《じっくり解説》教会音楽とは?

教会音楽とは?

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教会音楽…

[ドイツ語]Kirchenmusik,[英語]church music,[ラテン語]musica sacra.教会音楽2千年の歩みは,聖書に忠実に従い,仕え,キリストの福音を宣べ伝えて生きる者と,人間理性優先に生きようとする者との,時計の振子のような両極の動きの中にその歴史を刻んでいる.<復> 初期キリスト教音楽は,次の三つの音楽及び音楽理論の影響のもとに発達した.(1)ユダヤ教音楽,(2)ヘレニズム音楽,(3)地中海沿岸地域音楽.<復> ユダヤ教音楽,特に旧約聖書の洗練された自由な詩,リズム,韻脚,特に詩篇の並行法や朗唱法から,いろいろな音楽形式が生れた.<復> 並行法とは,一つの詩篇が,前後二つの部分に分れていて,後半(後ハレル)が前半(前ハレル)の意味内容に応答敷衍していく形式で,前ハレルを歌うグループと後ハレルを歌うグループが分れて歌う.詩篇を朗読調に歌う詩篇誦も初期のキリスト教徒が礼拝で歌ったことは間違いない.これは,キリスト教の集会を通し,ローマ,ヨーロッパに広まっていった.<復> ダビデの時代には,専門の音楽家が起され,「訓練を受けた者」として主に仕えている姿を見ることができる(Ⅰ歴代25章).ここで「達人」(25:7)と訳されていることばは「教えることのできる人」を意味し,一般の人々に対して賛美の手本を示し,指導する立場にある人々を指している.彼らは同時に「預言する者」と呼ばれている(25:1‐3).預言とは,神のことばを伝え,神について教える霊的な仕事のことである.また,十弦の琴,立琴,シンバルなどを奏する楽器奏者もいた(25:1,6).<復> 初代キリスト教音楽は,ギリシヤ音楽文化の影響を強く受けている.音楽([ドイツ語]musik,[英語]music,[イタリア語]musica)の語源[ギリシャ語]mousike~は韻文体の言葉,すなわち詩の朗読の音調を意味する.当時ギリシヤでは,詩は歌うように朗読する時,→本当の価値が生じる/・・・・・・・・・←と考えられていた.mousike~は5世紀まで,舞踏と深く結び付いていた.合唱の語源[ギリシャ語]chorosが輪舞を表していることからわかるように,合唱叙情詩コルリックも舞踏と結び付けて考えることによってのみ理解できる.しかし,ここで生じるリズムは自律性のある音楽的リズムではなく,言語リズムである.ギリシヤの音楽は,音楽理論の面でも後の音楽の発展に大きな影響を与え,ことにギリシヤ旋法は教会で使用される音階,教会旋法の基となり,17,18世紀まで音階組織の主役を演じることになる.<復> 初期キリスト教音楽にはまた,ストア派の哲学と結び付いたエートス論と浄化説的音楽観が影響を及ぼした.エートス論では,音楽は人間の意志に感化を及ぼすものと考えられ,道徳上の礎石として重視され,浄化力が認められた.プラトーンの音楽倫理学でも,人格形成に音楽教育が用いられた(『国家篇三巻』).また,アリストテレースも,道徳的善なる音楽と感覚的に美なる音楽を区別し,器楽音楽に自律性を与えていた.音楽の要素が詩に従属的であるという考えに対し,自律的な独立優位性が主張されるようになったことは,16世紀以後,器楽音楽が新しい独自の形式を生み出していく大きな要因になっている.<復> 哲学者,音楽理論家アリストクセノスは古代音楽学の創始者で,ピタゴラス学派が全音階の諸音調を数学的に決定しようとしたのに対し,聴覚のみによってそれを判断しようとした.彼は今日用いられている音楽用語や移調音階の組織を確立した.また,和声と楽器との関係から類推して,霊魂と肉体との関係を説いた.その師アリストテレースが音楽の倫理的意義を強調したのに加え,彼は美的意義を強調する.<復> アルキュタスはピタゴラス学派の研究の中心課題である幾何,算術,天文,音楽(後に自由七科の四科となる)を扱い,導いた存在で,万物を正しく説明する数の効果を強調し,音楽を数に関する学問の一つとして考えた.<復> 中世のスコラ学に最初に影響を与えたのが,ボエーティウス(480年頃—524年頃)である.彼は古代の音楽と哲学の理論についての名著『音楽概論』を著した.これはローマ人でもあったボエーティウスが,ギリシヤとローマの理論を受け継ぎ,中世の思弁的理論について基礎的理念を教えるもので,中世の神学と音楽に大きな影響を与えた.彼の理論は,音楽を数学的学問とするスコラ的考えの基礎ともなった.