《じっくり解説》教会,教会論とは?

教会,教会論とは?

スポンサーリンク

教会,教会論…

1.序<復> 2.用語<復> 3.教会の本質<復> (1)神の民としての教会<復> (2)キリストのからだ<復> (3)聖霊の御住まい・交わりとしての教会<復> 1.序.<復> いずれの教会も「聖なる公同の教会,聖徒の交わりを信ず」という使徒信条の告白にアーメンを唱え,かのアンブロシウスがいみじくも述べたように「教会は月のよう」(義の太陽であるキリストを反映する意味)でなければならないという願望と祈りとを共通に持っている.しかし,今日,こうした公式見解とは対照的に,キリスト教界には多様な教会論の提唱が見受けられる.そもそも近年において,教会論が改めて真剣に問われるようになったのは,それぞれ独自の特色ある教会・教派理解を持った海外宣教師たちが一緒に宣教活動に当らなければならなかったミッション・フィールドにおいてであり,それを受け止める形で,教会合同運動を推進してきた世界教会協議会(WCC)を中心とするエキュメニカル運動によって教会論は神学的注目を浴びるようになった.ちなみにPaul Minear, Images of the Church in the New Testament, 1960は,WCCの設立を宣言したアムステルダム会議(1948年)からエバンストン会議(1954年)までの成果の一つと言われている.まず,WCCの「他者のための教会」(1967年)や最近の解放の神学との関連では″世俗的宣教″を担う″政治的教会″の主張が登場してきている.この立場は,エペソ6:12の「主権,力」を神の目的を妨害している抑圧的な社会構造と解釈し,それを″人間化″(Humanization)することが教会の宣教の働きであると主張する.『世俗都市』などの著書で知られているハーヴィ・コックスは「ピケ隊の列に加わることは,みことばを語る一つの方法であり,そのように行為することによって,キリスト者は神について語るのである」と言っている.この立場においては,「要するに福音宣教とは,種々なる次元における政治(politics)なのである」(G・ウェーバー).次にパウル・ティリヒは『組織神学』の中で,イエスの出現以前の「潜在的教会」″latent church″(出現後の「顕在的教会」″manifest church″と対照させて)について語り,伝道にとって異教徒,ヒューマニストたち,ユダヤ人たちを潜在的な御霊の交わりの肢であると言っている.また,最近の宗教多元主義の傾向に同調しているカトリックの代表的神学者カール・ラーナーは,説教を聞くことがなく,未受洗の者であっても,良心に従って行動する者を「匿名のキリスト者」(ananymous christian)と呼んでいる.一方,アメリカのドナルド・ブロッシュは『教会の改革的形成』(1970)の中で,教会は,もはや神の恵みの証人ではなく,精神のためのビタミン剤を調合する薬剤師のようになっていると批判している.こうした多様な論議を検討してみて,一つ気付くことは,現代神学において,一般の思想界の動向(形而上学やオントロジーからプロセス,歴史のカテゴリー,機能主義への移行)と連動して,教会の本質論の神学的な掘り下げは後退し,代って激変する社会変動との関連で,現代の世俗社会における教会の生き残り論と機能論に集中している感が強いということである.また,日本には無教会主義が,そしてわれわれの周囲には現在統一協会,エホバの証人といった異端と言われているものの主張が渦巻いている.このような状況の中で,モルトマンが「教会は,自己の根源について徹底的に問い直し,ゆだねられた使命を明確に自覚し,脆弱となり,息も絶えだえの姿からキリストの将来へと復帰するように挑戦されている」(『聖霊の力における教会』1975)と言っていることは正しい.<復> 2.用語.<復> 「教会」([英語]church—「主に属する」を意味する後期ギリシヤ語kuriakosから由来)は,新約聖書の中で広く用いられているギリシヤ語ekkle~sia(使徒19:32,39,41)の邦訳である.この語の意味は,古典ギリシヤ語と旧約聖書における用法に照らして理解さるべきである.