パプテスマとは?
パプテスマ…
〔ルーテル系〕<復> ルーテル教会ではバプテスマは「洗礼」と呼ばれる.<復> 1.聖礼典(サクラメント)としてのバプテスマ.<復> 神は人間に恵みを伝達するために二つの手段を持っておられる.みことばと聖礼典である.聖礼典はキリストによって定められた行為であり,バプテスマと聖餐が教会の二つの聖礼典である.聖礼典には三つの要素がある.<復> (1) キリストの制定のことば.キリストによる明確で直接的な命令が必要である.<復> (2) 地的な要素.目に見え,手で触れることができる物質的な要素が必要である.<復> (3) 罪の赦しの約束.キリストにより,天来の賜物である罪の赦しが与えられ提供される.さらに,罪の赦しに対する信仰を生じさせ強める力がある.<復> バプテスマには,キリストの命令(マタイ28:18‐20)と,要素としての水と,約束(使徒2:38)が備わっている.従ってバプテスマは恵みの手段としての聖礼典として位置付けられる.<復> 2.バプテスマの起源.<復> バプテスマということばは,水に浸す,もしくは水で洗う行為を意味している.その起源は,旧約のきよめの儀式,ユダヤ教のきよめの儀式や他宗教のきよめの儀式に求められることもあるが,聖書から知られる限り,バプテスマのヨハネに求められる.<復> ヨハネのバプテスマは「キリスト教バプテスマの玄関」(ルター)と呼ばれる.ヨハネは自分のバプテスマをキリストのバプテスマと対比させている(マタイ3:11,ヨハネ1:33).彼は悔い改めと水のバプテスマを授けたが,キリストのバプテスマは罪の赦しと聖霊を与えるものである.<復> 教会のバプテスマは,復活のキリストの命令による(マタイ28:19).それは「父,子,聖霊の御名によって」授けられる.使徒2:38,10:48などでは「イエス・キリストの名によって」授けられている.また「キリスト・イエスにつくバプテスマ」(ローマ6:3.参照ガラテヤ3:27)という定式からは,バプテスマを通してイエス・キリストとの生ける交わりに入ることが明示される.バプテスマによって,人はキリスト御自身とそのお働きと,死と復活にあずかり,キリストと結び付く.バプテスマは神の恵みの行為として制定されたのである.<復> 3.バプテスマの要素と形式.<復> バプテスマの見える要素は「水」である.水は最もありふれた物質であるとともに,人間の生存に必須のものである.バプテスマにおいて,神は最も普遍的な物質を最も豊かな恵みの器として用いられる.ルーテル教会において,水の質や量についての規定はない.バプテスマの有効性は水の量や質によるのではなく,「水とむすびつき,水とともにある神のみことば」(ルター)によるからである.ここからバプテスマの形式に関して多様性が容認されることになる.バプテスマの形式としての浸礼,滴礼,灌水礼はいずれも正当である.浸礼のみが聖書的正当性を持つバプテスマである,という見解もあるが,すでに古代教会において滴礼,灌水礼が行われていたことが「ディダケー」(12使徒の教訓)などによって確かめられる.宗教改革者たちは,浸礼が死と復活を最もよく表現すると考えたが,他の方法も認めている.最も重要なのは,水の量や質ではなく,制定のみことばである.<復> 4.バプテスマの執行者.<復> バプテスマの制定のみことばは,11人の弟子たちに与えられた(マタイ28:18).しかし,バプテスマ執行者が弟子たちに限定されていないことは「世の終わりまで」(同28:20)という語から明らかである.パウロはアナニヤからバプテスマを受けた(使徒9:17,18).従って,バプテスマの執行の権威は教会に与えられている.教会は聖徒の集まりとして,みことばと聖礼典に仕える教職を選出し,聖礼典の執行をゆだねた.通常はこの,正規に召された教職者がバプテスマを執行する.しかし,バプテスマを必要としつつ教職者がいない場合,重篤の患者がバプテスマを希望している場合などには,一般信徒でもバプテスマを施すことが許される.「必要な場合には信徒の罪を赦し,他の人の牧師になることができる.