また,音楽には固有の目的があることを認めた.<復> さて,初代教会はユダヤ教の会堂礼拝の形式を受け継いだわけであるが,ユダヤ教の会堂礼拝は次のような形であったと推測される.(1)十戒の斉唱.(2)シェマ.信仰的ユダヤ人の日ごとの祈り,信仰告白であり,会堂礼拝でも歌われた.(3)18祈祷.彼らはこれを日に3度祈る習慣を持っていた(ダニエル6:10).この習慣は,新約時代にも見られる(使徒2:15,3:1,10:9,30).この祈祷習慣が,後述の「聖務日課」に発展していく.(4)モーセ五書朗読.前1世紀頃から3年周期で日課が組まれた.(5)詩篇の歌唱.(6)預言書の朗読.(7)長老の奨励.<復> これと並行し,家庭等で行われた,聖餐を伴ったクリスチャン独自の礼拝もあった(使徒1:14,2:42).ここでは,(1)聖書の説き明かし,(2)交わり,(3)聖餐,(4)祈り,賛美が中心であった.しかし教会は「主の晩餐」を,神への供え物,ユダヤ教的な意味でのいけにえと見なすようになり,礼拝がいけにえを中心にしたものとなっていった.<復> コロサイ3:16の「詩」([ギリシャ語]psalmois)は,会堂礼拝等で常に歌われていた詩篇である.「賛歌」([ギリシャ語]humnois)は,それまでなかった全く新しい種類の賛美歌で,自由詩で書かれたキリストをあかしし伝える歌である.キリストの死と復活によって贖われた者の「→新しい歌/・・・・←」である.アレキサンドリアのクレーメンス,オーリゲネース等の初期の時代を経て,4世紀のナジアンゾスのグレゴリオス,クレネのシュネシウス,ポワティエのヒラリウス,エフライムのシラー,教会歌の父と呼ばれるアンブロシウス等により,キリストをあかしする賛美が多く作られた.賛歌は旋律構造に地中海沿岸地域で歌われた音楽の影響を多く受けており,民謡風の歌いやすい歌である.テルトゥリアーヌスは,異教徒たちにキリストの福音を伝えるため,賛歌を歌い,信者が異教的伝統と習慣に逆戻りしないためにも男も女も一緒に賛歌を歌ったと手紙に記している.しかし,霊感されたみことばではなく自由詩で作られた歌が人間賛美に変っていってしまったのも事実である.「霊の歌」([ギリシャ語]o~dais pneumatikais)は,早くから礼拝の中に取り入れられたオーデ([ギリシャ語]o~de~),ラテン語でcantica spiritualia,すなわちカンティカ(聖書の詩篇以外の歌)を指しているという説と,即興的な賛美だったという説がある.<復> 313年,キリスト教が公認され,教会が国家と結び付いた不純な関係が始まる.終末観的傾向より懐古的要素が強くなり,東方教会がキリスト論論争で精力を費やしつつある間,西方教会は教皇権を強化していった.<復> 4—5世紀の教父として,アンブロシウス,初代キリスト教会の最大の神学者アウグスティーヌスが挙げられる.アンブロシウスは東方神学の西方教会への移入に努めたが,彼はまた,東方で発達し,ヒラリウスの手で西ヨーロッパに紹介された賛歌に,礼拝における正しい位置付けを与えた.この賛歌は,初め無韻律で歌われていたが,アンブロシウスの時韻律化され,最古の有節賛美歌として,その後も発展していった.アウグスティーヌスは,『告白』や『音楽論』を通して,神学と音楽,信仰と音楽という関係において,宗教改革者たちやバッハに至る教会音楽家たちに多大の影響を与えた.<復> 西欧修道院制度の創設者ベネディクトゥス(480年頃—547/550年)は,初代教会時代から歌われていた賛歌を修道院の礼拝の中に取り入れることを認めた.ベネディクトゥス会では,詩篇119:164をもとに,七つの祈祷時間が守られるようになった.これを「聖務日課」と言う.この伝統は宗教改革にも受け継がれ,聖書教育と聖書を韻律化して歌う会衆歌の訓練とも深いつながりを持つことになる.<復> ベネディクトゥス会の聖務日課は,聖書朗読が中心で,詩篇,カンティカ,賛歌の歌唱がなされた.聖書朗読は,聖書連続朗読と,朗唱法(テキストに合った方法で音楽処理がなされて歌われる)の二つの方法がとられる.詩篇誦は,交唱(二つのグループが対になって交互に歌う)または応唱(独唱者が短い聖句を歌い,会衆がそれに応答する)の形でなされる.カンティカは,ゼカリヤの賛歌(ルカ1:68‐79,[ラテン語]Benedictus),マリヤの賛歌(ルカ1:46‐55,[ラテン語]Magnificat),シメオンの賛歌(ルカ2:29‐32,[ラテン語]Nunc dimittis)が歌われる.