啓示論とは?
啓示論…
啓示([英語]Revelation,[ドイツ語]Offenbarung)という言葉は,隠されていることがあらわになる,明らかになる,それまで知られていなかったことが知られるようになるということを意味するギリシヤ語アポカリュプトー(マタイ11:25,ローマ1:17,18,ガラテヤ1:16)や[ギリシャ語]ファネロオー(ローマ1:19)などに由来する神学用語である.神御自身が行為と言葉において御自身を啓示して下さらなければ,人間は神について何も知ることができない.神は近付くことのできない光の中に住んで(Ⅰテモテ6:16)おられるので,人間は神をあるがままに認識することはできない.神が御自身の存在と性質,計画と意志について明らかにして下さり,知識を伝達して下さる限りにおいて,人間は神を知り,神を礼拝し,神との交わりにおいて生きるべき道を知ることができる.神が御自身を見出せるようにして下さるのでなければ,人間は神を正しく探し求め,正しく知ることはできない.神についての知識は,神が御自身を啓示される時にだけ,また,啓示することをよしとされる程度においてだけ成立する.神が創造者にいます超越的存在者であるのに対して,人間は被造者であり派生的存在者である.存在論的にも認識論的にも神は自己充足的存在者であり,人間は依存的存在者である.それゆえ,神の自己伝達と自己顕示としての啓示がなければ,人間は,哲学者がしばしば神認識の手段と考える理性推論によっても直観によっても,神を認識することはできない.さらに,堕落以後の人間は罪によってその存在の宗教的根元においてむなしくなっている.心の目の見えない状態と知性の暗黒化により神について正しく知ることができなくなっている(Ⅰコリント1:21,2:14).神は恩恵によって人間の救いについての啓示を与えて下さった.<復> 1.一般啓示.<復> (1) 一般啓示の意味と意義.一般啓示([英語]General Revelation)は,自然,良心,歴史における神の啓示である.聖書は神が御自身の存在と性質についての真理を,自然や人間の道徳的意識や歴史を通して,全世界,すべての民族,あらゆる時代に現しておられることを教えている.神は自然を通して世界の創造者としての御自身を啓示しておられる.「天は神の栄光を語り告げ,大空は御手のわざを告げ知らせる」(詩篇19:1).また,神は人間の心に律法を記し,人間の道徳的意識や良心を通して道徳法則の立法者としての御自身を啓示し,御自身の義なる性質,要求,違反に対する罰のあることを示しておられる(ローマ2:14,15).自然も人間も歴史も,被造物・被造者・被造世界の存在とその自然的被造構造と秩序に関するものであるから,それらを通して与えられる啓示である一般啓示はまた自然啓示([英語]Natural Revelation)とも呼ばれる.しかし,場合によっては,一般啓示の中の狭義の自然における啓示が自然啓示と呼ばれることもある.<復> →自然/・・←を通して神は御自身の神性とあらゆる良き御性質を啓示しておられる.「神の,目に見えない本性,すなわち神の永遠の力と神性は,世界の創造された時からこのかた,被造物によって知られ,はっきりと認められるのであって,彼らに弁解の余地はないのです」(ローマ1:20).神の見えない御性質が,見える被造物,神の御手のわざを通して,創造の時以来ずっと,明らかに見られ得るとパウロは述べている.神の見えない御性質,神の永遠の力と神性とは神の知恵,力,聖,正,義,善,真実など神の完全な良き御性質の全体を指している.見える被造世界の中に,創造者なる神の存在と御性質から来る栄光が豊かに現されており,人間の心が正常であればそれは明らかに認められ得るものである.大きな天空にも小さな石の結晶にも創造者なる神の栄光,すなわち,御存在と御性質の顕示が豊かに刻み付けられ,明らかに認められる.このように,「神について知りうることは,彼ら(人間)に明らかであるからです.それは神が明らかにされたのです」(同1:19).それなのに,人間はこの神の真理を不義をもって抑圧し,阻んでいる.この人間の不敬虔と不正に対して,神の怒りが天から啓示されている(同1:18).不敬虔は神に対する宗教的邪悪さであり,不正は道徳的邪悪さである.