《じっくり解説》ギリシアとは?

ギリシアとは?

ギリシア…

(新共同訳)([ヘブル語]yāwān,[ギリシャ語]Hellas) バルカン半島の南端地域,あるいはその地域の都市国家同盟で,ほぼ現代のギリシヤに相当する範囲.ギリシヤ人が最初に歴史を形成した舞台としては,さらに広く,小アジヤの西岸地方,およびイオニア海やアドリヤ海の諸島も含む.
ギリシヤの歴史と文化は,古典ギリシヤと,アレクサンドロス大王の東方遠征以降のヘレニズムとの2期に大別される.
ギリシヤの風土.雨量が少なく高温で亜乾燥な地中海性気候は,ギリシヤがその典型であると言われる.地形的にはエーゲ海一帯の複雑な海岸線,無数の島々,平野に乏しいギリシヤ本土の各地に起伏する山岳がその特徴を示している.地中海性気候は,ぶどうやオリーブのような果樹栽培に適し,ぶどう酒,オリーブ油はギリシヤ人の日常生活に不可欠であっただけでなく,海外にも輸出されていた.穀物は地形の関係もあり不足がちで,近隣の穀倉地帯から輸入された.牧畜では羊ややぎ,ろばなどが飼われていた.複雑な地形がポリス国家成立の際に,ポリスの分立に役立ったことなど,これらの風土的特質はギリシヤ文化形成における重要な因子であった.しかしそれは,そこに定着した人間の問題と共に多角的に考えるべきものであって,決定的なものでないことは言うまでもない.
初期の文化――東地中海世界の中のギリシヤ.19世紀末のシュリーマンによるミケーネ,ティリンス,トロイの発掘,今世紀初めのエヴァンズによるクレテ島の発掘,といった偉大な考古学的発見は,ギリシヤの初期文化に関する認識を画期的なものとした.最初の文明はクレテ島に開花した.クレテ人は小アジヤ系と地中海系の混成民族であった.伝説の王ミノスの名をとってミノア文明と呼ばれるこの文明の中心が,クレテ島の北岸クノッソスにあったことは,古代の伝承や発掘された宮殿の規模から広く認められている.クノッソスを初め各地に見出された宮殿の建築はギリシヤの建築とは全く違う原理に立っている.出土した壁画や陶画に見られる美術は,美しい色彩と流れるような輪郭線,そして写実性を特徴としている点など,それは地中海先住民が生んだ独自のものである.クレテからの出土品で最も重要なものはAB2種の線文字を刻んだ粘土板文書である.線文字B文書はギリシヤ本土のピュロスやミケーネからも発見された.1952年,イギリス人ヴェントリスは線文字Bの解読に成功した.それによって,前2千年期後半のギリシヤ本土に,官僚制と貢納制を基盤とする,ポリスとは異質の多くの小王国が存在したことが明らかになった.それは,むしろオリエント専制国家の君主と類似した支配の型を示している.このギリシヤ本土の文明はミケーネ文明と呼ばれる.ミケーネ文明の担い手はインド・ヨーロッパ語族に属するギリシヤ人の一派アカイア人であった.彼らは前2千年期の初めからギリシヤ本土に向けて南下定住を始め,クレテ文明を征服破壊しながら摂取し,クレテの王国の小型のものを方々につくった.ギリシヤ人はエーゲ文明の末期には東地中海の制海権を独占していたクレテ人を圧倒し,クレテ島に侵入,島を支配して王宮に多数の文書を残した.線文字Bはミケーネ,クレテだけでなく,類似の文字がキプロスやシリヤのウガリットでも発見されている.またミケーネの陶器がシリヤやパレスチナから出土していることからも,近年,東地中海世界の有機的一体性が強く主張されるようになった.それによって,かつてはギリシヤ人だけの歴史として叙述されたギリシヤの初期の歴史は,より大きな東地中海世界の文化交流の中で描かれるようになった.ウガリット学者ゴードンは,この東地中海世界の文化的複合体が旧約聖書とホメロスの叙事詩の共通の背景であったと指摘する.線文字Bの解読で明らかになったようなミケーネ社会のオリエント的性格は,このような文化的背景のもとで理解されるべきであろう.