賛歌は三位一体の神のあかしと贖い主を伝える歌が中心になっていて,最後は頌栄で終る.このほか,テ・デウム([ラテン語]Te deum.二グループで歌う交唱歌),賛美([ラテン語]Hymnus)がある.<復> 頌栄には,大頌栄と小頌栄がある.ユダヤ教の礼拝では頌栄がすべての祈祷に付加され,それがキリスト教礼拝に受け継がれた.新約聖書では,ローマ16:27やルカ2:14が頌栄として有名であり,後者は大頌栄と呼ばれる.2世紀になると,この大頌栄に代って,殉教者ポリュカルポスの祈りが頌栄として用いられるようになった.これを小頌栄と言う.<復> 祈りが終ると,アーメンやキリエ・エレイソン([ギリシャ語]kyrie elee~son,マタイ20:30,31)が連呼された.教会の礼拝式文化が進むと,連祷の後,キリエ・エレイソン,クリステ・エレイソン(キリストへの呼びかけ),キリエ・エレイソン(聖霊なる神への呼びかけ)が民衆によって繰り返し歌い叫ばれるようになった.<復> 教皇の地位を揺ぎないものとしたグレゴリウス1世(590—604年在位)は,最初の修道士出身の教皇である.彼の行った典礼改革により,儀式的「教皇ミサ」の時代が始まる.典礼がいけにえと秘跡を通して人を救う手段と考えられ,典礼施行が教職者によってのみ執り行われるようになると,会衆による賛美が側面に置かれるようになり,約9百年間聞かれなくなった.グレゴリウス1世は,東方教会に倣って聖歌隊学校を創立したが,この学校は教職者の歌唱教育のためのものであった.交唱詩篇の編集に基礎が置かれているグレゴリオ聖歌(直接彼の業績ではない)はグレゴリオ秘跡書とともに,その伝道組織を通し,アングロ・サクソン及びドイツに伝えられていった.<復> 800年教皇レオ3世より戴冠され,ローマ皇帝となったカール大帝(768—814年在位)は,碩学アルクイヌスを宮廷学院長として招聘し,フランク王国の文政政策を行った.また,ミサ典礼の普及に努め,帝国の文化学問を広めるため各地に修道院,学校を創設した.ローマ式聖歌隊学校では,教職者が熱心に典礼聖歌を学んだ.<復> 修道院では,単旋律のグレゴリオ聖歌だけが歌われていたのではなく,後に教会音楽を二つに分ける音響([ギリシャ語]pho~ne~)を大切にした音楽が急速に発展していった.聖アマン修道院の修道士であり,スコラ・カントルムの長であったフクバルド(840年頃—930年)の理論書を見ると,複音楽がかなり発展していたことを知ることができる.ドイツでは,アルクイヌスの弟子フラバーヌス・マウルスがフルダの修道院長として,シュヴァーベン地方最初の宗教詩人ヴェラフリートゥ・シトゥラーボがライヘエナウの修道院長として,またスイスでは,トロープスの発展に大きな功績を残したトティロが聖ガレン修道院の修道士としてそれぞれ活躍していた.<復> トロープス([ギリシャ語]tro~pous,言い回しの意)は,礼典交誦歌の挿入として用いられたり,ミサ通常文に添える付加文として用いられた.また,復活祭,降誕節に,入祭文の問答体導入歌として用いられるようになった.これがきっかけとなって,教会外で上演される宗教劇が生れる.<復> 聖ガレン修道院には,セクウェンティアの発展のために大きな功績を残したノッカー・バブルス(840—912年)がいた.<復> 中世ドイツには,かなり前からリフレーンを伴ったカンティオという歌曲が存在した.キリエ・エレイソンは連祷の後歌われる歌であるが,これをキリエ・ライスとドイツ風に連呼し,短いドイツ語のテキストを付け加え,巡礼の際や,祭の行列の中で歌う習慣が生れた.これを,ライス,またはライゼンと言う.初めは一節だけの短い歌であったが,後に有節歌曲として発達していく.<復> ラテン語ドイツ語混合歌は,しゃれ,冗談,笑い等を混ぜ合せた言葉の遊び等のジャンルに入る歌が人々の間で好んで歌われ,トロープスから発達したクリスマス,受難劇の歌等を混ぜ合せて歌う歌が歌われる過程を通して生れた.<復> ドイツではまた,宗教的民謡が数多く作られた.そのほとんどがマリヤをたたえる宗教民謡であるが,聖歌,連祷歌も残っている.これらの歌は,宗教改革時,テキストを変え,また一部改編し,「賛歌」として用いられていく.<復> 9世紀から10世紀にかけて,多声音楽(ポリフォニー,旋律と旋律を重ねるもの.ホモフォニー,和声音楽)の歴史が始まる.最初にフランスで生れた多声音楽が,オルガヌム,ディアフォニアである.初期のオルガヌムは,グレゴリオ聖歌の定旋律に即興的に自由な旋律を付けて歌うところから始まった.<復> それまでの聖歌や詩篇歌は,伴奏も何もない単旋律の歌(コラール)であった.