古典ギリシヤ語においては,前5世紀以後のヘロドトスやプラトーンらの文書の中に登場し,都市国家ポリスの集会を意味していた.より重要なのは,旧約聖書に登場するヘブル語qa~ha~lと`e~d_a~hである.前者は声を意味する語から由来したもので,基本的には集会への召集や集まるという行為を意味している.宗教的な集り(申命9:10,10:4,23:1)を初め,民衆の一般的な集り(Ⅰ列王12:3),婦人たちの集り(エレミヤ44:15)や子供たち(エズラ10:1,ネヘミヤ8:2)への言及,エジプトやアッシリヤの軍隊・民族(エゼキエル17:17,27:27,32:22)を指す場合に用いられている.後者の`e~d_a~hは,最初,出エジプトを目前にして過越を祝う目的で召集されたイスラエルの全会衆への言及として登場するが,民数記を中心にモーセ五書に集中している.この語は主として宗教的祭儀や律法を中心とした共同体を意味している.70人訳(ギリシヤ語訳旧約聖書)は,qa~ha~lに対してekkle~siaを,`e~d_a~hに対してはsunago~ge~をそれぞれ訳語として当てている.<復> ところで,新約聖書においてekkle~siaを最も多く使っているのはパウロである.通常,特定の地域にある信者の群れ,集りを意味している.「コリントにある神の教会」(Ⅰコリント1:2,Ⅱコリント1:1),「ガラテヤの諸教会」(ガラテヤ1:2),「テサロニケ人の教会」(Ⅰテサロニケ1:1)などがその例である.他の新約文書の中にも同様な用例が見られる.アジヤの七つの教会(黙示録1‐3章),エルサレム(使徒5:11,8:1,11:22,12:5)やアンテオケの教会(同13:1),そして長老を選ぶために(同14:23),また教えたり激励したりするためにパウロが訪問した諸教会(同15:41,16:5)などである.一方,個人の家で集まっていた教会を指す場合にも用いられている(ローマ16:5,コロサイ4:15).しかし,多くの場合は,特定の町の全信者(使徒8:1,13:1),特定の地方の教会(同9:31,Ⅰコリント16:19)を指すものとして用いられている.次の箇所では普遍的教会を意味していることも記憶さるべきである(マタイ16:18,エペソ1:22,23,3:10,21,4:4,5:23,24,25,27,32,ヘブル12:23).<復> 次に,聖書は実に多くの表象(イメージ)を用いて教会の豊かな内容を説き明かしている.ポール・マイネアーは,「前掲書」の中で96の表象を数えている.主要なものを挙げると,「神の民」(Ⅰペテロ2:10),「イスラエル」(ガラテヤ6:15,16),「選ばれた種族」(Ⅰペテロ2:9),「聖なる国民」(同2:9),「12の部族」(ヤコブ1:1),「アブラハムの子孫」(ガラテヤ3:29),「割礼のある者」(ローマ15:8‐10),「残された者」(同9:27),「神の神殿」(Ⅰコリント3:16),「神の家族」(エペソ2:19),「新しく造られた者」(Ⅱコリント5:17),「新しい人」(コロサイ3:10),「王国」(黙示録5:10),「聖霊の交わり」(Ⅱコリント13:13),「弟子たち」(使徒6:1),「わたしの友」(ヨハネ15:15‐20),「仕える者」(マルコ10:43),「キリストのからだ」(Ⅰコリント12:27),「オリーブの木」(ローマ11:13‐24),「真理の柱・土台」(Ⅰテモテ3:15),「上にあるエルサレム」(ガラテヤ4:26),「天にあるエルサレム」(ヘブル12:22),「新しいエルサレム」(黙示録21:2),「地の塩」(マタイ5:13),「キリストの手紙」(Ⅱコリント3:2,3),「わたしの枝」(ヨハネ15:2),「神の畑」(Ⅰコリント3:9),「神の建物」(同3:9),「キリストの使節」(Ⅱコリント5:18‐21),「神の国」(ルカ17:21),「キリストの花嫁」(Ⅱコリント11:1以下),などである.<復> 3.教会の本質.<復> さて,教会とは何か.レスリ・ニュービギンは,改革派の伝統においては教会を神の民として,サクラメンタルな教会においては教会をキリストのからだとして,聖霊派の間では教会を聖霊の交わりとしてそれぞれ見る傾向が強い事実を興味深く指摘している(The Household of God, 1953).