共に神に対する罪である.人間はこのように明らかな神の一般啓示に対して真理抑圧的阻止的応答をすることによって,神の前に「弁解の余地をなくしている」(同1:20).「というのは,彼らは,神を知っていながら,その神を神としてあがめず,感謝もせず,かえってその思いはむなしくなり,その無知な心は暗くなったからです」(同1:21).人間の心が正常で澄んでおれば,人間はこの自然啓示を通して,創造者なる神を認識し,礼拝し,感謝し,栄光を神に帰するはずである.それほど圧倒的に十分にかつ明瞭に,創造者なる神は被造物において御自身の存在と性質を示しておられるのに,人間は自らに責任のある罪によって,その存在の宗教的中心である心において目の見えない状態となり,知性は暗くなって,神をあがめず感謝もせず,いよいよ神の前に弁解の余地をなくし,滅びへの十分な理由を積み重ねている.自然啓示はこのように人間を罪に定める役目を果している.それゆえ,自然啓示は十分に明らかであっても,人間を救いへと導くことはできず,かえって滅びへと定めるものとなり,救いのためにはイエス・キリストにおける神の特別啓示の必要性を示すものとなっている.ローマ1章は,16節で,福音のみがユダヤ人を初めギリシヤ人にも信じるすべての人にとって救いを得させる神の力であることを宣言し,これと対照的に18節以下は,一般啓示を阻む人間の不敬虔と不正に対して示される「神の怒りが主題となっているのである」(ベルカウワー).それゆえに,18節以下の議論を,特に「神を知っていながら」という言葉を,非再生者も福音受容の前提になるようなある程度の正しい神認識を持っているというような,自然神学を容認する主張として読むことはできない.聖書の一般啓示・自然啓示の主張は決して自然神学を容認するものではないことを銘記すべきである.非再生者は,正しく神を認識し神の要求に服従するという認識的・倫理的な意味においては神の像(かたち)を喪失している.彼らの「無知な心は暗く」(ローマ1:21),「心はむなしく」(エペソ4:17)なり,「心の目の見えない状態・硬化・かたくなさ,[ギリシャ語]ポーローシス」(同4:18)によって「神のいのちから遠く離れる」(同4:18)霊的死に陥っており,「知性は暗く」(同4:18)なっている.心([ギリシャ語]カルディア,ヌース)という言葉は聖書においては人間存在の宗教的根元を意味し,知性,意志,感情などの諸機能の座,知識と義と聖の神の像の宿る座と考えられている.この心がかたくなで目の見えない状態になっていることによって神のいのちから遠く離れる霊的死にとらわれているゆえに,この心にある正しい神認識が取り去られ,無知な悟りのない心となり,この心に座を持つ知性はむなしい思いのみを生み出すものとなった.従って,いくら被造物を通しての神の良き御性質の啓示に接しても,この無知な心は自らのうちにある神知識を抑圧し「不滅の神の御栄えを,滅ぶべき人間や,鳥,獣,はうもののかたちに似た物と代えてしまいました」(ローマ1:23).「神を知っていながら」という神知識は無知な悟りのない心によってねじ曲げられ,偶像礼拝の不敬虔に行かざるを得ないのである.彼らは「神の真理を偽りと取り代え,造り主の代わりに造られた物を拝み,これに仕える」(同1:25)という偶像礼拝の不敬虔と心の欲望のままの不道徳(1:24)に引き渡されている.<復> 一般啓示のもう一つの主要な形態である人間の→道徳的意識/・・・・・←と良心についても同様の真理抑圧的阻止的な人間の反応がある.ユダヤ人も異邦人もすべての人は神の道徳律法に違反している咎ある存在である.ユダヤ人は書かれた律法に違反した罪ある者であり,異邦人は心に記された律法に従うことのできない罪ある者である.「彼らは,そのようなことを行なえば,死罪に当たるという神の定めを知っていながら,それを行なっているだけでなく,それを行なう者に心から同意しているのです」(同1:32).<復> 神は,一般啓示を通して,すなわち,自然における御自身の良き御性質の顕示や人間の心に律法を記すことによって,創造主なる神を認め,礼拝し,御旨にふさわしい生活をするように要請しておられる.それゆえ,この一般啓示に対する不義をもっての阻止,不敬虔と不正の罪は滅びへの十分な理由である.