のびのびした自由な表現,言葉と音との自然な結び付き,単純な歌いやすさがあるが,言葉に対し厳格で,感情表現も繊細である.これらの歌は,教会音楽史上の記念碑とでも言うべき存在である.<復> しかしここに,全く未熟な形式ながら,多声音楽が幻想の世界へと道を開いていくことになった.原始的ではあったが,音を同時に重ねるという着想は,フランス,ドイツ,イギリスのベネディクトゥス会の哲学者,芸術家の功績であった.中世の幻想的ゴシック聖堂と多声音楽は,理念的に同じ基礎の上に立っている.これは,中世後期の神学,哲学,詩を支配していたスコラ精神の現れである.<復> 教会では,典礼が,救いが与えられるための一種の功徳であると考えられ,本来持ち続けるべき→神のことば/・・・・・←の権威も,神より与えられた啓示の書としての権威も側面に置かれていた.トロープスやセクウェンティアを定旋律として利用し,典礼でオルガヌムを用いるその目的が,ミサや聖務日課の儀式を盛大に飾り立て盛り上げることにあったことも事実である.<復> 12—13世紀,多声音楽が表現の中心となり,活動の主導権はパリのノートルダム聖堂に移っていく.1150—1250年,ノートルダム学派が誕生する.ノートルダムには,最高のオルガヌムの作曲家レオニーヌスと,最高のディスカントの作曲家ペロティーヌス・マグヌスがいた.<復> 1250—1320年は,多声楽発展の大きな過渡期で,アルス・アンティカ(古い芸術の意)の時代である.この時代には,二つのことにおいて後世への貢献がなされる.モテットと,定量記譜法である.モテットとは,定旋律テキストの意味内容を対旋律(ディスカント声部)で説明するという意味の言葉([フランス語]le mot)からきた音楽形式で,バッハに至って完成する.アルス・アンティカのモテットは,中世神学を背景にした,スコラ的ゴシック様式からなる.数学的哲学的結実を引き起すような調和と幻想と空想に満ちている.グレゴリオ聖歌の定旋律に対し,何の関係もない歌詩を対旋律で,積み重ね歌わせたりした.<復> 続く時代は,アルス・ノヴァ(新しい芸術の意)の時代であり,次のような特徴がある.(1)計量記譜法の革新が行われ,3分割,2分割法が考え出された.(2)教会音楽より世俗音楽が発達し,教会音楽も,いわゆるミサ曲(ミサ通常文〔キリエ,グローリア,クレド,サンクトゥス,アニュス・デイ〕)が出現する.(3)多声楽歌曲の発達.(4)特定階級の聴衆のみによる芸術音楽.(5)音楽が自律性を持ち,自律音楽としての歩みを始める.(6)イタリアの音楽が重要性を持ち始める.フランスのアルス・ノヴァの影響を受けたフィレンツェのアルス・ノヴァは,初期ルネサンスの芸術と深く結び付く.<復> 教皇のバビロン捕囚(1309—77年)は,西欧のシスマ(大離教)を招き,教皇の権威は地に落ち,道徳生活は乱れ,財政は困窮した.この中世の暗黒時代に,世俗音楽への需要が高まった.イギリスの教会音楽においては,長調風旋律感を伴った多声音楽が発達した.そのほとんどが教会用ミサ曲で,代表的な作曲家としてジョン・ダンスタブルを挙げることができる.彼は,次の時代のフランコ・フランドル楽派の作曲家に大きな影響を与えた.<復> フランコ・フランドル楽派は,ブルグント国の文芸公フィリップ(1419—67年在位)のもとに始まった.この楽派はスコラ精神を受け継ぎ,カール公(1467—77年在位)のもと最盛期を迎えた.第1期から第5期まで約2百年の歴史を持つ.第1期では,ギヨーム・デュファーイ,ジル・バンショワー,第2期では,ヨーハネス・オケヘム,第3期ではヤーコプ・オーブレハト,ジョスカン・デ・プレー(宗教改革時のモテット等に影響を与えた.ルターは「音の画家」と称した),第4期では,アドリアン・ウィラールト(ベネチア楽派の創始者),第5期では,オルランドゥス・デ・ラッスス(ラッソ)(この楽派の最後の巨匠),ヤン・ピーテルス・スウェーリンク(北ドイツオルガン音楽の父)がそれぞれ挙げられる.<復> 14—16世紀は,ルネサンスの時代である.十字軍の失敗,教会の腐敗堕落,一方では十字軍で得られた富による都市の繁栄,教皇権の衰退による古いドグマからの解放は,個性の再発見という意味において,大きな役割を果した.イタリアでは,自由都市,宮廷を背景に,マドリガル,バラータ,カッチアなど芸術的に高い水準の音楽が生れた.17世紀の人々は,この世俗歌曲から言語リズムを学びとり,叙事的音楽表現法レチタティーヴォ,アリオーソや器楽曲のトッカータの形式が生れた.
