《じっくり解説》エジプトとは?

エジプトとは?

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エジプト…

([ヘブル語]misrayim,[ギリシャ語]Aiguptos) 世界の4大文明発祥地として,中国の黄河流域,インドのインダス川流域,メソポタミヤのティグリス,ユーフラテス川流域,それにエジプトのナイル川流域をあげることができる.いずれも大河に支えられ,住民が肥沃な土地で農耕ないしは牧畜によって生活を営んでいた.
それぞれの川の氾濫や気候の特異性が住民に多大の影響を及ぼしたことは言うまでもないが,特にエジプトの場合,独自の文化を保持してきたことは大変興味深い.それに加えて,先の黄河文明,インダス文明に対する後のメソポタミヤ文明,エジプト文明の関係は,大きく2分される東洋と西洋の今日の文化の形態を始原にさかのぼって見ることのできるものであり,かつ後者においては特に聖書の内容と密接にかかわる領域である.したがって,その観点からエジプトを見ることが最も重要であると思われる.黄河,インダス,メソポタミヤ,エジプトを結ぶ広義の意味におけるシルクロードが考えられるとはいえ,エジプトはどちらかと言えば独自の文化を保持してきたと見ることができる.5000年の歴史の中で一時的には他民族の支配を許したことがあったにせよ,おおむね独自の文化を保ってきた.それでエジプトとは何かを考えるに当たって,一般古代史が示すエジプトの姿を考察しながらも,歴史そのものが究極的には神の支配の中にあったことを念頭におきつつ,聖書との関連の中でエジプトのおかれた位置を把握することが肝要である.
エジプトは古代,ケム・ト(「黒い地」という意味)とかタ・メリ(「洪水の国」という意味)などと呼ばれていた.これはおそらくナイル川の性格を指すものであって,氾濫などによる自然の猛威と,それによって生じた環境に順応する人間の営みに大きく影響を与えている.他方ナイル川の,上流と下流という2分された形で発達を遂げた歴史過程から見て,タ・ウィ(「2つの国」という意味)という名称もあった.ヘブル語ではエジプトのことをミツライムと言っているが,これはアッシリヤ語のミツリと共通している.これもタ・ウィとの関連で考えられる名で,2つの地または町を指している.
いずれの文明にあっても住民の生活様態は徐々にではあるが村落共同体から都市化へという傾向を持ち,都市の発達が政治や宗教に多大な影響を及ぼすようになる.ナイル川のように大河の流域に発達した村落は,その川を取り巻く自然の過酷さに対して,どうしても共同体的な形態をとって防衛せざるを得なかった.ここにエジプトが早い時期に統一国家を果たし得た原因がある.第1王朝は一般にはメネス王朝と言われているが,前4千年期末にすでに成立していたと思われる.ミツライム(「2つの地」という意味)の名称で明らかなように,下ナイルと上ナイルという2つの勢力があったが,メネスは両者の境界線に当たるメンフィス(ノフ)に首都を設けた.王にとって統一のために必要な武器は宗教である.神権帝王の形態はそれぞれの国によって独自の形があるが,エジプトでは神の仕事は豊穣を約束するものでなければならなかった.上エジプトの王の象徴は葦であり,下エジプトでは蜜蜂であった.これらのことから神権帝王の主たる役目は五穀豊穣の祭儀と,外敵から守るための武力の行使であった.統一王国時代の王朝にとって最大の問題は上エジプトのセト神,下エジプトのホルス神の併合であった.両神の信仰が1つとなった時,現実に王朝はエジプトで神権帝王を完成したのである.