一方,アーサー・ウエンライトは,三位一体論的視点がパウロの思考とパウロの手紙の構成そのものとを貫いている事実に注意を喚起している(The Trinity in the New Testament, 1962).われわれは,こうした指摘の意義を尊重しつつ,ミラード・エリックソンとともに三一的視点から聖書の教会の本質の理解に向かうのが妥当と思う(Christian Theology, 1986,第4章).具体的には,神の民としての教会,キリストのからだとしての教会,聖霊の御住まい・交わりとしての教会という3点から考察することとなる.<復> (1) 神の民としての教会.このテーマについて,「ペテロは教会の働きの総括ともいうべき語句を並べあげている」(W・バークリ)と言われるⅠペテロ2:9,10を中心にして考察するのが適切であろう.10節で,ペテロは,タウロス山脈の北,現在のトルコの大部分に当る,当時の五つのローマ領に散在していたクリスチャンの群れを「神の民」と呼び,9節で「選ばれた種族」,「聖なる国民」,「神の所有とされた民」,「王である祭司」という四つの語句をもってその特質を明らかにしている.<復> まず,「神の民」について次の点を銘記する必要がある.①この概念は,新約聖書中に広く分布している中心的概念である(マタイ1:21,ルカ1:77,使徒7:34,ローマ9:25,26,Ⅱコリント6:16,テトス2:14,ヘブル4:9,Ⅰペテロ2:9,10,黙示録18:4.「イスラエル」ガラテヤ6:15,16,「12の部族」ヤコブ1:1などの同義的表現も見落してはならない)ばかりでなく,旧約における重要概念でもあり(民数11:29,申命27:9,士師5:11の「主の民」を初め,出エジプト3:10,6:7,民数14:11,12,申命32:9,10,詩篇50:7,エレミヤ12:16,ホセア12:14‐16を参照),新約は旧約と連続して,この概念を一貫して旧約から継承し,発展させたものと見ることができる.つまり,この「神の民」という概念は,イスラエルの歴史と新約の教会を貫く神の救済の歴史の文脈から教会をとらえていることを示している(参照ローマ11章).すなわち受肉以前のイスラエルの歴史を貫く救済の歴史の中で,あらかじめ準備されていた神の民としての教会が,救い主の到来において歴史の中にその究極的な形態を見出したのであり,それゆえに教会は使徒たちの土台の上にだけではなく,預言者たちの基礎の上に建てられたと言われるのである(エペソ2:19,20).従って,教会は受肉から再臨までのいわば″挿入″(parenthesis)であるとする解釈は不適切である.②「神の民」というとらえ方は,教会を″歴史的に″(すべての時代,文化の中に),″グローバルに″(世界大に)とらえ,そして″ダイナミックな実体″として理解することを助けてくれる.③古代ギリシヤ・ローマの都市国家の「長官(クレロス)と市民(ラオス)の二元論」に影響されて定着してしまった「教職と一般信徒の二元論」を打ち破り,両者は根本的に一つの同じ民であることを自覚する助けとなり,今日求められている教会の宣教的形態づくりに有益である(参照H・クレーマー『信徒の神学』新教出版社,1958).<復> 次に,9節の四つの語句は神の民の重要な特質を明らかにしている.①「選ばれた種族」.イザヤ43:20,45:4において当時のイスラエルに対して用いられた名称で,今ペテロは新約時代のクリスチャンたちに適用している.ここで確認しなければならないことは,教会は単に宗教的見解の一致に基づく自由な結社や,人間の恣意的な組織体ではなく,主権を持ちたもう神の自由な選びによって存在せしめられたということである.パウロも「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び」(エペソ1:4)と言っている.また,選ばれたのは,イスラエルが「どの民よりも数が多かったからではない」,むしろ「あわれみを受けた者」(申命7:7,8,10)と言われているように,神の選びは上よりという神の峻厳(ローマ11:22)と同時に,神の恩恵の深さを印象付けている.②「聖なる国民」.出エジプト19:6から由来した表現である.