《じっくり解説》終末論とは?

終末論とは?

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終末論…

1.概念と神学<復> 2.終末論の展開<復> 3.旧約・新約の終末観<復> 4.再臨のしるしと時<復> 5.死と中間状態<復> 6.再臨と復活<復> 7.最後の審判<復> 8.新しい天と新しい地<復> 1.概念と神学.<復> 終末論は「終りの事柄に関する教理」である.その呼称は「終り」を意味する[ギリシャ語]エスカトスと「ことば」を意味する[ギリシャ語]ロゴスとからなり,[ドイツ語]Eschatologieあるいは[英語]Eschatologyと呼ばれている.終末論が扱う「終りの事柄」は広範囲かつ包括的であるが,特に,終末の時においてその全貌を現すことになる神の永遠の聖定の「終り」あるいは「完成」の部分を取り扱うものである.現在,その成就途上にある神の全計画が完結を見るのが,この終りの出来事においてである.実際には,終末論は他の神学諸分野(神論,キリスト論,人間論,救済論,教会論)における終りの時にかかわる事柄を内容とするものともなる.救いの完成という個人の問題としても,またこの世界あるいは歴史の終局という問題としても,終末論は重要な教理となるものである.<復> 終末論が,このように神の聖定に基づく終りの事柄に関するものであるということは,その取り扱いの枠組みをおのずと設定するものとなる.つまり,終末論における神学的作業の妥当性及び可能性は,歴史において働かれる神の存在と,御自身の聖定の内容を私たちに啓示されたという事実とに基づくものである.<復> 啓示に基づく神学としての終末論は,それゆえに,啓示の解釈の多様性という重荷を担うものとなっている.このことは,数少なくない形態の終末論を生み出し,また細部においても千年王国説や患難期と再臨の関係などの多様な解釈に見られるように,結果として終末論における複雑さを増すものとなっている.さらに,終末論は将来のことにかかわるとはいえ,いわゆる未来学(Futurology)や未来主義(Futurism)とは本質的に異なるものである.近年の,予想を超えた科学・技術面での進歩,核戦争の脅威やエコロジカルな地球的環境への関心,地球物理学的な規模での汚染・破壊の心配などが呼び起した,未来への関心と希望が未来学を生み出したのであるが,そこにおいては,人類あるいはその環境であるこの世界への最終的な責任を担うものは人類自身であり,希望も彼らにかかっている.未来学においては,その主役は人類なのであるが,終末論においては,終りの事柄を支配し,事を行われるのは神御自身である.しかも,その終りの時の計画が特別に啓示されているゆえに,終末論は成り立つものとなるのである.<復> 2.終末論の展開.<復> 終末論が教義学において中心的な関心の一つとなるのは19世紀末から20世紀初頭にかけてである.19世紀の聖書の歴史的批評的研究の一課題であった「イエス伝研究」に,全く新しい視野を開いたのが,1892年のヨハネス・ヴァイスが著した『イエスの神の国の教え』である.それまでの自由主義神学に基づく神の国の解釈は,これを倫理的概念とし,A・リッチュルの説く歴史の中で発展する道徳的な秩序としての「神の国」観に見るように,終末論的視点を見失っていた.これに対し,ヴァイスは終末論の視点こそがイエスの生と死を正しく理解するかぎであるとした.イエスの宣教における神の国は,本質的に黙示文学的概念である「破壊し再生するために歴史の中に噴き出す,そして人間が推進したり手を貸したりすることのできない,圧倒的な神の嵐の突出」を意味し,将来において神の力強い行為によって実現されるものであると説いた.この終末論的解釈は,20世紀に入り,A・シュヴァイツァーにより「徹底的終末論」と名付けられ,その著書『イエス伝研究史』(1906)を通して,広く終末論への関心を引き起すものとなった.「徹底的終末論」がイエスの教えと行動の原理とされ,イエスはユダヤ教的黙示文学的終末思想に基づき,近付きつつある破局的な世界の終りに従う超自然的な神の国の到来を待ち望んでいた.