古王国時代(前3千年期)は第3王朝から第6王朝の時であり,この間にピラミッドが次々と建造された.有名なギーザのピラミッド群は第4王朝のものであり,第1ピラミッドはクフ王,第2はカフラ王,第3はメン・カウ・ラー王のものである.スフィンクスの顔はカフラ王のものとされている.いずれにせよピラミッドは王の墓であり,その形状から言って,太陽神と結びつく意味を持つ.墓は王の住居の西に造られ,落日と重ね合わせて,王の死後も永遠に語られるように造られている.ピラミッドの大きさは同時にその時代の王の権力の尺度ともなるものである.たとえばクフのピラミッド(「垂直の高さ」という意味を持つ)は一辺230メートルの正方形の底面を持ち,垂直の高さ150メートルの大きさがある.ギーザのピラミッド群のそれぞれの入口はすべて北を向いている.ピラミッドはメソポタミヤのジッグラト(「高い峰」という意味)としばしば比較される.ピラミッドは王の来世の住居として考えられているが,ジッグラトは神がこの世にあって住む住居であって,れんがで積んだ人工の山上に神殿を設け,そこで礼拝がなされる.しかし両者共現世における人間の権力の象徴としての意味を持っている.エジプトの場合ははるかに人間的なやり方で神権帝王が成立しているように思える.第4王朝の始祖スネフルの時代には,さらに太陽神ラー(「レー」とも言う)と帝王とが直結し,帝王は「se-Rēʽ」,すなわち太陽神ラーの子とされ,そこで神王(パロ)となる.官僚制度がしだいに発達し,王自身が行政に携わっていたが,それを宰相に任せ,しだいにパロを頂点とする中央集権的官僚制度機構が定着するようになった.
旧約がエジプトのことにふれる場合は,常に「[ヘブル語]ミツライム」という名称を用いている.初出は創12:10である.「さて,この地にはききんがあったので,アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために,下って行った.この地のききんは激しかったからである」と記されている.族長時代のエジプトは,第15王朝,16王朝のヒクソス時代である.従来の王朝の衰退に伴って,移動民族であるヒクソスがデルタ地帯に侵入,定着した.ヒクソスはオリエント世界全体の諸民族移動の時期に歩調を合わせて南下し,エジプトを制覇するに至った.彼らはエジプトに,これまでになかった馬や戦車,さらには青銅製の武器などをもたらした.アブラハムからヨセフまでの族長について,いずれの場合も関係したパロの正確な王名は不明である.なおエジプトの王をパロ([ヘブル語]パルオー)と呼ぶが,本来パロは「大きな家」という意味であり,大邸宅に住む者を指していたのである.第3王朝の碑文にこの名称が使用されている.一説によればパロを王の称号に用いたのは第18王朝以降であると言われている.したがってアブラハムの時代にパロの称号が使われていなかったとしても,創世記の記者の時代を反映するものとして受け止めれば,何ら矛盾することはない.主がアブラハムと契約を結ばれたことばの中に「わたしはあなたの子孫に,この地を与える.エジプトの川から,あの大川,ユーフラテス川まで」(創15:18)とあり,いずれも大河が基準となって領土の広さを表している.イサクの時代にききんが生じた時に,神はイサクのエジプト行きを禁じ,ペリシテ人の地ゲラルに住むことを命じられた(創26:2).創41章はヨセフの一身上の変化について詳細に記録している.この章にはエジプト(ミツライム)という語が19回も使用されている.
第18王朝に至ってエジプトのパロは神王としての権威を発揮するためにアモン(アメン)信仰を増大させた.守護神アモンによって王はアモンの子とされ,戦いに勝つことができる.アモン信仰が高まれば高まるほど,それを支えている祭司たちの権力も増大し,ついには王位継承にまで干渉するに至るのである.アモン神の祭司側と王権確保側とは対立し,王権側はアトン信仰を打ち出すようになった.アトンは太陽神である.アメンホテプ4世は自らを「アトンの意にかなう者(アケンアトン)」と称し宗教改革に乗り出した.アモン神はエジプト古来の信仰対象であるのに対して,アトンは太陽神として普遍性に富み,多くの人々の賛同を得たかのようであった.しかし,アケンアトンの努力にもかかわらず,彼の宗教改革は失敗し,再びトゥト・アンク・アメンによってアモン信仰が再興した.
出エジプト記には「さて,ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった」(出1:8)とある.モーセの時代に入ると,かつてのセム人であるヒクソス王朝は崩壊し,エジプト人による支配が再興した.その先端を切ったのは第18王朝の創立者アアフメス1世である.ヨセフを知らない王とは,おそらく彼以後の王朝のだれかを指すのであろう.確かにモーセの誕生に関係するエジプトの現状は,イスラエル人に対して理解を示さなかった王の出現を物語るものである.特に出エジプトの動機の一つとなったイスラエル人に対する労働苦役について,それを強いる王の出現が強調される.