大移動――東地中海世界の崩壊(前1200―850年).ミケーネ的小王国の分立するエーゲ文明の地域をその一角に含んだ東地中海世界は,前2千年期末に構造変化を受けて崩壊した.その原因は,前1200年頃のイリリヤ人の東方移動,それによるトラキア人の東方進出,とりわけ,ドーリア族ギリシヤ人のギリシヤ本土への南下侵入,定着と結びつけられてきた.しかし近年はむしろ,この時期に東地中海沿岸諸地域に出没し,小アジヤ,ヒッタイト,シリヤ,クレテの各地を荒らし回った「海の民」の活動が注目されている.海の民の実態は明らかではないが,上記のような諸種族の大移動の中で形成された集団と考えられている.このような動乱の中で,エジプトの海外支配は崩壊し,ヒッタイト帝国は滅亡し,そしてトロイは焼かれ落城した.その中でミケーネ文明も崩壊したのである.ミケーネ文明の崩壊からポリスの成立に至る時期は,ギリシヤ史の上で「暗黒時代」と呼ばれている.暗黒時代の前半は混乱と動揺の時代であり,生活水準は低下し,線文字の使用も見られなくなった.しかし,前1050年頃を境に,ギリシヤ人は,それまでの青銅器に代わって鉄器を導入,さらにギリシヤ文字を形成したり,幾何学様式の陶器を完成するなど,ギリシヤ人独自の社会を形成する新たな胎動を開始した.ミケーネ諸王国の崩壊と共に,官僚制を備えた強力な王権の姿は消え,王国支配下の諸地域は小共同体国家として自立的発展の方向をたどった.その主要な担い手は,ホメロスやヘシオドスの作品に登場する「貴族」層を形成する人々であり,彼らは分割地などの経済力や武力において一般市民に優越していた.しかし,鉄器使用などによる農民個々の労働生産性の向上は,小土地所有農民の経済的自立を強めた.この独立自営農民が「平民」層の中核を形成した.貴族と一般市民は同一の経済基盤に立ち,その関係は対等であった.暗黒時代におけるこのようなギリシヤ人社会の構造的発展のうちに,やがて貴族の主導のもとに,ギリシヤ各地にポリスが成立するのである.
ポリスの興隆(前850―546年).前9―8世紀頃から,古典ギリシヤの最も基本的な政治,社会構造であるポリスが発生した.ポリスは一般に,周囲を城壁で囲まれた都市的区域を持っていることから,通常「都市国家」と規定される.また,構成員の関係を主眼にすれば,「ポリスとは,その構成員内部に支配と隷属の階級関係のない,比較的平等の相互関係で結ばれた共同体であり,その共同体が一つの小独立国家をなしているもの」として規定される.そのような意味では,「共同体国家」という定義も広く見られる.ポリスは複数の村落が中心市に移り住む集住によって成立したと説明されるが,ギリシヤ史を通じて約1500と推定される多数のポリスにおいて事情はさまざまである.ただ基本的にはミケーネ時代に形成された貴族層の政治的統一によるか,あるいは新来のギリシヤ人が先住民を征服して支配階級となることで実現したと言える.前者の典型がアテネであり,後者の典型はスパルタである.スパルタは,ドーリア人による征服国家であったことに由来する独特の共同体構造やいわゆるスパルタ的生活規定を特徴とするが,私的土地所有者の平等の相互関係であり戦士共同体である点において,ポリス共同体であることに変わりはない.ポリス成立には,防衛的,軍事的関心と,経済的関心との2つが働いたと考えられ,それらがポリスの特質を規定している.ポリスの第1の特徴はその農業的性格にあり,市民は何らかの規模の土地を所有し,家族と少数の奴隷と共に自ら農業に従事する独立自営の農民であった.彼らは自分たちの農地を守るために武装した.この軍事組織としての性格がポリスの第2の特徴である.市民団は同時に戦士団であり,彼らは,ギリシヤの地形にふさわしい戦術として,重装歩兵の密集方陣を編み出した.古代ギリシヤの歴史は,ある意味では,互いに争い合うポリス間の戦争の歴史である.土地を巡るいざこざはポリス内部にも見られた.共同体の物質的基礎は比較的平等な利用にゆだねられる公有地と比較的均分な私有地にあった.しかし,もともと経済的優位に立つ貴族の政権化に出発したポリスであったので,一般農民の生活は苦しく,私有地を貴族に渡さざるを得なくなる者も増えてきた.加えて貴族間の闘争も繰り返され,共同体の分解と社会不安が促進された.そのような動きの中で,ギリシヤ人は前8―6世紀の間に地中海,黒海沿岸に一大植民活動を展開した.不平貴族と没落農民は新天地を求めて故郷を捨て,そこに新たに独立した貴族政ポリスを建設した.