アウグスティヌスも,一つの舟に2人のクリスチャンが乗っていた時に,一方が求道者に洗礼を施し,そして洗礼を授けたのち,今度は洗礼を授けられた方が,洗礼を授けた人の罪を赦すことができるという物語を語っている」(『シュマルカルデン条項』).バプテスマの執行は,「万人祭司」の精神から言って,すべての信徒に執行者となる可能性が開かれている.それが通常,教職に限定されるのは,教会の秩序を保ち乱用を防ぐためである.<復> 5.バプテスマの受領者.<復> バプテスマを受けるべき者は誰か.基本的にはすべての人である.「人は,新しく生まれなければ,神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3).「あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19).人種,民族,職業,性別,年齢の区別なくバプテスマにあずかるべきである(ガラテヤ3:27,28).しかし,バプテスマを受ける条件,特に「幼児のバプテスマ」(幼児洗礼)を巡って,教会間に大きな意見の相違がある.これはバプテスマの本質理解の相違によるものである.<復> 6.幼児のバプテスマ.<復> 幼児のバプテスマを巡る問題は,信仰を告白した両親から生れた子供にバプテスマを施す人々と,バプテスマの先行条件として個人的な信仰告白を求める人々との意見の相違から来る.バプテスマが信仰告白の行為であり,神への従順の行為であるとすれば,幼児のバプテスマは無意味となる.バプテスマが「恵みの手段」であり,神の賜物であれば,幼児のバプテスマは認められる.古代教会以来,宗教改革の時代に至るまで幼児のバプテスマは行われてきた.幼児のバプテスマに対する反対の論拠は,知的であり合理的なものである.一つは幼児はバプテスマを必要としないという考えであり,もう一つは,幼児は信仰告白ができない,という考えである.<復> (1) 幼児はバプテスマを必要としないか.幼児はイエスの愛のゆえに,そのまま神の国に属する者なのではないか.幼児が成長し,故意に罪を犯して初めてバプテスマを必要とする,という考えがある.マタイ19:14においてイエスは「天の御国はこのような者たちの国なのです」と言われた.イエスは幼児が神の国に属すると語っておられるが,しかし,幼児がイエスに愛されたということと,そのままで救われることとは別の事柄である.「肉によって生まれた者は肉です」(ヨハネ3:6),「生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」(エペソ2:3),「そういうわけで,ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり,罪によって死がはいり,こうして死が全人類に広がった」(ローマ5:12).このように罪が規定される限り,幼児もまた罪の赦しを必要とする.<復> (2) 幼児は信仰を持ち得ないか.聖礼典は信仰なしでは無意味である.そして,幼児が成人と同じような信仰告白ができないことはもちろんである.ルーテル教会では,幼児のバプテスマの条件を,幼児をバプテスマのために連れて来る人(両親もしくは父,母,保護者)の信仰とする.イエスは信仰のうちに御自身のもとに連れてこられた人々を受け入れられた(マタイ9:2,マルコ10:13‐16).ルーテル教会のバプテスマの式文において,司式者は幼児の保護者に向かって質問する.「あなたは,この幼子に父と子と聖霊とのみ名によって洗礼を受けさせ,クリスチャンとしての罪の放棄と信仰のうちに育てることを願いますか」.幼児はこのようにして,恵みと信仰の世界に入るのである.<復> (3) 幼児のバプテスマと信仰の関係.バプテスマを聖礼典として恵みの手段と考えるならば,当然,神の働きが先行する.福音が宣べ伝えられることによって信仰が生じる(ローマ10:14).<復> バプテスマによって,神は無力な幼児を御自身のものとされるのである.幼児が成長し,意識的な信仰に目覚めた時,バプテスマがそのクリスチャン生活の基礎となり,彼はバプテスマによって常にイエスとの交わりの中に置かれるのである.