《じっくり解説》日本文学とキリスト教とは?

日本文学とキリスト教とは?

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日本文学とキリスト教…

1549年,ハビエル(ザビエル)が鹿児島でキリスト教を日本人に伝えた.これを機に布教と通商を目的とする南蛮船が長崎など九州各地に来た.セミナリオや印刷所が建てられた.日本語に翻訳出版されたキリスト教関係書は『ドチリナ・キリシタン』などの教義書,『コンテンツス・ムンヂ』(厭離穢土〔えんりえど〕と訳せる.通常イミタティオ・クリスティとして知られている)などの修徳書であるが,聖書が全体として翻訳出版されることはなかった.<復> 織田信長はキリスト教に関心を寄せ,1576年安土に天主閣を持つ城を築き,教会やセミナリオの建築を許可した.グレゴリオ聖歌も奏でられた.しかし1587年,豊臣秀吉がキリスト教を禁じたので,各地でキリスト教徒が迫害追放処刑された.1597年の長崎26聖人の処刑が有名である.徳川家康は1600年に来航したアダムズ(三浦按針)と会うなどキリスト教に関心を寄せたが,やがて禁令をたびたび発布するようになる.1637—38年の島原の乱を機に,3代将軍家光は鎖国を断行した.鎖国を国外向けの最終的禁令とするなら,国内向けは1639年,家綱が立てたキリシタン禁制の高札である.以後2百年にわたり,キリスト教と日本とのかかわりは,1715年頃に書かれた新井白石の『西洋紀聞』などを除くとほとんど皆無に近いものとなった.<復> 19世紀に入るとすぐ,外国船がしきりと来るようになった.1853年ペリーの率いる米国艦隊の浦賀渡来をもって日本の近代が始まる.翌年ペリー再来,日米和親条約が結ばれた.諸外国との関係は,米蘭露仏英を相手国として1858年に結ばれた修交通商条約によってさらに深まった.諸外国のキリスト教団体による日本への宣教師派遣計画も始まった.<復> 日本人最初のプロテスタント受洗者は1865年に与えられた.また1863年ヘップバーン(ヘボン)の夫人が横浜に日本最初の男女共学塾を開き,1873年ブラウンが自宅で聖書を教え始めるなど,キリスト教浸透の兆しが見えたが,同時に,破邪書あるいは排耶書と称されるキリスト教教義批判書も盛んに刊行された.<復> 1868(慶応4)年王政復古が成り,年号は明治と改まり,江戸改め東京に都が移され,明治維新が始まった.日本の近代化が進むにつれてキリスト教も普及してきたため,政府は1873年「従来高札面ノ義ハ一般熟知ノ事ニ付向後取除キ可申事」と太政官布告を出し,2世紀ぶりに切支丹邪宗門禁制を解除した.1872年には聖書の翻訳出版が超教派で計画された.同年ヘップバーンが明治天皇に英語聖書を贈呈した.植村正久がバラ宣教師より受洗したのは禁制解除の年であり,1874年には米国留学10年を終えた新島襄が帰国し,翌年同志社を創立した.熊本洋学校でジェインズ(ゼンス)に学び花岡山奉教趣意書に署名した者の多くが同志社に赴いた.1876年クラークが新島の紹介で札幌農学校に赴任した.<復> 日本語の新約聖書は1879年,旧約聖書は1887年に完成した.明治訳と称され,後に1917年に改訳された大正訳(新約のみ)とともに文語訳と通称されている.ギリシヤ正教会も1874年に横浜で布教会議を開いているが,新約聖書の日本語訳出版は1901年である.カトリック教会の日本語訳聖書は19世紀に分冊が出版されているものの,新約聖書全体の出版はラゲ訳が1910年,バルバロ訳が1957年とかなり遅い.<復> 日本語聖書は日本人を感動させ,日本人を変えてきた.八百万の偶像礼拝(Idolatry)を唯一神なる創造主信仰に換え,神の前に立ち得る聖なる生活者たろうとした.この第1の変化を意志の面での神の主権の承認と呼ぶなら,第2の変化は神の主権の知的承認である.神の救済史を主軸にして日本の歴史(History)を書き変えて聖なる歴史となし,神の前に立ち得る知恵ある思考者たろうとした.そして第3の変化は,神の主権を感情面において承認することである.C・S・ルーイスはこれらを意志の洗礼,知力の洗礼,想像力の洗礼と呼んだが,これらの変化の,特に第3の変化の結実が文学であり,広義の詩(Poetry)であると言えよう.かくして,2世紀を越える完全な鎖国によって衰弱し切った日本人の想像力が,聖書を中心とするロマン主義運動としてのキリスト教によって活性化され始めたのである.<復> この活性化への渇望を坪内逍遙(1859—1935年)は「竟(つい)にハ歐土の那(ノ)ベルを凌駕し絵画音楽詩歌と共に美術の壇頭に煥然たる我物語を見まくほりす」(『小説神髄』1885)と言葉にしている.