弁解の余地はない.一般啓示は,人間をこのように罪に定め,一切の言い逃れの口実をふさぐ役目を持っていると言える.一般啓示は,人間に救いをもたらすものではなく,人間を罪に定め,有罪性を確定する役割を荷なっていると言える.<復> (2) 一般啓示と非再生者の神意識.どのような人も宗教的に中立ということはあり得ない.これは聖書も歴史も経験も示している.非再生者も神意識を持っている.これはしばしば,神性の感覚([ラテン語]sensus deitatis)とか神聖感覚([ラテン語]sensus divinitatis)と呼ばれている.パウロはアレオパゴスの説教において,アテネの人々の宗教性に訴えかけており,これは宣教における接触点として重要である.「アテネの人たち.あらゆる点から見て,私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております」(使徒17:22).非再生者における神意識そのものを一般啓示として説明する書物が多いが,それは正しくない.異邦人が共通に持っている神意識を説明するには,一般啓示を一般恩恵,神の像といった神学的に重要な諸概念とともに考えなければならない.自然と道徳において,神は創造者,立法者としての存在と性質を啓示しておられる.この一般啓示は一般恩恵([英語]common grace)と深く関係している.<復> 「一般恩恵」は非再生者にも共通に与えられている非救済恩恵で,大ざっぱに言うと三つの点に集約できる.まず第1に,ノア契約にも示されているように,神は人間の罪にもかかわらず,被造世界をその構造的秩序とともに保存して下さる保存恩恵である(創世8:22).被造世界は,それ自身被造物である時間の秩序に創造されており,多様な時間秩序は様々な法則性を形成して,自然の法則,道徳の規範など,見えるもの見えないものすべての被造物の存在の形式となっている(参照創世1章,エレミヤ33:19,20,25).第2に,この構造的秩序の中で,雨や日光を与え,自然の恵みを与えて下さる.普通に,「雨と日光の恵み」と呼ばれているものである.「過ぎ去った時代には,神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました.とはいえ,ご自身のことをあかししないでおられたのではありません.すなわち,恵みをもって,天から雨を降らせ,実りの季節を与え,食物と喜びとで,あなたがたの心を満たしてくださったのです」(使徒14:16,17).「雨と日光」を通し自然の恵みを与え,創造者なる神を愛し,神に立ち返るように要請し続けておられる.一般恩恵も恩恵である限り,これに感謝と賛美の正しい応答をしないことは悪性の罪となる.第3に,人間の罪がその本性をむき出しにしないように,神が一般恩恵によって罪の力を抑制して下さり,非再生者も社会正義を守り,相対的な善を樹立できるようにして下さる抑制恩恵がある.さらにこの相対善を発展させて下さる発展恩恵を挙げることができる.このように,一般恩恵によって,被造世界が保存され,被造世界には創造の法が貫徹しており,自然,道徳を初めとする被造世界の全現象が摂理的に統御されていく中で,一般啓示における神の永遠の力とあらゆる御性質の被造物における顕示があるのである.<復> さらに,この一般啓示に対する人間の反応,不義をもって真理を阻む不敬虔と不正の反応,すなわち,宗教性が人間のみにあるのは,人間の心に「神の像」([ラテン語]imago Dei)の残滓(ざんし)があるからである.人間の中に宗教心があるということは,人間が神の像に創造されたという根本的事実と深く関係している.まず,人間には堕落の後も,保存恩恵によって心が存在し(創世8:21,ローマ1:21,エペソ4:17,18),その心に座を持つ知性や意志などの諸能力が存在して(エペソ4:18),動物など他の,神の像を持たない被造物と区別されている.これは,堕落後の人間における神の像の存在的・形而上的残余である.しかし,この心は,むなしくなっており(同4:17),かたくなで目の見えない霊的死の状態にある(同4:18)から,これに根と座を持つ知性やその思いは暗くなっている(同4:17,18).