《5分で分かる》ガザとは?

ガザとは?

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ガザ…

([ヘブル語]ʽazzāh,[ギリシャ語]Gaza) ペリシテの5大都市中(Ⅰサム6:17),最南端の町.町は古くから存在し(創10:19),後期青銅器時代および鉄器時代の多くの遺物が発見されている.アビム人の居住後,カフトル人が定住した(申2:23).ヨシュアはこの町を占領したが(ヨシ10:41),完全に征服したというわけではなく(ヨシ11:22),未征服地のリストにあげられ(ヨシ13:3),ユダ族の相続地になるべき地として割り当てられた(ヨシ15:47).その後,一時的にイスラエルの手に渡ったが(士1:18),長続きせず,再びペリシテの支配下におかれた(士6:4).
この町と特に深いかかわりがあるのはサムソンである.彼は,町の門の扉と2本の門柱を引き抜き,ヘブロン近くまで運ぶという特別な力を持っていることをこの町で示した(士16:1‐3).しかし後にペリシテ人に捕らえられ,力が去って,青銅の足かせをかけられ,牢の中で臼をひかせられるのも,この町である(士16:21).そしてまた神殿中央の2本の柱を引き倒し,3000人以上のペリシテ人と共に死んだのも,この町のダゴン神殿での出来事であった(士16:23‐31).
ソロモン時代には,この町はイスラエル領土の西南の都市としてあげられている(Ⅰ列4:24/5:4).ユダのヒゼキヤ王は,ペリシテ人を撃って,ガザの門にまで至った(Ⅱ列18:8).前734年には,ガザはアッシリヤのティグラテ・ピレセル3世の激しい攻撃を受け(参照アモ1:6‐7),アッシリヤに服して貢を納めることになる.その時,ガザの王ハンノはエジプトに逃れるが,後にガザに戻ってアッシリヤに反旗を翻した結果,前720年,サルゴン2世の反撃を受け,ガザはアッシリヤに屈服する(Ancient Near Eastern Texts, pp. 282-285).イザ20:1の記録はこの時の事件と関係があると思われる.アッシリヤがユダから取り上げた町のいくつかを,ガザの王シッリベルに与えているところから,その後この町はアッシリヤの属国として忠誠を尽くし続けたことがわかる.しかし,前7世紀終わりに,エジプトのパロ・ネコの攻撃を受け(エレ47:1),後にはユダ同様,ネブカデネザルによるバビロン捕囚という悲劇を味わうことになる(ゼパ2:4).
前332年マケドニヤのアレクサンドロス大王の攻撃を受け,激しく抵抗を試みるがついに2か月後に陥落,住民は虐殺されてしまった(参照ゼカ9:5).それ以降,ガザはもはやペリシテ人の町ではなくなり,ペルシヤ人やアラビヤ人の居住地となる.その後,町は一時,マカベア家のヨナタン(前160―142年)の支配下におかれた.そして前96年頃には,マカベア家のアレクサンドロス・ヤンナエウスがこの町を包囲し,住民を圧迫した(『ユダヤ古代誌』8:13:3).前63年ローマのポンペイウスはシリヤの管轄下においた.前57年,ローマのシリヤ総督は町をそれまでより南方,地中海により近い場所に建設した(『ユダヤ古代誌』14:5:3).以来,それまでの町は「荒れ果てたガザ」(参照使8:26)と呼ばれるようになった.紀元65年,ガザはユダヤ人の反乱によって部分的に破壊される.ローマ時代には異教的ギリシヤ,ローマ文化の中心地として栄えた.今日,ティトゥスやハドリアヌス帝を印刻した貨幣がこの町から出土している.634年以降は,キリスト教徒が支配した十字軍時代を除いてアラビヤ人の居住地となっている.
位置は,地中海より4キロのテル・カルベーで,現代のアラビヤ人がガゼと呼んでいる場所.そこは,15―18メートルほどの高さの低い円形の丘で,東から北へと台地が広がっている.北側にはオリーブの木がよく育ち,オリーブ油から製造される石けんは有名.

(出典:中沢啓介『新聖書辞典 新装版』いのちのことば社, 2014)

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