1417年シスマが終結し,教皇の力が回復されると,フランコ・フランドル楽派の作曲家が続々とローマ教会に招かれるようになる.ここに,スコラ的と人文主義的という背反性を持った両極が,それぞれに与えられた理念を固持しながら新しい道を開いていくことになった.フランコ・フランドル楽派の中には,スコラ的音楽観から終始抜け出せない者もいたが,みことばの伝達のため音楽を用いる作曲家も生れてきた.<復> 中世キリスト教音楽に大きな影響を与え続けたボエーティウスの思弁的音楽観は,パリのヨハネス・グロケオやルネサンスの影響下に後退していく.後期ゴシック的音楽観では,作曲上のテキストをあまり配慮しない絶対的音楽観が中心を占めている.しかし,ルネサンスの影響下に育まれてきた音楽観は,作曲上の主題である詩を音楽によって明確に表現するという課題が与えられ,音楽による詩の情緒表出が大切な問題として扱われるようになってきた.従って,詩に合う形式の設定,和声に対する意識などに,ますます目覚めてきた.<復> 印刷術の発明は,聖書が各国語に翻訳され領布されるのに大きな役割を果したと同時に,教会音楽ことにフランコ・フランドル楽派の作曲家たちは,その恩恵を多く受けた.また,ルネサンスの影響で,聖書の原語研究が盛んになった.<復> 1517年,ルターはヴィッテンベルクの城教会に95箇条の提題を掲げ,宗教改革が始まった.会衆は教会内で歌うことを許されていなかったが,これに対しルターは,人々が直接キリストの御名を通し賛美し,祈ることを強調した.会衆に聖書を教え,賛美のことばも常に聖書に立っていなければならないということを学ばせ,共に聖書のみわざに参加させるという意図がルターにはあったのである.彼は,教会はただ聖書のみに準拠すべきことを基本とし,聖書の韻律化からコラールテキストの創作及び一部の作曲までも行った.1524年,『8曲賛美歌集』が出版された.このプロテスタント最初の会衆歌は,極めて包括的で,しかも深い内容を含んでおり,この種の教理的コラールの中でも最も優れたものと言っても過言ではない.4曲がルターの作であるが,ルターのメロディストとしての優れた音楽性を見ることができる.<復> ヨーハン・ヴァルター(1496—1570年)は,ルターの音楽面での協力者である.彼は,三声及び五声からなる『聖合唱曲集』を発表したが,これは多声合唱音楽の始まりとなった.<復> ルターにとって音楽は「幸福をもたらす喜ばしい被造物」であり,「最も偉大な神的賜物」「神的で最も優秀な賜物」である.彼は,神の創造の作品である聴く耳,神の奇蹟を見ることのできる目とを,信仰と音楽との関係において結び付けている.そして,人の声の響きを用いるという形態のもとで福音は人の耳に語られ,音楽という媒介を通しても人の耳にみことばが入り得ると述べている.彼は,歌うことと語ることを同義的に考えていたのである.プロテスタント音楽は「語る芸術,言葉の解釈の芸術」である.言葉を伝えるための音楽であるなら,教会音楽家も深い聖書理解に立っていなければならない.ギリシヤ語,ヘブル語の原典研究が要求されるようになったのも,ごく当然のことであった.教育の場では,ルターは子供たちに,みことばを,歌うことによって覚えさせようとしたり,良い音楽に耳を傾けさせようと努力した.<復> ルターは,他の宗教改革者と異なり,教会でオルガンを用いた.オルガンの使用を認めた点においてはローマ・カトリック教会の伝統を継承したことにはなるが,使用の目的と方法は明らかに異なっていた.ローマ・カトリック教会ではオルガンを,響きを第一に,独奏的要素を強く出して演奏していたが,ルターが意図していたのは,コラールのメロディーをオルガンで奏することで,それは舌も口も持たない器械(オルガン)を言葉の表現として用い,神をたたえることにほかならない.オルガンを使用する際には,喜び,悲しみ,十字架等言葉の情緒との結び付きが大切になってくる.その最も良い例は,交互演奏法(会衆がコラールの意味内容をしっかり理解しないで歌ったり,冗長に陥ることのないように,途中に合唱やオルガン即興演奏を挟んで歌う方法)である.この演奏形態から,コラールをパラフレーズしたコラール・モテットや,歌詞内容をオルガンで情緒表出しようとするコラール前奏曲の形式が生れていった.<復> ルターは,「音楽は神学に近く,音符が言葉をいきいきとさせる」と語った.彼は,神学の次に大切なのは音楽であるとさえ言っている.「弁証法は人を教え,修辞学は人を感動させるものである.弁証法は悟性に属し,修辞学は人間の意志に属する」(『卓上語録』).音楽は,その「悟性」と「意志」に呼びかけるものなのである.