《じっくり解説》エルサレムとは?

エルサレムとは?

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エルサレム…

([ヘブル語]yerûšālaim, yerûšālayim,[アラム語]yerûšelem,[ギリシャ語]Ierousalēm, Ierosoluma) 神の贖いの歴史の中で最も重要な位置を占める都.現代イスラエル共和国の首都,および全世界のユダヤ人の聖都,キリスト教徒にとっては偉大なる王の都である(マタ5:35).イスラム教徒にとっては第3の聖都である.第1神殿(王国時代),第2神殿時代を通じてユダヤ人の贖罪のいけにえがささげられ,神の子イエス・キリストが全人類の罪のために十字架にかかり,復活され,ペンテコステの日に聖霊が下って最初のキリスト教会が誕生した地である.また,最初の教会会議がこの都で行われた.まさに聖書の記者が記すように「主がご自分の名を置くためにイスラエルの全部族の中から選ばれた都」(Ⅰ列14:21)である.
名称.エルサレムという名が古文書に最初に出てくるのはエジプトの「呪詛文書」でウルシャリムとあり,後のテル・エル・アマルナ文書(前1400年頃)には,ウルサリムとある.また,最近発見されたエブラ文書にもウルサリマ,サリムという町の名が記されている.聖書に最初に記されているのはヨシ10:1であるが,それより早く創14:18には「シャレム」という名で出てくる(参照詩76:2/76:3,ヘブ7:2).シャレムは「平和」を意味し,エルサレムは「平和の町」を意味すると伝統的には解釈されるが,「シャレムの基礎」と解釈する学者もいる.この町はまた,モリヤ(創22:2),エブス(ヨシ18:28),シオン(Ⅱ列19:21),ダビデの町(Ⅱサム5:7),アリエル(イザ29:1),聖なる都(マタ4:5)とも呼ばれる.
位置と地勢.エルサレムはパレスチナ中央山脈の頂,北緯31度,東経35度,標高790メートルの台地にある.地中海沿岸から53キロ,死海の北端より22.5キロに位置している.町は山頂の台地に建てられているが(詩48:1‐2/48:2-3,ゼカ8:3),一箇所を除いてまわりは山々に囲まれている(詩125:1‐2).町は,ユダヤ高地と接している北側を除いては3方が谷に囲まれている.西と南にヒノムの谷があり,東にはキデロンの谷が南北に走り,東のオリーブ山との間を仕切っている.さらに町の中央には,チロペオンの谷が西側から弧を描いて南北に走り,町を2分し,町の東南部,オフェルの南で3つの谷が合流し深い渓谷を形成している.このように町は3方が谷に囲まれ,天然の要害を形造っている.しかし何世紀も経過し,戦争による荒廃などによって谷は埋められ,現在は昔ほど深い谷を見ることはできない.チロペオンの谷の東側の丘の北側の高くなっている方が神殿が建っていたモリヤの山で,南端の細長いやや低い部分が古いダビデの町で,この両者の間にある狭い部分がオフェルと呼ばれる(Ⅱ歴27:3).
エルサレムは高地であるため気候は温和で,8月の平均気温は25度,時として南東の風(ハムシーン)が吹くと30度から40度まで上昇することがある.1月が9.7度で,雪が降ることは珍しい.平均雨量は551ミリ.