この状態は十分に明白な神の一般啓示・自然啓示が被造世界の隅々に明白に輝きわたっているが,これに反応する人間の心は罪の黒雲のベールでおおわれているので,不義をもって真理を阻む不敬虔と不正の反応をしている状態である.これが,神を知っていながら神としてあがめず感謝もせず,不滅の神の栄光を鳥や獣やはうもののかたちに似たものに代え,弁解の余地を自らなくし,偶像礼拝と不道徳に渡されている理由である.これが人間の宗教性を説明する.すべての人間の心に「宗教の種子」([ラテン語]semen religionis)が蒔かれており,神聖感覚([ラテン語]sensus divinitatis)と呼ばれる神意識の感覚([ラテン語]sensus)がある.また,神についての意識は立法者についての意識でもあるから,すべての人の心に「法の種子」([ラテン語]semina legum)が蒔かれており,法感覚([ラテン語]sensum legum)と呼ばれる感覚がある.法感覚は宇宙法,道徳法,市民法に分けられ,すべての人は自然と道徳と社会がそれぞれ,法則性や規範的秩序によって貫徹されたものであることに気付いている感覚を持っている.これを神の像の心理的残余と呼ぶことができる.すべての人間の持っている生得観念やアプリオリ(先天的)な概念や自然法など哲学者の主張する概念は,神学的には一般啓示と一般恩恵と神の像の残余([ラテン語]residuum)から説明のつくことである.すべての人が,創造者・立法者の意識を持っているからといっても,これらは不義をもって真理を阻む不敬虔と不正の宗教的倫理的反応であるから,神の前にいかなる口実も封じられる反応であり,神の怒りの対象(ローマ1:18)である.それゆえ,神を正しく認識し,神の御意志に従って行為することはできないから,非再生者にあるこの神意識は決して,福音によって補修・修正されれば正しい神認識になるような福音受容の前提になる神意識ではないし,人間の知性的道徳的行動は救いにあずかる何らかの役割を演ずるものではない.従って,非再生者は認識的・倫理的意味においては神の像を喪失しているのである.知識と義と聖という意味における神の像の回復は,主イエス・キリストを知る特別な啓示と特別な恩恵によって生れ変るほかは不可能である(エペソ4:21‐24,コロサイ3:10).キリスト者はキリストにあって神の像に再創造されたものである(Ⅱコリント4:6).誰でもキリストにあるならばその人は新しく造られた者である(同5:17).この意味で,自然啓示を主張することは,決して自然神学を容認することではないことを再度,覚えるべきである.<復> (3) 一般啓示と接触点の問題.しかし,一方において,この非再生者の中にある神意識は,福音宣教における接触点([英語]point of contact,[ドイツ語]Anknu¨pfungspunkt)として重要な問題となる.パウロとバルナバはルステラにおける説教において,異邦人の持っている神知識に訴えた(使徒14:15‐18).パウロはアレオパゴスの説教においてアテネの人たちの宗教心に訴えかけた.神の像に創造された人間のみが,一般啓示に反応し得るのであるから,人間を他の動物から区別する特色としての名は,ホモ・サピエンス(知識人)でもホモ・ファーベル(工作人)でもホモ・ルーデンス(遊戯人)でもなく,ホモ・ピウス(敬虔人)が基本的である.「アテネの人たち.あらゆる点から見て,私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております」(同17:22).パウロは一般啓示に対する人間の応答性としての宗教性の中に福音宣教の接触点を見出している.人間が神の像の宿る座である心という人格の統一点を持つ宗教的存在である,という存在論的形而上学的事実と,この心に刻まれた神聖感覚(神意識と律法の意識.ジョン・マーレイは後者を神聖感覚と呼ぶ)を持っているという心理学的事実こそ,再生者と非再生者の共通領域であり,接触点である.救いの福音の宣教に当って,この点の理解はまことに重要である.しかし,忘れてはならないのは,パウロが「知らずに拝んでいる」ところの「知られない神」と呼んで,アテネの人たちが無知な偶像礼拝に陥っていることを指摘していることである(同17:23).