こうした気運の中で,湯浅半月(1858—1943年)が書いた「十二の石塚」(1885年)は,日本人クリスチャンが聖書を読んだ感動から生れた日本文学史上最初の作品と呼べよう.これは士師3章エフデ物語による.ヨシュア4章を援用してはいるが,わずか20節の物語を五七調689行に敷衍するために,半月はまず枕詞や飾り言葉を多用し,ついでエリコ周辺の自然を日本さながらに描写する.こうした付加を潤色と呼ぶなら,人物や筋の付加変更は脚色と呼べる.例えば,聖書には書かれていないエフデの母が登場する.エグロンと戦って戦死した父ゲラの遺言を伝え,仇討ちを子に命じる.遺言通りエフデは父の形身の短剣でエグロンを殺し国の仇,父の仇を討つという,しごく日本的な筋で長詩は感動的に展開する.だが,潤色や脚色なしに聖書を日本文学に導入することは不可能なのだろうか.日本的換骨奪胎なしで,聖書そのものをそのままで感動深く味わい,その感動から文学作品を生むことは不可能なのだろうか.<復> 木下尚江(1869—1937年)の『火の柱』(1904)にも,いわば仇討ちがある.主人公篠田長二は秩父暴動の指導者だった父を失い,欧米に学び,クリスチャン社会主義者として帰国,私怨を大きく生かして労働界を指導する.この小説が毎日新聞に連載中(1904年1月1日—3月20日)に日露戦争が始まる.単行本となったが発売禁止となる.時局批判だけでなく,権力におもねる教会への批判もあり,女権論の萠芽もある.尚江は24歳の時松本で受洗し上京した.廃娼運動や足尾銅山鉱毒事件で働く尚江を助けたのは,日本基督教婦人矯風会の人々であった.彼は社会民主党の創立に参加したり,1902(明治35)年の総選挙に出馬したりしている.<復> 『火の柱』は,ユダ役の弟子吾妻の手引した捕吏に捕えられようとする篠田が「一粒の麦」や「夜は火の柱」の聖句(ヨハネ12:24,出エジプト13:21)を引用する情景で終る.花という姦淫の女を赦し助ける印象的な場面もあって,モーセよりはキリストを描こうとしたのであろう.しかし尚江のキリストは,篠田の言葉によれば「馬槽に始まって,十字架に終り給ふた」イエスであった.篠田の洋行帰りのその晩の説教題は「基督の社会観」であった.従って死についても,篠田の伯母の言葉によれば,「神様か仏様か知らないが,矢ツ張り人間の様だよ,妙なもので,人は生きて居た時よりも,死んだ後の方が皆んな善くなるよ」と折衷的である.ともあれ,『火の柱』は聖書の感動から生れた文学として,半月の長詩と双璧をなすものである.<復> 聖書についで日本人に大きな影響を与えたものに賛美歌がある.その日本語訳としては,教派を超えて用いられ,文学的にも完成度の高い『新撰讃美歌』(歌詞のみ1888年,音譜付き1890年)が挙げられる.収録歌は263篇,そのうち91篇が日本人の創作である.訳出創作をした日本人の多くに短歌の素養があり,七五調を主とする歌が多く,ために日本人の歌心に投じて広く愛誦された.<復> 聖書や賛美歌の翻訳と同じ頃,西欧の啓蒙的な書物や小説が翻訳された.スマイルズの『西国立志編』(1871),バニャンの『天路歴程』(1876),英国首相ディズレーリの『春鶯囀』(1884)などはキリスト教信仰を基調とするものであって,小説が消閑の具でなく,人間の一生をかけるに足る事業であることを教えた.この気運が形をとったのが「文学界」である.この文芸雑誌は1893年から98年まで続き,58号に及んでいる.同人の島崎藤村がたとえているように,これはラファエル前派にも比べ得る日本浪漫主義運動の先駆である.<復> もう一人の同人北村透谷(1868—94年)は,政治的大望に挫折し,19歳で受洗,彼を導いた石坂ミナと結婚する.1893年の『内部生命論』は「今日の思想界は仏教思想と耶教思想との間に於ける競争なりと云ふより,寧ろ生命思想と不生命思想との戦争なりと云ふを可とす」と説き,いのちにあらざるものに対していのちの戦(いくさ)を告げる.しかし同年発表の『一夕観』では,「地上の一微物」たる人間の苦悶も自然の中に置けば苦悶ではなくなり,「心境一転すれば彼も無く,我も無し」と,いのちは美文の無の中に消えていく.そして,25年の生涯の最後の詩である「露のいのち」の最終行は,「とくとく消してたまはれや」と,来るべき縊死(いし)を予感させる.<復> 島崎藤村(1872—1943年)は16歳で受洗し,20歳でミッションスクールの教師となった.1897年『若菜集』を世に問うた.そこには『新撰讃美歌』やその基にある聖書,特に詩篇の影響が強い.その説明によく引用される詩は「逃げ水」である.「ゆふぐれしづかに/ゆめみんとて/よのわづらひより/しばしのがる」と始まるが,これは『新撰讃美歌』4番の「ゆふぐれしづかに/いのりせんとて/よのわづらひより/しばしのがる」の一語を換えたものである.