「修辞学」を音楽に適用する際の課題は,言葉を正確に,その情緒が示すものを美しく適切に,音楽に表現していくことである.ここでの美は,形而上学的超自然的な美ではなく,言葉の情緒表現である.音楽は「人間の情緒の女主人」なのである.<復> ルターの様々な音楽に対する理解の根底には,アウグスティーヌスの次のような言葉が働いていた.「音楽は神の最高の贈り物である.しばしば大変心が動かされ,メッセージのために力が湧いてきた」.<復> カルヴァンにとって音楽は,ルターやツヴィングリとは違い,それほど重要な位置を占めていない.実際に音楽の訓練を受けたこともなかった.彼は,中世カトリック多声音楽の発祥地で,ミサに使用されるグレゴリオ聖歌,モテット,オルガンの乱用などを聞いて育った.そして,Ⅰコリント14:15を根拠として,単旋律の歌しか礼拝音楽として認めないという厳しい態度をとった.しかしながら,家庭礼拝や家庭での演奏は認め,家庭での演奏会等を奨励している.また,単旋律で歌う会衆賛美は奨励し,教育的成果を上げるために歌の学校を創設している.この学校では,歌の訓練のほか,理論等も学ぶことができた.カルヴァンの『キリスト教綱要』や『ジュネーブ詩篇歌集』の序言における音楽論は,後世に大きな影響を与えている.<復> カルヴァンはストラスブールに滞在中,『ストラスブール教会歌集』を知る.これは,ルター及び彼の協力者によって作られた賛美歌とストラスブール詩篇歌から成るものであった.彼はこの詩篇歌に大きなヒントを得て,霊感された神のことばの韻律化を始めることになる.彼はすでにストラスブールで幾つかの韻律詩篇歌を作っている.ジュネーブに戻ると,詩人クレマン・マローを招き,韻律詩篇の仕事に当らせた.カルヴァンは,厳しいまでに深い聖書解釈に徹し,生きた神のみことばに適合した音楽を創作するよう,専門の音楽家に命じた.韻律詩篇の創作には,ギイローム・フランク,ルイ・ブルジョワ等が当り,カルヴァンの死後,韻律歌のテキストは,弟子のテオドール・ド・ベーズにゆだねられ,1562年『フランス詩篇歌集』『ジュネーブ詩篇歌集』として出版された.<復> カルヴァンは,ミサにおけるオルガンの乱用を厳しく批難している.会衆賛美がなく,オルガンが独奏されるのは,神のことばが語られる場にふさわしくないとしたのである.彼は,ついには,オルガン及びハンス・コッターなどのオルガニストを追放してしまった.<復> オランダ改革派教会でも,オルガンの使用は世的な目的のためのみに限られ,礼拝での使用は禁止されていた.コルネリウス・シュッツはオルガニストとして就任したが,その義務は,日曜礼拝や週日の祈り会の終った後に1時間だけ市参事会のためにオルガンを弾くことであった.しかしながら,このような伝統の中でオランダのオルガン音楽が発達していき,巨匠ヤン・ピーテルス(ゾーン)・スウェーリンク等が後世のオルガン音楽の発展に大きな貢献をすることになる.<復> 1572年ユグノー派のクロード・グディメルの手により,一声の詩篇歌が四声体の歌に書き替えられた.彼は,詩篇歌のメロディーを,上声部のソプラノではなく,テノールの声部に持ってきた.ソプラノ,アルト,バス声部が合唱で歌われ,会衆がテノール声部で歌うのである.フランス韻律詩篇がドイツでロープヴァッサーによってドイツ語に翻訳されると,この四声体の歌の発想に感嘆したルーカス・オジアンダーは定旋律をソプラノに移し替える運動を起し,今日の賛美歌に見られるような形式の賛美楽譜が生れた.これをカンティオナル形式の曲と言い,テキスト表現の重要な方法として全ドイツに知られるようになる.<復> このような経路を経て,オルガンによる伴奏法が生れる.初期の頃はオルガニストが言葉の意味を熟読し,テキストに合せて通奏低音の技術を用い,会衆賛美のリードを行っていた.譜面化された伴奏楽譜が生れたのは,1614年ハンブルクにおいてであった.オルガンが会衆賛美をリードする楽器として用いられるようになったことは,後に,大型パイプオルガンが生れる大きなきっかけとなった.<復> ツヴィングリは,幼い時から音楽を趣味とし,楽器を奏したと言われている.しかしながら,彼の礼拝の方針はみことばの宣教と純粋な説教礼拝であり,音楽を礼拝に用いることなど全く考えていなかった.彼は1524年に,チューリッヒで,オルガンの使用と歌の禁止を宣言し,1527年には,チューリッヒ大聖堂のオルガンを,オルガニストが悲しむ前で解体している.しかし,18世紀になると,ツヴィングリの教会でも会衆賛美が歌われるようになり,1876年再び大オルガンが建造された.