給水.エルサレムは長期の包囲攻撃にあい,食糧を断たれ激しい飢えに苦しんだことがある.しかし住民が水の欠乏に悩んだという記録はない.旧約時代における町のおもな水源はギホンの泉であり,それはエブス人のとりでの東のふもとにある.古代の町がこの泉に頼って建てられたことがよくわかる.これは間欠泉で1日2―5回水が流れ出る.それはさらに奥にある自然の空洞に水がたまり,それがサイフォン型の穴を通って水槽にわき出てくるためである.ヒゼキヤはアッシリヤの攻撃から水源を守るため全長533メートルのトンネル水路を掘り(Ⅱ歴32:30),城壁の内側,ダビデの町の南西にあるシロアムの池に水を導いた.その他にはエン・ロゲルがあるが,これは町の城外,ヒノムの谷とキデロンの谷の合流点にあるビール・アユーブと同定されている.ネヘ2:13に記されている竜の泉は現在位置がわかっていない.G・スミスはこの泉はネヘミヤ時代地震によって生じたものが,後に枯渇したのではないかと考えている.これらの泉以外に補助のためにおびただしい水槽が造られていた.町の城壁のやぐらには,巨大なタンクが設けられていた(『ユダヤ戦記』).神殿の北側にあったベテスダの池も雨水によって満たされた池である.
歴史.⑴カナン人の町.考古学によって前4千年期の土器がエルサレムで発見され,前3千年期と前2千年期初期にこの地域に人が住んでおり,すでに城壁や聖所が築かれていたことが知られている.そして創14章には前2000年頃,シャレムに王であり,いと高き神の祭司メルキゼデクが住んでいたと記されている.アブラハムはこの祭司から祝福を受け,すべての物の十分の一を彼にささげた.また伝承は,アブラハムがイサクをささげたモリヤの地もこのエルサレムであるとしている.次いでエルサレムが歴史の舞台に登場するのは,前1400年頃のテル・エル・アマルナ文書においてである.この時代エルサレムは,エジプトの支配下にあり,総督のアブド・ヒバはハビル(ヒブル?)の来襲に当たって,援軍の派遣をアケンアトンに要請している.
イスラエルのカナン侵攻時は,エブス人がエルサレムの住民であった(ヨシ15:8).ヨシュアはエルサレムの王アドニ・ツェデクを打ち破ったが,占領はしなかった(ヨシ10:1‐11).またユダ族もエルサレムを攻略した(士1:8)が,とりでを占拠することはできなかった.ダビデがヘブロンでイスラエルの王となった後(前1010年頃),彼は,エルサレムの戦略上,地政学上の位置に目をつけた.また,イスラエルの真ん中に異邦人の町があることは,イスラエルにとって恥辱でもあった.彼はエルサレムを攻め,ギホンの泉の水汲みの地下道を抜けて攻撃し,難攻不落の町を完全に占領した(Ⅱサム5:6以下).
⑵ヘブル人の町.ダビデはエルサレムを彼の王国の首都とした.それと同時に,主がシロを見捨てて以来一定の場所を持たなかった契約の箱をエルサレムに移し,首都を新しい宗教の中心地にした.それ以来,エルサレムはユダヤ人にとって永遠の聖都となった.ダビデがエルサレムを首都として選んだことは,彼の軍事的,政治的慧眼によるものであった.a.エルサレムは3方を谷に囲まれた軍事的要害の地として守るのはたやすく,攻めるのは難しい地である.また,水の利もよい.b.ユダとベニヤミンの地の境に位置し,かつどの部族にも属しておらず統一のために都合がよかった.c.いと高き神の祭司メルキゼデクがかつて住み,聖所があった場所で,アブラハムとの関係も深い.しかし,以上の理由に加えて,神の選びによるものであったということが大切である.