しかし,期待していた時に神の国は到来せず,イエスは自分の死こそが神の国の到来を強引に促すものと信じて,十字架に向かったが,結局神の国は来ず,期待は誤っており幻想に終ったと解釈された.このように,終末論あるいは黙示文学的思想をイエスの宣教の本質的かつオリジナルな要素として理解したヴァイスやシュヴァイツァーの解釈は,19世紀の自由主義的解釈への反動とされるものであり,終末論への新たな関心を呼び起すものとはなった.しかし,彼らがユダヤ教的黙示文学的思想と理解した「歴史に突入してくる神の国」の姿こそ,聖書の終末論の一面なのである.<復> C・H・ドッドは著書『神の国の譬』(1935)と『使徒的宣教とその展開』(1936)を通して,「実現された終末論」をイエスの説く神の国として提示した.シュヴァイツァーと同様に終末論がイエスの教えの一貫したテーマであるとするが,相違点は神の国はイエスの生涯と死と復活においてすでに来たと主張する点にある.初代教会の将来待望型の終末論は,イエスの実現された終末論をユダヤ的黙示文学的思想の影響により誤解したためとなる.パウロ書簡はこの傾向を幾分反映しているとし,ヨハネ福音書においては粗野な黙示文学的思想は除かれ,本来のイエスの終末論が回復されたとする.このドッドの終末論を,J・イェレミーアスは「実現途上にある終末論(sich realisierenden Eschatologie)」という形に変え,なお「完成の時が来る」という面を付加した.ドッドの弟子のA・T・ロビンスンは,イエスの死と復活において開始されたものとしての「開始された終末論(inaugurated eschatology)」を説く.これらの立場はドッドの「実現された終末論」とイエスの教えの中の終末の出来事の連続性あるいは未来性との調和への動きと見られる.<復> 実存的終末論においては,終末的出来事としての将来性は実存的決断の瞬間へと移し変えられ,終末に生きることは,その時その時の実存的決断の「生」において実現するものとなる.R・ブルトマンによれば,新約聖書のメッセージは,当時のグノーシス贖罪者神話やユダヤ黙示文学などを背景とした神話の形態を持つものであり,非神話化を必要とするものである.その内容は歴史的というよりも実存的であり,無時間的性質のものであって,未来に関するものとされる終末論は文字通りの将来に起るべき出来事を語るものではない.イエスの終末論的視点は彼の強烈な神認識の反映であり,神の国との対峙(たいじ)による決断を必要とする実存的人間的「生」への訴えである.人間の「生」は,神の御前に,決断によって従いゆく時終末論的存在となり,彼の古い「生」は終局を迎え,新しい「生」に入り,未来に向けて開かれたものとなると理解された.同様に,終末的現実を現在的「生」とする立場はP・アルトハウスにも見られる.つまり,死人の復活,再臨,最後の審判等は歴史の終りに起ることではなく,この歴史とともに並行して同時的に生起している出来事とされる.<復> ディスペンセーション主義の終末論の特徴は神の計画におけるイスラエルと教会との分離・区別に見られる.イスラエルは地上的神権政治的存在であり,教会は霊的普遍的存在となる.この立場は旧約聖書の「文字通りの解釈」に基づくものである.キリストの宣教はこの地上のダビデ的・メシヤ的王国をイスラエルにもたらすためのものであったが,拒絶されたためその実現は延期され,教会の時代が,来るべきユダヤ的千年王国との間に挟まれた.つまり,教会の時代は神のイスラエルに対する計画の合間にあっての「大挿入」であり,全くユダヤ的性格の千年王国の到来に先立って,地上より取り除かれるべきものとなる.この千年期において,パレスチナの相続,神殿の復興,ダビデ王朝による異邦人世界の統治などのイスラエルに関する旧約の預言が文字通りに成就するものとされる.ヨハネの黙示録,福音書の終末に関する記述はすべて教会に関する終末論ではなく,このイスラエルに対する神の計画としての終末論と解釈されている.<復> モルトマンの希望の神学は,終末論をもって神学全体を体系付けたものであり,キリスト教は本来「期待の宗教」であり,将来志向的とされる.