「いのりせん」から「ゆめみん」への変化は換骨奪胎にほかならない.藤村後年の日本回帰を予想させる.ただし回帰はするものの,若き日の信仰生活から得たキリスト教的主題は,例えば1906年『破戒』に見られる懺悔による救いという枠組みに残っている.<復> 藤村と同時代の作家のうち,文学と宗教の葛藤をよく示すのは国木田独歩(1871—1908年)である.20歳で植村正久から受洗した独歩は「神の信仰は不死の信仰なり」と宣言したが,やがて「信仰は心理的遊戯なり」と捨て去り自然へと向かった.自然に向かって「吾人人なり,爾の中に生く,爾老ひず,吾豈に老ひんや,吾あに死せんや」(『欺かざるの記』)と救いを求めた.自然の中心である太陽に救いを見出し『日の出』を書いたが,しかし日の出は束の間であって,やがて入り日となって没する.「秋の入日」と題し「要するに悉(みな),逝けるなり!在らず,彼等は在らず」と始まる絶唱がある.聖化されない歴史,「徹底的に非聖化された時間は,絶え間なく死に至る,不安な,はかない束の間として示される」という,エリアーデの『聖と俗』の文章が思い出される.<復> 『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』をもって文壇に登場した夏目漱石(1867—1916年)は,キリスト教に反感を抱いた.その反感は「言葉の真の意味に於ける″贖罪″はありえない.我々がやったことはもう取返しがつかないのだ.…だから″贖罪″は我々自身によってではなく,キリストという名前の愚かな間抜けによってなされたのだ」という,英訳『ツァラトゥストラ』への英文書込みとなって公然と示される.また,作品の登場人物(『それから』の代助)の思いとなって「相互に信頼を有するものは,神に依頼するの必要がないと信じてゐた.相互が疑ひ合ふときの苦みを解脱する為に,神は始めて存在の権利を有するものと解釈してゐた.だから,神のある国では,人が嘘を吐(つ)くものと極(き)めた」と,ひそやかながら,相互信頼を基盤とする日本の社会に唯一神は不用であると宣言する.<復> 漱石の反感と一双をなすのが森鴎外(1862—1922年)の無関心である.若くしてドイツに留学した鴎外は,キリスト教国で自我の覚醒を経験したものの,その背後のキリスト教には近付かなかった.「宗教でも,もう大ぶ古くシユライエルマツヘルが神を父であるかのやうに考へると云つてゐる.孔子もずつと古く祭るに在すが如くすと云つてゐる.先祖の霊があるかのやうに祭るのだ.…即ちかのやうにが土台に横はつてゐるのだね」(『かのやうに』)は彼の宗教観を示し,「自分は辻に立つてゐて,度々帽を脱いだ.…帽は脱いだが,辻を離れてどの人かの跡に附いて行かうとは思はなかつた.多くの師には逢つたが,一人の主には逢はなかつたのである」(『妄想』)は,彼のキリスト観を示す.「主であり師であるこのわたしが,あなたがたの足を洗ったのですから,あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」(ヨハネ13:14)が思い出される.<復> 鴎外や漱石と同じ「天皇に始まって天皇に終った」時代を生き,江戸文学・漢詩文・儒学と素養も同じくし,かつ,国運を賭けた日清戦争と日露戦争と第1次世界大戦の勝利を経験しながらも,キリスト教に深くかかわった兄弟がいる.徳富蘇峰(1863—1957年)と徳富蘆花(1868—1927年)である.その影響は「シオンの山々におりるヘルモン」(詩篇133:3)の峰の雪のようにあまねく,そのかかわり方は「あすは炉に投げ込まれる野」(マタイ6:30)の花のように謙虚であった.兄弟は同志社で新島襄の教えを受け,入信した.1887年に蘇峰が創刊した「国民之友」は,キリスト教精神を内に秘めて個人主義と平等を唱え,独歩を始めとする作家・評論家を世に出した.蘇峰自身も筆を振い「英国の人心腐敗の域に瀕して,而して後ミルトンの天国失墜(パラダイスロスト)出たり,蓋し彼の文学者は,社会の明鏡たるのみならす,復た其の燈台たらさる可らす,知識世界の代表者たるのみならす,復た其の預言者たらさる可らす」(「近来流行の政治小説を評す」)と,キリスト教的理想主義の立場に立って,大文学出でよと叫んだ.蘇峰は儒教的なものとキリスト教的なものをジャーナリスティックに一身に同居させたが,蘆花はキリスト教のモラルに触発され支えられ『不如帰』を始めとする数々の作品を発表する.『みみずのたはこと』の「露の祈」の章では,「爾(なんじ)の無限大を以てして一滴の露に宿るを厭はぬ爾朝日!須臾(しゅゆ)の命を小枝に托するはかない水の一雫,其露を玉と光らす爾大日輪!」