ダビデはエブス人の町に城壁を建て,王宮を建設した.そして,その子ソロモンはダビデの遺志を受け継いでエルサレムに壮大な神殿を建立した.それはアブラハムがイサクをささげた場所と言われ,アラウナの打ち場でもあった(Ⅱサム24:18).彼はまた13年を費やして宮殿をも建設した.エルサレムは,ソロモンの黄金時代の後にいくつかの変遷を経験することになる.前925年南王国ユダの王レハブアムの時代に,エジプトのシシャクが攻め上り,神殿と王宮の財宝を奪い取った(Ⅰ列14:25‐26).ヨラムの時代にはペリシテ人とアラビヤ人が攻撃をしかけてきて王宮の財産と王の妃や子どもたちを奪い去った(Ⅱ歴21:16‐17).アマツヤの治世には北王国イスラエルのヨアシュが城壁を400キュビトにわたって打ち壊し,宮と王宮の財宝を略奪した(Ⅱ列14:13‐14).しかし,アマツヤの子ウジヤの時代には早くも城壁と門は強固なものとされ,町の威信は大いに高められた(Ⅱ歴26:6‐10).またこの間に人口は増加し,町は拡大していった.「谷の門」(Ⅱ歴26:9)はヒノムの谷の方へ町が広がったことを意味し,ヨタムは主の宮の上の門を建て,城壁上に多くのものを建てた(Ⅱ歴27:3).それはまたウジヤの時代にこの地方を襲った大地震による被害の修復をも兼ねていたと思われる.アハズの治世に北王国の軍隊によって包囲されたが占領はされなかった(Ⅱ列16:5).その後アハズはアラム,北王国イスラエルの同盟軍と対抗するため親アッシリヤ政策をとり,さらにダマスコから異教礼拝の方法をとり入れることによって神殿は閉鎖された(Ⅱ列16:14以下).
しかし,その子ヒゼキヤの代に神殿は再開され,礼拝が行われるようになった.そして前701年,この町は重大な危機にさらされることになった.アッシリヤのセナケリブがユダの堅固な町々を占領し,エルサレムを包囲したのである(Ⅱ列18:13以下).ヒゼキヤはこれに先立ち,城壁を全面的に修復,補強したが,エルサレムを最終的に救ったのは,ヒゼキヤの祈りに答えられた神の直接的介入によるものであった(Ⅱ列19章).(セナケリブについてはPritchard, J. B., Ancient Near Eastern Texts, pp. 287-288を参照).ヒゼキヤの子マナセは偶像礼拝を大々的に導入したが,神に打たれて捕囚を体験することによって悔い改め,偶像を取り除き,城壁を強固にし,防備を強化した(Ⅱ歴33:1‐16).アモンの短い治世の後を受けたヨシヤは,異教神殿と偶像とを取り除き,高き所を打ち壊した.神殿修築の折に発見された律法の書によって,宗教改革がもたらされた(Ⅱ列22章).
ヨシヤの子,孫たちは再び主の前に悪を行い,エルサレムに対する主のさばきは決定的となった.それはマナセが犯した罪のためでもあった(Ⅱ列24:3).エホヤキムの治世に新興の帝国バビロニヤ軍はエルサレムを攻め,王を捕らえ(結局は許したが),貴族の若者たちを捕虜として連れて行き,神殿の器具を運び去った(Ⅱ列24:1‐2,Ⅱ歴36:5‐8).これが第1回の捕囚である(前605年).エホヤキムは捕らえられたが(Ⅱ歴36:6),何らかの理由で釈放され,3年後にまた反逆した.ネブカデネザルは再びエルサレムを包囲したが,その時にはエホヤキムは死んでおり,その子エホヤキンが王となっていた.ネブカデネザルはエホヤキンを初め,エルサレムの有力者1万人を捕虜としてバビロンに連れ去り,神殿と王宮の財宝を奪い取った(Ⅱ列24:10以下).前597年のことである.エホヤキンの代わりに王となったゼデキヤはエレミヤのことばに逆らってバビロンに反逆した.ネブカデネザルは3度エルサレムを包囲し,2年の後ゼデキヤの治世の11年目にこれを陥落させた.神殿と諸宮殿は焼かれ,城壁は破壊され,多くの者が殺害された.財宝はことごとく奪い去られ,捕囚として連れて行かれた者は約6万人に上ると考えられる.ゼデキヤも目をえぐり出されバビロンへ連れて行かれた(Ⅱ列25章).前586年のことである.
