栄した.
コリントの地には,新石器時代,金石併用時代の昔から人が住み,前4千年期の居住の跡がある.フェニキヤの移住者が早くからコリントに来て多くの手工業を導入し,フェニキヤ人の女神アシュタロテのみだらな礼拝を行った.前1074年頃,コリントの政治権力はドーリア人が握ったが,居住民の性格は変わらなかった.町はアクロコリントの山すそにあり,その山の高さは566メートル,山頂にはとりでがあり,アフロディト(ギリシヤ神話で,アシュタロテに当たる神),すなわち愛の女神の神殿があった.そこでの神殿売春は多くの人と富を引きつけ,またコリントの風紀を乱した.ついにコリントは不道徳の代名詞になり,遊蕩怠惰な生き方で有名になった.「コリント化する」という動詞が「不道徳を行う」ことを意味したほどである.このコリントの風潮はパウロのコリント人への手紙によっても知ることができる.前8―7世紀,コリントは暴君キュプセロス(前657―629年)とペリアンドロス(前629―585年)の治世に,非常に繁栄した.コリントのしんちゅうと陶器は広く地中海全域に輸出された.前146年にコリントはローマと戦って破れ,町はローマ総督ムンミウスにより破壊され,住民は奴隷となった.その後,前46年ユリウス・カイザルは市を再建して,イタリヤの自由民と放逐したギリシヤ人を住まわせた.繁栄は急速に回復し,アウグストゥスはコリントをアカヤ州の首都とし,地方総督をおいた(参照使18:12).最盛時には自由民20万人と50万人の奴隷がいたと思われる.ローマ人,ギリシヤ人のほかにも多くの人種が集まり,かなりの数に上るユダヤ人も居住していた.
古代コリントの発掘は,1896年以来,アテネのアメリカ考古学研究所の手で行われている.コリントの市場には肉などを売る店があったが,興味深いことに,その一つ一つの店が新鮮な水の流れる地下水路と連結されていた.この設備は,山からの清水を絶えず店に供給して,腐敗しやすい食料を新鮮に保存するためであった.ここから出土した碑文ではここは「市場」と呼ばれ,Ⅰコリ10:25のギリシヤ語と同じことばを使っている.もう一つのコリントの劇場近くから出土した碑文には,エラストという名が記されているが,この人物はおそらく「市の収入役であるエラスト」(ロマ16:23)のことであろう.1898年プロピラエアの石の階段で,ギリシヤ語で「ヘブル人の会堂」ということばが書かれた石が発見された.碑文の年代は前100年から紀元200年の間と推定されるので,これがパウロの使った会堂(使18:4)ではないかと思われる.この近くの住居跡の一つがテテオ・ユストの家(使18:7)であると思われる.
また,市場の場所で,石を積み上げた台が発見された.これは,使18:12‐17で言及されているコリントの法廷,「審判の座」([ギリシャ語]ベーマ)であろう.それゆえここが,パウロがガリオの前に立った場所であると推定される.このガリオ(使18:12)は,哲学者でネロの師であったセネカの兄で,ローマ閥族であった.コリント湾のデルフィで皇帝クラウディウスの手紙の碑文が発見され,それによってガリオのコリント在住が,紀元51―52年であったことが明らかになった.手紙には「ルキウス・ユニウス・ガリオ,アカヤの総督に書き送る」と記されていた.日付は52年の初めとなっており,布告によれば,新たに任命された官吏は6月1日に属州に向けローマを出発しなければならなかった.ガリオは51年の7月1日頃アカヤに到着したはずである.パウロはコリントに1年半滞在した後にユダヤ人によって総督の前へ連れて行かれた(使18:11).それゆえパウロのコリント到着の年代はかなり確実に50年の初めとすることができる.パウロは,アクラとプリスキラの家に住み込んで天幕作りをしながら,会堂やユストの家で伝道し,アポロがパウロの後を継いだ.その後パウロはコリント教会に手紙を書き送った.97年頃のローマのクレメンスの手紙には,コリント教会がまだ分派の問題で苦しんでいたことが記されている.(油井義昭)

(出典:油井義昭『新聖書辞典 新装版』いのちのことば社, 2014)

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