と,無常の露が「光の露」(イザヤ26:19)と変り,日本人の情が聖書によって変えられているのが見える.これを「露のいのち」や「秋の入日」や伊藤左千夫の「寂滅(ほろび)の歌」に比べると,まさに賛美の歌の誕生と言えよう.蘇峰を雑学と評し蘆花を大衆文学ときめつける向きがあるが,たとえそうだとしても,二人は学問的批評や純文学の到達し得ぬ日本人の心の深みにキリスト教を伝えたのである.<復> 白樺派もキリスト教とかかわった.志賀直哉(1883—1971年)は17歳で内村鑑三を訪ね,24歳でそのもとを去ったが,内村を「師」と呼んでいる.師の影が大きすぎて主が見えなかったのか.「私はポーロの『汝ら姦淫を避けよ』と云ふ言葉を殆どモットオとして居た」(『大津順吉』)とある.やがてモットーが難題となった志賀は,神の第7戒をパウロという人間の戒めとして捨て去り,自己中心の道を歩み始める.やがて彼は″小説の神様″となる.第7戒は自己中心の道を閉すものと恐れて,秀吉が国を閉したのと同じである.<復> 武者小路実篤(1885—1976年)も聖書とトルストーイに影響された.むしろトルストーイを通して聖書を理解したと言えよう.「キリスト教の源泉は福音書であるが,しかしそこには汚水泥土が混合している」と巻頭に述べて作り上げられたトルストーイの『要約聖書』は,イエスの十字架で終っている.こうした無神性肉体主義を気にもとめず,武者小路は聖書を自己流に要約して読んだ.『幸福者』(1919)には武者小路流のキリストの言葉が聞えキリストの姿が見られるが,キリスト教文学と称し得る作品は生れてはいない.<復> キリスト教文学を生んだ白樺派の一人が長与善郎(1888—1961年)である.20歳の頃トルストーイを読みキリスト教に親しんだ.キリシタン禁制下の長崎を舞台にした『青銅の基督』(1923)は,魂と肉体の二者択一,芸術と信仰の二者合一,信女モニカと遊女君香の十字架の間で息絶える鋳物師遊佐を描いている.この年大正12年は,外は第1次世界大戦やベルサイユ講和条約と日本の国際的勢力が増す反面,内は軍部独裁の兆しが見え,信仰や思想や表現など個の自由が抑えられる時が近付いているだけに,印象的な作品である.<復> 西欧文明の宗教性について十分な認識を持ち,『或る女』『宣言一つ』『カインの末裔』『惜みなく愛は奪ふ』など多くのキリスト教文学の傑作を残した有島武郎(1878—1923年)は,18歳で札幌農学校に入学した.新渡戸稲造夫妻の家に下宿,やがて入信した.1903年に一高生,藤村操が自殺した.植村正久が説教の中で藤村を「哲学書一巻の厭世家」と切り捨てるのを聞いた有島は,植村も「克く明瞭に人生の義を解する能はざるなり」と怒った.同年渡米した有島は自己の宗教生活に不安を抱いた.神と自我との二元の対立である.学びを終えて帰国,しばらく教師生活をし小説を書き続けた.やがてキリスト教信仰を捨て,軽井沢で人妻波多野秋子と情死した.これに対する世の非難賛美に,菊池寛は次のように答えている.「死は生の付属地ではない.絶対に他領である.生の法律も道徳も,他領へ走る者を如何ともすることは出来ない.人生の道徳,法律,習慣を無視しうることは死者の特権である」.逝く者の行為も送る者の弔辞も,生死を支配する唯一神なき日本の風土とそこに潜む死の最終性とを如実に示している.<復> 有島の留学中に日露戦争が始まる.米国はこれをキリスト教国対異教国の戦争として,ロシアを声援した.キリスト教国でただ一人,トルストーイが反戦を唱えた.だが彼は,キリストの精神を踏み違えた妄信者として顧みられなかった.これらが有島の棄教に拍車をかけたのであるが,一方,有島の祖国は軍国主義の道を歩み出す.それまで活躍していたプロレタリア文学者も,大逆事件や関東大震災などを機に弾圧され,ある者は転向を余儀なくされた.そして,かつては自由民権運動の引き金となったキリスト教も,その社会的はけ口を失っていく.<復> 大正から昭和にかけて日本文学がキリスト教からますます遠ざかる中で,数多くの文学的労作を残した賀川豊彦(1888—1960年)がいる.キリスト教社会主義を標榜する経緯を書いた『死線を越えて』(1920),貧民窟問題を扱った『太陽を射るもの』(1921),資本主義との対決を描いた『壁の声きく時』(1924)の三部作は,今でこそ文学史から外されているが,当時は多くの人々に深い感動を与えた.文学的技巧には重きを置かず,クリスチャンとして社会的にいかに行動するかを第一義として,賀川は小説を書き続けたと言えよう.<復> この頃『出家とその弟子』(1917)で有名になった倉田百三(1891—1943年)がいる.