「神学者にとって,問題は世界と歴史と人間存在を単に違った仕方で解釈するということではなくて,それらのものを,神の変革を待ち望みつつ,変革するということである」との主張に現れているように,「希望の神学」は「変革の神学」となるものであり,この将来に対する自分たちの希望について公の仕方で責任を負うことを求めるものとなる.「将来」「希望」「使命」という語がこの神学の特徴となり,特に「政治的神学」がこの使命達成のために世を変革する手段となる.このように,将来の到来を受動的に待つのでなく,終末論的期待の地平は,こちら側に倫理的な直感的洞察という地平を生み出し,それは具体的に歴史における主導性に意味を与えるものとされる.結局は,未来はその多くを私たち人間自身の努力に依存するものとなる.<復> 上記の「徹底的終末論」「実存的終末論」「希望の神学」は,キリストの再臨に基づく終末的希望を放棄し,それゆえ福音を倫理化し,人間化し,あるいは政治化して,神学そのものを宗教的ヒューマニズム的エートスに,宗教的・実存論的な自己理解に,あるいは宗教的・政治的ユートピア思想に解消してしまうものと特徴付けられると批評されるものである(H・ミュラー).<復> 他にティリヒやR・ニーバーによる「象徴的終末論」があるが,それは終末論は私たちの幸福が超現世的(trans‐historical)であり,歴史の彼岸にあることを思い起させ,かつ約束するものであると理解するものである.<復> 以上のように,終末論は聖書の解釈に基づく多様性だけでも十分に複雑であるのに,これに社会学的,思想的希望論が混じり込み,その度合いを増すものとなっている.このような状況であるからこそ,福音主義の立場からの終末論が必要なのである.聖書に基づく終末論であって初めて,砂上の楼閣とならぬ希望の根拠となり確固とした今日の歩みができるのである(参照黙示録22:18,19).<復> 3.旧約・新約の終末観.<復> (1) 聖書における終末論的展望は神の契約を中心に展開されている.契約の神は摂理の神であり,また歴史の主である.つまり,歴史そのものが神の目的と計画の展開過程であり,その御旨を実現するために,神はこの世界に主観的にかかわっておられる.その約束あるいは契約に基づく目的を達成するために,神は御自分の民を「訪れ」,歴史に介入される.それは,イスラエルにとっては,御自身の「訪れ」によって御民を救い,あるいはさばかれる神に対する歴史的体験となっているものである(参照出エジプト15:13‐18,詩篇18:1‐9,96:13).<復> この主権的に,全能の御腕をもって介入される神への期待は,特に「主の日」と結び付いている.その日は,救いの日・回復の日(アモス9:14,ゼパニヤ3:17)となり,あるいはのろいの日・怒りの日(イザヤ13:6,ヨエル1:15,2:1,アモス5:18,ゼパニヤ2:2)となる.その出来事はイスラエルに限らず異邦人にも及び(エゼキエル30:3),また激変的・宇宙的(ヨエル2:31)であり,あるいは摂理的・局地的(イザヤ10:12,44:28)となる.<復> なお,この「主の日」は,「後の日」あるいは「終わりの日」との表現(創世49:1,民数24:14,エレミヤ23:20等)と同様に,必ずしも世の終りの時とか歴史の終局的な時点に限定されるものではない.ヨエル1:4のいなごの災害は同時代のものであり,ゼパニヤ1:4,7のエルサレムの崩壊,あるいはイザヤ13:6,13のバビロンの包囲などは近い未来の出来事を預言したものである.また,マラキ4:1のように,世の終りのさばきの日への預言となるものもある.これらに共通しているのは,この日は主お一人だけが高められる日(イザヤ2:17)であり,主の勝利の日として期待されるものということである.<復> これらの終末的期待は預言という形で啓示されている.そこで,預言の「二重焦点法」が終末の出来事の解釈にとって重要なものとなる.つまり,預言の地平の山並みとしては一つの影しか見せてはいなくても,そこには幾重にも連なる山並みがあるように,終末預言に関しては,成就においては時間的に大きく隔たる出来事を一枚の絵に近景と遠景として描くことがある.その一例として,使徒2:16‐21において,ペテロが聖霊降臨の説明に引用しているヨエル2章には,「その後,わたしは,わたしの霊をすべての人に注ぐ」(28節)とあり,その成就は五旬節の出来事となる.