町は50年間荒れるままにされた.前538年,バビロンを征服したペルシヤの大王クロスはユダヤ人解放令を発布した.これに勇気づけられた人々がゼルバベルの指揮のもとに約5万人が捕囚から帰還し,エルサレム再建に着手した.多くの困難と戦いながら前516年,第2神殿が落成した.前445年,ペルシヤ王アルタクセルクセス1世の時代にネヘミヤが帰還し,崩れたままになっていた城壁を再建した(ネヘ1‐6章).その後エズラの指導のもとに信仰復興が起こった(ネヘ8‐9章).その後の100年間,エルサレムに関する資料はほとんど残されていない.
ギリシヤのアレクサンドロス大王の死後,エジプトを中心とする南の国はプトレマイオス王朝によって支配され,シリヤ(アラム)を中心とする北の国はセレウコス王朝によって支配されるようになった.前323年,エルサレムはプトレマイオス1世ソテルの支配下におかれたが,約100年後,セレウコス王朝の支配下に移された.前199年にはパレスチナとエルサレムはスコパスの手によって再びエジプト側に移されたが,1年後にはアンティオコス3世大王の手によってシリヤの支配下に移った.前168年,アンティオコス・エピファネスがエルサレムを占領し,聖所を汚し,神殿に異教礼拝を導入し,祭壇に豚をささげた.聖書を持っている者は死刑に処せられた.エルサレムは重大な局面に立たされたが,祭司であるマッカバイオス父子が奮起して反乱を起こし,前165年,エルサレムを取り戻し,神殿をきよめた.それ以来ユダヤ人はこのことを記念してハヌカーの祭りを祝うようになった.2年後,アンティオコス4世は城壁と神殿とを破壊したが,町はすぐユダヤ人の手に戻った.このようにして祭司の家系であるマッカバイオス王朝が成立し,エルサレムとユダはシリヤの手を離れてしばし独立国の期間を楽しむことができた.しかし,この間にもアレクサンドロス・ヤンナエウスは自国の民パリサイ人800人を十字架刑に処し,またハスモン(マッカバイオス)王家の内紛も絶えなかった.
この間にローマが力をたくわえてセレウコス王朝を滅ぼし,前63年,ポンペイウスが,王家の内紛が続くエルサレムを攻略,城壁の一部を破壊した.以後,町はローマの支配下におかれた.さらに前54年,クラッススは神殿のものを略奪し,次いで前40年,町はパルテヤ人によって占領された.同じ前40年エルサレムを脱出したイドマヤ人ヘロデはローマに亡命し,そこで皇帝アウグストゥスからユダヤ人の王としての戴冠を受け,エルサレムを攻略,前37年町はヘロデ大王の手に戻された.かくして,ローマの傀儡政権としてのヘロデ王朝がエルサレムに誕生することになる.ヘロデ大王は残忍な性格を有する反面,政治家としての手腕にすぐれ,種々の大建築物を残した.彼はエルサレムの城壁を修理し,壮大な神殿を再建した.この神殿はゼルバベルの比較的質素な神殿とは著しい対照をなすもので,その壮麗さをタルムードは次のように表現している.「ヘロデの神殿を見るまでは,美しいものを見たと言うなかれ」(ババ・バスラ4b).工事は前20年に開始され,ヘロデの死後も引き継がれ,紀元62年になって初めて完成した.ヘロデは神殿の北側にローマ軍が駐屯するとりでを建設し,これをアントニヤ城塞と呼んだ.ヘロデはまた自分のために壮麗な宮殿を建て,ヨッパの門につながる宮殿の北西の角には,マリアンメ,ファサエル,ヒッピカスという名を持った3つのやぐらを建設した.町は経済的に繁栄し,上町,下町が整備され,上町には中庭を持った立派な屋敷が建ち並んでいた.イエスが十字架刑に処せられたゴルゴタの丘については現在2つの説があり,一つは伝統的な現在の聖墳墓教会のある場所,もう一つはゴードンのカルバリと呼ばれる現在のダマスコの門の北側にある場所である.