妹に言及して「美しい女性の成長に大切な宗教と音楽の教養が足りない」(『青春の息の跡』)と書いているが,教養として聖書を読みキリスト教に親しむ道をたどった百三は,「汝は主なりや」と問われて「然り我は主なり」と答えたキリストの自信と権威を認めるには至らなかった.やがて彼は親鸞の教えの根本にある弥陀の本願に頼り,「救いには証はない」と繰り返した.しかし弟子の一人亀井勝一郎の証言によれば,百三は臨終に際して「亀井,浄土はあるか」と問うたと言う.<復> 大正文学の代表とも言える芥川龍之介(1892—1927年)のキリスト教とのかかわりについても,教養としての聖書,師としてのキリストを認め得る.しかし,キリシタンの素材を扱う時の彼の敬虔な態度は,当時流行の異国趣味の作家たちとは異なっている.また彼の自殺の枕辺にあった聖書や,「『エリ,エリ,ラマサバクタニ』は事実上クリストの悲鳴に過ぎない.しかしクリストはこの悲鳴の為に一層我々に近づいたのである」(『西方の人』)に見られる人間イエスへの親近感などは,後に続く作家たちに影響した.<復> 例えば,芥川枕頭の聖書は太宰治(1909—48年)の掌中に聖書を置く一因となった.太宰と聖書との関係は,「91—79—62—26」の数列が尽している.聖書引用は全作品で91回に及ぶ.そのうち79回が新約からであり,旧約との不均衡が目を奪う.マタイの福音書からが62回であり,そのうち26回は山上の垂訓からである.太宰が愛した旧約の歌の一つに「われ山にむかひて目をあぐ.わが扶助はいづこよりきたるや」がある.詩篇121篇は応答歌であって,第2節の「わがたすけは天地をつくりたまへるヱホバよりきたる」を欠くと,太宰の第1節は独り言になってしまう.連帯の歌を孤独の歌と解した太宰は「教会には行きませんが,聖書は読みます」(「一問一答」)と,聖書も一人で読み得るとした.「聖書一巻によりて,日本の文学史は,かつてなき程の鮮明さをもて,はつきりと二分されてゐる」(『HUMAN LOST』)と歴史を見る目を持っていた太宰が,聖書を歴史から切り離し,その章節を歴史的教会の文脈から外して箴言風にしか読めなかったのは何故だろうか.旧約を欠くところには歴史の聖化は望めない.また,連帯意識なしの孤独な求道は人を信仰に導かない.<復> 芥川を師と仰いだ堀辰雄(1904—53年)にとっても,芥川枕頭の聖書は大きな意味を持った.芥川の死を主題にした『聖家族』(1930)は,死を見詰めることによって生を理解しようとした堀の,生涯を貫く清明な思想を示している.題名は,聖書よりはむしろラファエルロの画やレンブラントの技法にかかわる.『風立ちぬ』(1938)の終章「死のかげの谷」は聖書(詩篇23:4a)による.バニャンは英国人の想像力に「死のかげの谷」の恐ろしさを刻みつけたが,堀は死のかげの谷も住みなれれば幸福の谷になると諦観する.それは「なんぢ我とともに在せばなり」(23:4b)が「私にはただ空虚に感ぜられるばかりだつた」からである.ともあれ,明治の棄教とも背教とも異なって聖書を生涯の関心事とする姿勢は,芥川や太宰や堀に始まる.
1930年代は満州事変,満州国建国,国際連盟脱退,二・二六事件,メーデー禁止,スペイン内乱,日中戦争,国家総動員法と内外ともに騒がしく,ついに仏印進駐,三国同盟,真珠湾攻撃と日本は太平洋戦争に突入する.1945年8月15日敗戦となるまでの15年戦争の間,半世紀前には日本近代文学の母胎とも助産婦ともなったキリスト教界は大勢に順応した.この戦争が作家にとって何であったかを,伊藤整(1905—69年)が次のように代弁する.「私はこの戦争を戦い抜くことを,日本の知識階級人は,大和民族として絶対に必要と感じていることを信じることができる.私たちは彼らの所謂『黄色民族』である.この区別された民族の優秀性を決定するために戦うのだ」.三島由紀夫(1925—70年)も北欧の海で日本の貨物船にひるがえる日の丸の旗を見て「結局,いつかは,あの明るさ,単純さ,素朴と清明へ帰ることができるんだな」と考えた.日本文学が百年にわたって求め続けた世界に誇れる大文学は,東と西との葛藤,生命思想と非生命思想との相克から生れる.その意味で,伊藤・三島流の切り捨てが惜しまれてならない.<復> 15年戦争中の文学には,キリスト教文学の立場から取り上げ得るものはほとんどない.直接戦地に赴いた作家のある者は,その視野を日本の外に広げられて,来るべき戦後の文学の道を備えた.大岡昇平(1909—89年)は13歳の時,日本は仏教で沢山だという父の反対を押し切って高価な聖書を買った.教会にも通ったが程なく離れた.『野火』(1952)では「たとひわれ死のかげの谷を歩むとも」がモットーに添えられている.しかし,光っているのは比島の海辺の村の十字架である.「十字架といふ万国的愛の象徴も,敵に所有されてゐるかぎり,ただ危険の象徴にすぎない」から,人肉を食う情景描写に隠されているイエスの血と肉の象徴に変る.