《じっくり解説》聖霊,聖霊論とは?

聖霊,聖霊論とは?

聖霊,聖霊論…

聖霊は,三位一体の神の第三位格の神である.旧約聖書においては,聖霊は多くの場合,「霊」「神の霊」「主の御霊」と表現されている.3箇所には,聖という語が付加され,「聖霊」(詩篇51:11),「聖なる御霊」(イザヤ63:10,11)と表されている.「霊」は,[ヘブル語]ネシャーマー(ヨブ26:4)も用いられてはいるが,ほとんどは[ヘブル語]ルーアハである.とは言え,[ヘブル語]ルーアハがすべて聖霊を意味しているわけではなく,人間の霊,偽預言者の悪い霊,悪霊を意味する場合にも用いられている.<復> 新約聖書においては,聖霊についての啓示と働きは旧約よりもさらに明らかになっている.それはキリストの降臨によりメシヤの時代が到来し,聖霊の時代が始まったからである.彼は「御霊」「聖霊」「主の御霊」「キリストの御霊」などの語で表されている.新約では御霊は,[ギリシャ語]プニューマ,聖霊は[ギリシャ語]プニューマ・ハギオン(冠詞付きあるいは冠詞なし)で表されている.<復> [ヘブル語]ルーアハと[ギリシャ語]プニューマは両方共,「風」「息」を意味している.<復> 1.旧約聖書の聖霊.<復> 「霊」と言う場合,神御自身が霊的存在者であるという意味の場合と,聖霊を意味する場合の区別がある.イザヤ31:3,ヨハネ4:24は前者であり,マタイ3:16は後者である.<復> (1) 聖霊は創造に関与する.「神の霊は水の上を動いていた」(創世1:2)の句は神の霊が混沌とした宇宙に秩序を与え神の創造に関与していることを示している.同じ思想は詩篇33:6にも見られ,天の万象は神の息吹([ヘブル語]ルーアハ)によって形成されたと言われている.<復> (2) 聖霊は人間の創造に関与する.ヨブ33:4には「神の霊が私を造り,全能者の息が私にいのちを与える」とある.創世2:7では,神は土地のちりに「いのちの息」を吹き込み人を生きた者とされた.「息」は[ヘブル語]ネシャーマーであるが,[ヘブル語]ルーアハとほとんど同義語であり,人にいのちを与えるものである.神のいのちを与える聖霊の働きによって,人は「生きものとなった」(同2:7).神のいのちの息のない人間はなく,体のない人間は存在しない.これら両者によって統体としての人間が創造される.このことはエゼキエル37:1‐10に見られる.イスラエルは身体的にはバビロンで生きていたが,霊的には死んでいた.しかし神の霊が彼らにいのちを与え,彼らは生きた.だから神がその息を取り去ると,人は死滅してしまうのである(詩篇104:29,ヨブ12:10).死は神からの断絶である.<復> (3) 神の霊は神が選んだ指導者に与えられる.神がモーセを指導者として立てた時,神の霊が彼に与えられたが,彼を補佐する70人の長老にも同じ霊が与えられた(民数11:17,25).70人は恍惚状態で預言し,モーセとともに民を指導するよう整えられた.ヨシュアにもモーセの按手によって「知恵の霊」が満たされた(申命34:9).それは彼が民の指導者としてその働きを全うするためであった.また,神は神の民が危機に陥り救いを求めた時,救済者に霊を与えて民の救出のために遣わした.ギデオンは主の霊によって国家的危機にある民をミデヤン人から救った(士師6:34以下).オテニエル(同3:10),エフタ(同11:29),サムソン(同13:25,16:28以下)も同様である.主の霊が臨むと彼らには特別な力が与えられた.政治的な指導力だけでなく,ある場合は異常な力が付与されサムソンのような怪力をも発揮することができた.神の霊は,神のわざを成し遂げるために技能と知恵を与える.幕屋の建設に当って,ベツァルエルは仕事に必要な知恵と知識を与えられた(出エジプト31:3,35:31).夢の解き明かしにも知恵が必要であったが,ヨセフ,ダニエルにはそのような能力が与えられた(創世41:38‐41,ダニエル4:8,9,18,5:11,14).彼らの夢の解き明かしには預言も含まれていた.それは神のみこころの開示でもある.ヨセフは知恵があり,行政もパロからゆだねられた.このような知恵は,主の霊が彼らに宿っていたためのものである.<復> (4) 聖霊は預言者に与えられる.