幼児のバプテスマは,神がすでに幼児の生活にまで招きと恵みをもって臨んで下さることを意味する.それゆえ幼児のバプテスマにおいて,バプテスマの意味が明らかになる.古来バプテスマは「恵みのとびら」と呼ばれてきた.<復> (4) 幼児のバプテスマと旧約聖書.バプテスマは「キリストの割礼」(コロサイ2:11)と呼ばれている.モーセの割礼は,生後8日目に施された(レビ12:3).幼児は契約の民の一員に加えられていたのである.イエスが幼児のバプテスマについて何も語っておられないのは,それを否定するからではなく,旧約の伝統を受け継ぎ,割礼からバプテスマへと展開されたのであると考えられる.もし,幼児がバプテスマを受けるべきでないとすれば,イエスは禁止のことばとその理由を明確に宣べられたに違いない.<復> (5) キリスト教国における幼児バプテスマの問題.ルーテル教会が多数を占めるドイツや北欧などでは,幼児のバプテスマが習慣化し,単なる人生の通過儀礼となっている場合がある.世俗化しつつある社会において,幼児のバプテスマにおいて両親の信仰を真剣に問うことが必要である.とりわけ,バプテスマが礼拝において会衆の中で行われるようにしなければならない.日本においては,クリスチャンが少数者であるから,幼児のバプテスマを家族全体の信仰と信仰教育による福音の継承という,より積極的な方向で考えることが大切であろう.<復> 7.バプテスマの効果.<復> バプテスマの直接の効果は新生と聖化である(ヨハネ3:5,テトス3:5).最終的な目標は,救いと永遠の生命である(マルコ16:16,Ⅰペテロ3:21).しかし,バプテスマを受けたすべての人が救われるわけではない.福音を聞いたすべての人が救われるわけではないのと同じである.みことばとバプテスマの客観的な効力は,信仰によって受け取られなければ効果を持たない.<復> 幼児の場合は,信仰に先立ち神の恵みのもとに彼らを連れて行ってバプテスマを授ける.そして,神が幼児に信仰を与えて下さるように祈りつつ養育する.成人の場合は,本人がみことばを聞き,悔い改めと信仰をもってバプテスマを受ける.みことばが心のうちに信仰を起し,それによって彼らは新生する.「洗礼の前に信じた人は,先行のみことばによって信仰を与えられたのである」(ルター).みことばによって信仰を与えられた者は当然バプテスマを受ける.信仰があるからバプテスマは不必要という人々は,みことばそのものに反している.「さあ,なぜためらっているのですか.立ちなさい.その御名を呼んでバプテスマを受け,自分の罪を洗い流しなさい」(使徒22:16).<復> 8.バプテスマの効力の持続性.<復> バプテスマは1回限りのものである(エペソ4:5).しかしその効力は持続する.バプテスマの効力は,水と結び付いた「みことば」のうちにあるから,バプテスマを思い起すたびに力が与えられる.バプテスマの際に与えられる確信は,励ましと慰めと霊的な力の絶えざる泉である.それは,神が恵みの契約のしるしを与えて下さったのであり,常に力となる.<復> バプテスマを受けた後,恵みの契約を忘れ,神から離れる者もある.しかし,神は一度バプテスマを受けた人を忘れることはない.神の召命の恵みはいつも有効である.バプテスマの恵みから離れた人は,まだバプテスマを受けたことがない人と同じ状態にある.しかし,神の側の契約は不変である.恵みから離れた人にとって必要なのは悔い改めてバプテスマの契約に立ち返ることである.「罪から立ち帰って悔い改めることは,わたしたちが一度落ちていた洗礼の効力と信仰に立ち帰ることにほかならない.それは洗礼を受けた時(神によって)与えられ,わたしたちの罪のために捨て去っていた約束に立ち帰ることである」(ルター).<復> 従って,バプテスマは信仰生活の原点となり,信仰を継続させる力となるものである.「このような水の洗礼は,なにを意味しますか.答—それは,わたしたちのうちにある古いアダムが,日ごとの悔いと,ざんげとによって,すべての罪と悪い欲とともにおぼれ死に,かえって,日ごとに新しい人が現われ,よみがえり,神のまえに,義と純潔とをもって永遠に生きるということを意味します」(ルター『小教理問答書』).