こうしてギリシヤ・ポリスは地中海世界に拡散し増加した.このような植民活動の進展は地中海世界の商業交易を盛んにした.そのような中で,前7世紀初め,イオニアのギリシヤ人がリュディアから受け継いだ鋳造貨幣は短期間のうちにギリシヤ本土に普及した.貨幣は商業を活発化し,手工業の発達を促進した.その結果,労働力が不足し,それが奴隷の需要を高め,商人の手による異民族の奴隷売買が盛んになった.貨幣経済の進展は,ポリス内部に富裕な商工業者層を生み出すと同時に,その展開の中で破れ没落する農民も増加することになった.一般市民の中には債務のため自由民から奴隷に転落する者も出た反面,経済力をつけて富裕になった者もあった.加えて,手工業の進展に伴って武器が比較的安価に入手できるようになったこともあり,一般市民の富裕者層から成る徒歩の重装歩兵が現れ始めた.彼らはしだいに貴族層から成る騎馬の重装歩兵に代わって,ポリス防衛の主力となった.こうして,貴族政ポリスは,力を増大しつつある上層市民の政権から排除されていることに対する不満,また,没落農民層の経済的困窮による不満によって,しだいにその支配の根幹を揺さぶられていく.このような貴族支配の動揺期に,市民層を基盤として非合法に政権を奪取した「僣主」と呼ばれる改革者が各ポリスに現れた.アテネにおいては僣主政が樹立する以前にまずソロンが全市民の合意により調停者として登場した.ソロンの改革は,その妥協的な性格のために貴族をも一般市民をも満足させることができず,アテネの社会不安は続いた.そうした中でペイシストラトスが初代僣主となった.彼の人柄は民主的と評されるが,もともとポリス内の社会変動を強権で抑えようとした僣主政は,しだいに独裁的,暴君的な性格を強めていった.ペイシストラトスの息子の代に僣主支配はスパルタの介入によって倒され,幾多の曲折を経て,民衆の力によってクレイステネスの民主的改革が行われることになった.彼は部族制を根本的に改革し,その上に国制を据え直すことによって,民主政ポリスとしてのアテネの基礎を確固たるものにした.
私的土地所有者の経済的自立を基盤として成立したポリスは,自立した個人意識の解放をもたらし,新しい文化の領域を発展させた.文学においては,女流詩人サッフォやアルカイオスなどが叙情詩という新しい領域を開拓した.哲学の起源もこの時代にさかのぼり,タレスに始まるミレトス学派の自然哲学者らは万物の根元(アルケー)とは何かという問いを追求した.さらに音楽と数学を重視し,宗教と哲学の融合を試みたピュタゴラス,原子論で有名なデモクリトスなどもいる.そのほか美術,工芸の分野でも大きな発展が見られた.宗教的には,外面的,現世的なオリュンポスの神々の礼拝に対し,内面的,彼岸的な敬虔への深化が見られた.デルフィの神話が人心を支配するようになったのもこの時代である.
ギリシヤの勝利(前546―466年).ギリシヤの社会が市民の共同体としての世界を完成しつつあった頃,オリエント世界は前6世紀半ば以来アケメネス王朝のペルシヤによって統一され,前522年に即位したダリヨス1世のもとで専制王支配の形式を完成していた.ペルシヤの全オリエント世界統一によって小アジヤ西部のイオニア諸市は親ペルシヤの僣主を立ててペルシヤの支配下に入った.前500年,イオニア諸市はミレトを中心にペルシヤに対して反乱を起こし,アテネがこれに援軍を送ったが,反乱は失敗に終わった.これが口実となって,前492年,ダリヨス大王はギリシヤ本土に大軍を送ったが,前490年,アテネの重装歩兵はマラトンの戦いでペルシヤ軍を撃退した.それから10年後,ペルシヤ王クセルクセスは,陸海の大軍を自ら指揮して攻め込んできた.北方から侵入したペルシヤ軍は,テルモピレーでスパルタ軍を主力とするギリシヤ軍を破り,中部ギリシヤに怒濤のように攻め込んだ.しかし,テミストクレスの率いるアテネ海軍はサラミス沖でペルシヤ海軍を迎え撃ち,これを撃滅した.翌年の前479年,ギリシヤ連合陸軍もペルシヤ陸軍をプラタイアイで破り,ペルシヤの野望を挫折させた.ペルシヤ戦争におけるギリシヤの勝利はオリエントの専制政治に対するギリシヤ市民の自由の力の勝利を意味した.しかし,プラタイアイの戦いの後もペルシヤの脅威は減少したわけではなかった.すでにギリシヤには前481年にペルシヤ抗戦を決意した諸国によるギリシヤ連合が結成されていた.これは,ペロポンネソス同盟(スパルタとその同盟国)を主体とする約30のポリスから成り,スパルタが陸海軍の指揮権を握っていた.