これは前項に含まれるべきであるが,預言者が神のことばを語る者として特筆すべきことである.サウルに御霊が臨んだ時,恍惚状態になって預言したが(Ⅰサムエル10:10,19:23),本来,イスラエルの預言者は御霊によって「主はこう仰せられる」と主のことばを託された者である(エゼキエル11:5).バラム(民数24:2),エホヤダの子ゼカリヤ(Ⅱ歴代24:20)も同様である.預言者ゼカリヤは「主がその御霊により,先の預言者たちを通して送られたおしえとみことば…」と述べている(ゼカリヤ7:12).このように預言者は聖霊によって神のメッセージを受けて語ったのであるが,いつも恍惚状態であったわけではない.むしろ平常な状況の中でのほうが多かったのではなかろうか.大切なのは神のことばを与えられたという点である.すべての預言者は御霊によって神のことばを受けたと考えられているが,だからと言って「霊」の語がすべての預言書に見られるわけではない.アモス,ナホム,ハバクク,エレミヤ(エレミヤ51:11は王たちの霊とある)には御霊の語はない.これについてある者は,イスラエルの預言者が恍惚的な異教預言者と混同されるのを避けるためだったからだと言う.<復> (5) 聖霊は救済的な働きをする.聖霊が指導者や預言者に与えられ,彼らが神のことばを語ったのは民を救うためであった.しかしさらに聖霊御自身が世にいますことが救済的なわざそのものであった.ノアの時代の世が滅ぼされる前,主の霊は人間の堕落を阻止する方として働いておられた(創世6:3).ミカは,人の罪を告発し悪の中から人々を救うメッセージを語ったのが聖霊によるのだと言う(ミカ3:8).ダビデが罪に陥った時,その中からきよめられ神との交わりを回復できるのは「聖霊」によると告白している(詩篇51:11).またエゼキエルは「霊」が与えられる時,罪深い人の心に新しい心が与えられるのだと述べ,きよめられた心へと変革する神の霊の働きを語っている(エゼキエル36:26,27).さらに聖霊は主を恐れる知恵の心を人に賜り(箴言1:23‐29),「平らな道」すなわち霊的につまずくことのない地へと導く,「いつくしみ深い霊」である(詩篇143:10).御霊は神の民を救い,きよめ,正しい道へと導く方である.<復> (6) 聖霊とメシヤ.聖霊はメシヤを通して特に著しい働きをする.メシヤには「主の霊がとどまり」(イザヤ11:2),知恵,悟り,主を恐れる霊として彼の中に働く.しもべであるメシヤは御霊を注がれ伝道のわざをする(イザヤ42:1‐4,61:1,2,ルカ4:18).彼のわざにより,聖霊は神の民に注がれる(イザヤ32:15,44:3,ヨエル2:28,29).すなわちそれは終末的なわざである.メシヤの時代は聖霊の時代でもある.<復> (7) 人格的存在者である聖霊.三位一体の神は新約聖書において明らかになるが,人格者としての聖霊が旧約聖書に見られないわけではない.聖霊は「痛ませ」られる方である(イザヤ63:10).また,聖霊の人格化の表現も見られる(詩篇139:7,イザヤ59:21).これらは三位一体の神を明示するものではないとしても,御霊がヤハウェとは別の存在者であると示唆する聖句もある(イザヤ48:16英欽定訳,63:11).<復> 2.新約聖書における聖霊.<復> 聖霊の時代はメシヤの来臨とともに始まる.それはヨエルによって預言されていた通りである.(使徒2:16).聖霊なる神はどの時代にも働いていたが,特に新約時代になって,イエスの誕生の当初からその働きは顕著に見られる.<復> (1) 聖霊とイエス・キリスト.イエスの誕生は人間的なものではなく聖霊による.すなわち聖霊の超自然的なわざにより処女マリヤから生れた.神が人になったのである(マタイ1:18,20,ルカ1:35).イエスがバプテスマを受けた時,彼の公生涯の幕開けを告示するように聖霊が注がれた(マタイ3:13‐17).荒野の試練の時も,イエスは御霊に導かれた(同4:1).その後の彼の活動は御霊の働きによるものであった(ルカ4:14,18).イエス自身そのことを述べて「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出している」と言い(マタイ12:28),ペテロも後になって,イエスのわざは聖霊の注ぎによるものであるとあかししている(使徒10:38).