《じっくり解説》人間論とは?

人間論とは?

スポンサーリンク

人間論…

1.人間論の重要性.<復> 「人間とは何か」,これは過去においては哲学上の問題であった.ところが今日,この問題は妊娠中絶,安楽死などの医学上の問題,心理学,経営学,社会学,文化人類学,政治学などの行動科学の諸領域における問題となって私たちの眼前に迫ってきている.こうした状況は日本を含め世界共通のものである.アニミズムを基調とした日本思想の中には元来近代的な人間観はなかった.日本は明治期に西洋思想,憲法,政治思想を西側から移入したが,それらの根本原理としてのキリスト教人間観を捨て去って,結果のみを移植したのである.そのため,これらのものはあだ花にしかすぎず,自由,民主主義といった思想は相変らず定着できず,日本的伝統と慣行によって事が処理されてきているのが実情である.こうしたところへ科学技術の急速な発展により,近代化が至る所で進み,現代日本においては西側以上の非人間化の深刻な状況に見舞われている事実がある.<復> 欧米において人間論が哲学から行動科学,医学への転換がなされたことの背景には,人々が究極的実在や存在論といった哲学的問題にあまり興味を示さなくなり,その代り人間論に多く関心を示すようになったことが挙げられる.そのことの理由は多くあるが一つには,カント以来存在論(「究極的実在は何か」)の問題は第二義的となり,認識論(「いかに知り得るか」)が第一義的となったことがある.さらに,実存主義の台頭は人間の本質より人間存在の特異性を重視するという傾向をもたらした.こうして神信仰から人間信仰への移行がなされ,新ヒューマニズムの到来となった.しかし,第1,2次世界大戦を通して人間の悪魔性を見せ付けられた人々は人間への基本的善性に対する信仰を失い,この結果ヒューマニズムは去り,代りに人間の価値や人生の意味を否定する虚無主義が現れてきた.さらに近代化の波が押し寄せてきた結果,現代社会における人間の価値は脅かされてきた.科学技術の優先,官僚支配,大量生産制の拡充,マスメディアの発展,生物学,心理学,社会学を利用した少数者の大衆支配,人工授精,試験管ベビー,妊娠中絶,人間行動の薬物制御,安楽死,遺伝子工学,その他人間の尊厳に関する諸問題,さらに加えて男女同権問題,高齢化問題,人種差別問題,少数民族問題,権威の衰退の問題…「人間とは何か」という古典的問は今日こうした諸問題となって私たちに新しく迫ってきているのである.<復> これらのことを背景に,キリスト教人間論を考察する前に,非キリスト教世界における人間論について触れてみることにしよう.人間論は観念的人間論と物質主義的人間論が両極を成している.観念的人間論は人間を本質的に霊魂であるとし,肉体は本質ではないとする見方である.これは古代ギリシヤ哲学に見られるものである.プラトーンによれば人間の本質は知性または理性であって,これは肉体の死後も存在し続ける神的な生命である.しかし肉体は物質の形をとり,実在の低次元のものである.この見解によると霊魂の不滅は認めるが,肉体の復活は否定されることになる.<復> もう一方の物質主義的人間論は,人間は物質的要素によって構成され,精神的,情的,霊的生命はこの物質的構造の副産物にすぎないとするものである.マルクスによれば,歴史は経済的要因によって決定されるが,その根拠となるものは人間の本質を物質的なものとする見方による.マルクス主義者にとって人間は自然の生成の産物にほかならず,神のかたちに創造されたものではない.創造者の存在も否定されている.人間の倫理的命令,神に対する道徳的責任という概念はマルキシズムの中にはない.人間は社会構造の中の一部分である.悪はこの構造の中から生ずるのであって,その構造を変革することによって消滅させることができる.人間の行う悪は個人がおもに責任があるのではなく,社会構造の中にその責任がある.このようにしてマルクス主義の最終目標は個人の救済ではなく,有産階級,無産階級の闘争が消滅する理想社会の実現である.このためには暴力革命も容認される.もう一つの物質主義的人間論はおもに行動主義心理学の中に見られるものである.これによると,人間は動物と比べ多少高等かもしれないが質的には何ら変るところのない存在である.この代表はB・F・スキナーである.行動主義心理学の見解によれば,人間行動の動機付けは主として生物的動因によって理解される.人間の認識は思索によって得られるものではなく,動物実験によって得られる.人間行動も動物実験によって得られた結果をもとに,種々の過程によって変容できるとする.