彼らの宗教とパウロの宗教には認識論的・倫理学的な意味での共通領域は存在していない.自然神学の成立する余地はない.パウロは,この無知の悔い改めを要求し(同17:30),「ひとりの人」の義とさばきと復活の福音を宣べ伝えた(同17:31).<復> 以上,一般啓示について述べたことは,一般啓示に対する人間の応答としての神知識や道徳的意識が福音受容のための合理的基盤を提供するという自然神学や半ペラギウス主義を退けると同時に,他方,神の言葉のほかにあるものとしての一般啓示の一切の実在性を否定するバルト主義の立場も退けるものであることは明白である.<復> 2.特別啓示.<復> (1) 特別啓示と聖書.神の永遠の力と神性とは天地創造このかた被造物において明らかに認められるが,人間はこの創造と摂理のわざにおける一般啓示を不義をもって阻止し,不敬虔と不正に身をゆだね,真理を変えて虚偽とし,弁解の余地をなくしている.それゆえに,自然啓示は人間の救いについては不十分なものになっている.そこで,神は,人間の救いのための救贖的超自然的啓示によって,救いに必要な御旨を伝達された.自然啓示が救いのために不十分という意味には二つの理由がある.第1に自然啓示は明瞭であっても,それを受け取る人間の心が罪による神の像の毀損により目の見えない状態になっているということ,第2に,自然啓示は創造されたままの全人間に対する啓示なのであるから,罪を犯した後の人間の救いについて必要な知識は含まれていないということである.「若し神が,罪によって荒廃させられた被造世界を回復し,人間を神の像に再創造し,もう一度,人間を天の永遠の祝福の中に生きるようにすることをよしとされるのであるならば,特別啓示は必要である.なぜなら,このような目的のためには,一般啓示は不十分である」(バーヴィンク).自然啓示は創造者なる神が被造者なるすべての人間に被造物を通して与えられた一般啓示であるが,特別啓示は神が救い主として罪人に救いのために与えられた特別な御旨の啓示である.特別啓示は神の選民にだけ与えられている啓示であり,神の救いの恩恵を知らせるものである.旧約においてはイスラエルに,新約においては教会に与えられた.特別啓示は罪人の罪を赦し,キリストにおいて神の像を回復させ,正しい神礼拝と神との交わりに生きる新しい生命へと再生させ,新しい視力を与えて自然啓示を新たに解釈させることによって創造の目的に奉仕する道を再興し,神の国の永遠の嗣業にあずかること,これらのことへと罪人を回復するための神の御旨の啓示である.創造の目的を再興し,実現に導く神の啓示である.神は救い主として救いのための御旨の啓示を歴史の進展の中でいろいろな方法で示された.「神は,むかし先祖たちに,預言者たちを通して,多くの部分に分け,また,いろいろな方法で語られましたが,この終わりの時には,御子によって,私たちに語られました」(ヘブル1:1,2).昔先祖たちに預言者たちを通して神が語られた啓示と,この終りの時に私たちに御子によって神が語られた啓示と書かれているように,特別啓示には二つの段階があることが示されている.同じ神が語るのであるから,価値における上下はないが,啓示における歴史的進展がある.旧約は一つのイスラエル民族の王国を通しての約束であり,新約は普遍的な霊のイスラエルにおける成就である.神はイスラエル民族の歴史において預言者たち(ここでは神の啓示の媒介者として用いられた広い意味での預言者たち)を通して贖罪の計画と約束を預言し,時満ちて神は約束の贖い主イエス・キリストの受肉・生涯・十字架・復活・昇天・再臨の出来事を通してこの約束を成就されたのである.「この終わりの時には,御子によって,私たちに語られた」.神がそのひとり子によって語るという決定的最後的な啓示行為を超えて進む救いの啓示はない.それまでのすべての啓示は,このイエス・キリストにおける神の啓示を指し示してきたのである.キリストは受肉と公生涯,十字架と復活とによって,神の御旨をこの世に十分に啓示し,こうしてすべての預言と啓示に終りを告げられた.預言者たちは,来るべきこのイエス・キリストをあかしし,イエス・キリストは御自身についてあかしし,弟子たちや使徒たちは来りたもうたこのイエス・キリストをあかししたのである(ルカ24:27,44).