イエスには聖霊が無限に注がれていたから,地上における働きがなされたのである(ヨハネ3:34).イエスは十字架につけられて贖いの死を全うしたが,ヘブル9:14ではこれについて,「とこしえの御霊によって」神にささげられたと言っている.イエスもまた聖霊について教えている.聖霊を汚す罪は赦されない(マタイ12:31).それはある特定の罪というよりも,人々の神に対する反抗的な態度を指していると考えられる.この場合,イエスのわざが明らかに神のものだと知りつつ,ある者がそれを否定した,そのことを聖霊を汚す罪だと言ったのである(参照ヘブル6:4‐6,10:29).イエスはまた,聖霊は人を新生させ(ヨハネ3:5‐8),霊的ないのちを与える(同7:38,39)と教えている.また,聖霊と未信者の関係については,御霊が彼らに働きかけると罪の認識を与える(同16:8)と言っている.信者との関係については,聖霊は「真理の御霊」として彼らを真理に導くと教えている(同16:13).すなわち,キリストをあかしする働き,つまりキリストの栄光を現すことである(同15:26,16:14).また,聖霊は弟子たちにイエスが語ったことを思い出させ,その真理を理解させることにおいても,真理の御霊と言える(同14:26).聖霊は「助け主」([ギリシャ語]パラクレートス)とも呼ばれている(同14:16,26,15:26,16:7).それは,そばに呼ばれたものの意味で,ある者はこれを「慰める者」(文語訳)とし,別の者は「弁護者」(新英訳)としている.キリストが救い主として[ギリシャ語]パラクレートスであるとともに(Ⅰヨハネ2:1),聖霊も弁護者である.キリスト者が危険や困難に遭った時の助け手として御霊は働かれる.イエスは聖霊についてこのように弟子たちに教え,復活後に「聖霊を受けなさい」と命じられた(ルカ24:49,ヨハネ20:22,使徒1:4,5).<復> (2) 聖霊と父なる神.聖霊が弟子たち(教会)に与えられるのは,父の約束による(使徒1:4).ペテロはそのことを述べて,神の右に上げられたイエスが父から約束された聖霊を受けて弟子たちに注がれたのだ,と言っている(同2:33).また,聖霊は父のみこころを人々に伝える.なぜなら,御霊だけが父のみこころの深みを知っているからである(Ⅰコリント2:10,11).それゆえ,預言者は聖霊に「動かされて」(持ち運ばれて)神のことばを語ることができたのである(Ⅱペテロ1:21).また,聖霊は教会,信者各個人の内に住む方である.父なる神は天にいまし(イザヤ57:15,マタイ6:9),他方,聖霊は内住する神である(Ⅰコリント3:16,6:19).<復> (3) 聖霊と教会.教会はペンテコステの日,聖霊の注ぎによって設立された(使徒2:1‐4).教会は神の宮であり,聖霊によって建て上げられていくのである(エペソ2:22).そして聖霊御自身が,その内に宿る(Ⅰコリント3:16).一方,教会は聖霊の支配の下に置かれており,それゆえ彼の語ることに耳を傾けなければならない(黙示録2:7.参照ヘブル3:7).聖霊の指導の下にある教会は,一致を守らなければならない(エペソ4:3‐6).これは霊的,有機的な一致であって,パウロはそれを「からだ」によって表している.それが可能なのは「一つの御霊によってバプテスマを受け,そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです」(Ⅰコリント12:13).かくて聖霊と信者との交わりだけでなく,信者相互間でも御霊による交わりを持つことができるのである(エペソ4:1‐6,ピリピ2:1,2).教会は聖霊の共同体である.聖霊は教会に賜物を与える(ローマ12:6‐8,Ⅰコリント12‐14章,エペソ4:7‐12).この賜物のリストには,信者にとって必須のものと各個人によって異なるものとがある.前者としては,「イエスは主です」という信仰の告白である(Ⅰコリント12:3).というのは,これなしにはキリスト者とは数えられないからである.後者としては,リストのすべての賜物が含まれる.また,このリストには教会の職制を表すものと,個人的なカリスマが含まれている.