スキナーによれば,人間は自ら望むように行動する自由を持っているとする見解は神話にすぎない.人間行動は環境によって完全に決定される.人間には意志決定をする「精神」などはないのである.自由や尊厳もない.人間の行動は環境によって決定されるのであるから,その環境が完全にわかれば人間行動は完全に予測可能となる,というものである.<復> これら人間観に関する諸説を見てわかることは,そのいずれもが一方に偏っていることである.観念論的人間論は人間の霊魂または理性のみを強調し,人間の物質的側面を否定しており,物質主義的人間論は,マルクスもスキナーも人間の物質的側面を絶対化し,精神的,霊的側面を否定しているからである.これらの人間論は人間の一側面のみを強調し,神との関係における人間を否定することによって人間を偶像視することの罪を犯しているのである.キリスト教人間論を考察するに当ってはまず,人間を聖書の基本的枠組みの中で位置付けること,すなわち,人間は神によって創造された被造物であること,それゆえ神に依存し,神との関係において責任あるものとして存在していることの重要性を認識しなければならない.<復> 2.人格的被造物としての人間.<復> キリスト教人間論の最も基本的前提は創造者としての神への信仰である.ここから出てくることは,人間は自律的存在ではなく,神の被造物として存在していることである.「初めに,神が天と地を創造した」(創世1:1).「神はこのように,人をご自身のかたちに創造された」(同1:27).この聖句の意味するところは,すべての被造物はその生成,存在,終りのすべてが神に全く依存しているということである.パウロが語るように「神は,すべての人に,いのちと息と万物とをお与え」になり,「私たちは,神の中に生き,動き,また存在している」(使徒17:25,28)のである.<復> 人間はまた被造物であるばかりでなく,人格的存在でもある.人格という時に,それはある種の独立性(相対的な意味で)を意味する.人格を有することは,決断をなし,目標を設定し,目標に向かって行動することを意味する.それはまた,自分自身の選択ができるという意味での自由を持っていることを意味する.人間であることはロボットのようにその歩みが外部の力によって完全に決定されるものではなく,自己決定能力と自ら方向性を決定する能力を有するものなのである.つまり,人間とは被造物であると同時に人格的存在,人格的被造物なのである.被造物であることについては,神は陶器師,人は粘土である(ローマ9:21)と,また,人格的存在であることについては,人は自らの人生を自らの決断によって決定していく(ガラテヤ6:7,8)ことが聖書で教えられている.この被造物性つまり人間の神への依存と,人格性すなわち自由は相矛盾する概念であるが,聖書においては両方共このいずれをも犠牲にすることなく強調されている.これは人間に関する大いなる神秘であると言える.<復> 3.神のかたち.<復> 「そして神は,『われわれに似るように,われわれのかたちに,人を造ろう.そして彼らに,海の魚,空の鳥,家畜,地のすべてのもの,地をはうすべてのものを支配させよう.』と仰せられた.神はこのように,人をご自身のかたちに創造された.神のかたちに彼を創造し,男と女とに彼らを創造された」(創世1:26,27.参照創世5:1‐3,9:6).人間は神のかたちに創造されたのである.ここの「かたち」([ヘブル語]ツェレム)と「似るように」([ヘブル語]デムース)はエイレーナイオス(イレナエウス)以来トマス・アクィナスに至るまで区別され,前者を理性,自由意志,後者を神の超自然的な義の賜物と理解する説が支持されてきたが,宗教改革者たちは両者の区別を否定した.ヘブル語本文には両語の間に接続詞はなく,「われわれに似るように」とは「われわれのかたち」の言い替えにほかならないことを示している.新約の次の箇所は神のかたちを別の面から説明している.「あなたがたは,古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて,新しい人を着たのです.新しい人は,造り主のかたちに似せられてますます新しくされ,真の知識に至るのです」(コロサイ3:9,10).「またあなたがたが心の霊において新しくされ,真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された,新しい人を身に着るべきことでした」(エペソ4:23,24).ここの「新しい人」とは神のかたちに似せられた人のことであり,キリストにあって救われた人間の最終目標である.