かつてシュライアマハーは『宗教論』(1799)の中で,「すべて人間的なことは聖である」と言って教会内に波紋を投じた.今日,再び世俗的キリスト教によって,宗教的媒体の解消としての″非宗教化″(宗教的媒体を教会の聖書,聖礼典,教職者に限定しない立場)が主張され,″聖″とか″霊的″ということが多様に理解され,″聖″と″俗″の線引きがわかりにくくなっている.さて,「聖」とは聖書において「異なっている」を意味する語であるが,神の民が「聖」と言われる時に,基本的に二つのことを意味していると考えられる.まず,神が人や物をこの世から聖別して御自身の目的のために用いられる時,幕屋や神殿や祭司の例に見るように,それらを聖なるものと見なし,そのように扱われた.これを客観的宗儀上の聖性と呼ぶことができよう.さらに,神の民は「神のご性質にあずかる者」(Ⅱペテロ1:4)と言われているように,あらゆる罪,悪,汚れからの分離と「月のよう」と言われるにふさわしい麗しい諸徳性を意味する倫理的内実的聖性を特色とするものである.パウロが教会論の展開の中で,キリストが教会を愛し,教会のために御自身をささげられたのは,「みことばにより,水の洗いをもって,教会をきよめて聖なるものとするためであり,ご自身で,しみや,しわや,そのようなものの何一つない,聖く傷のないものとなった栄光の教会を,ご自分の前に立たせるためです」(エペソ5:26,27)と述べていることに心を留めなければならない.③「神の所有とされた民」.イスラエルが神によって「わたしの宝」(出エジプト19:5,詩篇135:4後半),「わたしのもの」(同135:4前半,マラキ3:17前半)と言われていることを背景としている表現である.(a)「わたしの宝」.これは神の民に対する神のねたむほどの深い愛情を示唆している.そしてこの神の愛情は,聖書における「初子」と「花嫁」の二つの概念を見ることによって初めてよく理解される.初子には他の兄弟の2倍の分配を受けるほどに,初子は両親の深い愛情の対象として特別な意味を持っていた(申命21:17).一方,神の民は花婿なる神の花嫁とされ,花婿は花嫁と「正義と公義と,恵みとあわれみまた真実をもって永遠の契りを結び」(参照ホセア2:19,20),「花婿が花嫁を喜ぶように,あなたの神はあなたを喜ぶ」(イザヤ62:5)と言われている.神の民である教会に対する神の愛は,パウロがキリストは「教会を愛し,教会のためにご自身をささげられた」(エペソ5:25)と述べる時にその頂点に達する.このように,教会はひとえに主の深い愛によって限りなくはぐくまれ,保たれ,育てられていく共同体なのである(ゼパニヤ3:17).(b)「わたしのもの」.ここで一転して,われわれは,ぶどう園の主人(マタイ21:33以下)及びろばの持主(ルカ19:33)を想起しながら,「わたし」と言われたお方が絶対的な支配権を意味する「主」(参照マタイ6:24)であることと,「わたしのもの」は絶対的所有権を示唆していることを覚えなければならない.かつて偉大な異教の思想家エピュクテトスは,彼が奉ずる異教の神に対して「これからのち,あなたの慾したもうままにわたしを取り扱ってください.わたしはあなたと一つ心です.わたしはあなたのものです.あなたがよいと思われるものをわたしは何も断わりません.あなたの慾したもうところにどこにでもわたしをお遣わしください.あなたの望みたもうようにわたしに着せてください.あなたはわたしが公職につくことを慾したまいますか.それとも,私的生活を送ることを慾したまいますか.家にとどまることを,あるいは亡命することを,貧におることを,それとも富のうちにいることを望みたまいますか.わたしはこれらすべてのものに関してわたしに対するあなたのみ心を守ります」と祈っている.神の民は十字架の代価を払って買い取られたのであるから,自分たちのものでないこと(Ⅰコリント6:19,20)をまた謙虚に自覚し,いずこにおいても常に「主がお入用なのです」(ルカ19:34)と言って自己を主にささげ,差し出すものであることを期待されている.④「王なる祭司」.理解の順序を考えて最後に持ってきたが,この語句は出エジプト19:6を背景にしているものと思われる.