ところがペルシヤ撃退後,連合軍を率いるスパルタの尊大な態度は加盟諸市の反発を招き,前478年,その総帥権はスパルタからアテネに移され,ギリシヤ連合はアテネを盟主とする同盟に変質していった.この同盟は供出された軍資金を収める金庫をデロス島に置いたのでデロス同盟と呼ばれている.前454年には,アテネは同盟金庫をデロス島から自国に移し,完全に私物化した.前454年の和約でペルシヤ戦争が正式に終わっても軍資金の供出は中止されず,文字通りアテネへの貢納金に変わった.アテネの地位はしだいに専制的になり,公然と同盟諸市の内政に干渉するようになった.こうしてデロス同盟は「アテネ帝国」へと変質し,約150を数えた加盟国はアテネの隷属国となった.ここに「民主政ポリス」アテネは,その最盛期を迎える.この民主政は,直接民主制の形をとり,共同体構成員は全員参加の民会において作られた法律によって,政治を進め,裁判を受けたのであった.しかし,そのような民主政ポリスの存在自体が帝国支配に依存していたのである.アテネはまた卓越した指導者,思想家,作家,詩人を生み出した.文学においては,悲劇作家のアイスキュロス,ソフォクレス,エウリピデスが相次いで現れ,喜劇ではアリストファネスの作品が知られている.哲学では終始アテネ市民として思考し,行動したソクラテスがいる.彼はポリスにあって,ポリス共同体をはるかに越える普遍的精神を指向した.その結果,前399年,彼は神々に対する不敬罪のかどで死刑判決を受け,この不法な判決に服して自ら毒杯をあおいで死んだ.彼のこの有名な死は,その時代における共同体の矛盾の表白であり,しかもポリス共同体がなお生き続けている証拠であった.
ポリス社会の衰退(前431―前4世紀).新しい覇者アテネの勢力拡大によって,ギリシヤ・ポリスの世界は,デロス同盟を介するアテネとペロポンネソス同盟を介するスパルタとの2大支配の陣営に分かれることになった.前431年,ペロポンネソス同盟軍のアッティカへの侵入によって,27年間に及ぶペロポンネソス戦争の幕が開いた.アテネは開戦の翌年に流行した疫病で人口のほぼ3分の1を失い,指導者ペリクレスもその病で失った.彼の後継者である「扇動政治家」たちは無謀な戦線拡大を繰り返した.その結果,前415―413年のシシリー遠征で決定的な大敗北を喫し,その後制海権も失い生命線である黒海方面からの糧道を絶たれ,前404年,アテネはついに全面降伏した.アテネに勝利したスパルタもギリシヤに平和をもたらすことなく,その覇権をテーベに奪われた.スパルタを破ったテーベも戦争を激化させただけであった.これ以後ポリス内およびポリス間の分立抗争は慢性状態となり,共同体は分解し,ポリスはさらに衰退と崩壊に向かうことになる.
アレクサンドロス大王とその後継者(前336―217年).前4世紀のギリシヤの争乱に終止符を打ったのは,北方に起こった新しい力マケドニヤであった.前338年,カイロネイアで戦われたマケドニヤ対アテネ,テーベ連合軍との決戦は前者の完勝となり,ポリス世界の歴史の一時代は終わった.マケドニヤ王フィリッポス2世は前337年スパルタを除くギリシヤ諸ポリスを集めてコリント同盟(ヘラス同盟)を結成し,ペルシヤ討伐を計画した.前337年,フィリッポスが暗殺され,ペルシヤ遠征の指揮は息子アレクサンドロス3世(大王)に引き継がれた.前334年,アレクサンドロス大王はマケドニヤ,ギリシヤ連合軍を率いてペルシヤ遠征に進発し,イッソスの戦い(前333年),フェニキヤ,エジプトの征服,ガウガメラの戦い(前331年)での勝利によってペルシヤ帝国を事実上壊滅させた.彼はさらに東進して,中央アジヤを経てインド西北部にまで進攻を始めたが,部下の反乱により軍を返した.彼は前323年,熱病のため32歳の若さで急死した.史上未曾有の彼の大帝国は,まだその建設の緒にさえついていなかったが,オリエントとギリシヤを一つの経済,文化圏とするヘレニズム世界の成立,発展への道を開いたと言えよう.大王の死後,彼の部将たちは「後継者」と称して実力による征服地の争奪を繰り返した.数十年に及ぶ一種の戦国時代に似た後継者争いの結果,マケドニヤ本国をアンティゴノス家が,小アジヤ,イラン,メソポタミヤに至る広大なシリヤ王国をセレウコス家が,エジプトをプトレマイオス家が領有し,相次いで王国を建設した.これらのヘレニズム諸国は古典ギリシヤのポリスとは異なる領域国家として発展するが,やがて東方のパルテヤ,バクトリヤを除き,相次いでローマの支配下におかれることとなる.