私たちは,昔,預言者たちによってなされたイエス・キリストの約束のあかしを旧約聖書に持ち,御子によって与えられた成就と完成の啓示を新約聖書に持っている.神はこの救いの真理を一層よく保存し,世に伝えるために,御子による救いの啓示を完結した確実な形で文書にゆだねることを良しとされた.聖書は完結した,救いのための神の言葉であり,今日,神は聖書を通して,同じことを語っておられる.聖書は救いのための出来事と解釈の統一,事実と意味の統一としての神の言葉,救いの使信である.昔の啓示方法は今は停止されているので,文書啓示としての聖書が,神の救いの啓示を得る唯一の不可欠の通路である.それゆえ,私たちは,文書啓示としての聖書において,昔預言者たちを通して語られ,終りの時である今,御子において完結した,神の救いの言葉を持っている.<復> 「神の救贖的啓示の進展は,アブラハムへの約束から始まって…いなエデンの門の原福音から始まって…キリストの来臨とみわざ,使徒たちの教えにおける完成に至るまでの発展である.この発展は,着実な進展的発展であり,聖書の各頁において展開されるとき,その究極的完成点から振り返ってこの進展を見る人には,キリストの偉大な姿が先立つすべての時代に落している影を認めるのである」(ウォーフィールド).前掲のヘブル1:1に「多くの部分に分け,また,いろいろな方法で語られた」とあったように,それぞれの時期に特色ある啓示の進展を与えられた.原福音と言われる形での女のすえの勝利の予告としての恵みの契約の提示(創世3:15),救いの完成まで被造世界が保存される約束としてのノア契約(同8,9章),信仰によるアブラハムの子孫の祝福の約束(同12,15,17章,ガラテヤ3:6‐9),エジプトから贖い出された神の民イスラエルに与えられたシナイ契約と律法(出エジプト19‐24章),ダビデ契約による永遠の王の約束と預言(Ⅱサムエル7章,使徒2:29‐31).これら旧約としての恵みの契約はイエス・キリストにおいて成就した.「神は…この終わりの時には,御子によって,私たちに語られました.神は,御子を万物の相続者とし,また御子によって世界を造られました.御子は神の栄光の輝き,また神の本質の完全な現われであり,その力あるみことばによって万物を保っておられます.また,罪のきよめを成し遂げて,すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました」(ヘブル1:1‐3).<復> 「いろいろな方法で語られた」とあるように,様々な啓示の方法が用いられた.預言時代以前の族長時代の啓示の特徴は「外的顕示と象徴と神顕」(ウォーフィールド)である.<復> 神が人間の知識や意識の対象になる自然を用いた超自然的表象を通して御自身の存在と意志(救いの計画)を啓示する方法は,顕現と言われる.神はモーセに直接的に語られた(出エジプト19:9‐25,民数12:8).ケルビムのような象徴において現存を示された(詩篇80:1).火と煙(創世15:17),炎(出エジプト3:2),雲(出エジプト19:9,40:34),嵐(ヨブ38:1)などの自然現象を用いながら,あるいは伴いながら,御自身の現存と意志を啓示された.夢(民数12:6)や幻(同12:6,イザヤ1:1)などの内的意識現象を通して御自身を啓示された.また主の使いによる神の啓示がある(創世18:1‐33,22:11,15).主の使いの多くの例は,単に被造者としての天使ではなく,神と一面において区別されてはいるが(イザヤ63:8,9),他面において同一視されている特別な神の自現としての顕現を示している(創世31:11,32:28,48:15,16,出エジプト3:2‐14,士師6:11‐18).この御使いが三位一体の神の第二位格なるキリストを示す場合があるということが承認されている.神の自現はキリストの受肉において頂点に達する.<復> 聖書の中には直接使用されてはいないが,神の臨在,あるいは顕現を示す[ヘブル語]シェキーナーという言葉がある.「住む」「宿る」という意味の[ヘブル語]シャーカンから派生した言葉で,神の崇高性,超越性を傷つけないために,擬人法的表現を避けつつ,同時に神の顕現と臨在を示すためにシェキーナーという言葉がタルグムの中で用いられた.