旧約におけるさばきと救いの出来事,すなわちノアの洪水(創世6:9‐8:22,Ⅰペテロ3:19,20),出エジプトの紅海(出エジプト14章,Ⅰコリント10:1,2)が新約においてバプテスマを指し示すものとして引用されている.この意味でもバプテスマが果す役割の重要性が明らかとなる.バプテスマは,福音の核であるイエス・キリストの十字架の死と復活,そして聖霊降臨に一人一人を結び付けるのである.<復>〔参考文献〕ルター「大教理問答書」『ルター著作集』第1集第8巻,聖文舎,1971;H・ジェーコブズ『キリスト教教義学』聖文舎,1970;Badensiek, J.(ed.), The Encyclopedia of the Lutheran Church, Vol. 1, Augsburg Publishing House, 1965.(勝原忠明)<復><復> 〔バプテスト系〕<復> 1.バプテスマの起源.<復> キリスト教会のバプテスマ式は,どこにその起源があるか.天に帰られる前に,イエスは弟子たちに対して「行って,あらゆる国の人々を弟子としなさい.そして,父,子,聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい」(マタイ28:19)と命じられた.バプテスマは,クリスチャン生活の第一歩であり,教会に所属するための入会式である.<復> 聖書の中には儀式的なものを含めて種々の洗いがある.聖い神と交わるために,人間も物も,沐浴(もくよく)や水洗いの必要があった(マルコ7:3,4,ヘブル6:2).水に浸すことや洗うことによって霊的きよめを象徴した.このような水の洗いに関する用語の代表的なものは,ヘブル語ではターバル,ギリシヤ語ではバプトー,バプティゾー,ランティゾー,エッケオーである.旧約に続く中間時代のユダヤ人は,異邦人がユダヤ教に改宗する時には,彼らに割礼を施し,イスラエルの民籍に入れ,生れ変ったことを象徴するきよめの儀式として全身を水に沈めた.この「改宗者のバプテスマ」がユダヤ人の間に行われ始めたのはいつ頃かはわからないが,死海文書によれば,ユダヤ教の一派エッセネ派がこのような浸礼(バプテスマ)を施し,教団生活の中心的要素として重視していた.<復> バプテスマのヨハネはキリストの先駆者として荒野で生活したが(マルコ1:1‐8),彼がバプテスマの方式をエッセネ派のようなユダヤ教の分派から採用したかどうかは決定できない.ヨハネは罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを授けた(マタイ3:1,2).このバプテスマはユダヤ人のみでなく,すべての人々に要求され,倫理的,終末的な面からの決断を迫った点で急進的であり,バプテスマに新しい意味を与えている(マタイ3:7,8).主イエスも主の弟子たちも,ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた(マタイ3:13‐17.参照ヨハネ4:1,2).従って,ヨハネのバプテスマは,三位一体の御名によるキリスト教のバプテスマの先駆けである.そして,悔い改めと聖霊を伴う水のバプテスマ(マタイ28:19,マルコ16:16)が復活の主によって命じられ,主の使徒たちと教会は,その命令通り実行した(使徒2:38).バプテスマは,キリストにおける神との新しい倫理的,霊的生命関係に入ったことの表現または信仰告白のしるしであり,三位一体の御名によって分別ある人たちに授けられる浸礼である(H・ロビンスン).<復> 2.バプテスマの意義.<復> キリスト教のバプテスマについての理解は,教派教団によって種々である.<復> (1) 水のバプテスマはそれを受ける者に対して神の救いの恵みを運ぶ手段である,すなわち更生を与え,霊的生命を与える効力を持つものである,と考える.バプテスマを秘跡として考えるローマ・カトリック,信仰を前提としてのバプテスマを考えるルーテル派,バプテスマを新生の手段と考える教派は,この立場に属する.<復> (2) 水のバプテスマは恵みの契約のしるし,または証印である,と考える.