[ギリシャ語]basileion herateumaのbasileionを「王なる」と実名詞的に解することに関する釈義上の詳細については,例えばSelwyn, E. G., The First Epistle According to St. Peter, 1961を参照されたい.(a)「王」.ここで,小アジヤの教会は王とされた(黙示録5:10)と記されているように,神の民である教会は,キリストの王権を宣言するものであると同時に,王としてのキリストの支配に参与するものであることが教えられている.具体的には,二つの面でこの参与を理解することができよう.一つは,教会の戒規と教会の訓練(discipline)の実践による参与である.「ウェストミンスター大教理問答」45問は,キリストの王職に触れ,「可視的に支配する手段である役員と律法と戒規とを教会に与えることにより…守り支える」と記し,教会政治の重要性を説いている.ブロッシュは「前掲書」の中で,過去2,30年間に教会の会員の基準が教理的にも道徳的にも間断なく低下してきている事実に注意を喚起している.そして今日の教会において,霊的生命力が衰退していることの原因の一つは,教会の規律の崩壊ということである,と警告している.神の民が王であると言われる場合のもう一つの面は,神の民は生の全領域でキリストの支配をあかししそれを確実にする責務が委託されているということである.結婚,教育,学問,産業,労働,労使関係,文化,娯楽,政治,国際関係など生の全領域において,″派遣隊″(ミッション)としての教会はキリストの支配を具現化していくためのエイジェントなのである.(b)「祭司」.宛先のクリスチャンすべてがこう呼ばれていることにまず注目すべきである.カトリックの神学者ハンス・キュングでさえも『教会論』(1967)の中で「教会を聖職者階級(その頂点が教皇である—筆者注)と普通信徒とに区別することは許されない」と言っている.ルターの万人祭司論(参照『ドイツ国民のキリスト者貴族に与える書』)でも明らかなように,神の民全員が祭司なのである.祭司であることについて二つのことが大切である.祭司を表すラテン語″ポンティフェクス″は「橋をかける人」を意味している.旧約の制度から明らかなように,祭司は人々が神のもとに行けるように橋をかける人である.それと同様に神の民全員も祭司として,自分が見出しかつ愛している救い主のもとに人々を連れて行く義務を負っている.もう一点は,祭司はささげ物をする人であるという点である.ペテロは「聖なる祭司として,イエス・キリストを通して,神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい」(Ⅰペテロ2:5)と勧めている.神が何よりも喜ばれ望まれるものは,「生きた供え物」としての私たち自身であり(ローマ12:1),心と愛と生活での奉仕である.以上,王と祭司の務めについて見てきたが,Ⅰペテロ2:9後半から預言者職を加え,キリストの三職務に類比的に神の民としての教会の三重の職務について語ることもできよう.<復> (2) キリストのからだ.旧約の神の民の信仰と歴史とを継承し,自らを神によってこの世から召し出された([ギリシャ語]ekkle~siaは「〜から」を意味するekと,「呼び出す」を意味するkaleo~から来た語)新しい神の民,選ばれた者の共同体として自覚するに至った初代の教会は,救い主イエス・キリストとの密接かつ独特無比な関係のゆえに,キリストのからだなる教会という理解へと導かれていった.使徒パウロははっきりと,「教会はキリストのからだ」(エペソ1:23.参照Ⅰコリント12:27,エペソ4:12,コロサイ1:18,24,2:19)であると記している.そして,すでに2世紀には,神の民であると同時に,キリストと文字通り霊的に結合したキリストのからだであるという教会観が確立していた.例えば,エイレーナイオスは『異端駁論』の中で教会を「偉大にして栄光のキリストのからだ」と呼び,イグナティオスは『スミルナへの手紙』の中で,キリストは旗を上げて「彼の聖徒と忠実なる民とを,ユダヤ人・異邦人の区別なく,彼の教会の一つのからだ」に招き入れたもうと書いている.このキリストのからだなる教会という考え方は,教義学的には教会論とキリスト論とを一つに結び合せている重要な概念と見るべきである.