が,これに続く「主の大いなる恐るべき日が来る前に,太陽はやみとなり,月は血に変わる」(31節)は,その成就を新約時代に終りの時まで待つものである.このように,新約時代の時間的広がりを持つ二つの出来事が「一連の出来事」として描かれている.つまり,旧約の聖徒にとっては,預言の地平に見た終りの時の事柄が,実際には,この主の初臨と再臨の広がりを持っていたこととなる.この預言の構図は,エルサレムの滅亡と世の終りの時の患難とを一枚の絵に収めているルカ21:5‐28の場合に例を見るように,新約の預言にも当てはまるものである.<復> さらに,これは旧約聖書のメシヤ預言においても同じと言える.十字架の「苦難のしもべ」(イザヤ53章)と主権と光栄と国を受けるために雲に乗って来られる人の子としての「栄光の王」(ダニエル7:13)の姿は,一人のメシヤの姿として,初臨と再臨との区別を明らかにせずに預言されている.この預言の二重性が,新約時代を見る時の,終末論の二形態である未来型の徹底的終末論(終末は来ていない)と過去型の成就型終末論(終末はすでに来た)を生む理由の一つとなっている.<復> (2) 新約聖書の終末論的展望は,この時代が新しい契約の成就の時代(エレミヤ31:31‐34,ヘブル8:8‐13)であるとの視点を特徴とするものである.イエス・キリストの受肉は,約束のメシヤの到来であり,預言の成就である(マタイ1:20‐23,11:1‐6).特に,メシヤなるキリストの宣教とみわざにおいて終りの時の到来は確認されている.イエスは,預言の成就としての「主の恵みの年」の訪れを告げられ(ルカ4:18‐21),神の国の到来を宣言している(マタイ12:28,ルカ16:16,17:20,21).また待望のメシヤとして,「この終わりの時に」(ヘブル1:2,9:26),預言者として父の御旨を告げ知らせ,新しい契約の祭司として罪のきよめを成し遂げ,王として神の右に座された.さらに,終りの日の到来は,五旬節の聖霊降臨のように教会の出来事においても確かめられた.それゆえ,新約の教会は,明確に「終わりの時」に生きているとの意識を持っていた(Ⅰコリント10:11,Ⅰペテロ4:7,Ⅰヨハネ2:18).<復> しかし,同時に終りの日の中に新たな区別がなされ,メシヤの時代としての「終わりの日々」(the last days.使徒2:17,Ⅱテモテ3:1,Ⅰペテロ1:5,Ⅱペテロ3:3,Ⅰヨハネ2:18,ユダ18節)と再臨の主を迎える復活とさばきの日となる「終わりの日」(the last day.ヨハネ6:39以下,44,54,11:24,12:48)は区別され,主の日への期待が残されている.この「終わりの日」(単数)が,「現在のメシヤの時代」と「未来の世」の二つの「世」を分けるものとなっている.この対比は「この世と次に来る世」(マタイ12:32),「この時代と後の世」(マルコ10:30),「この世と次の世」(ルカ20:34,35)のように確かめられる.このように,終りの世は2段階であることが,新約の終末論的展望の特徴となる.これは,神の国の側面においても同様である.その現在性とともに,神の国は来るべきものとして,そのために祈り(マタイ6:10),備えるように(同25:1‐13)教えられている.この未来的展望は新天新地,万物の更新,永遠の祝福といった神の国の完成とかかわるものである.なお,「後にやがて来る世の力」は,すでにこの世において働いており(ヘブル6:5),聖霊の証印は御国を受け継ぐ保証となっている(エペソ1:13,14).<復> このように,新約時代の教会は,「いまだ」と「すでに」の終末の出来事の間に存在する緊張の中に置かれている.ここに,未来待望型と現在成就型の両方の終末論が聖書的根拠を見出すのであるが,これらは排他的ではなく,新約時代を特徴付けるものとして補足し合うものである.<復> なお,教会の時代は預言されていた時代であり(参照詩篇22:22,ヘブル2:12;イザヤ8:17,ヘブル2:13;イザヤ54:1,ガラテヤ4:27),「終りの時」の様相を明らかに示している.この教会の時代は,ディスペンセーション主義の説くような,大挿入ではないことになる.