<復> 以上のように,宗教改革者たちは様々な立場をとったが,結局プロテスタント教会のほとんどが,ルターが推進した立場をとるようになった.<復> さて,ルターから百年ほどたつと,三大S,ハインリヒ・シュッツ,ヨーハン・ヘルマン・シャイン,ザームエル・シャイトの時代になる.この時代には,格言モテットが発達する.<復> 格言モテットとは,各主日礼拝で朗読され,それに基づいて説教が行われる聖書箇所のうち特に重要な部分を格言(金言)として選び,細かい聖書解釈を音型化していくモテットであり,より深い聖書の内容を人々の心に印象付け,訴えるのが目的である.16世紀中頃から礼拝の中で,説教と並ぶ重要な役割を果した.シュッツのモテットの特徴は,言葉と音との深い結び付きにあった.<復> 1600年前後ベネチアで,その後の音楽の歩みを方向付けた決定的転回点がある.パレストリーナ様式と呼ばれるルネサンスの厳格なポリフォニー音楽は,定量記譜法(前述)という土台の上に築かれていた.これに対し,16世紀から世俗音楽として発展したマドリガルの作曲家たちの中から,新しい記譜法への要求が生れてきたのである.それは第1に,イタリアにおける新しい拍節感覚,すなわちアクセント付けられた拍という観念に由来している.そのような感覚は,フロットーラなどにも見られるように,世俗音楽の領域では以前から存在していたが,モテットなどの厳格ポリフォニー音楽には縁遠いものであった.第2に,ジョヴァンニ・ガブリエーリやクラーウディオ・モンテヴェルディらによって行われた,古い対位法理論からの逸脱が挙げられる.これは,音楽的調和性を主体としたが,それまでの音楽に対して,言葉の表現に重点を置く音楽である.古いモテット等に見られる作曲技法を「第1作曲技法」と言うのに対し,このような中から生れた作曲技法を「第2作曲技法」と呼ぶ.<復> 格言モテットがミュンヘンの作曲家ラッスス(ラッソ)の手により見事な発展を見せ,礼拝で欠かすことのできない説教テキストを,説教の前音楽を通し感性的アプローチをもって語り伝える習慣も生れる.ラッススの影響のもと,最初のモテット受難曲の作曲家レーオンハルト・レヒナーがすばらしい宣教音楽を残す.受難曲は,ローマ・カトリック教会の伝統の中で教会暦の受難週に福音書を朗読するようになり,後にグレゴリオ調の音楽を加え,13世紀頃から3人の聖職者が高い音と低い音を用いて人物描写をしながら読んでいったところから始まった.<復> プロテスタント教会では,ルターの協力者ヴァルターが初めてマタイ受難曲を作曲した.グレゴリオ聖歌風な叙事表現部分,人物描写を音の高低を用いてする独唱や,単純な和音で群衆の言葉を表現する合唱部分は,ローマ・カトリック教会音楽の伝統的ラテン語テキストによる「応答唱風受難曲」を継承したものであるが,ルター訳ドイツ語テキストが中心になっているので「ドイツ応答唱風受難曲」と言う.信徒教育と宣教,福音伝道のため始められたわざである.<復> 聖書のテキストを独唱歌唱による主観的印象を避けるべくモテット形式で連続して作曲したスタイルの受難曲が福音的な教会に生れた.これを「モテット受難曲」とも言う.<復> 17世紀に入ると聖書テキストの間に賛美歌や宗教的叙情詩を挟み,オラトリオ風にオーケストラ,独唱者によるアリア等を加えて歌う受難曲が作られ始めた.ヨバスチアーニやシュッツの弟子タイレの受難曲等も現れるが,教会音楽の最頂点を築いたバッハの『マタイ受難曲』『ヨハネ受難曲』はこの種の受難曲の中でも最高傑作と言われている.これを,オラトリオ受難曲と呼ぶ.<復> もう一方ではイタリアの新しい音楽のスタイルを取り入れた教会コンチェルトが成立する.これは器楽伴奏を伴う独唱曲や合唱曲であり,これがイタリアオペラの影響を受けつつさらに発展していったのが,教会カンタータである.教会カンタータは,多くの場合自由詩を歌詞としているのが特徴で,それは聖句のパラフレーズであったり,教訓的勧めや対話であったり,コラールの歌詞と組み合されたりしていた.教会カンタータは,合唱やアリア,レチタティーヴォ,重唱など適宜配し,器楽の助けを借りて,モテットに比べてはるかに多様で劇的表現が可能である.都市の大きな教会では,毎週日曜日の説教の前後に必ず30分ほどの時間がとられ,教会カンタータが演奏された.カンタータは,もちろんその日の聖句に基づいて作られていた.自由詩の場合は,歌詞が聴き取れないと困るので,その日のコラールを印刷して会衆に配ったが,これは聖歌隊指揮者の重要な仕事でもあった.このようにして,説教者と音楽家は相互に協力し合ってみことばの宣教と信徒の教育に当ったのである.<復> バッハとその時代,事実上ドイツ・プロテスタント教会音楽は頂点を迎え,バッハの死を境として,長い衰退期に入る.