<復> ところで,この概念の理解には歴史上幾つかの違った見解があるので,まず基本的な視点の確認が大切である.①制度的教会自体を「受肉の延長」,無謬性を帯びる「第2のキリスト」(教皇ピウス12世の回勅『キリストの神秘体』1943),「使徒継承」([ラテン語]succesio apostolica)に基づくキリストの代理者と見るカトリックの立場.この見解には次のような重大な問題がある.(a)受肉の一回的な出来事の中心性,究極性が見失われる.受肉は不完全なものであるので,教会によって反覆され補われなければならないという理解の落し子が,ミサの制度である.(b)地上の教会は,それを構成する個々の信徒の場合と同様に,「同時に罪人にして義人」(ルターの″simul justus et pecccator″)として,かしらなるキリストにおいて与えられる罪の赦しの恵みのゆえに,そしてただそのかしらへの従属においてのみ,キリストのからだとして,歴史における神の救いのみわざに参与し続けるのである.聖書によると,第2のキリストは聖霊にほかならず(ヨハネ14:16,17,26,15:26,16:7‐15),この聖霊こそ,教会のかしらなる天的キリストを歴史的地上的教会と結び付けることによって,神のわざへの参与を可能にし,キリストのからだを形成する生命原理そのものなのである.②単なる比喩ととる見解があるが,もしも比喩にすぎないとすれば,人間の集団や社会的組織がからだになぞらえられることは,古くは国家をからだになぞらえたプラトーンに例を見るように,極めて一般的なことであって,決して聖書に特有な表現ということはできなくなる.③新約聖書が極めて現実的な意味で,教会はキリストのからだであると言っていることは否定できない.先に挙げたパウロの明白な言明はもちろんのこと,イエス御自身「あなたがたに耳を傾ける者は,わたしに耳を傾ける者であり」(ルカ10:16)と言われ,復活後主は教会を迫害していたパウロに対し「サウロ,サウロ.なぜわたしを迫害するのか」(使徒9:4)と言われた.以上の点を考慮すると,聖書の理解は,カトリックの直接的同一視の立場と,単なる比喩ととる立場とを越えた以下に概述するような第3の理解を示していると考えられる.<復> (a)この福音の時代に,キリストが聖霊によって御自身の主権を歴史の中に具現するためには,具体的な組織体が必要とされる.また,キリストによる神の救済事業がこの地上で推進されるためには,旧約のイスラエルの場合のように,それが特定の歴史的形体をとらなければならない.その意味において,教会は復活の主の現臨の地上的・歴史的形体化であり,活動のための拠点的場であると理解される.(b)今日の技術社会の中で,われわれは教会を一つの制度的機構として考えやすいが,キリストの地上的・歴史的現実存在の具現として,教会は彼のからだであると理解することは,教会をむしろ「一つのからだを持った人格」(D・ボーンヘファー)としてとらえ直すことを助けてくれると言える.(c)教会をキリストのからだと表象する上での聖書の要となる教えは,神の民とキリストとの間に生れる一体化・結合(unio mystica)の関係である.神の民は「キリストのうちにある」(Ⅱコリント5:17)と言われ,同時にキリストは「あなたがたの中におられる」(コロサイ1:27)と言われる.また,神の民はみな,キリストと苦難を共にし(ローマ8:17),共に十字架につけられ(ガラテヤ2:20),共に死に(コロサイ2:20),共に葬られ(ローマ6:4),共に生かされ(エペソ2:5),共によみがえらされ(コロサイ3:1),共に栄光を受ける(ローマ8:17)と言われている.この深い結合関係は,御霊によってのみ創造されるものであり(Ⅰコリント12:13),それによって神の民のうちに「キリストが形造られる」(ガラテヤ4:19)と言われるほどの,極めて霊的に深い生命の通い合った神秘的なものである(ヨハネ15:5).(d)キリストはからだなる教会の「かしら」(コロサイ1:18)である.二つの面が意味されている.一つは,教会はそのかしらから生命を与えられ,成長させられるということ.もう一点は,かしらとしてのキリストは,教会の益のために,そのすべてのことを指導する頭脳であり,統治支配する意志であるということである(同2:19).