賜物は教会の建て上げに益となるように聖霊が与えたものである(Ⅰコリント12:7,14:12,エペソ4:12).聖霊の賜物の中で「異言」について多様な見解がある.異言がコリント教会では問題を起していた.第1の見解は,時代に関するものである.すなわち異言の現象は新約時代に限って起ったことで,後の時代には起らないものである.それは聖霊の時代が開始されたいわば一つのしるしとして神が置かれたものであるとする.これに対して別の人は,どの時代にも聖霊は働いており,今も異言はあるとする.第2の見解は,異言そのものについてである.異言([ギリシャ語]グローサ)には,舌,言語(外国語),恍惚状態における語り,の意味がある.すなわち,ある者は異言を恍惚状態での語りであるとし,別の者は人が理解し得る外国語であり,聖霊の能力を受けて外国語を話すようになることだとする.<復> 教会の成長と発展もまた聖霊の働きによる.信徒のあかしは大切なことであるが,彼らに聖霊が臨むことによって信徒は真の証人になることができる.迫害にもかかわらず,聖霊に満たされた者たちは福音を語り(使徒4:31,6:10),信徒の増加を見ることができた(同9:31).アンテオケ教会がバルナバ,サウロ(パウロ)を伝道に派遣したのも聖霊の働きかけによるものであった(同13:1‐4).その後の彼らの働きの中に聖霊は働いていた(同13:9).聖霊はまた会議にも臨んでいる.律法との関係で教会が重大な局面にあった時,聖霊はエルサレム会議に介入していた(同15:28).<復> (4) 聖霊と信者.人が教会,神の国に属する時,必須なものは新生である.イエスはユダヤ教徒の優れた人物,ニコデモにも御霊による新生の必要を話した.それは風のような働きをするいのちを与える聖霊の働きによる(ヨハネ3:8).同様のことをパウロは御霊が「イエスは主です」という告白に人を導くと言う(Ⅰコリント12:3).聖霊は神の子に内的なあかしを与える(ローマ8:16).実際,キリストの御霊を持たない者はキリストに属する者ではないのである(同8:9).ヨハネも,人は御霊によって神が信者の内にいますことを知るのだと教える(Ⅰヨハネ3:24,4:13).神の子となった者を聖霊は導く.その一つは祈りである.知的,肉体的弱さを持つ人間は,祈りにおいても弱さを持っている.その者を聖霊はうめきのとりなしをもって助ける.それは聖霊が神のみこころと人の思いを知っているからである(ローマ8:26,エペソ6:18).キリスト者の成長について,「肉」の問題がある.肉([ギリシャ語]サルクス)には,肉体,統体としての人間,罪性などの意味がある.ガラテヤ5:19以下には,罪性としての肉が明示されているが,これを処置するのは聖霊である.肉は御霊と対立するものであり(ローマ8:4‐9),肉に属する者は御霊に属する者と区別されている(Ⅰコリント3:3).この肉を処置するのは十字架であるが(ガラテヤ5:24),救いの適用者は聖霊であるので,十字架による肉の処置もまた聖霊の働きによると考えてよい.ローマ8:13はそれを示唆している.聖霊は信者を聖化する(Ⅰコリント6:11,Ⅰテサロニケ4:7,8,Ⅱテサロニケ2:13,Ⅰペテロ1:2).信者の成長について,聖霊は「内なる人」を強くする(エペソ3:16).内なる人とは,人間の内面を構成する要素,すなわち心情,理性,霊性,良心,意志等の統合である.内なる人を強めるとは,人が聖霊の刷新によって新しくされ,その内面が健全に活動することである.キリスト者は健全な成長のために,聖霊の働きを消してはならないし,また聖霊を悲しませてはいけない(Ⅰテサロニケ5:19,エペソ4:30).では,御霊を悲しませると,御霊はキリスト者から離れてしまうのだろうか.否,離れるのではなく,むしろ,聖霊はその人の罪を教えるのである.しかしなおもそれを続けるなら,主はその人の敵となるであろう(イザヤ63:10).キリスト者の成熟を表すものとして「御霊の実」がある(ガラテヤ5:22,23).これらは人間が本来持っているものというより,本質的に御霊が生み出すものである.また,聖霊は教会の内にだけでなく,信者個人の内にも住まわれる(Ⅰコリント3:16,6:19,Ⅱテモテ1:14).