そして,比島で死ななかったのは,自分の後頭部を打って気絶させた正体不明の襲撃者のおかげであると悟り,「もし打つたのが,あの夕陽の見える丘で,飢ゑた私に自分の肉を薦めた巨人であるならば—もし,彼がキリストの変身であるならば—もし彼が真に,私一人のために,この比島の山野まで遣はされたのであるならば—神に栄えあれ」と『野火』は終る.この十字架の感動を大岡は復員後,「ナザレの大工が神の子であるとは信じ難く,マリヤの処女懐胎に西洋の蒙昧(もうまい)を察した新井白石の合理主義に,私は大体賛成であるが,この無稽(むけい)なものに,今私の心が動くのは事実である.そして戦場で私の中で起ることは,どんなに無稽なものであらうとも,すべて真実と見做(みな)して来た習慣の延長として,この感動もまた否定したくない.ただそれを私の中のどこへおくかが問題だ」(『神経さん』)と記す.十字架を心のどこに置くか.外か内か,知か情か意か.これこそが戦後の「日本文学とキリスト教」の中心問題の一つなのである.<復> 島尾敏雄(1917—86年)は外地で実戦に参加こそしなかったが,奄美群島加計呂麻島の入江に潜む″自殺艇″と称される一人乗りベニヤ板製特攻艇隊長として敗戦を迎えた.「もし出発しないなら,その日も同じふだんの日と変るはずがない.一年半のあいだ死支度をしたあげく,8月13日の夕方…心にもからだにも死装束をまとったが,発進の合図がいっこうにかからぬまま足ぶみをしていたから,近づいて来た死は,はたとその歩みを止めた」(『出発は遂に訪れず』1962)と,流刑・死刑宣告・執行寸前釈放とドストエーフスキイに似た経験をする.1956年受洗,カトリック信者となる.『われ深きふちより』(1955),『死の棘』(1960)など一連の病妻ものは,彼の女性問題により精神の異常を来した妻との日々の煉獄を書いたもので,題名に聖書(詩篇130:1,Ⅰコリント15:56)を響かせる.作中にも罪の報酬としての死があり,尽きることのない贖罪の行為があり,うめくだけで救いのない煉獄がある.しかし,島尾のどの作品にも不思議な静けさがある.贖罪を信じることなく自分ですべてを贖おうとした漱石の,重苦しい断続的な文体には感じられない明るさがある.それは島尾が,人間が窮極的には人知を超えた倫理的な神によって造られ,今もその支配下にあると知っていたからである.神の贖罪のわざを信じるからである.そこには押し付けがましい著者の解釈や判断はない.神が人間に与えたいたわりや憎しみ,哀楽やたくらみのもつれを,島尾は言葉という網ですくいあげ,半透明の夢の連続とも言うべき文体で描き続ける.<復> 石川淳(1899—1987年)は大正末に旧制高校の教師だった頃,カトリック教会に通った.『焼跡のイエス』(1946)で上野の闇市を徘徊する襤褸(らんる)と虱と腫物だらけの少年を描く石川の目は,ハンセン病患者にイエスを見て華やかな騎士生活から修道士の奉仕生活へと転じたアッシジのフランチェスコの目だ.作者はヴェロニカの聖布に写る苦しみのイエスを少年に見て,これぞ福音の使者と思う.フランチェスコは修道院に入ったが,作者は手足に残る歯の傷,爪の傷を見て,少年との組打ちは夢の中の異象ではないかといぶかる.作品は,闇市横町の「その土のうへにぽつぽつと何やら物の痕の印されてゐるのが,あたかも砂漠の砂のうへに踏みのこされたけものの足跡,蹄のかたちのやうに見えた」で結ばれている.戦後の日本文学の取るべき道をイエスのろばのひづめの跡に見たのかもしれない.<復> 戦後と呼ばれる時代の終りはいつかについては,政治的経済的に諸説があるが,日本文学に関しては,1968年と言えよう.明治維新百年であり,川端康成(1899—1972年)がノーベル文学賞を受けた年である.彼の作品は美しい日本の文学であると同時に,福音書やパウロ書簡だけでなく黙示録も,さらに旧約聖書から歴史書,預言書,知恵文学と広く引用されている.しかも引用は単なる飾りではなく作品と深くかかわり,死ではなく生の文学を期待させる.その川端が自殺したのは残念なことである.日本文学の海外紹介者の一人ドナルド・キーンは「川端先生が自殺したとは,私は人知れぬ悲しみをおぼえる.それは…先生の自殺が,先生が最も大切にした一切のもの,私もこの上なく大切にしている一切のものを結局は空しいと断ずる判定のように思えるためである」(「英文毎日」1972年4月20日)と書いている.「ヱホバはわれに係(かかは)れることを全うしたまはん」(詩篇138:8)を思い出させる葬送の辞である.川端は滅びたが,彼が愛した黙示録の一節「その樹の葉は諸国の民を醫すなり」(22:2)や「それ木には望あり」(ヨブ14:7)のごとく,聖書の言の葉から,新しい日本のキリスト教文学が,そして,キリスト教と知情意においてより深くかかわる作家の生と死とが,川端の受賞と死の前後に生れてきている.