(e)かしらは,命令を下すことのできるからだを,それを通して働くことのできるからだを持たねばならない.教会は文字通りキリストのわざを行う手であり,キリストの使信を届けるために走る足であり,キリストのことばを語る声である.つまり,教会がキリストのからだであるということは,再臨までの中間期の道具もしくは器として,神はわれわれを当てにしておられるという意味でもある(W・バークリ).(f)からだという表象は,その構成員の多様性と統一,そして相互依存性と相補性とを浮彫りにすることによって,一つの生きた有機体としての教会を示している.「大ぜいいる私たちも,キリストにあって一つのからだであり,ひとりひとり互いに器官なのです」(ローマ12:5)と言われている.<復> (3) 聖霊の御住まい・交わりとしての教会.Ⅰコリント12:13でパウロが「…私たちはみな,ユダヤ人もギリシヤ人も,奴隷も自由人も,一つのからだとなるように,一つの御霊によってバプテスマを受け」と言っている通り,教会は聖霊によって創造されるものである.かのペンテコステの出来事ほど,この点をドラマチックに浮彫りにしている記事は聖書中ほかにない(使徒2章).使徒信条の「われは聖霊を,信ず.聖なる公同の教会,聖徒の交わり,罪の赦しを」という告白文は,聖霊がその後に述べられている教会,交わり,赦罪を生み出すとともに,それらを支配されていることを示している.<復> いや,教会の発生・誕生ばかりでなく,現在,聖霊は個的,集合的の両面で教会に内住している.パウロはコリントの教会に向かって,「あなたがたは神の神殿であり,神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」(Ⅰコリント3:16)と語りかけている.エペソ2:22においても,「このキリストにあって,あなたがたもともに建てられ,御霊によって神の御住まいとなるのです」と書き送っている.ペテロも信徒たちを「霊の家」(Ⅰペテロ2:5)と呼んで,教会における聖霊の内住と現臨に注目させている.<復> ところで,教会と聖霊の関係を見ていく時,われわれは,聖霊を教会の捕われ人のように束縛・限定してしまう誤りと,逆に,教会は聖霊を自由な道具であるかのようにあしらえると考える誤り,の双方に注意しなければならない.ヘンドリクス・ベルクホッフは,『聖霊の教理』(1964)の中で,聖霊の創造に成る教会は,同時に制度であり共同体であると述べ,制度的組織面(すでに樹立された歴史的・社会的秩序の諸関係と諸様式,一定の形態と構造)と,共同体としての出来事的側面(聖霊によって動的・精力的に何かが起ること,人間の応答の自発的性質と恵みにおける共同体の生活の過程的性格)の双方の領域における聖霊の二重の働きの吟味を勧めている.特に教会史において,カトリック型は前者に偏し,アナバプテスト,敬虔主義,福音派,ファンダメンタリズム,ペンテコステ派は後者に偏したと分析した上で,両面を,例えば根と実との相互関係のように一つの不可分的な運動としてとらえなければ,教会の着実な伸展に資する健全な理解とは言えないと指摘している.<復> さて,教会に内住し現臨する聖霊は,教会に生命を分け与えられる.パウロは聖霊を「いのちの御霊」(ローマ8:2)と呼んでいるが,この点を最も生き生きと解説している預言者はエゼキエルであろう.エゼキエル37:9で,死んで干からびた骨を前にして,「そのとき,主は仰せられた.『息に預言せよ.人の子よ.預言してその息に言え.神である主はこう仰せられる.息よ.四方から吹いて来い.この殺された者たちに吹きつけて,彼らを生き返らせよ』」と記し,少し後の14節では9節を説明する形で,「わたしがまた,わたしの霊をあなたがたのうちに入れると,あなたがたは生き返る.わたしは,あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる」という主のことばを記している(9節の「息」と14節の「霊」は共に[ヘブル語]ru~ah∵が使われていることに注意).このいのちの御霊は,御霊自身の特質であり,同時に「御霊の実」と言われている「愛,喜び,平安,寛容,親切,善意,誠実,柔和,自制」(ガラテヤ5:22,23)といった恵みを教会に恵与される.