<復> 18世紀の啓蒙思想から19世紀ロマン主義の終りまで,人々は聖書の福音を捨て,人間理性の自律性を信じるようになる.聖書を真剣に信じることをやめてしまった教会にとって,もはやみことばを伝えるということは重要な関心事ではあり得ず,それと同時に教会音楽も大幅に簡略化され,貧しい音楽だけが教会に残された.音楽活動の中心は大きなコンサートホールに移り,そこでは自然,人間,運命,愛,死等をテーマとした″人間の歌″が鳴り響くようになった.<復> このように教会音楽は,聖書信仰によって立ちも倒れもするのである.特に20世紀に入ってからの聖書信仰の復活と,ドイツにおける福音的な教会音楽活動の活発化を見る時,そのことが実感として理解できよう.<復> ヨハネス・ブラームス(1833—97年)は教会音楽の本質に帰るべく,シュッツ,バッハ研究,シュッツの演奏等を行った.プロテスタント信仰に立って書き上げたアカペラ・モテット作品『祝日と記念日のための聖書引用句集』及び『コラール前奏曲集』には,聖書の音楽に帰る新しい端緒が見られる.<復> ベートーベン,モーツァルト,ブラームス等ほとんどすべての作曲家が頂点として研究し,学んできたバッハの音楽は,何もないところから突然魔法のように現れてきたのではない.その前には,ルター以来の2百年の地道な積み重ねがあり,さらにその前には,千年以上にわたる気の遠くなるような長い歩みがあった.福音的な教会の音楽家,ことにバッハ,シュッツは作品を仕上げる場合,細かく,厳密に牧師が説教の準備をするように,ギリシヤ語やヘブル語の語句解釈を行った.彼らの作品を調べると,聖書の深い理解と音楽手法とがあまりにも見事に一致して,共に一つの目的に向かって働いていることを発見するのである.<復> 真の教会音楽を培うものは,聖書こそが完全にして無謬の神のことばであると信じる聖書的,福音的信仰なのである.キリスト者に与えられた使命は,聖書を伝え,それに仕えていくことである.<復> ルターの精神に基づいた教会音楽の流れを見ると,それが根本において,宣教的,教育的なものであることがわかる.ここでは,音楽は神へのささげ物であるという考え方は重要なものとは見なされない.もちろん賛美は神にささげられるものだが,賛美の本質は,言葉の意味内容とそれに伴う真実な感情にあるのであり,決して音の響きにあるのではない.神の喜びたもういけにえは「砕かれた魂」であって,音楽における豪華さや巧みさではない.それでもなお教会音楽が整えられ立派にされなければならないとすれば,それはみことばの宣教をより効果的にするためである.このように,外面的なものと内面的なものの両方がイエスの与える内住の御霊の働きと助けによって「みことばを伝える」「みことばを守る」という一点に向かって相働き,整えられてこそ,教会音楽の本来の目的が達せられるのである.→賛美,賛美歌(史),オラトリオ,グレゴリオ聖歌,コラール,詩篇歌.<復>〔参考文献〕海老沢敏『音楽と思想』音楽之友社,1972;H・ライヒテントリット『音楽の思想と歴史』音楽之友社,1959;「ドイツミサと礼拝の順序」『ルター著作集』第1集第6巻,聖文舎,1963 ; Blume, F., Geschichte der evang. Kirchenmusik, Ba¨renreiterverlag ; Die Musik in Geschichte und Gegenwart (MGG), Ba¨renreiterverlag ; Moser, H. J., Die evang. Kirchenmusik, Verlag Carl Merseburger, 1926 ; Handreichung zum evang. Gesangbuchs, Verlagskontor des evang. Gesangbuchs ; Nagel, W., Geschichte des Christlichen Gottesdienstes, Walter de Gruger & Co., 1962 ; Stern, H./Metgger, H. A., Leitfaden der evangelischen Kirchenmusik, Ha¨nβler Verlag, 1969 ; Mu¨ller, K. F./Blankenburg, W./So¨hngen, O., Leiturgia, Band Ⅲ—Ⅳ, Stauda‐Verlag, 1956.(岳藤豪希)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社