イエスとエルサレムは深い関係を持っている.幼児の時にイエスは,主にささげられるためにエルサレムの神殿に連れていかれた(ルカ2:22).12歳の時,両親と共に過越の祭りのために上っていった(ルカ2:42).公生涯の始まりの頃,過越の祭りにエルサレムに上り,宮きよめを行った(ヨハ2:13‐25).次いでもう一つの祭り(過越?)にエルサレムに上り,ベテスダの池で38年間病床にあった者をいやされた(ヨハ5:1‐9).おそらくその翌年の仮庵の祭りにエルサレムに上って宮で教えられ(ヨハ7章),同じ年の宮きよめの祭りにイエスはエルサレムにおられた(ヨハ10:22‐39).そして翌年の春,最後の週をイエスはベタニヤとエルサレムで過ごされ,過越の小羊としてエルサレムの城外で十字架にかかられた(マタ27章,マコ11‐15章,ルカ19:29‐23:56,ヨハ12:12‐19:42).3日目にイエスはエルサレムで復活され,すべての弟子たちに現れ,近くのオリーブ山から天に上られた(使1:3‐12).
⑶エルサレム崩壊とその後の歴史.紀元70年,ユダヤの反乱を抑圧するためにエルサレムを包囲したティトゥスの大軍は143日の包囲の後,町を陥落させた.エルサレムの滅亡は福音書にイエスの預言として記されてはいるが,不思議なことにエルサレム滅亡の記事は新約聖書のどこにも記されていない.しかしその出来事はヨセフォスの著作を通して詳細に知ることができる.戦いと破壊は峻烈をきわめ,約60万人のユダヤ人が殺され,それ以上の者が捕虜として連れ去られた.しかし,イエスの預言を信じたクリスチャンたちは,その前にヨルダン川を渡り,ペラへ逃げた.ハドリアヌス帝(117―138年)はエルサレムを異邦人の町とし,先住民を抑圧しようとした.これが,偽メシヤ,バル・コクバの指導する反乱(132―135年)の原因の一つであった.しかし,この反乱を鎮圧するに当たってローマ軍はエルサレムの町を徹底的に破壊し,土台まで掘り起こしてしまった.2年後,ハドリアヌス帝はこの町を再建し,エリア・カピトリナと改名した.この時以来,ユダヤ人はだれも約2世紀の間,この町に住むことを許されなかった.325年,コンスタンティヌス大帝はこの町をキリスト教都市とした.さらにエルサレムの監督マカリオスの助言を受け,335年伝統的にイエスの墓とされていた場所に聖墳墓教会を建立した.
614年にはホスロー2世に率いられたペルシヤ軍によって侵略され,数万の民が虐殺され,奴隷として捕らえられ,聖墳墓教会は焼き払われた.628年,東ローマ皇帝ヘラクリウスがこれを回復したが,637年にウマル・イブヌル・カタブに無血占領され,エルサレムはイスラム教徒の支配下に移った.688年,神殿跡に岩のドームが建てられ,この町はイスラム教徒と深い関係を持つようになった.旧新約聖書に多少なりとも通じていたマホメットは,ユダヤ人とキリスト教の聖都エルサレムと自分とを関係づけることを忘れなかった.そしてイスラム教徒は,コーラン17:1に記されていることばを,マホメットが奇蹟的にメッカからエルサレムに運ばれ,そこから第7の天に上ったと解釈した.しかしこれは歴史的根拠に欠けている.いずれにしても,エルサレムはメッカ,メジナに次いでイスラム教世界における最も重要な聖地となった.969年,この町はエジプトのシアハ・ハリフの手に落ちた.1009年,カリフのアル・ハーキムは聖墳墓教会の破壊を命じ,1014年までの間に,パレスチナの約3万の教会堂が焼失または略奪された.1077年にはトルコのセリュークがエジプト人を駆逐し,城壁内の3000人を殺害した.