ユダヤ人は会見の幕屋をおおった栄光の雲(出エジプト40:34)を主の御臨在を示すシェキーナーと表現した.ヨハネは「ことばは人となって,私たちの間に住まわれた」「言は肉体となり,わたしたちのうちに宿った」(ヨハネ1:14.後者は口語訳)と言い,イエス・キリストにシェキーナーを見ている.イエス・キリストこそ,私たちのうちに天幕を張って住まわれた神の臨在,顕現そのものである.出エジプト40:34で「雲は会見の天幕をおおい,主の栄光が幕屋に満ちていた」と言われている.ここでは,雲は,ほぼ,栄光と同義であり,ユダヤ人は栄光と訳される意味をシェキーナーに込めていた(「私たちはこの方の栄光を見た」ヨハネ1:14.参照ヘブル1:3).<復> (2) 現代の啓示理解とその批判.自由主義神学における理性の偏重に対して,現代神学が啓示を再評価し,特別啓示への関心が高まっているとはいえ,言葉啓示と行為啓示の誤った区別の傾向が見られる.特別啓示が救いのみわざとしての行為や出来事とそれについての言葉や解釈から成ることは本当である.しかし,行為啓示と言葉啓示を切り離して,行為啓示を人間の心の中における出来事と考えたり,言葉啓示を救済の出来事についての人間の証言と見ることは誤りである.<復> シュライアマハーは,信仰命題は神意識とともに措定された自己意識としての絶対依存の感情,すなわち,敬虔自己意識に覚醒する体験,換言すれば,キリスト者の救いの体験の記述と考えた.それゆえ,啓示は信仰者の内部に働く神の内的行為であり,人間の生の内側に覚醒される新しい生の体験であると考えられた.ここでは,客観的な言葉啓示や命題啓示は軽視され,言葉啓示と行為啓示は切り離された.啓示は宗教体験の記述としての人間の証言の次元に引き下げられた.ヴィルヘルム・ヘルマンはこの宗教体験をさらに歴史的実在性([ドイツ語]Geschichtlichkeit)の議論に徹底させた.彼は,科学的に実証できる自然の真理と区別して,もっと深く人間の心の中に,自己意識の内部に直接生起する([ドイツ語]geshehen)真理,歴史的(内的生起的)真理を「信仰の真理」と呼んだ.イエスの内的生を移入して,その人格性の力に触れて神との交わりに入れられ自分の人格性の内的生に覚醒する出来事を啓示と呼んだ.聖書はこの意味での信仰の真理の書と考えられるようになった.このように,次第に,行為の啓示が外的認知の対象である客観的出来事よりは人間の自己意識の内部に生起する出来事の意味に主観化されることになり,聖書はこの宗教体験の証言と考えられるようになった.行為啓示は人間の自己意識内部の出来事であり,言葉啓示と言われるものは体験記述としての証言と考えられるようになった.バルトもイエス・キリストだけが神のことばと同一視されるべき神の啓示であるとし,聖書と特別啓示の同一視を否定した.<復> しかし,聖書自身は聖書と特別啓示との関係をこのようには見ていない.「神は,むかし先祖たちに,預言者たちを通して,多くの部分に分け,また,いろいろな方法で語られましたが,この終わりの時には,御子によって,私たちに語られました」(ヘブル1:1,2).神の行為による啓示,救いの約束と成就に関する様々な客観的事実は,昔は預言者たちを通し,終りの時には御子によって,神が語られた言葉の啓示によって,その意味と目的を知られるものである.そして,それらの約束と成就は救いに必要な知識として必要な限り,神によって文書化され,完結して,教会に与えられている.聖書は行為による啓示と言葉による啓示の統一であり,事実と意味の統一であり,出来事と解釈の統一としての特別啓示である.特別啓示のすべてが聖書ではない(ヨハネ21:25)が,聖書のすべては特別啓示である.旧約の預言者たちは常に「このように主は言われる」と語った.使徒たちは「あなたがたは,私たちから神の使信のことばを受けたとき,それを人間のことばとしてではなく,事実どおりに神の言葉として受け入れた」(Ⅰテサロニケ2:13)と言っている.イエスも御自身の言葉を「わたしを遣わした父のことば」(ヨハネ14:24)と同一視された.このように聖書自身が聖書と神の言葉を同一視している.