それはより神のようになることであり,神のかたちの完全な現れであるキリストのようになることである.反対に古い人とは神のかたちになっていない,つまり,罪によって神のかたちを歪曲してしまった堕落後の人間の状態を指している.<復> それでは神のかたちとは何か.いろいろな解釈がなされてきた.カルヴァンは霊魂のことであるとし,K・バルトは男と女の対面的な関係が神のかたちであると主張した.E・ブルンナーは形式的神のかたちを人間を人間とするもの,自由や責任とし,実質的かたちを神と隣人への愛とした.G・C・ベルカウワーは聖化された生き方への動的な挑戦であり,その中心は愛であると規定した.バルト,ブルンナー,ベルカウワーの神のかたちの理解はいずれも関係的,または機能的に偏るものである.神のかたちはどちらか一方に偏ることなく,構造的(structural)と機能的(functional)な面に分けて考えることが必要である.構造的神のかたちとは形式的なもの,広義の意味であり,人間の理性,道徳性,宗教性,神と人に対する責任,意志決断力,美的感覚など,人間が人間としてあらゆる関係において機能するための神から与えられたすべての賜物,能力のことである.機能的神のかたちとは実質的なもの,狭義の意味のことで,コロサイ3:10,エペソ4:24に見られるように人間が神のみこころに適合しようと正しく機能することを指す.そして神のかたちの完全な姿を私たちはイエス・キリストにおいて見るのである.「御子は,見えない神のかたちであり,造られたすべてのものより先に生まれた方です」(コロサイ1:15).救われた人は「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」(ローマ8:29)のであるから,この神のかたちの完全な実現者であるキリストに向かって聖化の道を歩むよう召されているのである.<復> 4.神のかたちと創造,堕落,再生.<復> 神が人間を男と女に創造された時,三つの関係の中に置かれた.すなわち,(1)人間と神,(2)人間と人間,(3)人間と自然の関係である.これら三関係における神のかたちは創造,堕落,再生とどのように関係してくるのであろうか.原初の状態,つまり堕罪以前の神のかたちである人間は罪なく従順に神に応答していた.人は「罪を犯さないでいることができる」([ラテン語]posse non peccare)(アウグスティーヌス)状態であった.この状態ではアダムとエバは三関係において罪なく従順に活動していた.つまり,神を礼拝し,仕え,互いに愛し,仕え合い,神が置かれた場所を支配し,大切に守っていたのである.しかし,この状態はさらに栄光の状態に上るか,罪を犯して死に落ちるかの道の始まりであり,神のかたちの完成ではない.人間はここでは成長し,試されなければならない状態にあった.<復> 罪への堕落(創世3章)の後,神のかたちは消滅したわけではなかったが,極度に歪曲した.構造的な意味における神のかたち,人間の賜物,能力は堕落によって破壊されることはなかったが,人間は神のみこころに反逆しながらこれらの賜物を使用し始めた.人間の構造が変ったのではなく,人間の機能の仕方が変ったのである.神のかたちは極度に変形し,その腐敗の性質の及ばないところはないほどあまねく腐敗してしまった.堕落した人間は神を礼拝する代りに偶像を礼拝するようになった(ローマ1:20‐23).人間理性を神をたたえるために使用するのではなく,人間と人間の事業の達成をたたえるために用いるようになった.道徳的には悪を善と呼び,善を悪と呼ぶようになった.人間相互関係においても,他者の人生を豊かにすべき能力を利己的な目的をもって他者を利用することのために使用するようになった.他者を愛する代りに他者を利用し,憎むようになった.これが現代都市文明に特有な他者への無関心となって現れている.人間と自然の関係においても,神に服従しつつ地を治めることが,自己目的のために大地と資源を利用することに取って代られ,自然破壊,環境汚染という結果になった.人間の科学技術は神をたたえるためにではなく,人間をたたえることのためとなった.<復> 神のかたちは再生されなければならない.これは新しく生れること,すなわち,信仰によってキリストと霊的に結合し,霊的に死んでいた者が新しい人として生かされ,主に仕えるようになることによって実現する.これは聖霊の働きである.人間は神のかたちとして与えられた賜物を神の栄光のために使用し始める.これは聖化の過程で起ることである.神のかたちの再生は神との関係においては,人はそのすべてを神の栄光のために用いることに示される.