<復> 正宗白鳥(1879—1962年)は蘇峰の民友社出版物により,また伝道者石井十次の教えにより,キリスト教に関心を抱いた.死の恐怖を克服すべく18歳で植村正久より受洗し,内村鑑三のもとにも通った.23歳で教会を去ってからの彼は,ニヒリストのレッテルを貼られるほど徹底して,この世に生れてきたことの恐ろしさを書き続けた.人生の意義を問うことを第一義とする小説を書き続けた白鳥,文学を自分の中のどこに置いたら救いとなるかを明治・大正・昭和の3代にわたって問い続けてきた白鳥なればこそ,「神様は,きっと,やさしく抱いて天国へみちびいて下さる」との最後の信仰告白があり,あの命終(めいじゅう)のアーメンがあり,教会葬による帰天があったのだろう.<復> 福永武彦(1918—79年)は,幼い時キリスト教伝道師である母のもとを離れ,父に預けられた.必ず教会に出席させよという母の切なる願いを守った父は,中学生時代まで武彦を教会に伴った.長じて教会を離れたが,死の2年前に受洗した.夫人の導きが優しかったと言う.死に至る2年間は忠実に教会に通って聖書を読み,イエス・キリストを信じて赦され,教会葬によって帰天した.福永がクリスチャンとして死を迎えたことは,文壇には大きな衝撃であった.福永の回心を正気の沙汰ではないと結論する者もいた.しかし,「人はみな草のごとく,その光栄はみな草の花の如し」(Ⅰペテロ1:24)をモットーとする『草の花』(1953)を開き,「信仰というものは悦びだと思うのよ.福音を聞くということは,同時にその福音を他人に伝えたいという悦びを伴うものでしょう.…そんな孤立した,一人きりの信仰なんてものは考えられないと思うのよ」を読むと,彼の師事した堀や太宰,芥川とは違った聖書観が生れつつあり,聖書が日本文学の中で置かれるべきところに置かれたとの感を深くする.<復> 川端に励まされて世に出た一人に北条民雄(1914—37年)がいる.新婚生活1年に満たずしてハンセン病の宣告を受けた北条は,東京東村山の多摩全生園に収容され,そこでドストエーフスキイを通して聖書に親しんだ.洗礼を受けることはなかったが,入院の日の経験を書いた『いのちの初夜』(1936)は,戦後日本のキリスト教的実存主義文学の先駆と言えよう.「いのちの初夜」は川端の命名である.不治の病で入院の日は「命終」にほかならぬのに,その日を「いのちの初夜」と呼ぶとは聖書的(参照創世1:5)であり,作品の展開を予測させる題名である.「何もかも奪はれてしまつて,唯一つ,生命だけが取り残された」日,いのちにあらざるものは捨ていのちのみを見詰める文学,北村透谷の理想とした文学がここに生れた.川端はこれを,まことのハンセン病文学の誕生と称賛している.<復> 明石海人(1902—39年)の歌集『白描』(1939)もこの称賛に値する.「白描」とは,毛筆による墨の線1本だけの画を意味する.いのちにあらざるものを捨て,1回限りのいのちを生きた記録である.妻と2人の娘から生木を裂かれるように別れた海人は各地を放浪し,長島愛生園に入院した時は精神障害を起していた.看護婦大野悦子によってキリスト教に導かれ,米人宣教師オールズより受洗した.医官内田守人により短歌に導かれる.海人にとって文学と人生は一つであった.『白描』の序文は「癩は天刑である」に始まり,「人の世を脱れて人の世を知り,骨肉を離れて愛を信じ,明を失っては内にひらく青山白雲をも見た」と,イエスのアイロニー(わたしはさばきのためにこの世に来ました.それは,目の見えない者が見えるようになり,見えるものが盲目となるためです〔ヨハネ9:39〕)を悟り,「癩はまた天啓でもあった」と終る.天刑と天啓,始終を重ねれば,ここに世界に類のない文学,日本のキリスト教文学の一ジャンルがある.川端はハンセン病文学を翻訳して海外にも紹介すべきだと勧めている.<復> 川端の受賞と前後して出版された,『美しい女』(1955),『氷点』(1965),『沈黙』(1966),『懲役人の告発』(1969)は戦後日本のキリスト教文学の頂点であり,20世紀の最後の世代(1970—1999年)の日本キリスト教文学の方向を示すと言えよう.<復> 椎名麟三(1911—73年)は,共産革命によっては解決されない虚無と自由の問題を解決すべく,ドストエーフスキイを通してキリスト教に導かれた.1950年に受洗した椎名の『美しい女』の主人公の心の中に住み着いた「美しい女」は,椎名の心に復活したキリストと考えられる.『懲役人の告発』は,交通事故で懲役刑,出所後も補償金の重荷を負って「死んだように生きる生き方」を求める青年が,物に支配された人間疎外を告発する.