一般には出エジプトの年代には2説あり,前15世紀説と前13世紀説とがある.前者によればトゥトメス3世かアメンホテプ2世統治の頃となる.これは「イスラエル人がエジプトの地を出てから480年目,ソロモンがイスラエルの王となってから4年目のジブの月,すなわち第2の月に,ソロモンは主の家の建設に取りかかった」(Ⅰ列6:1)によって,480年を逆算すると前15世紀となるからである.後者に従えば,出エジプトは前1275年となり,その時の王はラメセス2世である.彼の治世は前1290―1224年の66年間で,即位年齢を15歳頃と考えるとしても,80歳頃まで生き,政務に携わっていたことになる.出エジプトの際にモーセがパロを大いに苦しめたのは,パロが40歳前後の時と推定される.いずれにせよ王名が聖書中に明確に述べられていないので,いずれの説が正しいかは断定できない.
ダビデ王国とエジプトの関係については,ダビデが周辺国家の討伐に成功したことによる大権把握が,エジプトやアッシリヤに対して優位をもたらすに至ったことを指摘することができる.当時ヒッタイトもアッシリヤもエジプトもその長い歴史の中で最低の状態にあった.したがってダビデ王国の躍進ぶりに対して彼らは驚異の目を見はるばかりであった.ソロモンの代になると,イスラエル史上知恵の第一人者であるその手腕によって,王国はますます強大化していった.その栄光の影に聖書の批判がないわけではない.「ソロモンが年をとったとき,その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので,彼の心は,父ダビデの心とは違って,彼の神,主と全く一つにはなっていなかった」(Ⅰ列11:4)とあり,信仰面から見た王国のかげりがあったことがわかる.これはエジプトの女をも含めて彼が多くの妻を持ったことに起因している(Ⅰ列11:1).こうしてイスラエルの統一国家はソロモン以後分裂の憂き目にあった.こうしたイスラエル側の弱体化につけ込んで,第22王朝のシシャク(シェションク)1世はエルサレムを攻撃した(Ⅰ列14:25‐26).他方カルナクにあるシシャクの神殿文書には,前922年から翌年にかけてパレスチナ遠征を実施し,ネゲブ,エドムの地,イスラエルの領土を略奪したことが記されている.預言者ホセアの時代にはエジプトは回復期のきざしを見せていた.しかし強敵アッシリヤには及ばず,その中間にはさまれたイスラエルは右往左往して進退の定まる時がなかった.ホセアは皮肉を込めて優柔不断なイスラエルの態度を告発している(ホセ7:11‐12).預言者イザヤもまた,ヒゼキヤがバビロン,エジプトとの同盟による反アッシリヤ連合組織へと踏み切ったことに対して批判を加え,エジプトを信頼してはならないという警告を述べている(イザ30:2‐3).
第26王朝はサイス王朝であり,聖書に出てくるパロ・ネコはネコ2世である.ネコは失地回復を目指してシリヤやパレスチナに兵を送り出し,南王国ユダの王ヨシヤと接触した.ヨシヤは不幸にも戦死したが,ネコの計画も思うようにははかどらず,ただアッシリヤの支配権委譲を主張して,ヨシヤの子エホアハズをたて,3か月の統治の後捕らえてエジプトに送り,その後ヨシヤのもう1人の子エルヤキムを王位につかせた.そしてその名をエホヤキムと改名させた.これはユダの王にパロの息がかかっていることを世間に知らせるための示威行為であった.その後,急速に力を盛り上げたバビロンの王ネブカデネザルは,ユーフラテス河畔のカルケミシュでエジプト軍を撃破した.次いでエジプトはハマテの州でも大損害を受け,かくてエジプトはパレスチナ,シリヤの支配権を失うに至ったのである.ネコの孫に当たるハア・アブ・ラーはパロ・ホフラ(エレ44:30)のことである.さて第2回バビロン捕囚に際してエジプトに逃げた者たちがおり,彼らはエレファンティネに住むようになった.エレミヤはこれらの人々に対して痛烈な審判のことばを残しており,ただ少数者に対してのみ希望が残されていることを述べている(エレ44:28).後述のようにこの預言はほぼ適中している.