また,強いて言えば,パウロ神学の終末論においては否定されることの多い千年王国説については,今は点と見える再臨の時における終末の地平を広がりと見る時に,受容することができるものとなると言える.<復> 4.再臨のしるしと時.<復> 再臨の時を,父なる神以外,誰も知らないが(マタイ24:36,42,44,50,25:13,Ⅰテサロニケ5:2以下,Ⅱペテロ3:10以下),時のしるし(マタイ16:3)や終末の前兆(同24:3)については語られている.その再臨にかかわるしるしとなるものは次の通りである.(1)すべての国民への福音宣教(マタイ24:14,マルコ13:10).(2)イスラエルの救い(ゼカリヤ12:10,13:1,ローマ11:25‐29).(3)激しい苦難(マタイ24:9,21,22,29,30)と背教(同24:10‐12,24,Ⅱテサロニケ2:1‐3,Ⅰテモテ4:1,Ⅱテモテ3:1‐5).(4)反キリストの出現(Ⅱテサロニケ2:3,Ⅰヨハネ2:18,22,4:3,Ⅱヨハネ7節,ダニエル7:8).(5)戦争(マタイ24:6),飢餓(同24:7),地震(同24:7),恐るべき前兆(天体に関する異常現象)(同24:29,30,マルコ13:24,25,ルカ21:25,26,Ⅱペテロ3:10).<復> 問題はこれらのしるしの解釈であり,取り扱い方である.まず,この時代に見出せるしるしによって,再臨の時を計算したり,あるいは預言したりすることの愚かさと実際的な失敗とは,歴史が証言する通りである.また,しるしを将来において起るものとして未来的にのみ解釈し,現存性を否定してはならない.そのような解釈は,キリストの再臨の近さを説くことを不可能にするものであり,本来全時代にかかわるものである終末論的宣教の重要性を誤るものである.さらに,「しかり.わたしはすぐに来る」(黙示録22:20)との宣告を,安易に聞き流しているものである.<復> しるしの明確な目的は「目覚めていること」を促すものである(マタイ24:42,44,25:13,マルコ13:23,33‐37,ルカ21:34,36,Ⅰコリント15:52,Ⅰテサロニケ5:2,3,8).近いゆえに,眠りから覚める時刻は来ている(ローマ13:11)とされ,祈れ(Ⅰペテロ4:7),心を強くし(ヤコブ5:8),武具をつけよ(ローマ13:11,12)となる.いつの日にかでなく,近いのである.従って,この近さの否定は,言い訳となるものである(マタイ24:48,49).それゆえ,信仰者にとっては主の日は「盗人のように襲うことはない」(Ⅰテサロニケ5:4)となり,不信者にとっては同じ日が,盗人のように(同5:1以下)来ると言われ,それはノアの日のようであると警告されている(マタイ24:37).不信者に,「主は近い」との時代のしるしは見えていないのである.<復> 終りの世のしるしの現在性について,G・C・ベルカウワーは反キリストはヨハネの時代に,飢饉はクラウディウスの治世に(使徒11:28),迫害は初代教会において現実となっており(マタイ24:9,Ⅰコリント7:26,黙示録1:9,2:9,10,3:10),世界宣教はすでにその時代において成就したと見ることができるとし(参照「世界中で」コロサイ1:6,23,「すべての国の人が」Ⅱテモテ4:17),この19世紀の間,主はいつでも確かに来りたもうお方であったと理解している.なお,G・ラッドは背教,不法の人の到来は主の再臨と同時的出来事であるとし,これらが将来に起ることとしても再臨の近さと緊張は損なわれないとする.このように,終末の世のしるしは現代すでに存在していると解釈することにより,主は近いとの緊張を保つことができる.と同時に,そのしるしの「程度」は終末に向けてはなはだ激しいものとなることが預言されているとする立場があるが(フーケマ),どの程度において終末のしるしとなり得るのかは,神が御存じのことであるとし,教会はしるしをいつの時代にも存在するものと見てきたと説明する.ローマ皇帝,あるいはローマ教皇等々が黙示録の大バビロンと解釈されたようにである.<復> 結局,反キリスト,イスラエルの回復,全世界への福音宣教等のしるしを再臨の前兆として,特定の終りの時に起るものとすると,少なくとも19世紀の間,これらのしるしは,読者にとって,「主は近い」とは言えないものであったとの解釈を示すことになってしまう.