また対人関係においては隣人を自分のように愛することに現れる.自己のために生きるのではなく他者のために生きるようになる.また自然との関係においては,自然を責任ある,利己的でない,神のみこころに添った仕方で治めることに現れる.そして自然環境を保護し,科学技術を神の栄光のために用いるようになる.文化命令を正当に行使するのである.神のかたちの再生は救霊活動だけではなく,より完全な意味において生の全領域の再方向付けを含むものなのである.神のかたちの再生はさらに終末における神のかたちの完成へと向かう.栄化された人間は新天新地でこの三関係において完全に調和して生きるのである.<復> 5.生れながらの人間.<復> 「生まれながらの([ギリシャ語]プシュキコス)人間」はⅠコリント2:14に見られ,ここでは「生まれながらの人間」と「御霊を受けている人」([ギリシャ語]プニューマティコス)(同2:14,15,3:1)が対照的に出ており,また,「肉に属する人」([ギリシャ語]サルキノイス)と並列的に用いられている.[ギリシャ語]プシュキコスはさらに同15:44‐47で3回見られ,ここでは「血肉のからだ」「血肉のもの」と訳されていて「御霊に属するからだ」([ギリシャ語]プニューマティコス)と対照的に用いられている.前者は「生きた者」としてのアダム,後者は「生かす御霊」としてのキリストと対比されている.「生まれながらの人間」とは人間の下位の面,すなわち被造物として時間,空間に限定され,この世のものに拘束され,御霊による世界には入ることのできない肉的な認識様式を持つものとしての人間を指す.これは同15:45では堕落以前の人間の創造の時のアダムについて言われていることから,堕落状態以上のこと,人間の被造物性をも示すものと言える.とはいえ,「生まれながらの人間」は堕落を含むことに変りはない.罪への堕落によって神から死を宣言された(創世2:17)アダムとエバは罪ののろいの宣告を受けた(同3:14‐19).神からの試みに合格して,成長し高い霊的状態へ上るべき機会に,滅びへと自らを定めていったのであった.「生まれながらの人間」とはこれらすべてを担うもののことであり,反対に「御霊を受けている人」とは,被造物としての限界を担う人のことではなく,アダムが持ち得なかった内住の聖霊による新しい認識を備えている人のことである.<復> 6.人間の構成要素.<復> 旧約における「たましい」を表す語は[ヘブル語]ネフェシュ(創世35:18,申命11:18,ヨブ7:11,詩篇6:3等),「霊」を表す語は[ヘブル語]ルーアハ(創世6:3,出エジプト28:3,申命34:9等),「心」を表す語は[ヘブル語]レーブ(創世6:5,出エジプト4:14,ルツ3:7,Ⅰサムエル1:13等),「からだ」「肉」を表す語は[ヘブル語]バーサール(創世2:21,レビ13:2等)である.[ヘブル語]ネフェシュは「人間の内なるもの」「生けるもの」(人間,動物ともに),「人間自身」(人間全体として),「食欲,感情の座」などの意味がある.このことばは時々死人に対しても用いられている.[ヘブル語]ネフェシュはそれゆえに人間の人格全体を指すものである.[ヘブル語]ルーアハは「霊」「性格」「人間,動物のからだにある霊」(後者は伝道者3:21のみ),「感情の座」「精神活動,意志の機関」の意味がある.従って[ヘブル語]ネフェシュと[ヘブル語]ルーアハは共に人間の生命原理一般を指すものであり,人間の神との関係において用いられる時[ヘブル語]ルーアハが用いられ,人間の他の人間との関係において用いられる時に[ヘブル語]ネフェシュが使用されていると考えてよい.「心」と訳される[ヘブル語]レーブは「肉なる人,たましい」「精神」「良心」「道徳的性格」「人間自身」「感情,勇気の座」などの意味がある.このことばはまた思考,感情,意志の座であるばかりでなく,罪の座(詩篇95:8),霊的刷新の座(申命30:6),信仰の座(箴言3:5)でもある.従って[ヘブル語]レーブは人格全体を指し,宗教的意味合いの強いことばである.[ヘブル語]バーサールは「肉体」「親戚」「弱く過ちを犯しやすい人間」などの意味がある.このことばは人間本性の外的な肉的面を指すものである.[ヘブル語]ネフェシュは人間の内的面を指し,[ヘブル語]バーサールは人間の外的面を示すものと言えるが,これはプラトン的な霊肉二元論を意味するものではない.[ヘブル語]バーサールはまた弱さを担うものとしての人間を指し,しばしば肉的面ばかりでなく人格全体を意味する.