彼の内に御霊がいますとは,彼が神の子であり,神のいのちを持ち,聖霊による神との不断の交わりを持つということであり,聖霊は彼を臨在の生活へと導く.<復> 聖書は,「聖霊の満たし」「聖霊のバプテスマ」を教えている.バプテスマのヨハネは母の胎内にいる時から聖霊に満たされていたと言われ(ルカ1:15),イエスも御霊に満たされていた(4:1).初代の弟子たちも同様である(使徒4:8,6:5,7:55,9:17,11:24).エペソ5:18には「御霊に満たされなさい」と勧められており,それはすべての信者への命令である.聖霊の満たしは,特定の人へのものではなく,新約においてはすべての信者に対する約束である.ペンテコステの日には,そこにいたすべての者が御霊に満たされた(使徒2:4).聖霊による新生は1回限りのものであるが,聖霊の満たしは繰り返し行われる(同4:8等).これに関連して,「聖霊のバプテスマ」を聖書は教えている.これはバプテスマのヨハネのことばにさかのぼる(マタイ3:11).そしてイエス御自身もそれを確認している(使徒1:5).「聖霊と火」でバプテスマを授けるという場合,聖霊は火のような働きをする方であることを意味する.そして火は人間の汚れや罪をきよめるのである(参照マラキ3:1‐4).聖霊のバプテスマを受けるのは誰かについては二つの見解がある.第1は,新生の経験を持った時であるという立場である.その根拠はⅠコリント12:13の「一つの御霊によってバプテスマを受け」てキリストのからだにつながった,という句は,人が信者になった時,聖霊のバプテスマを受けたと考えられる,というものである.そして「聖霊の満たし」は信者の生活において次々と起る経験であると教える.第2は,聖霊のバプテスマは信者に与えられるものという立場である.その根拠は,使徒2:1‐4,8:12‐17などである.弟子やサマリヤ人は聖霊を受ける前にはすでに信者になっていたと考える.ただし,聖霊の満たしは,前者同様,繰り返し信者の生活に起るものであるとする.<復> キリスト者の成長とその目標についてはどうだろうか.聖霊は信者をイエス・キリストのように変貌させるよう働きかけている(Ⅱコリント3:18).その完成は,キリスト再臨の時である(Ⅰヨハネ3:2).信者に与えられている終末的な希望は,聖霊による栄化である(ローマ8:11).このように導かれていくのは,「御霊の初穂」(同8:23.口語訳では「御霊の最初の実」)を持つ者の当然のゴールであり希望である.<復> (5) 聖霊の人格と神性.聖霊は人格的存在者である.ギリシヤ語で聖霊は中性名詞であり,口語訳ではヨハネ14:17の聖霊について述べている代名詞を「それ」と訳しているが,むしろ新改訳の「その方」と訳すほうが適切である.聖霊は人格者である.彼は,教え,語り,導き,あかしし,とりなしをする(マタイ4:1,ルカ12:12,ヨハネ14:26,16:13,使徒5:32,8:29,ローマ8:16,26,27).聖霊は人格的特性として意志,思考の活動をする.彼は神の思いを知り,愛し,群れを牧させるなどする(Ⅰコリント2:11,16,ローマ15:30,使徒20:28).さらに聖霊は,憂い,欺かれもする(エペソ4:30,使徒5:3).<復> 三位一体論は教会の歴史において展開されるのであるが,父,子,聖霊の3者がそれぞれ別の人格的存在者として見られる事実が新約聖書にある.一つはイエスのバプテスマの場合である.イエスがバプテスマを受け,聖霊が鳩のように彼の上に下り,父の御声が天よりイエスに語られる(マタイ3:16,17).ヨハネ14:16,17には,イエスが父に願い,父が別の助け主を遣わすとある.<復> 聖霊の神性についてはどうだろうか.聖霊は神としての属性を持つ.彼は全知である(Ⅰコリント2:10,11).聖霊は神のみこころの深みまで,すべてのことを知っておられる方である.御霊は永遠者である(ヘブル9:14).また,聖霊は全能者である.マリヤは全能の御霊が臨んだのでキリストを胎に宿すことができた(ルカ1:35).使徒たちの奇蹟的な働きも全能の御霊の働きによる.聖霊は神としての働きをする.すなわち聖霊は死者をよみがえらせる(ローマ8:11).これは終末における復活のわざである.