なお,キリスト再臨の時期を患難期のどこに位置付けるかにより(患難前再臨説,患難後再臨説,患難中期再臨説),「主は近い」との問題は形を異にするものとなる.この中で,患難前再臨説はディスペンセーション主義による立場であるが,これは歴史的教会においては見られなかったものである.<復> 5.死と中間状態.<復> 生きて再臨のキリストを迎える者以外は,個人の死から最後の審判の時までの時間を過すために,中間状態を必要とする.また,死と中間状態が終末論の主題となるのはこの時点において,すでに永遠のいのちか滅びかとの個人の運命は決定的なものとなっているからである.中間状態は,最後の審判を控えての,さばきかいのちかが判明していない不明瞭な,中立的な取り扱いを受ける状態ではない.キリストにあって死んだ者はすでに永遠の祝福とつながるパラダイスにおり(ルカ23:43),不信者は永遠の苦しみへと続く懲罰の状態に置かれている(同16:23,Ⅱペテロ2:9)と教えられている.ハデスとの語は死の状態を意味するものでもあるが(使徒2:27,31),不信者の魂にとっての苦しみとさばきの場所ともされている(ルカ16:23).ただし,永遠の刑罰の場所となるゲヘナとは区別され,一時的なものである(参照マタイ5:29,黙示録20:13,14).<復> 信者の霊は,死の瞬間に全くきよめられ(ヘブル12:14,23),キリストとともにあり(Ⅱコリント5:8,ピリピ1:23),慰めを受け(ルカ16:25),地上の労苦から解放されて休み(黙示録14:13),からだの復活を待つものとされている(ローマ8:23).なお,これらの祝福を伴う中間状態は,贖われた者にとっては,さらに完全な状態を待っての「先取りの」かつ「暫定的な」祝福となるものである.<復> 死後の状態については,非聖書的な理解として,死後の霊の存在を否定する霊魂絶滅説,死後の状態を復活までは無意識であるとする睡眠説(参照黙示録14:11,13),及び不信者の霊魂については消滅あるいは無意識となると説く条件的不滅説がある.
6.再臨と復活.<復> キリストの再臨は「来臨」([ギリシャ語]パルーシア,Ⅱテサロニケ2:8)とも「現れ」([ギリシャ語]アポカリュプシス,Ⅰペテロ1:7.[ギリシャ語]エピファネイア,Ⅰテモテ6:14)とも言われている.前者は王や高官の来訪を表す語であり,後者は再臨を,現に神の右の座にあり,歴史の支配者であるお方の「現れ」として見るものである.来臨も現れも,共に旧約における「神の訪れ」の出来事との共通性を示すものと言える.<復> 再臨の目的は,救いのみわざを完成し(ヘブル9:28,Ⅰコリント15:52‐54),すべての悪と神に敵対する勢力を滅ぼし(同15:24‐26,Ⅱテサロニケ2:8),宇宙的出来事としても(Ⅱペテロ3:12,13),神の究極的勝利と栄光を現すためである.この点で,キリストの初臨を“for us”の出来事とし,この時代を“in us”とし,終末を“with us”として,「われわれとともに」との点を強調し,再臨を個人的にとらえる傾向があるが,再臨は,永遠の救いと刑罰において,神のあわれみの栄光と正義の栄光こそが現される時なのである.<復> 主の再臨は,「見たときと同じ有様で」と可視的(マタイ24:30,使徒1:11,黙示録1:7)であり,栄光を伴って(マタイ25:31,マルコ13:26,Ⅰテサロニケ4:16,黙示録19:11‐16)であり,いなずまのひらめきにたとえられるように突如として,速やかな(マタイ24:27)出来事となる.しかし,「頭を上に上げなさい」と言われる通り,主が「戸口まで来られた」ことを知り,主を待ち迎える余裕はある(ルカ21:28).<復> 再臨について,教会とユダヤ人の救いを区別するディスペンセーション主義においては,キリストの2段階の再臨が説かれている.つまり,患難前のひそかな再臨は教会の携挙のためであり,患難期の後に公の形での再臨が説かれている.しかし,このような2段階の再臨(不可視的,可視的)を裏付ける聖書解釈には問題がないわけではない.<復> 主の再臨の時には,選びの民が,天の果てから果てまで,四方から御使いによって集められる(マタイ24:31).