《じっくり解説》アッシリアとは?

アッシリアとは?

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アッシリア…

(新共同訳)([ヘブル語]’aššûr) 古代メソポタミヤの歴史において,長期にわたり盛衰を繰り返した王国の一つ.特に前8世紀から7世紀にかけての最後の150年間は,世界帝国としてその強大さを誇った.イスラエルの脅威また抑圧者として列王記,歴代誌に登場するのはこの時期のアッシリヤである.アッシリヤの領域,範囲は長い歴史において一定していたわけではなく,明示するのは難しい.もともとはティグリス川上流地域から始まっているが,一般的にはティグリス,ユーフラテス両河の北部流域を指すようになったと考えられてきた.
「アッシリヤ」という名は,シュメール人の植民都市として建てられたと思われる古い町「アッシュール」に由来すると考えられている.楔形文字の文書では「アッシュール」は神名,人名,民族名,地名として出てくる.聖書では[ヘブル語]アッシュールの訳として「アシュル」(創10:11,民24:22,24),アッシリヤ(Ⅱ列19:20,エズ4:2等)と表記されている.アッシュールの町については最近公にされたエブラ文書によって,前2400年頃すでにエブラと条約を結んでいたことが明らかにされた.
創10:6‐12によれば,ハムの子孫,クシュの子ニムロデが権力者となり,アシュルの地方に進出し,ニネベを含むその他の町々を建てたと言われる.しかし,ニネベのあるティグリス川の東側の地から下流に当たる所にケラフがあり,さらに南下した下流にアシュルがあることと,「アシュル」という地名が聖書記述として最初に出ている背景を考えると(創2:14),アシュルの地方が,後にアッシリヤという呼び名で,さらに広い範囲を指す一般的表現となったことをいくらか理解できる.創10:22,Ⅰ歴1:17で,アシュルはセムの子孫であるとされているが,これはアシュルという地名と関連性があるかもしれない.
考古学的には,洪水後のシヌアル(創10:10)の地方にセム系民族がアラビヤ地方および他の地方から移ってきたのは,だいたい前3千年期と考えられ,これがアシュル,アッシリヤの文明の根源と考えられる.その頃のその地の文明はシュメール人たちによるもので,前2500年頃にはシュメール第3王朝(ウル王朝)が勢力を持ち,「シュメールとアッカドの王」とも呼ばれていた.しかし,前2300年頃には,移動してきたセム系民族がシュメール人に代わって,あるいは混じってその地方を勢力下に収めた.アッカド王国のサルゴン大王は最もよく知られた指導者であり,その支配の範囲はメソポタミヤ全土から黒海に近い小アジヤ地方にまで至った.前1900年頃にはアッシリヤの小アジヤ地域にヒッタイトと呼ばれる植民地的行政区さえ設けるほどであった.この頃の考古学的資料はマリ文書などにより知られている.
ニムロデはハムの子孫であるが,その権力者としての存在は(創10:6‐10),セムの子孫の移動と何らかの関係があるとも考えられている.しかし確定しがたい.前1400年頃は,いわゆるアマルナ期であり,ニムロデはその時代に移ってきたとの見解もある.前1100―1000年頃には,アラム人たちがアッシリヤ地域を支配した.
一般に聖書中でアッシリヤとして知られている時代的背景はこれ以後であり,ベテ・エデン(アモ1:5)や,ダビデの対決(Ⅱサム8:3‐7)などは,その時代と関連があり,アッシリヤの勢力は地中海沿岸にまで及んでいた.つまりティグラテ・ピレセル1世(前1115―1076年)の時代と言い得る.このようにして,アッシリヤの王として知られるシャルマヌエセル3世(前859―824年)は,前853/2年にはダマスコ(アラム)のベン・ハダデと戦い(しかしダマスコがアッシリヤに服属したのはベン・ハダデの死後であった),北王国イスラエルの王アハブにも迫った.Ⅰ列22章の戦いはそれと関連があり,アッシリヤがダマスコ(アラム)を圧していたことがわかる.イスラエル王国におけるエフーの改革もそのような時代を背景としていた(Ⅱ列9‐10章).アッシリヤは,その後約1世紀間は内政問題のゆえに対外的な進出は活発でなかった.ティグラテ・ピレセル3世(前745―727年)の時代に,パレスチナへの支配権を主張し,北王国イスラエルと南王国ユダに迫り,貢ぎ物を課した(Ⅱ列15:19‐20,29,16:7‐20.「プル」はティグラテ・ピレセル3世のこと).シャルマヌエセル5世は,サマリヤを包囲したが,その包囲中に死に,その後王位を継いだサルゴン2世(別のサルゴンの存在が明らかになったことから,サルゴン3世と呼ぶ者もいる)により,サマリヤは滅ぼされ(前722/1年),北王国イスラエルの指導者や,おもな民はアッシリヤの各地に捕囚として移住させられた.一般には「アッシリヤ捕囚」として知られている(Ⅱ列17章).その後セナケリブが,巨大なアッシリヤ帝国となった国内行政に種々な問題と,拡大された地方の行政支配に課題を持ちつつも南王国ユダ(エルサレム)にまで迫ったのは,前701年頃のことであったが,その目的を果たし得ないまま急に帰国を余儀なくされ,ニネベに帰り,暗殺された(Ⅱ列18:13‐19:37,イザ36‐37章).
エサル・ハドンが代わってアッシリヤ帝国の王位につき(前681―669年),勢力維持に努めたが,エジプトへの遠征も効を奏さず,しだいに下降線をたどり,その後継者アッシュール・バーン・アプリ(前669―627年)も,国外の勢力争いと,小アジヤ地方での勢力(リュディアのギュゲス.別名グッグ)との対決に悩んだ.その頃,カルデヤ人たちによるバビロン王国の勢力が増大し,アッシュール・バーン・アプリの死後,前612年には,首都ニネベは攻め滅ぼされ,ニネベを逃れたアッシリヤの勢力はエジプトの援助を求めたが,結果的には,エジプトとアッシリヤの連合軍はカルケミシュで,バビロンのネブカデネザル王の率いる軍勢に破れ(前605年),ここにアッシリヤ帝国は滅亡した.おもな年代と王たちは次のようである.
シャルマヌエセル3世(前859―824年)
シャムシ・アダド5世(前824―811年)
アダド・ニラーリ3世(前811―783年)
シャルマヌエセル4世(前783―773年)
アッシュール・ダーン3世(前773―755年)
アッシュール・ニラーリ5世(前755―745年)
ティグラテ・ピレセル3世(前745―727年)
シャルマヌエセル5世(前727―722年)
サルゴン2世(前722―705年)
セナケリブ(前704―681年)
エサル・ハドン(前681―669年)
アッシュール・バーン・アプリ(前669―627年)
アッシリヤの文化は,上記のような歴史的経過のゆえに,シュメール文化,アッカド文化,およびバビロン文化の混合または混成的なものと言い得る.それは,建築などの技術においても同じである.アッシリヤ文字としては,通常アッカド語などに見られる楔形文字に共通し,マリ文書や,エサル・ハドンの契約古文書などに見られ,アッシュール・バーン・アプリの古文書庫から発見された多くの文献の種類は,律法,歴史,商業,宗教および科学分野などに及ぶきわめて幅の広いものである.
旧約聖書の研究の背景として,特に列王記および歴代誌,さらにイザヤ書を初めとする預言書のある部分の背景として,アッシリヤに関する聖書外の多くの文献資料は貴重である.(服部嘉明)

(出典:服部嘉明『新聖書辞典 新装版』いのちのことば社, 2014)

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