《5分で分かる》アンティオキアとは?

アンティオキアとは?

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アンティオキア…

(新共同訳)([ギリシャ語]Antiocheia) ⒈シリヤのアンテオケ.前301年にセレウコス王朝の創始者セレウコス1世ニカトルが建設したシリヤの首都で,父アンティオコスを記念してアンテオケと命名された.地中海からオロンテス川を24キロさかのぼった左岸にあり,アンテオケまで川を航行することができた.セルキヤはその要港である.市は通商貿易の中心で,東からは市に集まる隊商道路がある.市は,広く肥沃な谷にあり,壮大で雪をかぶった山々に守られ,「美しく,金色の」アンテオケと呼ばれた.前65年にシリヤはローマに滅ぼされたが,アンテオケはローマのシリヤ州の首都となった.セレウコス王朝の王とローマの皇帝はローマ,アレキサンドリヤに次ぐローマ帝国の第3の都市になるまでにアンテオケを拡大した.紀元1世紀には,人口が50万ほどの国際都市で,ギリシヤ人と同じ特権を持つユダヤ人も多く住んでいた.
アンテオケは初代キリスト教史において重要な市であった.エルサレム教会の最初の執事の一人はアンテオケの改宗者(使6:5)であり,アンテオケ教会は最初の異邦人教会となった.ステパノの殉教で,多くの逃亡キリスト者がアンテオケに集まり,ヘレニスト・ユダヤ人ばかりかギリシヤ人にも宣教して新時代を画した.エルサレム教会から派遣されたバルナバはパウロと共に奉仕した.イエスの弟子たちはこの市で初めてキリスト者(クリスチャン)と呼ばれるようになった(使11:19‐26).ここの教会はパウロ一行を3度の伝道旅行に派遣した(使13:1以下,15:35以下,18:22‐23).この教会はエルサレム会議に異邦人回心者の割礼の問題を提起して,全教会のためにユダヤ主義に対する勝利を勝ち取った(使15章).アンテオケは聖書の文字通りの解釈によって顕著な思想学派を生み,252年から380年まで10回の教会会議がアンテオケで開かれた.538年にペルシヤ人によって破壊され,635年にイスラム教徒に占領された.今日ではアンタキヤと呼ばれ,あまり重要な町ではない.ここから前1世紀の円形劇場等が発掘されている.
⒉ピシデヤのアンテオケ.ピシデヤの国境に近いフルギヤ領にある小アジヤの都市で,セレウコス・ニカトルが創設したいくつかのアンテオケの一つ.エペソとキリキヤの間の主要交易路にあって,前キリスト教時代のヘレニズムの中心であった.セレウコス王朝はユダヤ植民者を政治的商業的理由のために連れてきた.このユダヤ人定住者の子孫が第1回伝道旅行のパウロを親切に受け入れたのである(使13:14).アウグストゥスはアンテオケをローマの植民地とした.廃墟は現代のトルコのヤルバッチュの近くにあり,1世紀に栄えたメーン神の工芸品が出土した.

(出典:油井義昭『新聖書辞典 新装版』いのちのことば社, 2014)

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