使徒5:3,4には,聖霊を欺くことは神を欺くことだとして,聖霊が神であると明示されている.さらに,聖霊が父と子と同列に置かれている事実は,聖霊の神性を示すものである(マタイ28:19,Ⅱコリント13:13).また,エペソ1:3‐14には父,子,聖霊の救済の祝福が述べられており,Ⅰペテロ1:2にも三位一体の神の恵みが列記されている.<復> (6) 聖霊の象徴.聖霊は鳩のようであると言われている(マタイ3:16,10:16).これは素直さを強調している(参照雅歌1:15,4:1).また聖霊は風(息)のようである(ヨハネ3:8,使徒2:2).これはいのちを与える聖霊を意味する.聖霊は火のようである(使徒2:3).聖霊は証印のようである.聖霊は信者の救いを保証する(エペソ1:13,14,4:30).保証とは,物を買う場合の内金である.すなわち内金によって売買の取引きが終ったように,新生によって救いは完了している.そして再臨の時,救いは,完成する.保証は,神が所有者であることを確実にするものである(Ⅱテモテ2:19).聖霊は油のようである.イエスは聖霊の油注ぎを受けられた(イザヤ61:1,ルカ4:18).それはメシヤとしてのあかしである.また,油は祝福,繁栄,喜び,聖別を意味する(ヘブル1:9).聖霊による力が油にたとえられている(ゼカリヤ4:1‐6).Ⅰヨハネ2:27にある「キリストから受けた注ぎの油」は聖霊を意味している.そしてこの油は信者を教えるとあるが,それはヨハネ14:17,26にあるように,真理を教える御霊である.このように真理を教える聖霊は油にたとえられている.聖霊は水のようである.イエスが,心の奥底から生ける水の川が流れ出ると語った時,その水は聖霊を意味していた(ヨハネ7:38,39,イザヤ44:3).水はいのちを与え,また清める(出エジプト30:18,エペソ5:26,ヘブル10:22).<復> 3.教会史における聖霊.<復> (1) 教父時代から中世の聖霊論.<復> 2世紀後半,モンタノス主義が起り,終末の接近と聖霊の降臨などを強調し,プリスキラ等,二人の聖霊の器を通して聖霊が語ると説いた.後これは異端とされた.一般的に初代教会以降,イエス・キリストの位格とわざについての関心が重大で,聖霊についてはなおざりにされがちであった.最初に聖霊についての神学的な表現をしたのはテルトゥリアーヌスである(220年没).彼が三位一体という語を造ったと言われる.彼は父,子,聖霊は表れにおいては三つの形,すなわち位格([ラテン語]ペルソナ)であるが,一つの実体であって,聖霊は父と子と同じ神性を持つと教えた.アレキサンドリアのオーリゲネース(254年没)は,聖霊の神性を論証してはいないが,父と子とともに栄光と尊厳を分ち合う方であるとした.また子が父に従属するように,聖霊は子に従属すると述べて従属性について考えていた.聖霊が被造者か否かについては明らかにしてはいないが,聖霊は教会内で働き,信者をきよめると説いた.4世紀になると,三位一体の神の位格についての関心が集中し始めた.ニカイア信条(325年)には,「われらは聖霊を信じる」とあるだけで,聖霊にはほとんど関心が払われていない.アリオス(アリウス)(336年没)は子を被造者としたが,聖霊については明確にしなかった.彼に対立したアタナシオス(373年没)は,聖霊が三位一体の神で,父から子を通して出ると結論した.アタナシオスの後継者とされるのは,カッパドキアの三教父と言われるバシレイオス(379年没),ニュッサのグレゴリオス(394年没),ナジアンゾスのグレゴリオス(389年没)である.ニカイア総会議後もアリウス派は衰えたわけではなく,父と子は似た本質であるとする([ギリシャ語]ホモイウシア)思想を継承し,マケドニオス派([ギリシャ語]プニューマトマコイ,聖霊異質論者)と呼ばれていた.彼らは聖霊の神性を否定した.この教えはマケドニオス(362年没)か,もっと確かなことは,バシレイオスから分れたエウスタティオス(377年没)によって唱えられた.これに対して三教父はアタナシオスの立場に立ち,父,子,聖霊の神性を強調し,一本質,三位格の正統的三位一体論を確立した.そしてニュッサのグレゴリオスは,聖霊は子を通して父より出るとした.