その時,すでに主にあって眠った者が復活し,生存している者は,死を味わわないで,朽ちないものに変えられる(Ⅰコリント15:51,52).これに,「雲の中に一挙に引き上げられ,空中で主と会う」との空中携挙と「いつまでも主とともにいる」との出来事が続く(Ⅰテサロニケ4:17).<復> 復活のからだについては,Ⅰコリント15章がその特徴を天上のからだ(40節),朽ちないもの(42節),栄光あるもの(43節),御霊に属するからだ(44節)と教え,これが「天上のかたち」(49節)を持つものであり,「ご自身の栄光のからだと同じ姿」(ピリピ3:21)と言われている.これは,聖化され,栄光化された魂にふさわしいからだである.このように,復活のからだは,地上のからだとは全く異なった性質を持つものではあるが,同じ自分自身のからだと認められるものである.<復> なお,未信者のよみがえりのからだについては聖書には特別の説明はないが,それはキリストの力によるよみがえりであり,からだと魂を持つ人間として,永遠の刑罰を迎えるためのものである.復活の時期について,千年期前再臨説は,第1の信者の復活と第2の不信者の復活とが,千年期の前後に,別々に起るものと理解している(参照黙示録20章).他の立場は両者の復活を同時に起るものとする.<復> 7.最後の審判.<復> 「神は,お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため,日を決めておられるからです」(使徒17:31).この「ひとりの人」とはキリストであり,父なる神は,彼にすべてのさばきをゆだねておられる(ヨハネ5:22,27,使徒10:42,Ⅱテモテ4:8).<復> さばきを受けるのは,御使い(マタイ8:29,Ⅰコリント6:3,Ⅱペテロ2:4,ユダ6節),かつて地上に生きていたすべての人(マタイ25:32,黙示録20:12)であり,すべての信仰者も不信者とともに,さばきの対象となる(マタイ13:30,40‐43,49,25:14‐23,34‐40,46,Ⅱコリント5:10).すべての理性的被造物は,このように,その行い(マタイ25:35‐40)とことば(同5:22),思い(Ⅰコリント4:5)のすべてに関して,「善であれ悪であれ,各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受ける」(Ⅱコリント5:10).それは,神の全知に基づく,確かな事実に則しての,誤りのないさばきとなる(ローマ2:6,Ⅰコリント4:5,黙示録20:12).同時に,キリストのさばきの座には,主にある聖徒たちが,共に立ち,世界をさばくとも言われている(マタイ19:28,Ⅰコリント6:2,3,黙示録2:26,27).<復> さばきの基準については,「律法なしに罪を犯した者はすべて,律法なしに滅び,律法の下にあって罪を犯した者はすべて,律法によってさばかれます」(ローマ2:12)とあるが,啓示された律法を持つ者は,その律法により,また,異邦人には心に書き記された律法により明らかにされた神の御旨を基準としてさばかれるのである(同2:15).<復> 信仰者は,さばきにおいて,公に受け入れられ,無罪を宣言されて,神が用意された新しい天と新しい地に迎え入れられる(Ⅱペテロ3:13,黙示録21:1‐4).そこにおいて,主の御前から来る満ち足りた喜びと慰めを受ける者となる.特に,直接に神の御顔を見て喜ぶことにおいて,完全に清く幸いな者とされる(黙示録22:3,4).このように,信仰者にとってのさばきの場面は,死かいのちかと吟味される時ではない.永遠の予定(エペソ1:4)が救いの原点であり,御子を信じる者はさばきに遭うことなく(ヨハネ3:18),審判は神の聖定に基づく救いの宣言の時となる.なお,地上の行いに対する信仰者への報いが約束されている(マタイ5:11,12,6:19‐21,マルコ9:41,ルカ6:35)が,それは一様ではないと理解される.Ⅰコリント3:12‐15に見られるように,金,銀,宝石,木,草,わらの建造物がそれぞれ神によって評価され,それぞれが報いを受けることになる.ただし,この行いの評価と報いは,全くの神の恵みによるものである(ルカ17:10,エペソ2:10).