<復> 新約時代において神の民をゆだねられた使徒たちは,主の公生涯の間中,主とともに歩み,主によって真理に教導された.その主は十字架の死の直前,彼らに「もうひとりの助け主…真理の御霊」(ヨハネ14:16,17)を約束された.この真理の御霊は,彼らに主の教えを想起させ(同14:26),彼らをすべての真理に導き入れる(同16:13.具体例は使徒10章のペテロの経験)と言われている.御霊のこのような働きは,教会が「真理の柱また土台」(Ⅰテモテ3:15)であると言われていることと深い所で連絡し合っていると理解すべきである.<復> 聖霊は教会に力を与え,聖霊こそが教会の派遣・宣教(mission)の原動力である.「しかし,聖霊があなたがたの上に臨まれるとき,あなたがたは力を受けます.そして,エルサレム,ユダヤとサマリヤの全土,および地の果てにまで,わたしの証人となります」(使徒1:8)と主は宣言された.この偉大な約束は間もなく立証された.ペンテコステの日には実に3千人がペテロの説教に聞き従った(同2:41).そして,その後毎日救われる人々が加えられていった(同2:47).聖霊に満たされた主の弟子たちは,神のことばを大胆に語り(同4:31),主イエスの復活を力強くあかしした(同4:33).次に記す「ローザンヌ誓約」の告白文は,以上の真理の現代版と言うことができる.「この御霊は,また,宣教の御霊(ミショナリー・スピリット)でもある.ゆえに,伝道は,御霊に満たされた教会のうちより自発的に湧き上がるべきものである.したがって,宣教的でない教会というものは,自己矛盾であり,御霊を消そうとするものである.世界大の伝道は,御霊が,真理,知恵,信仰,聖潔,愛,力において教会を新しくつくり変えられる時にのみ,真の意味で可能となるのである.それゆえ,私たちは,御霊のすべての実が神の民全体のうちに現れ,御霊のすべての賜物がキリストのからだなる教会を豊かに潤すような,神の主権的な御霊の訪れが与えられるように祈ることを,すべてのキリスト者に呼びかける」(ジョン・ストット『現代の福音的信仰—ローザンヌ誓約』,第14項「聖霊の力」).<復> パウロはコリントの教会への手紙を,「聖霊の交わりが,あなたがたすべてとともにありますように」(Ⅱコリント13:13)という祝祷をもって結んでいる.「聖霊の交わり」とは,聖霊の賜物であるところの神との交わり(垂直面),及び御霊によって造り出される信者同士の相互の交わり(水平面)とを意味しており,これら二つの領域は根本において互いに切り離すことのできない一つの恵みの現実であると理解すべきであろう.特に後者について,″聖霊の共同体″にふさわしい「御霊の一致」(エペソ4:1‐16.参照Ⅰコリント12:26,ガラテヤ6:1,2)が強調されている.<復> 聖霊なる神は,また教会に種々なる「賜物」(ローマ12:6‐8,Ⅰコリント12:4‐11,28‐31,14:1以下,エペソ4:7‐12)を与え,教会が神を礼拝し,聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ,全世界に福音をあかしするように整備される.特に,新約の教会の揺籃期に与えられた「御霊の賜物」については,聖霊なる神は信徒一人一人にそれぞれ異なった賜物を与えられたこと,賜物に優劣がないこと,与えられた目的は教会全体の建徳であり,御自身の教会を建て上げること,そして愛こそ最高にして中心的な御霊の賜物であること(Ⅰコリント13章,Ⅰテモテ1:5)に留意することが大切である.また,「しかし,同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって,みこころのままに,おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです」(Ⅰコリント12:11)と言われているように,われわれは常に,聖霊は終始一貫して教会に主権者として臨まれるという聖書の根本真理の前にひれ伏さねばならない.→キリスト論,教会政治,教会史.(宇田 進)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社