その後ニカイア信条の徹底のため381年コンスタンティノポリス総会議が開かれ,ニカイア・コンスタンティノポリス信条が決定された.これによってマケドニオス派は拒否され,聖霊の神性の教理は確立された.しかし聖霊の出所については以後たびたび論争となった.すなわち西方教会では聖霊は父と子から発出するとし,東方教会では父からとして,「子から」([ラテン語]フィリオクェ)を除いた.西方教会が「子から」を付加したのは,アリウスへの反対の考えに源を持っていた.しかし東方教会では,神の単一性を強調し,聖霊は父から子を通してと主張したため,「父と子から」は拒否したのである.これは東西教会の分裂の一因となった.「子から」は,589年のトレド会議で加えられた.この論争を聖霊発出論争と言う.アウグスティーヌス(430年没)は三位一体の神の統一性を主張し,同じ本質で唯一であるとした.三位一体の神の等しさを強調したのである.聖霊の発出については,主として父からであるが,「子から」の立場も保持した.特に彼は,信者の生活と聖霊との関係について関心を持った.信者の生活は三位一体の神の働き,特に聖霊によって導入される神の愛によって建て上げられると教えた.アウグスティーヌスの影響を受けてアタナシオス信条が420—450年頃作成された.この信条はアタナシオスによって作られたものではなく,著者は不明である.これは,「父と子と聖霊の神性は一つ,御栄えは等しい」とあるように三位一体の神の等しさを述べ,第三位格の神の本質的な従属を排除している.区別している表現は,子は父から生れ,聖霊は父と子とから発出するという点である.ペトルス・ロンバルドゥス(1160年没)は父,子,聖霊は同質,同等,本質において一つ,人格においては複数であるとした.一般的に中世においては聖霊論についての発展はあまりない.それは一方ではトマス・アクィナス(1274年没)のように理性によるキリスト教理解があり,他方,ベルナルドゥス(1153年没),エックハルト(1328年没),トマス・ア・ケンピス(1471年没)のような神秘的傾向のゆえに瞑想,祈りという行為の中に聖霊の働きを見ようとしたからである.<復> (2) 宗教改革から現代までの聖霊論.宗教改革は,聖霊論についてはこれまでの正統的信仰を受け継いだ.ルターはアウグスティーヌスと同じ立場を保持している.宗教改革の一つの柱は「信仰のみ」であるが,福音を聞く者に信仰を起すのは聖霊であると強調する.また「聖徒にして罪人」という主張もルターの立場であるが,信者が聖化されていくのも聖霊が彼を治めるからであり,彼は純化され強められていくよう聖霊に守られているのであると言う.この恵みはキリストによって与えられるのであるが,その確かさは聖霊によるのである.キリストは聖書に表されているが,聖書の理解は聖霊によってこそ可能であり,また聖霊は聖書のみことばを通して働くのであると言う.カルヴァンにおける聖霊の働きは聖書論との関係において強調されている.宗教改革の原理の一つは「聖書のみ」である.カトリックは聖書の権威の所在を教会に置くが,カルヴァンは聖霊に置く.聖霊は聖書記者に働きかけたが,聖書の読者にも働き彼らにそれが神のことばであると確証させる.人間の理性を超えて働く聖霊の内的あかしが聖書の権威の基礎となるのである.また聖霊はキリストと信者を結び付け,彼の内に信仰を起させる.アナバプテストは,聖霊を過度に重視し,「内なることば」を強調した.そのため,聖書を軽視することにさえなった.例えばミュンツァーは(1525年没),ルターの聖書重視を批判し一種の心霊主義を強調した.トリエント公会議(1545—63年)は宗教改革に対してカトリック教会が教理を整理するために開いたものであるが,聖霊に関しては「成義に関する教会」を出している.神の先行的な恵みはすべての人に注がれており,聖霊は人の自由意志を強め人が義とされたいという努力を助ける.カトリックと宗教改革者との聖霊についての根本的な相違は自由意志に対する考え方の相違にある(ルターの『奴隷意志論』を参照のこと).一方,プロテスタントにおいても,アルミニウス主義条項(1610年)が,カルヴァン主義への反動として出てきた.この立場の者は自由意志と神の普遍的恩恵を唱える.