以上ヘブル語における人間の諸構成要素はそれぞれ別々の要素として明確に区分できるものではなく,相互に重なり合い,それぞれ統一した人格の異なった面を表現しているにすぎないのである.<復> 新約における「たましい」は[ギリシャ語]プシュケー(マタイ10:28,ルカ1:46,Ⅱコリント12:15等),「霊」は[ギリシャ語]プニューマ(ルカ8:55,使徒17:16,Ⅰコリント2:11等),「心」は[ギリシャ語]カルディア(マタイ5:8,ローマ1:21,エペソ3:17等),「からだ」は[ギリシャ語]ソーマ(マタイ10:28,ルカ22:19,ローマ8:10等)と「肉」を表す[ギリシャ語]サルクス(マタイ26:41,ヨハネ6:56,ローマ1:3等)である.[ギリシャ語]プシュケーは[ヘブル語]ネフェシュに相当することばで,「生命原理」「地上の生命そのもの」「人間の内的生命の座(感情をも含めた)」「地上的なものを超える生命の座,中心」「生きもの」などの意味がある.また[ギリシャ語]プシュケーはしばしば人間全体を指したり,肉体的生命とは別の真の生命,また死後の生命(黙示録6:9)を指すこともある.このようにこのことばは[ヘブル語]ネフェシュ同様人格全体を意味することばである.[ギリシャ語]プニューマは[ヘブル語]ルーアハに相当し,「人間の人格の部分としての霊」「人間の自我」「心の状態,性格」を意味するが,さらに広く人間の心理的機能を示し,人間の心理的側面に強調点を置いた人間全体を意味することばである.これはまた死後のいのちをも指す(ヘブル12:23).このように[ギリシャ語]プニューマは大体において[ギリシャ語]プシュケーと同意語であり,新約においては両語はしばしば互換的に使用されている.しかしあえて両語を区別しようとすれば,[ギリシャ語]プニューマは神の側に向いた人間の非物質的本質,[ギリシャ語]プシュケーは人間の側に向いた非物質的本質と言うことができよう(もちろん例外はある).[ギリシャ語]カルディアは旧約の[ヘブル語]レーブに相当する語であり,肉体的,霊的,精神的生命の座としての心を指す語である.また思考,感情,意志をも含めた人間の全内的生命の根源,中心であり,聖霊が住まわれる場所でもある.[ギリシャ語]カルディアは[ヘブル語]レーブと同様罪の座,霊的刷新の座,信仰の座でもある.またこれは人間の内的本質という意味で全人格を指す語でもある.[ギリシャ語]ソーマは「生けるからだ」「復活のからだ」「キリスト者の共同体または教会」を指す語である.このことばは他の語と同様全人格を意味し,肉体を離れた人間があり得ないことを示す語でもある.[ギリシャ語]サルクスは通常「肉,肉体」と訳されることばであり,「からだ」「人間存在」「肉体的限界」「生命の外的面」「罪を志向する手段となるもの」の意がある.しかし[ギリシャ語]サルクスは全人的意味を持つものであり,この腐敗した性質としての肉が行う罪であっても「肉の罪」というよりは「全人的な罪」と理解すべきである.<復> 7.二分説.<復> 人間の構成要素は魂,霊,からだの三つであるとするのが三分説であり,魂とからだ,または霊とからだの二つであるとするのが二分説である.三分説は歴史的にはギリシヤ哲学,特にプラトーンにおける人間論に起源を発しているものである.キリスト教内部においては,初代教父のエイレーナイオス(イレナエウス),アポリナリオス,19世紀においてはフランツ・デーリッチュ,G・F・オェーラーの両旧約学者,また近年ではウォッチマン・ニー,スコウフィールド引照付聖書などがある.しかし,三分説には幾つかの点で困難がある.第1に,本項目6.で見たように,魂と霊は本質的には同一のもの,ヘブル語,ギリシヤ語ともに両語は互換性を持つものである.第2に,魂と霊が一見区別されているように見える聖書の箇所は以下のように解釈される.(1)Ⅰテサロニケ5:23.ここでパウロは「あなたがたの霊([ギリシャ語]プニューマ),たましい([ギリシャ語]プシュケー),からだ([ギリシャ語]ソーマ)が完全に守られますように」と祈っている.ここは人間を分割して三つに分けているのではなく,人間の全存在の完全性ということ,「神があなたがたの→すべて/・・・←を完全に守られますように」との意味である.(2)ヘブル4:12.「神のことばは生きていて,力があり,両刃の剣よりも鋭く,たましいと霊,関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し,心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」.