改革派や長老派の伝統的考え方である.彼らは,バプテスマの儀式そのものには効力はないが,神の恵みの契約の締結の印であり確証であると言う.バプテスマは契約に入る手段であり,救いのしるしである.彼らはバプテスマの方式にはあまりこだわらず,重要なのは救いの約束を伴う契約関係に入ることであり,そのしるしを印することであるとする.また,バプテスマの中心的外的意味はきよめにあると考える(ヘブル12:10).<復> (3) 水のバプテスマは救いの証明を象徴する,と考える.バプテスマは信者の中に起った内的霊的変化の外的なしるし,シンボルあるいは外的表示である.それはイエス・キリストを信じる者の公的あかしである.バプテスマ自体は,救いの効力や霊的力をもたらすものではないが,それによって救いの事実を確証し,他の人々が受浸者の救いを確認するのである.大部分のバプテスト派は,この立場をとる.また福音的な諸教会の中にもこの立場に立つ人がいる.<復> それでは,バプテスマの聖書的意義は何か.以下,バプテストの立場から述べる.<復> (1) バプテスマは,信者がキリストの死と葬りと復活にあずかるという点でキリストと結合すること(一体性)を表す(ローマ6:1‐11).「それとも,あなたがたは知らないのですか.キリスト・イエス→につくバプテスマを受けた/・・・・・・・・・・・・←(直訳「キリスト・イエスの中に沈められた」)私たちはみな,→その死にあずかるバプテスマを受けた/・・・・・・・・・・・・・・・・・←(直訳「その死の中に沈められた」)」(ローマ6:3).この箇所の「つく」や「あずかる」は「…の中に没入する」の意味と解され,「バプテスマを受けた」はギリシヤ語の不定過去時制が用いられている.これは,バプテスマがキリストの死と葬りと復活の中に信者が没入し一体となったことであるということを表している.<復> (2) 新約聖書を調べると,水のバプテスマは常に受浸者の信仰と結び付いて現れる.御名を呼び,悔い改めてキリストを主と信じる者に授けられる(マタイ28:19,マルコ16:16,使徒9:18,19,16:31‐34,22:16等).つまりバプテスマを受けるには,キリストに対する個人的悔い改めと信仰が必須の条件であった.<復> (3) バプテスマは道徳的きよめの証拠である.悔い改めと信仰によって罪の赦しの経験を水の洗いをもって表すのは自然なことである(使徒22:16,Ⅰコリント6:11).それは内的なきよめ,信者の中に起る聖霊のみわざによる道徳的きよめ(霊的割礼)を公に具体的に表現したものである(テトス3:5).しかし水のバプテスマによってきよめられるのではない(Ⅰペテロ3:21).<復> (4) バプテスマはクリスチャン生活や教会生活に入る儀式である.キリストと結合して一体となることは,キリストのからだである神の民のエクレシア(教会)に結合することでもある(使徒2:41,Ⅰコリント12:13).バプテスマは,キリストの血によって罪が洗われ,御霊によって復活の生命に生きる者とされたことの宣言の,目に見えるしるしである.それは信者とキリストとの霊的合一をあかしし,信仰によって霊的割礼を受けて新生の体験をした人の,キリストに対する献身の公の告白であり,福音の真理を行動をもって象徴する絵である.<復> 3.バプテスマの方式.<復> われらの主イエスが大権をもって弟子たちに命じられた三位一体の御名によるバプテスマは,どのような方式または様式であったのか.「バプテスマを授け」は,散水(滴水),注水(灌水),浸水のいずれでもよいということなのか.バプテスト派は,バプテスマの固有な方式は全身を水に沈める浸礼であると主張する.バプテスマの固有な方式を主張することに対して,それは形式主義,儀式主義であって本質を見失っていると評されることがあるが,バプテストは,浸礼という外的形式が,信仰者の福音的内的体験を象徴的に宣明していると考える.方式はバプテスマの本質的意味内容を表現するものであるから,形式と内容は互いに不可分の関係にあると主張する.→信者のバプテスマ/・・・・・・・・←は16世紀のスイスやオランダのアナバプテストによって実施されていたが,その方式は注水や滴水であった.