1099年第1回十字軍がエルサレムを奪還し,88年間キリスト教徒の支配が続いたが,サラディンが,ガリラヤのハッティン峰で十字軍を撃破し,エルサレムに入城した.エルサレム占領に当たってサラディンは暴虐行為をいっさい禁止した.その後十字軍が2度ばかり短期間奪回したことがあるのを除いて,エルサレムは長い間イスラム教徒の支配下にとどまった.
特に1517年,オスマン・トルコによって占領されて以来,約400年間にわたってエルサレムはトルコの支配下にとどまることになった.
⑷第1次大戦以後.1917年12月9日,イギリスのアレンビ将軍がエルサレムに入城,翌年10月31日に休戦条約が締結されることによって400年にわたるトルコの支配は終わりを告げた.このようにして700年ぶりにキリスト教徒の征服者がこの町に入城したのである.1920年4月24日大英帝国によるパレスチナとトランス・ヨルダンの委任統治が始まる.そして第2次世界大戦後の1948年5月14日,28年間続いたイギリスの委任統治は終わりを告げた.それと同時にユダヤ人の国民議会はテル・アビブにおいてイスラエルの独立宣言を行った.続いてユダヤ人とアラブ人の間に激しい戦闘が開始された.エジプト,シリヤ,トランス・ヨルダン,レバノン,イラク,サウジアラビヤは同盟してイスラエルに敵対した.1949年の初めに休戦となったが,エルサレムは,城壁内にある旧市街は新しく誕生したヨルダン王国の支配下におかれ,西側の新市街はイスラエルの支配下におかれるという2分割のままであった.
1949年12月13日イスラエル政府はエルサレムを首都とする宣言を行ったが,多くの国はそれを承認しなかった.1967年の6日戦争によって,エルサレムの全地域はイスラエルの支配下に入った.西側の壁(嘆きの壁)のまわりは整理されて広場となりユダヤ人の礼拝の場とされた.旧市街は長い世紀にわたって4つの区域に分かれていた.町の西北部はキリスト教徒区域,西南部がアルメニヤ人区域,東北部がイスラム教徒区域,東南部がユダヤ人区域となっている.独立戦争以来荒廃のまま放置されていたが,6日戦争以後再建がなされ,会堂や神学校などが建設されている.1982年末のエルサレムの人口は新市街も含めると42万4400人で,このうちユダヤ人だけの人口は30万4200人となっている.
城壁.ダビデはエルサレム占領直後,エブス人が居住していた南西の細長い丘に城壁を巡らした.そこにはエブス人のとりでがすでにあったが,ダビデはこれに加えてミロから四方に城壁を築いた(Ⅱサム5:9,Ⅰ歴11:8).ソロモンはミロを建て,ダビデの町の破れ口をふさいだ(Ⅰ列11:27).後の諸王はそれに修理や追加増築を重ね,ついに,西は現在のヨッパ門付近を通り(Ⅱ歴26:9),南はヒノムの谷に接近し(エレ19:2),シロアムの池の南を走り(ネヘ3:15),オフェルを含み(Ⅱ歴33:14),北は西北丘に発展した郊外地を取り囲むに至った(Ⅱ歴33:14,エレ31:38).しかし,この城壁はネブカデネザルによって破壊された(Ⅱ列25:10).
捕囚後,ネヘミヤは古い資材を用いてこの城壁を52日間で再建した(ネヘ2‐3章,4:2,6:15).これは羊の門(3:1)から始まり,西へ魚の門(3:3,12:39)へと走り,エシャナの門(古い門,3:6)へ南下する.エシャナの門からおそらく南西に少し行くと広い城壁があり(3:8,12:38),さらに南下すると炉のやぐらに達する(3:11).続いて谷の門(3:13),糞の門(3:14),さらに泉の門(3:15)へと続き,町の東南角にある王の園のほとりのシロアムの池に沿った石垣,ダビデの町から下る階段(3:15)があった.ここからキデロンの谷に沿って北上すると,前に大広場のある水の門があった(3:26).そこからオフェルの城壁と続き,馬の門(3:28)に達し,東の門を通過して最初の出発点である羊の門に至る(3:29,32).