人に働きかける聖霊の先行的,後行的,協働的な恩恵によって人は救われることができるとする.カルヴァン主義とアルミニウス主義の調停のためにドルト会議が開かれ(1618—19年),ドルト信仰規準が作成された.しかし内容は実際にはカルヴァン主義によって支配されている.ウェスリ(1791年没)は聖霊を聖化と深く結び付けている.新生は初期的聖化であり,それによって信者となるが,信者は第2の恵みである,全き聖化へと進む.これをキリスト者の完全とも言う.このような経験は聖霊が導くものである.しかもその経験は聖書に基づいていなければならないが,経験の確かさを聖霊が与える.ウェスリはこの聖霊のあかしを強調した.<復> 17—18世紀はプロテスタント正統主義が聖霊について関心を失った時代である.第1の理由はスコラ主義である.聖書は唯一の信仰の権威であり,みことばへの強調がなされ,聖霊の働きについては軽視されがちになった.信仰とは正しい教理を信じることであるとしたわけである.第2の理由は,合理主義である.人間理性が権威となり,理神論が起ってきた.従って聖霊の働きについては無関心になったのである.第3の理由は,ロマン主義である.これはシュライアマハー(1834年没)によって代表される.彼はヘルンフートの敬虔主義の中で育ち,経験主義の神学の立場に立った.信仰は教理体系ではなく敬虔な感情であるとして,感情を土台とする神学を樹立しようとした.彼にとっては,聖霊は三位一体の神の第三位格の方ではなく,神的な力である.聖霊は教会の共有精神であり,信者の精神を鼓舞する神の力であるとされた.<復> 20世紀は聖霊に対する新しい関心が起ってきた時代である.K・バルトは,「イエスは主である」を神学の出発とし,父,子,聖霊は「主」として啓示する神であるとする.三位一体の神は三つの異なった人格があるというのではなく,語りかける唯一の「我」なる神がいまし,一つの人格に父,子,聖霊の三つの異なった仕方でいますと言うのである.しかしこれは様態論ではない.彼によれば,聖霊が注がれることは啓示が与えられることであり,啓示は救いである.しかも信者が聖霊のわざを語る時,それは単に個人の経験ではなく,キリストのからだである教会への結び付きで語るのである.聖霊が人を教会に帰属させるからである.従ってバルトの聖霊論は教会論となる.P・ティリヒは,「呼応の方法」という構成によって神学を立て,人間存在の持つ問に啓示が答えるものとした.聖霊は破れた人間存在に究極的に答えるものである.とは言えティリヒは,伝統的な意味で三位一体を理解せず,象徴としてとらえている.聖霊は神的生命を人間に与える神の自己開示の豊かさを表す象徴なのである.イエスと私の間で呼応する関係の中で私が変えられていくこと,これが聖霊の働きであるとする.19世紀末になって,ペンテコステ派の活動が北米において盛んになった.これはスカンジナビア諸国,ラテンアメリカ,さらに第三世界に広まっていった.ペンテコステ派は異言や神癒を強調する.最初は教派の形をとっていたが,1950年代頃からは伝統的な教派,カトリック,ルーテル派,聖公会の中にもペンテコステ派の影響が及び,カリスマ運動となっている.そしてネオ・ペンテコステとも言うべき超教派的な動きを持つようになった.→三位一体・三位一体論争,神(かみ)論,キリスト論,キリスト論論争.<復>〔参考文献〕宮内彰/小野一郎『聖霊の理解』日本基督教団出版局,1964;H・ベルコフ『聖霊の教理』日本基督教団出版局,1967;『信条集』(前篇・後篇)新教出版社,1982;L・モリス『聖霊について』いのちのことば社,1985;W・ウォーカー『キリスト教史』全4巻,ヨルダン社,1984—86 ; Carter, C. W., The Holy Spirit, Schmul Publishing, 1983 ; Sweet, H. B., The Holy Spirit in the New Testament, Baker, 1964 ; Erickson, M. J., Christian Theology, Baker, 1986.<復>(松木祐三)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社