バプテスマの固有な方式は浸水礼であるとする新約聖書的実践に復帰したのは,17世紀の英国バプテストである(→本辞典「バプテスト」の項).数多くのプロテスタントの神学者や指導者たちが,初代教会のバプテスマが全身を水に沈める浸礼であったという事実を認めているにもかかわらず,実際にはその方式を採用せず,また重要視していない教会が多い.<復> (1) 新約聖書の「バプテスマ」「バプテスマを授ける」と訳されている語は,ギリシヤ語ではバプティスマ,バプティゾーであり,その辞典的意味は,いずれも「浸す」「沈める」である.バプテスマのヨハネや使徒たちのバプテスマが浸礼であったことは,新約学者,言語学者の同意するところである.バプテスマのヨハネがサリムに近いアイノンでバプテスマを授けたのは,そこが水の多い所だったからである(ヨハネ3:23).エチオピヤの高官がピリポからバプテスマを受けたのは水の多い場所であった(使徒8:36,38).注水や滴水には多くの水を必要としない.<復> (2) 使徒時代に続く紀元2世紀頃のバプテスマ便覧とも言うべき「ディダケー」(12使徒の教訓)では,水のない場合に限って注水礼(灌水礼)を例外的に認めている.しかし「注水」には,バプティゾーではなくエッケオーが使われている.バプティゾーには「注ぐ」の意味はない.注水礼や滴礼が発達したのは後代であり,紀元13世紀までは,一般にキリスト教会は浸水方式であったことを教会史家たちは証言している.事実,今日でも,東方教会は幼児であっても浸礼を授けている.<復> (3) 宗教改革者マルティーン・ルターは,「バプテスマはギリシヤ語ではバプテスモス,ラテン語ではメルシオ,その意味は,あるものを水中に完全に沈めるということである.従って,水がそのものをすっぽり覆いかくすわけである」と言った.ジャン・カルヴァンは,滴礼を実施している改革派教会の創始者であるが,「バプテスマを施すという語そのものが沈めることを意味する.そして浸礼が古代の教会のやりかたであったことは明らかである」と『キリスト教綱要』の中で述べている.改革派出身の神学者カール・バルトも同様に,バプテスマはもともと人や物が水中に完全に沈められるという固有なやり方であって,誰一人バプテスマが浸礼の方式で授けられたことを否定することはできないと述べている.<復> (4) 使徒パウロは,ローマ6:3‐5において,バプテスマの方式におけるキリストと信者の緊密な霊的関係を説明する.水中に全身を沈めそして起き上がることは,キリストの死と葬りと復活に霊的に結合することを表している.受浸者が聖霊の力によってキリストとともに古き人に死に新しいいのちに生きることの預言的象徴が,バプテスマである(ローマ6:4,6,7,11,コロサイ2:11,12).浸礼こそ福音のケリュグマの,行動によって示された象徴的表現と言えよう(Ⅰコリント15:3,4).<復> 以上の理由から,バプテスト教会は,聖書的固有なバプテスマの方式は浸水礼であると確信する.従って,バプテスマの意味は契約のしるしを示すことにあるから方式が問題なのではなく,地方の実状に応じて教会の自由に任せるというカルヴァンのような考え方は採らない.<復> 4.信者のバプテスマ.<復> バプテスマは誰に授けるのか,幼児(嬰児)にか成人(分別ある年齢に達した)にか.バプテストの特徴的教理として重要なものに,「信者のバプテスマ」がある.バプテスマはキリストの贖いのみわざを確信する→告白信者にのみ/・・・・・・・←授けられるべきである.信仰告白に基づくバプテスマこそ,新約聖書の示す唯一の真のバプテスマである,とバプテストは主張する(ブロムリイ).バプテスマは,信者が教会に連なってクリスチャン生活を始める儀式である(使徒2:41,42).また,宣教(ケリュグマ)と信仰告白と深く関係している(マルコ16:15,16,ローマ10:9,10).それは信者がキリストの死と復活を通しての救いの出来事にあずかったことのしるしであった(ローマ6:3,4,Ⅰペテロ3:21).<復> (1) 信者のバプテスマ.