《じっくり解説》ガリラヤとは?

ガリラヤとは?

ガリラヤ…

([ヘブル語]gālîl, gelîlāh,[ギリシャ語]Galilaia)「周辺」という意味.山地を囲む町々を指して名づけられた.最初この語は,パレスチナ北部,ナフタリ領の山地を指していたが,しだいにもっと広い地域に使われるようになり,マカベア時代には,南方はエスドラエロン平原をも含むようになった(Ⅰマカベア10:30,12:47,49).一般的には,北はシリヤに接するセメコニティス湖,西はフェニキヤ,南はカルメル山脈からエスドラエロン平原,東はガリラヤ湖からヨルダン川に囲まれたおよそ南北75キロ,東西40キロの地域を指す.そして,ガリラヤ湖の北端と,地中海沿岸にあるアコの町を結ぶ東西の線によって,北側の上部ガリラヤと南側の下部ガリラヤに分けられる.上部ガリラヤには,レバノン山脈の南の支脈があり,600―1200メートル級の諸峰がそびえている.
ガリラヤ一帯,特に南部はパレスチナ随一の穀倉地帯である.それは地中海とガリラヤ湖の間にある火山作用によってできたハッティン峰がガリラヤの台地,平原,谷に玄武岩の火山灰をまき散らした結果,沖積土の土壌ができたことと,北部の山々が,レバノン山脈からくる湿気を露,雨,雪,川,泉などの形にし,ガリラヤ一帯に豊かな水を供給しているからである.特に,小麦,大麦,オリーブ,ぶどうなどが主産物にあげられる.また牧草に恵まれているため,牧畜も盛んである.ガリラヤ湖は魚が豊富にとれ,その周辺には漁村が点在している.風光明媚で気候もよいところから,観光保養地でもあった.そして,整備された国際通商路がいくつも交差しており,ヘロデ時代には,その通行税の収入は大きな財源となっていた.
この地方には,もともとカナン先住民がいた.ヨシュアによる占領後は,ゼブルン,アシェル,ナフタリ,イッサカルなどの部族の相続地として分割される.しかしこれらの部族は,カナン先住民を完全には征服できなかったようである(士1:30‐33).
ソロモンの時代,国土はかなり北方まで広がった.そして神殿や王宮の木材の代償として,この地方にある20の町々をツロの王ヒラムに提供している(Ⅰ列9:11).王国が分裂してからは,この地方はイスラエル領土の最北の地としてしばしば敵の攻撃を受けた.北王国イスラエルのヤロブアム2世時代,国土はソロモン時代と比較され得るほど回復されたが,聖書はその後アラムの王ベン・ハダデがガリラヤを攻撃したことを報じている(Ⅰ列15:20では「キネレテ」).前732年,アッシリヤの王ティグラテ・ピレセル3世は,ガリラヤ地方を征服,その住民を捕囚にした(Ⅱ列15:29).このような状況を見てイザヤは「異邦人のガリラヤ」と呼んでいる(イザ9:1/8:23).以降,6世紀の間,この地方はバビロン,ペルシヤ,マケドニヤ,エジプト,シリヤなどの支配下におかれた.その結果,人種は混じり合い,混合文化が形成された.
前80年,アレクサンドロス・ヤンナエウスは,この地方をユダヤ人の手に戻したが,その頃からこの地方に急進的な愛国主義者が登場するようになった.前63年,全パレスチナがローマによって制圧され,前40年には,ローマ元老院により,ヘロデが「ユダヤ人の王」に任じられた.その結果,ガリラヤはヘロデ家の4分領の一つとなった.前4年にヘロデが死ぬと,その息子ヘロデ・アンテパスがガリラヤ地方を治めるようになった.彼はローマ式の町テベリヤを建てて首都とし(紀元25年),ヘレニズム文化を普及させた.その後,ヘロデ・アグリッパが支配するが,彼の死後はローマの一行政区となった.ユダヤ人たちは,66―73年,132―135年,ローマへの反乱を試みたがいずれも失敗した.
主イエスが育ったのは,このガリラヤ地方のナザレという町であった.公生涯の前半の宣教舞台は,カナ,カペナウム,コラジン,ベツサイダなど,ガリラヤ地方中心であった.当時人々は,この地域から偉大な預言者が出るなど想像もできなかったので(参照ヨハ1:46,7:41),このことは驚くべきことである.主イエスの十二弟子も,ほとんどがこの地方の出身者であった.
彼らの公用語はギリシヤ語だったが,日常言語はアラム語だった.しかし,それは特殊ななまりがあったので,都会の人にはすぐ判別できたようである(マタ26:73).

(出典:中沢啓介『新聖書辞典 新装版』いのちのことば社, 2014)

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