「今朝福子さんを見たとき,何や生き甲斐を見つけたような気がしたんや.希望のあらへんもうすぐ死ぬ人間の生き甲斐をな」と叫ばせる福子という娘は,「美しい女」の系譜に属する.<復> 遠藤周作(1923— )は12歳で母とともにカトリック教会で受洗した.『白い人』(1955)以来,聖書文化圏と日本との異質性,日本におけるキリスト教土着の可能性などの問題を追求している.『沈黙』はキリシタンの殉教の死に際しての神の沈黙を扱い,「この国にはな,どうしても基督教を受けつけぬ何かがあったのだ」と背教者フェレイラに言わせ,「踏むがいい.私はお前たちに踏まれるために,この世に生れ,お前たちの痛さを分つために十字架を背負ったのだ」と,声なきキリストにささやかせる.父なる神から日本的な母なる神への変質を説く遠藤に対して賛否両論があるが,日本の宗教風土と妥協してしまう危険性をはらみつつも,遠藤はキリスト教の日本土着への興味ある試みを提供していると言えよう.<復> 『氷点』を持ってバイロンのごとく文壇に登場した三浦綾子(1922— )は,肺結核療養中に療友によってキリスト教に導かれた.30歳で病床洗礼を受けている.「たとえ文学的にはどうでもあれ,この信仰の土台に立って書く」と告白し,教会的信仰観に立って大胆に忠実に書き続け,聖書が文学の触媒を豊かに内蔵していることを示している.詩篇147:17「主は氷をパンくずのように投げつける.だれがその寒さに耐ええようか」が『氷点』のモットーだとしたら,『続氷点』(1971)のそれは15節「主は地に命令を送られる.そのことばはすみやかに走る」であろう.この意味で『続氷点』の流氷を染める夕陽の章は,英国詩人フラーンシス・トムスンの「落日讃歌」に似ている.日本キリスト教文学の一名場面である.<復> 明治維新後百年,多くの作家がキリスト教とかかわったが,その多くが離教,背教,棄教している.しかし,終生キリストから目を離さず聖書に背を向けなかった作家たちもいる.彼らの文学と敬虔の修行(Ⅰテモテ4:7)の中から,内村の「何故に大文学は出ざる乎」(1895年)の叫びに応え得る作品が生れてきている.前述の3人の作品を「大文学」への最初の一里塚としたら,20世紀の最後の30年から第2第3の一里塚が建てられるは必定である.耳をすませば,寂滅(ほろび)の文学風土から,新しい賛美の歌の産声が聞えてくる.神が死に,宗教が阿片とされてから70年,1989年のクレムリンで再びグレゴリオ聖歌が聞かれたように,4百年昔に安土で聞えたグレゴリオ聖歌も再び聞えてくるようだ.賛美の歌は,文学史をも含めて,世界の歴史に底流しているのである.<復> 賛美の歌は旧約聖書に始まる.聖書は聖にして整である.聖なる言葉を連ねた神の書物であると同時に,人間の言葉を整え連ねた配置均衡技巧理路整然たる文学である.聖書の聖は,想像力を抑えて創造力の芽を摘むことを意味しない.聖書の整は,文学を生む文学として,想像力を刺激し,人を創作のわざへと駆り立てる.聖書を聖なるものとして読んできた聖書釈義学の3千余年の努力が実を結び,聖書がいかに整であるかが今,証明されつつある.今にして内村が存命なら,この証明に声挙げて「希伯来(ヘブライ)文学は其物自身にて一大文学なり」と叫んだであろう.今にして半月が存命なら,旧約聖書,いや,聖書全体そのものの感動を「十二の石塚」にまさる長歌叙事詩に盛ったことであろう.<復> 優れたキリスト教文学という富士の頂をそびえさせているのは裾野である.その面積は頂の百倍千倍もしよう.名歌一首が何十首という地歌の上に生れるように,キリスト教文学にも地歌が必要である.その裾野とは読者であり,その地歌はクリスチャンである.日本のクリスチャンが聖書そのものに朝々真向かう時間の総量が,頂をそびえさせて広がる裾野となる.「みな神の感動による」(Ⅱテモテ3:16)聖書の感動を夜々自らのものとする深みから,幾百幾千の地歌が生れてくる.→文学とキリスト教.<復>〔参考文献〕『現代日本文学全集』筑摩書房,1953—59;『現代日本キリスト教文学全集』教文館,1972—74;『近代日本キリスト教文学全集』教文館,1974—82;D・キーン『日本文学史』中央公論社,1984—89;笹淵友一『浪曼主義文学の誕生』明治書院,1958;Alter, R., The Art of Biblical Narrative, Basic Books Inc., 1981 ; Alter, R., The Art of Biblical Poetry, Basic Books Inc., 1985.(清水 氾)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社