神の行為による啓示は現代のある神学者たちが考えるような,人間の意識内に生起する内的歴史的出来事ではなく,救いの約束と成就にかかわる外的客観的な事実であり,神の言葉による啓示は,啓示のあかしとしての人間の証言のことではなく,救いの約束と成就の出来事についての神の言葉である.聖書は神の啓示と啓示の証言とを区別していない(使徒5:32).パウロは「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは,私も受けたことであって,次のことです.キリストは,聖書の示すとおりに,私たちの罪のために死なれたこと,また,葬られたこと,また,聖書に従って3日目によみがえられたこと,また,ケパに現われ,それから12弟子に現われたことです」(Ⅰコリント15:3‐5)と語っている.福音の中核を成す十字架と復活は事実として起ったことである.しかも,この事実は「単なる事実」ではなく,「聖書の示すとおり」「私たちの罪のため」という,預言と約束に一致して成就した罪の贖いのための「福音的事実」であった.その意味で,この福音は教理と結び付いている.聖書の啓示は,事実と解釈の統一としての神の言葉である.客観的事実を否定することも誤りであり,また,事実を承認しながらその意味を人間の自由な解釈にゆだねることも同様に誤りである.<復> 確かに,一方で,現代神学のこのような啓示の内面化,主観化に反対して,客観的歴史的世界を神の啓示の場として回復しようとするモルトマンやパネンベルクのような立場があるが,出来事と解釈の統一としては聖書を見ていないので,歴史的事実を「福音的事実」として受け入れず,独自の哲学的解釈の枠組みから見た啓示の出来事と見ている.<復> (3) キリスト者における特別啓示と自然啓示.この聖書において啓示されているイエス・キリストを信じる信仰による神の義によって,私たちは神の怒りの対象ではなくて,神の愛の対象となるのである.このキリストの特別啓示こそ救いの道であり,信仰をもってキリストを受け入れる者は,罪を赦され,義なる者と認められる.心がキリストにあって神の像に再創造されて,再び生ける者となり,心の目の見えないことと心の硬化という霊的死の状態から解放され,原理的に不敬虔と不義を克服された者として,自然啓示に対して真理阻止的ではない新しい関係を与えられたゆえに,自然啓示はキリスト者にとって全く新しい意味を持ってくる.新しい霊的視力を与えられたキリスト者は,信仰の目を持って,新しい知性によって,聖書の眼鏡をかけて,この自然というもう1冊の書物を読み,そこに様々な,神の良き御性質の啓示を明らかに見,創造者にして贖い主なる神を心から賛美し感謝するものとされるのである.聖書の鏡に映してのみ自然啓示をありのままに見ることができる.すべての人は自然啓示の解釈的事業に従事していると言えるが,キリスト者は異教徒とは全く違った様態と目的において,神の前にこの事業に従事しているのである.キリスト者はこの事業において,被造世界の全領域に神の主権を認め,歴史の全過程に神の導きを見,もっと身近には,四季の移り変りの中に,人生の禍(まが)幸の中に神の恵みと支配を仰ぎ見,御国の民を興し教会を建てる宣教のわざと,地の管理者として「地を従わせる」召命のわざを通して,創造の目的の成就,神の国の完成の奉仕者として生きることができる.→聖書の霊感,聖書の権威.<復>〔参考文献〕春名純人『哲学と神学』法律文化社,1984;宇田進編『神の啓示と日本人の宗教意識』(共立モノグラフNo.3)共立基督教研究所(いのちのことば社発売)1989;B・B・ウォーフィールド『聖書の霊感と権威』新教出版社,1959,小峯書店,1973;Berkouwer, G. C., General Revelation, Eerdmans, 1955 ; Demarest, B. A., General Revelation, Zondervan, 1982 ; Henry, C., God, Revelation and Authority, Vol.2, Word, 1976 ; Van Til, C., The Defense of the Faith, Presbyterian and Reformed, 1955.(春名純人)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社