<復> 他方,神を知らず,イエス・キリストの福音に服さなかった不義なる者は,明白な証拠と彼ら自身の良心の十分な納得に基づいて,正当な定罪の宣告を受け(「ウェストミンスター大教理問答」問89),地獄に投げ込まれる(マタイ18:9).その刑罰は永遠に続くものであり(同18:8,黙示録20:10),暗やみ(マタイ8:12)に象徴されるように,神の好意ある御前と,キリスト,聖徒,全天使の栄光に輝く交わりと,全く,永遠に切り離されるのである.これを黙示録は第二の死と呼ぶ(黙示録20:14,21:8).これは,「火の池」(同20:14),「火と硫黄との燃える池」(同21:8)とも呼ばれ,象徴的に神のさばきの恐るべきことを表す.この永遠の苦痛は「彼らを食ううじは,尽きることがなく,火は消えることがありません」(マルコ9:48)と表現されている.<復> 8.新しい天と新しい地.<復> 終りの日は,人間の罪ゆえに虚無に服した被造物すべての贖いの日となり(ローマ8:19‐21),万物更新の時(使徒3:21)となる.「その日が来れば,そのために,天は燃えてくずれ,天の万象は焼け溶けてしまいます」(Ⅱペテロ3:12)と,古き被造世界は新しいものにとって代られるのである.ただし,新天新地が,古い天と地の更新なのかどうかでは,見解は二つに分れる.まず,「被造物自体も,滅びの束縛から解放され」(ローマ8:21)と贖いを待ち望むことから,これを復活のからだと同じように,古いものとの連続性を認めつつ,新しくされたものとする立場がある.第2の見解は,これを全くオリジナルの新天新地とするものである.しかし,世が改まって(マタイ19:28.参照黙示録21:1)との新しさは,救いによる新しさがなお自己のアイデンティティーを否定するものではない(参照Ⅱコリント5:17)ように,連続性と矛盾するものではない.<復> 永遠の御国での祝福については,黙示録21:9‐22:5をその描写と見ることができるが,これらは千年王国の描写と解釈することもできる.永遠の祝福を,ユスティノスは,千年王国の永続的増進と見た.オーリゲネースは,これを,感覚的な享楽が無縁となる純粋に精神的な祝福とした.アウグスティーヌスは,知性の極致としての平安,神の直視,不完全性からの解放,罪と死の可能性のない世界と理解した.このように,贖われた者の永遠の祝福は,罪とその結果が完全に取り去られ(エペソ5:27,ヘブル12:23,ローマ8:21),罪を犯すことのない完全な状態に(同8:35‐39)置かれ,神の御顔を仰ぎ見ることができ(黙示録22:4),神との直接の交わりの中に置かれることにある(同21:3).一言で言えば,この祝福の本質は,キリストの栄光によって神を見,また楽しむことである.<復> この世界の終末の出来事の確実性は,今生きて働きたもう主への力強い信仰を生むものとなる.つまり,昔いましと知り,後に来られる御方と知ることが,常にいます「生ける神」への信仰の告白へとつながっているのである.終末論は,過去の神のみわざが真実なる御方への信仰の礎の一つとなり得るように,今日的信仰の緊張を生み出し,かつその信仰に忍耐といのちを与えるものである.<復>〔参考文献〕R・パーシュ『イエス・キリストの再臨』いのちのことば社,1962;山本和編『終末論—その起源,構造,展開』創文社,1975 ; Berkouwer, G. C., The Return of Christ, 1972 ; Clouse, R.(ed.), The Meaning of the Millennium, 1977 ; Erickson, M. J., Contemporary Options in Eschatology, 1977 ; Hoekema, A. A., The Bible and the Future, 1979 ; Ko¨nig, Andrio, The Eclipse of Christ in Eschatology, 1980 ; Ladd, G. E., The Last Things, 1978.(柴田敏彦)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社