ネヘミヤからイエスの時代に至るまでの期間,エルサレムの防御施設は徐々に変化した.ネヘミヤの約250年後,大祭司シモンはこの町を堅固にすることの必要を悟った(シラ書50:1‐4).前168年アンティオコス・エピファネスは堅固な城壁とやぐらのある要害を築いた(Ⅰマカベア1:31‐40).このとりではアクラとして知られる.それは神殿を見下ろしていて25年間ユダヤ人に対する脅威となった.マカベアのエルサレム奪還の際,城壁が破壊されたが,ユダ・マッカバイオスとその兄弟ヨナタン,シモンが,神殿の丘と町の城壁を再建修理し補強した(Ⅰマカベア4:60,10:10‐11,12:36‐37,13:10,14:37).その後アクラのあった丘は神殿よりも低くされ,神殿はすべての建物の中で最高の建物となった(『ユダヤ古代誌』13:217).
前63年エルサレムに進軍したローマのポンペイウスは,この町の城壁が堅固なことを見,ただちに城壁を破壊した(タキトゥス『歴史』).しかし後に皇帝は城壁の再建を許可した.城壁は北側は二重になっており,それはイエスの時代まで続いた.第1の城壁は現在のヨッパ門のすぐ西に立っているヒッピカスのやぐらから東へ神殿の西の廊まで延びている.東側は,ヒッピカスのやぐらから南方へ延び,炉のやぐらと谷の門をヒノムの谷に沿って東方へと折れ,シロアムの池およびオフェルのあたり,神殿の東の庭まで続いていた.第2の城壁はヨセフォスの記事によるとゲンナテの門から始まり,北へ,丘を弧を描いて神殿の北のアントニヤ城塞(バリス)に達していた(『ユダヤ戦記』5:146).これに対して北の第3の城壁の建設が,ヘロデ・アグリッパ(紀元41―44年)によって企てられたが,クラウディウス帝によって工事が中止され,後にユダヤ人の手によって完成した.それは第1次ユダヤ戦争(66年)の直前であった.これはヒッピカスのやぐらから始まり,北に進んで町の西北隅のプセフィヌスのやぐらまで延びる.そこで東へ折れヘレナ(アディアベネの女王)の記念碑の近くを通り,諸王の洞穴を過ぎて布さらしの碑の近くで南方に折れ,ケデロンの谷の所で古い城壁に連結していた(『ユダヤ戦記』5:147).さらに第1の城壁が60のやぐら,第2が14のやぐらしかないのに対し,第3の城壁には90のやぐらがあった.町の防備は神殿の北にあったアントニヤ城塞と,西の城壁に隣接し,3つのやぐらを持つヘロデの宮殿とによって強化されていた.70年ティトゥスはこれらいっさいの防御施設を破壊した.ただ西側の3つのやぐら(ヒッピカス,ファサエル,マリアンメ)だけが記念として残された.しかしそれらもバル・コクバの反乱後にローマによって破壊された.そして今日建っている城壁は1541年トルコのスュレイマンが建設したものである.
〔参考文献〕A・パロ『エルサレム』1977;Arbel, N., Jerusalem, Past & Present, 1969; Avi-Yonah, M., The World History of the Jewish People, The Herodian Period, 1975; Kenyon, K. M., Jerusalem, 1967; Kollek, T. /Pearlman, M., Jerusalem, Sacred City of Mankind: A History of Forty Centuries, 2nd ed., 1974; New Bible Dictionary, 2nd ed., IVP, Tyndale, 1982, pp. 614-620; The Zondervan Pictorial Encyclopedia of the Bible, Zondervan, Vol. 3, 1978; Mazar, B., The Mountain of the Lord, 1975; Yadin, Y. ed., Jerusalem Revealed, 1975. (西  満)

(出典:西満『新聖書辞典 新装版』いのちのことば社, 2014)

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