「分かれ目」([ギリシャ語]メリスモス)は「区分,分離,割当」などを意味する語であり,動詞[ギリシャ語]メリゾーは「分割する,配分する」の意である.しかし,新約ではこの語は元来「二つ以上あるもののそれぞれの個々の間を分ける」意味では用いられず,「ある一つのものを分割する」意味で用いられている(マタイ12:25,26,ルカ12:13,ローマ12:3).それゆえここは,魂と霊という区別することができない一つのものを微細に区分するほど神のことばは鋭く,心の最深部まで入り込むことができるという意味である.<復> 人間が魂または霊とからだ,非物質的本質と物質的本質の二構成要素から成っていることを示す箇所は多い(伝道者12:7,イザヤ10:18,マタイ10:28,ローマ8:10,Ⅰコリント7:34,Ⅱコリント7:1,コロサイ2:5等).<復> しかし,哲学的に人間を霊とからだに分析し,区分する意味での二分説を聖書は支持しない.むしろ二構成要素説と言うべきであろう.過去においては二分説,三分説の議論が多くなされてきたが,今日,聖書神学の発展により,魂,霊,からだ,心を意味するヘブル語,ギリシヤ語で見てきたように,人間を全人的に見ることの重要性を見てきた.人間は霊とからだ別々に存在しているのではなく,両者は不可分的に一体になり,全人格統一体として心身一体的に存在しているということである.心身一体であるから霊的要素と肉体的要素はいつも区別できるとは限らない.しかし,この心身複合体が分解する時がある.それは死である.そして復活においてこの複合体は再び形成され,霊と復活のからだは不可分的に一つとなる.<復> 8.自由の問題.<復> 「堕落した人間に自由意志はあるか」.自由意志を選択の能力として考えると,これは最も重要な能力であると言える.しかし,B・F・スキナーは環境決定論によって人間に決定能力があることを否定する.この人間論は最も悲惨な結果をもたらす.犯罪者はその行為に責任を持たない.社会環境にその原因がある.人間は環境によって決定されるのであるから,真の自由社会を建設することもできない.真のキリスト教人間観,自由論に立脚してこそ自由社会は可能となるのである.ではより高度の自由,真の自由,すなわち,神を喜ばせることをする能力とは何か.人間が創造された時,人は選択の自由と真の自由を持っていた.アダムとエバは「罪を犯さないでいることができた」([ラテン語]posse non peccare)(アウグスティーヌス).しかし彼らは堕落した.これにより人は,選択の能力は失わなかったが,真の自由,神に完全に服従して生きる能力を失ったのである.ペラギウスはこれを否定した.彼によると,アダムは中立的に創造され,善くも悪くもなかった.今日人間は同じ状態で生れる.原罪などというものはない.アダムから私たちへの罪責,汚れの転嫁もない.罪というのは心の状態ではなく行為だけである.今日人間は完全な自由を行う意志を持っている.悪も善も願う通りのことができる.人が何か悪を行う時,その本性は影響を受けない.以前に善を行ったように,悪を行った後も善を行うことができる.ちょうどスプリングのように人間は中立的状態に戻ることができるのである.人が罪を行うのは罪をまねるからである.アダムが子孫に悪い模範を示したのである.私たちはみな両親,兄弟姉妹,夫婦,友人知人から悪い模範をまねる.こうして罪が次々に普遍的に広がっていったのである.人間は彼によれば神を喜ばせることをするために再生する必要はない.生れながらにそうする能力を持っている.恵みは聖霊による内的な働きではなく,人間の理性,自由意志,神の律法の啓示,キリストの模範などの外的な,自然的な賜物である.アウグスティーヌスはペラギウスのこの思想を反ペラギウス文書において反駁した.人間は罪を犯さないでいることができる状態に,善なるものに創造された.それゆえ人間は原初において真の自由を持っていたのである.しかし,堕落するに及んで,選択能力を失うことはなかったが,罪を行うことなく神に仕える能力,つまり,真の自由を失ったのである.人間は罪の奴隷となり,「罪を犯さないでいることはできない」([ラテン語]non posse non peccare)状態に至ったのである.聖書は堕落した人間は真の自由を失ったことを明確に教えている.主イエスは「罪を行なっている者はみな,罪の奴隷です」(ヨハネ8:34)と言われた.パウロも回心前の状態を「罪の奴隷」(ローマ6:6,17,20)と言っている.ルターもカルヴァンも堕落した人間は罪の奴隷であり,真の自由はないことを同様に強調した.人間の真の自由は贖いの過程で回復される.