(a)新約聖書は,バプテスマに至るまでのある種の順序を示唆している.説教—悔い改め(信仰)—聖霊の受容—バプテスマがそれである.悔い改め(信仰)は—ヨハネのバプテスマがその背景にある—「罪の赦しのためのバプテスマ」に先行する(使徒2:38).福音を聞き信じてバプテスマを受ける者が救われるのである(マルコ16:16,使徒2:36‐41).従って,新約聖書は,信者本人のバプテスマを語るが,両親が代理する幼児洗礼は語っていない.幼児洗礼を指示する事例は全く欠落している.(b)信者のバプテスマの事例は数多くある.ペンテコステの日のペテロの説教は,悔い改めて罪の赦しを得るためにバプテスマを命じている(使徒2:38).エチオピヤの高官はイザヤ書を学び,信じてバプテスマを受けた(使徒8:36‐38).コルネリオの親族(使徒10:44‐48),ルデヤの家族(使徒16:14,15),ピリピの看守の家族(使徒16:31‐34),会堂管理者クリスポの一家(使徒18:8)などの家族ぐるみのバプテスマも,宣教,信仰,御霊の受容などに続くバプテスマを受けている.いずれも信者のバプテスマであり,それ以外のバプテスマは見られない.(c)使徒パウロはローマ6:3‐11の中で,バプテスマの意味について論述するが,そこではバプテスマにおいて,キリストの死・葬り・復活と霊的に一体となることが,みことばの真理を知り,悔い改めと信仰をもって新生した信者にのみ適用されることを示している.古い罪の生活を捨てて新しい歩みをするのは,未信者や幼児ではなく信者であることを文脈は支持する.1965年の英国教会のバプテスマ,堅信礼,聖餐式に関する合同委員会の報告は,幼児洗礼は最初の3世紀間は2,3の例外を除いて,一般的なものではなく,成人バプテスマが普通であったと述べている.さらに,新約聖書のすべての記録は,福音が聞かれ,受け入れられ,悔い改めることを含む信仰がサクラメントの受容の先行的条件であると告げる(エリクソン).<復> (2) 幼児洗礼否定の論拠.すでに見たように,新約聖書の記録は信者(必ずしも成人ではない)のバプテスマであり,初代教会時代から,200年までは,幼児のバプテスマが一般的慣行であった証拠は見られない.聖書の原理に急進的に復帰しようとしたアナバプテストたちは信者のバプテスマを主張したが,教会の秩序を乱すものとして改革者たちによって弾圧され追放された.しかし,それで幼児洗礼の問題が片付いたわけではない.それは今日なお議論のあるところである.ローマ・カトリックの神学体系からすれば,罪人として生れる幼児は,洗礼を受けることによって罪をきよめられ,さばきから逃れることができる.それはサクラメントの水の効力によってきよめと更生が受洗者に与えられるという考え方である.これに対して「信仰のないところにはサクラメントもない」という立場に立つ改革者たちは,ローマ・カトリックの秘跡主義に反対して,水のバプテスマそのものには罪のきよめや赦しの効力はないという,福音的なバプテスマ観を正当なものとして支持した.だが同時に幼児洗礼を拒否することはせず,むしろこれを擁護している.新約聖書に忠実に従うなら「信仰なくしてはサクラメントもない」のであるから,バプテスマの中にも信仰が強く要求されなければならないだろう.彼らがバプテスマは悔い改めと信仰のサクラメントであり告白のしるしであると言う一方,悔い改めも告白もない幼児に洗礼を授けるのは明らかな矛盾である.これに対して,幼児洗礼の正当性を論証しようとする幾多の試みがなされてきた.以下にその例と,バプテスト教会の立場からの反論を掲げる.<復> (a)新約聖書の家族ぐるみのバプテスマの事例から,家族の中に幼児がいて洗礼を受けたと推定する.だが,すでに見たように文脈は,福音のケリュグマに対する応答としての信仰・悔い改め・聖霊の働きを抜きにしたバプテスマを支持しない.またイエスの子供たちへの祝福(マタイ19:13,14,マルコ10:14‐16)も,釈義的に言って,子供たちを洗礼盤に連れて来ることを意味するものではない.(b)初代教会に続く数世紀間にわたって幼児洗礼の事実が見られないのは,それが普遍的で自明の慣習であったのでことさらに取り上げる必要はなかったからだと考える.