《じっくり解説》エペソとは?

エペソとは?

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エペソ…

([ギリシャ語]Ephesos) 使徒の時代にアジヤ州第一の都市であったエペソはリュディアにあった.リュディアはエーゲ海沿岸の一地方である.ヨハネの黙示録の中でヨハネは,サルデス,テアテラ,フィラデルフィヤなどリュディアの他の地と並んで,エペソの名をあげている(黙1:11).この町にはユダヤ人も多く住み(使19:17),会堂もあった(使18:19).パウロは第2回伝道旅行の帰途立ち寄り,短期間伝道してプリスキラとアクラを残して去った(使18:19‐21).第3回伝道旅行の時にも立ち寄っている.この時は少なくとも2年3か月滞在した.伝道の結果「アジヤに住む者はみな,ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた」(使19:10).やがて銀細工人デメテリオの騒動が生じ,パウロはエペソを去った.第3回伝道旅行の帰途は,エペソに寄ることができなかったので,パウロはエペソ教会の長老たちをミレトに呼び,別れのあいさつをし,教えを語った(使20:17‐38).後にローマの獄中から彼はエペソ教会に手紙を書き,テキコに持たせてやった(エペ1:1,6:21,Ⅱテモ4:12).エペソ教会はヨハネの黙示録に記されている7教会の一つであり,使徒ヨハネは後年エペソで活躍したと伝えられる.
エペソは,古代イオニア人がカイステル川の河口に築いた町である.地中海と黒海沿岸にあるギリシヤ人による植民地は,本来,通商交易のため重要拠点であった.エペソは通商港として,エペソより南に位置するミレトに代わって栄えた.ミレトが衰微した理由は,その港に泥土が堆積したためであったが,エペソの港もミレトの場合と同じように,河口から流出する泥土のため湾がしだいに埋められていき,それと共にエペソの町自体も衰微していった.そしてエペソに代わって,北に位置するスミルナが栄えることになる.小アジヤの全盛期には,230もの独自の共同体が存在し,それぞれ各自の個性や富を誇り,自分たちの通貨を発行し,共同体独自の生活を営んでいた.ペルシヤ帝国の独裁的支配の時代,広範な森林伐採や戦争による破壊のために,かつての繁栄は徐々に失われていったが,初期ローマ帝国時代には,再びエペソは,イオニア人が町を築いた時代のように豊かで,活気のある,誇り高き港町として栄えた.当時エペソは,シリヤのアンテオケ,エジプトのアレキサンドリヤと共に,東地中海の3大都市の一つに数えられていた.各種の陸路,海路が集まる中心地で,東洋および西洋から来た人々が行き交い,交易の品々も各地から集まっていた.フェニキヤのアシュタロテに類したリュディアの多産の女神(ギリシヤのアルテミス,ローマのディアナ)が市民の生活に大きな影響を与えていた.エペソにあったアルテミスの壮大な神殿は,古代世界の不思議の一つであった.ギリシヤの歴史家パウサニアスは,当時存在していた建造物の中で最も規模の大きなものであると言っている.神殿娼婦とか,迷信に満ちた偶像礼拝などに,アルテミス礼拝の汚れた面が現れている.その偶像礼拝の陰では多くの商売が成り立っていた.エペソは,巡礼者たちにとって重要な場所であり,彼らはそこで売られているお守りや,みやげ物を買いあさり,持ち帰った.また銀細工人の組合が栄え,彼らの生活は,銀で造った神殿や,天から下ってきたアルテミスの像と言われる隕石の偶像によって支えられていた.エペソの町は,その港の泥土のために通商が困難になるに従って,偶像に関する商売にますます依存するようになった.昔,港であった場所と,現在の海辺との間には32キロにもわたる葦の葉の茂る湿地帯がある.パウロの時代にも,すでに徐々にこの現象は進んでいた.タキトゥスによると,紀元65年に,港の改修作業が試みられたが,あまりの大事業であったために,実現に至らなかったと言う.
エペソの最初の考古学的発掘は,1863年,大英博物館の支援のもとにJ・T・ウッドによって始められた.その後20世紀中葉まで何回かにわたる発掘の結果,旧市の全容が明らかにされた.中でもアルテミスの神殿は大規模なものであったが,キリスト教が進展するにつれて,この神殿は重要さを失い,紀元262年にゴート人によって略奪され,大部分が焼かれてしまった.(竹本邦昭)

(出典:竹本邦昭『新聖書辞典 新装版』いのちのことば社, 2014)

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