《じっくり解説》エリコとは?

エリコとは?

エリコ…

([ヘブル語]yerîhōh, yerîhô, yerēhô, [ギリシャ語]Ierichō)「月の町」という意味であると思われる.旧約時代のエリコは,死海に注ぐ現在のヨルダン河口から北西約16キロのエル・リハ村(現在のエリコ)の北2キロ,エルサレムの東北東約27キロの地点にあるテル・エス・スルタンにあった.この丘は,南北約400メートル,北側の広い部分の幅は200メートルほどある.ヘロデ時代と新約時代のエリコは,現在のエル・リハの西2キロ,旧約時代のエリコの南に位置するトゥルル・アブーエル・アラーイクの遺丘にあった.今世紀になってから両遺丘の発掘が何回か大がかりに行われ,パレスチナ最古の町エリコの歴史が明らかにされてきた.
エリコに古くから人が住みついたのは,そこにかれることのない良質の泉があり,そのおかげでオアシスとなっていたからである.旧約において,エリコは「なつめやしの町」と呼ばれている(申34:3,士3:13).すでに前9600/7700年に,農耕文化以前の採集狩猟民族がここに社を建てたらしく,またパレスチナで知られているかぎりでは最も初期の農耕民が泉のそばに小屋を建てていたらしい.前8千年期の初頭に,エリコの最古の町が建てられた.その町には石造りの防御壁があり,階段のある塔や円形の家があって,堅固な要塞の町であったことがうかがわれる.その後,新しい住民が来て大きな方形の家が建てられるようになり,崇敬の対象である先祖のどくろが宗教的用具として用いられていた.前5千年期から前4千年期のエリコの住民は,陶器を造ることを覚えたが,しだいにその地を見捨てることになった.前3200年頃からエリコは再び,早期青銅器時代の城壁と塔のある町として再建された.その頃メギドなどが建てられた.前2300年頃に,エリコは未開の侵入者に襲われて滅ぼされ,この侵入者がその廃墟跡に住みついた.彼らは中期青銅器時代(前1900―1600/1500年)のカナン人と融合した.この時代は聖書で言えばアブラハム,イサク,ヤコブの時代に当たる.その時代のエリコの遺跡から,アブラハム当時のカナン人,エモリ人の住民の日常生活の様子が明らかにされている.墓は比較的よく保存されており,見事な陶器,4脚の木製のテーブル,腰掛け,寝台,骨を象眼にした化粧箱,かご細工,果物や肉を盛る皿,金属製の短剣や飾り輪等があった.
前1600年頃以後にエリコは,エジプトの第18王朝のパロのものと思われる軍隊によって完全に破壊された.その後の後期青銅器時代に属する,人間の居住の跡はおよそ前1400年から前1325年の期間に限定されている.イスラエルのカナン征服の時期ともされる前13世紀以後については何も見つかっていないといってよいほどである.イギリスのJ・ガースタングが1929―36年の発掘によって明らかにした後期青銅器時代のものと言われた城壁は,その層から発見された遺物から,実際には早期青銅器時代のもので,ヨシュアの征服より1000年以上も前のものであることが判明した.そしてその上を中期青銅器時代の遺物の層が覆っていることが,1952年のK・M・ケニヨンの発掘で確かめられた.ヨシュアの時代(前14世紀頃)のエリコは廃丘の東部にある小さい町で,完全に浸食されてしまったらしい.遺物としての墓は,中期青銅器時代(族長時代に相当する)のエリコが重要な都市であったことを立証している.後期青銅器時代の最後の町の浸食された遺跡が,エリコの廃丘の東側にある道路や耕地の下にうずもれている可能性が大きいが,そこを発掘することは困難であり,たとい発掘できたとしても大した成果は望めないであろう.エリコの攻略の記事を含むヨシ3‐8章の物語は,ヨシュアの指揮ぶりを写実的に語ると共に,その地域の状況や地誌が正しく述べられているとして注目される.
ヨシュアののろいを恐れてか(ヨシ6:26),何世紀もの間エリコの町の再建に着手する者がなかった.しかし,エリコの泉やオアシスを訪れる者は多く,そこに小さな村ができていたと思われる.士師の時代に,モアブの王エグロンはこのオアシスを占領した(士3:13).ダビデの使者はアモン人の王ハヌンにひげをそり落とされて,ひげが伸びるまでエリコにとどまった(Ⅱサム10:5,Ⅰ歴19:5).アハブ王の治世(前874/3―853年)に,ベテル人ヒエルがエリコの再建に着手したが,そのために昔ののろいが成就して彼は長子と末子を失った(Ⅰ列16:34).エリヤとエリシャの時代のエリコは,鉄器時代の粗末な町であった(Ⅱ列2:4‐5,18‐22).南王国ユダの最後の王ゼデキヤがカルデヤの軍勢に捕らえられたのはエリコの草原においてであった(Ⅱ列25:5,エレ39:5,52:8).この時期(前9―6世紀)のエリコの遺跡は浸食のため断片的にしか残っていないが,建物,陶器,墓が出土している.おそらくバビロンの軍勢が前586年に,この場所を破壊してしまったのであろう.バビロン捕囚後も,簡素なエリコの町がペルシヤ時代まで存続した.ゼルバベルと一緒にユダに帰還したエリコの人々が345人いた(エズ2:34,ネヘ7:36).ネヘミヤによれば,エリコの人々はエルサレムの城壁再建を助けた(ネヘ3:2).
新約時代のエリコの町は,古いエリコの廃丘(テル・エス・スルタン)の南に位置していた.その地域に,ヘロデ大王(前40/37―4年)とその後継者たちがローマ風の美しい庭園のある冬の宮殿を建てた.その近くには,なつめやしとバルサムの森があって,大きな収入源になっていた.この宮殿と関係があると思われる遺跡の発掘調査が,1950年にJ・L・ケルソによって,1951年にJ・B・プリッチャードによってなされた.その結果,ヘロデは近くを流れるワディ・ケルトから導管で給水していたことがわかった.イエスはこの町のザアカイの家に泊まり(ルカ19:1‐10),バルテマイを含む盲人たちをいやされた(マタ20:29,マコ10:46,ルカ18:35).良きサマリヤ人のたとえの舞台となったのは,エルサレムからエリコへ下る,狭く険しい街道であった.

(出典:村瀬俊夫『新聖書辞典 新装版』いのちのことば社, 2014)

新装版 新聖書辞典
定価6900円+税
いのちのことば社