ヘレニズム時代にギリシヤ語は東地中海とさらに先の地域の人々の国際語となった.前2世紀には,旧約聖書がエジプトのアレキサンドリヤで,そこに住むギリシヤ語を話すユダヤ人のためにギリシヤ語に翻訳された.70人訳と呼ばれるこの翻訳は,初期のキリスト者に最もよく知られた旧約聖書の翻訳であった.ローマによるギリシヤ征服後もローマ人たちはギリシヤ的な考え方を継承した.ギリシヤ語は,ローマ帝国の東半分の地域の公用語として確立した.ヘレニズム文化とローマの平和は,新約聖書の成立と初期の福音伝播に欠くことのできない背景となっている.
聖書のギリシヤへの言及.旧約聖書はギリシヤに3度言及しており([ヘブル語]ヤーワーン.ダニ8:21,10:20,11:2),ギリシヤ人については1度の言及が見られる(ヨエ3:6/4:6).そのほか明確ではないが通常ギリシヤかギリシヤ人を意味すると解釈されるものとして,ヤペテの第4子ヤワン(創10:2,4,Ⅰ歴1:5,7,イザ66:19,エゼ27:13,ゼカ9:13),ドダニム人(創10:4),ロダニム人(Ⅰ歴1:7),ゴグとマゴグ(エゼ38‐39章),ペリシテ人(士14‐15章,Ⅰサム17‐18章),そして「島々」(詩72:10,イザ40:15.これはキプロスやクレテ,エーゲ海の島々であろうか)などがある.
新約聖書におけるギリシヤへの唯一の言及である使20:2は,マケドニヤから区別された意味でのローマのアカヤ州を指している.ギリシヤ人への言及は頻繁に見られる(ヨハ12:20,使11:20,16:1,ロマ1:14,Ⅰコリ1:22等).マコ7:26でスロ・フェニキヤの女がギリシヤ人と呼ばれているのは,ギリシヤ語を話す,あるいは文化的なギリシヤ人という意味で,異邦人,異教徒という響きがある.使6:1,9:29の「ギリシヤ語を使うユダヤ人たち」と訳されている[ギリシャ語]ヘレーニステースと呼ばれる人々の多くは,ギリシヤ・ローマの各散在地に生まれた人々で,ギリシヤ語を話し,パレスチナで一般に用いられていたアラム語に関してはある程度話せるか,あるいは全く話すことのできないユダヤ人と考えられる.使11:20で,[ギリシャ語]ヘレーニステースはギリシヤ人に用いられている.パウロがその伝道旅行で訪ねたギリシヤの町には,ネアポリス,ピリピ,アムピポリス,アポロニヤ,テサロニケ,ベレヤ,アテネ,コリント,ケンクレヤなどがあった(使16‐18章,20章).
〔参考文献〕村川堅太郎編著『ギリシアとローマ』(世界の歴史2)中公文庫,1974;弓削達『地中海世界』講談社新書,1973;弓削達編著『地中海世界』有斐閣新書,1979;太田秀通『東地中海世界』(世界歴史叢書)岩波書店,1977;『スパルタとアテネ』岩波新書,1970;岩波講座『世界歴史』1,2,岩波書店,1969;ゴールドン『聖書以前』みすず書房,1967;Bromiley, G. W., The International Standard Bible Encyclopedia, Eerdmans, 1982; Tenney, M. C. ed., The Zondervan Pictorial Encyclopedia of the Bible, Zondervan; The Illustrated Bible Dictionary, IVP, Tyndale, 1980.(後藤敏夫)

(出典:後藤敏夫『新聖書辞典 新装版』いのちのことば社, 2014)

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