ほどなくペルシヤ帝国が台頭するに至り,エジプトは完全に支配されることとなった.すなわちカンビュセスが前525年にエジプト支配を実現したことによって,西オリエント全域,つまりイラン,メソポタミヤ,小アジヤ,パレスチナ,シリヤ,それにエジプトをも含め,広域にわたって歴史最初の単独の大王による統治が実現したのである.
エジプトに逃げたユダヤ人はエレファンティネでイスラエルの神のためのヤフ神殿を建ててヤハウェ礼拝を守った.しかも,統治者が交替した後も,ペルシヤの宗教的緩和政策のおかげで,彼らはヤフ神殿での礼拝を妨げられることはなかった.ところが彼らはヤハウェ礼拝と並列的にアシャム=ベテル神,またアナト=ベテル女神をも崇拝した.このようなきわめて異例とも言うべき3神崇拝がエジプト側の反発を免れることができず,事実ヤハウェ神の犠牲獣である羊はエジプトの守護神クヌムの祭司たちにとって聖獣であったことから,絶えず激しい争いが生じていた.前4世紀になってペルシヤがエジプトに対する支配権を失ったと同時に,エレファンティネのヤフ神殿は消滅した.またディアスポラ(離散したユダヤ人)の消息も断たれてしまった.
ペルシヤ統治の時代が終わると,歴史の舞台はギリシヤに移る.アレクサンドロス大王の死後,5人の後継者は勢力範囲確保のために,いくつかの小国家へと分裂した.エジプトを治めたのはプトレマイオス王朝であった.プトレマイオス2世フィラデルフォスは旧約聖書のギリシヤ語訳,70人訳聖書の作成を命じたと「アリステアスの手紙」は伝えている.アレキサンドリヤを中心とするヘレニズム文化の発展は,エジプトにおいても開花した.70人訳聖書の出現はその間の消息をよく伝えている.この時代にギリシヤ語を話すユダヤ人たちは当然のこと,異邦人たちまでもが,ヤハウェ礼拝に関係を持つようになったことを示唆している.イエス降誕の2―3世紀前に,世界では洋の東西を問わず多くの精神的改革ないしは発展の実現が見られた.このような時にエジプトの学府の中心とも言うべきアレキサンドリヤで王の指導のもとに70人訳聖書が完成したことは画期的なことであった.エジプトという土壌が生んだ国際的感覚に注目すべきである.
インドのマウリヤ王朝のアショーカ王は,前3世紀に書簡を西のギリシヤの諸王に送ったことを自らの碑文(摩崖詔勅14章刻文)に書き記している.このことはインドの最初の統一国家を打ち建てたアショーカ王が国際的感覚を持って大いに仏教の精神特にダルマの精神を広め,それが宗教的精神的な支柱となったことを意味している.「アリステアスの手紙」によれば,プトレマイオスが学者に対する質問の中で真の敬虔とは何かを問うているが,これはアショーカ王がダルマ(「保有する」という意味)をギリシヤ語でエウセベイア(敬虔)と訳したことと何らかの関連があると思われる.エジプトがこの時期に東西の精神文化の交流に一役買っていたかどうかは今後の研究に大きく期待したい.
新約聖書ではエジプトの名を使用した箇所が30ほどある.幼児イエスはヘロデ大王の危害を逃れてエジプトに下って行き,王が死ぬまでヨセフたちと共にそこにいた(マタ2:13‐15,19).またペンテコステの日にエジプトからの人たちもエルサレムに来ていた(使2:10).使徒の働き/使徒言行録の中でステパノやパウロの説教は出エジプトの重要な問題にふれている(使7:9以下等).ヘブル人への手紙やユダの手紙でも同様にイスラエル人のエジプト脱出における神の恵みを覚えているようにと述べている(ヘブ11:26‐27,ユダ5節等).このように聖書におけるエジプトの見方は,イスラエルがヤハウェの助けによってエジプトを出た日を常に覚えているようにとの告示に終始しており,エジプトの偉大さはとりもなおさず天地の創造主ヤハウェの偉大さがあってのことであることを明示してやまないのである.
〔参考文献〕E・エールリッヒ『イスラエル史』日本基督教団出版局;M・ノート『イスラエル史』聖文舎;M・メツガー『古代イスラエル史』新地書房.(久保田周)

(出典:久保田周『新聖書辞典 新装版』いのちのことば社, 2014)

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