だが,教父たちは数多くのバプテスマについて論議しているのに,これほど重大な幼児洗礼については全くといってよいほど語っていない.むしろ信者のバプテスマについて多く語っている.<復> また,ユスティノス(100年頃—165年頃)のバプテスマの擁護論の中に「若い時からの弟子たちであった多くのもの」とあるのを幼児洗礼の慣行の証拠とする者があるが,この語は若者([ギリシャ語]パイス)であって赤子([ギリシャ語]ブレフォス)ではないから,証拠とはならない.同時代の「ディダケー」は信者のバプテスマについて70もの規定を記しているが,幼児については何も述べていない.ナジアンゾスのグレゴリオス,大バシレイオス,クリュソストモス,アウグスティーヌスなどの著名な指導者たちは,両親(または片親)が信者であったのに幼児洗礼は受けていない.ゆえに,幼児洗礼は初代教会からの慣行(カルヴァン)ではなく,後代になって異教的慣習とキリスト教の国教化のための国策との関係から導入され,発達したものと見るべきであろう(ヴァーンズ).(c)新約聖書や初代教会史が幼児洗礼については沈黙していることから,契約による推論によって幼児洗礼の正当性を論証しようとする.だがこれも決定的なものではない.新約時代は,アブラハム契約の成就である.すなわち,アブラハム契約は割礼によってしるされ,証印された.新約の制度における契約のしるし・証印は,水のバプテスマであり,それは旧約の割礼に代るものである.バプテスマは割礼の意味したと同じ本質的意義を持っている(コロサイ2:11,12)(J・マーレイ).従ってアブラハムの子孫が割礼を受けたように,信者である親を持つ幼児は,バプテスマによってそのしるし・証印を受けるべきである,と言うのである.カルヴァンは「子どもたちは継承権により約束の形式によって,すでに母の胎から契約のうちに入れられるのである」と断言している.以下この論証に対する反論を挙げる.<復> ①旧新約契約の連続性または類似性を強調するが,旧約の自然的土地的予型的な契約と,新約がその霊的成就であることとの相異を十分に考慮していない.②新約聖書は,アブラハムの子孫とは信仰によるのであって自然的出生によらないことを明白にしている(ヨハネ1:13,14,ローマ4:11,12).また割礼はイスラエルの男児に限られているが,バプテスマはアブラハムの信仰にならう霊的,信仰的子らに対して与えられ,男女の区別はない(ガラテヤ3:6‐9).③Ⅰコリント7:14に,夫婦のどちらかが信者である場合,その「子」は「聖い」とあるから幼児洗礼を施すべきだという説がある.しかしそれなら,信者でないほうの夫(あるいは妻)も「聖められている」のだからバプテスマを授けるべきではないか.④堅信礼(信仰告白式)を受けなければ聖餐にあずからせないのは,幼児洗礼によって教会員となり契約の祝福にあずかっている者に制限を加えていることになろう.イスラエルの幼児は過越の食事にあずかり(出エジプト12:3,4),東方教会では主の晩餐にあずからせている.⑤洗礼の時に両親の代理によって立てられた誓いが幼児の誓いであると見る堅信礼は,新約聖書に根拠のないものである.<復> かくして,旧契約の成就の時代に生きるすべての,アブラハムの信仰にならって義とされた霊的子孫,すなわち信者のバプテスマこそ新約聖書のバプテスマなのである.<復>〔参考文献〕小林信雄『洗礼』新教出版社,1956;J・マーレイ『キリスト教洗礼論』新教出版社,1962;B・L・シェリー/W・F・カー『バプテストとはだれか』バプテスト聖書神学校,1984;Jewett, P. K., Infant Baptism and the Covenant of Grace, Eerdmans, 1978 ; Warns, J., Baptism, Paternoster, 1957 ; Erickson, M., Christian Theology, Baker, 1986.(渋谷敬一)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社