聖霊が人を再生する時,その人の中に聖化の働きを始められ,人は悔い改めと信仰によって神に立ち返り,神の喜ばれることをするようになる.再生した人の状態は「罪を犯さないでいることができる」というものである.それゆえ,贖いは意志の奴隷状態からの解放を意味する.「キリストは,自由を得させるために,私たちを解放してくださいました」(ガラテヤ5:1).この罪の束縛からの解放と神の喜ばれる新しい人としての歩みを可能にするのは,キリストとの結合,すなわち,キリストの死と復活に結合されることによる(ローマ6:3‐6).こうして確立されるキリスト者の真の自由には幾つかの面がある.(1)真の自由は救いを得るために律法を守らなければならないとすることからの自由である.(2)真の自由は無関心でいてよい事柄(化粧品の使用等)についての束縛からの自由を含む.(3)真の自由は神に対する感謝の表現として進んで神のみこころを行う自由である.そしてこの自由は来るべき世において完成される.そこでは復活のからだは御霊のからだ(Ⅰコリント15:44)を受け,罪による妨げから完全に解放される.大いなる喜びをもって神のしもべとして仕える自由がそこにある(黙示録22:3).<復> 9.人間論と現代における問題.<復> 現代は人間が危機に直面している時代である.それゆえ,すべての人間が神のかたちに造られていることの意義は計り知れないほど大きい.神はキリストにおいて人種的差別の壁を取り壊し,一つとされた(エペソ2:14‐16).劣った人種はない.劣った性もない.キリストにあって男も女も一つである(ガラテヤ3:28).人間存在は経済的機能や力で判断されてはならない.人間は経済的存在ではなく神のかたち的存在だからである.高齢者も尊い神のかたちとして尊敬されなければならない.心身障害者も健常者同様尊い神のかたち的存在である.胎児は人間であり,単なる生物的組織ではない.こうした神のかたちとしての人間観を欠いた社会がいかに社会的,経済的に弱い人々に不当な扱いを強いているかは明らかである.人間の基本的人権の思想を根底で支えるのがこの神のかたちとしての人間観である.<復> さらに心身一体論的人間理解の持つ意義も重大である.人間は心とからだを切り離すことはできない.心身症が説明するように心理的要因がからだの病を引き起すことはよく知られている.心理的要因が多分に影響している精神病でさえ,脳の生物学的病であるとする説もある.今,病気は全人的医療が求められている.心理学,カウンセリングの領域でも全人的人間理解の必要が求められている.機械的人間論に対して有機体的人間論がそれである.カウンセラーはカウンセリーの問題を全人的に理解することが必要である.精神科医,医師,カウンセラー,ソーシャル・ワーカー,キーパーソンをも含めた治療チームの必要性が指摘されている.教会の宣教も全人的人間観が重要である.みことばの宣教は,単に霊的面のみを対象としただけでは不十分であり,人間のすべての領域を含むものでなければならない.伝道と宣教の働きにおいても同様である.魂の救いと同時に肉体的,物質的ケアが提供されなければならない.これは特に第三世界宣教において重要である.伝道の社会的責任はこの全人的,総合的アプローチを強調している.<復> さらに罪論,自由論との関係で人間をどう見るかは,教育学,心理学,カウンセリングに深いかかわりを持つことになる.今日の心理学はその多くが性善説に立っており(カール・ロジャーズ,アブラハム・マズロウ他),罪を排除してしまっている.人間主義心理学の代表であるマズロウは,人間における悪の行為は反応的なものであって生来的なものとは考えない.この点極めてペラギウス主義に類似している.こうした自己心理学の行き着くところは「自己崇拝という新宗教」(ポール・ヴィッツ)に等しいものである.真の自由はキリストにある再生,聖化の過程の中で得られるとするキリスト教人間観に立つ心理学,カウンセリングが必要である.人間は罪への堕落の結果,根本的に罪を行う存在であるとの謙遜な人間観こそ,人間を扱うすべての領域で不可欠の基本的認識であろう.そしてこの罪からの解放はキリストの十字架なしにはあり得ないことをも含めて.→神のかたち,霊性,肉,新しい人と古い人,からだの神学,心理学とキリスト教,カウンセリング.<復>〔参考文献〕Hoekema, A. A., Created in God’s Image, Eerdmans, 1986 ; Erickson, M. J., Christian Theology, Baker, 1983 ; Vitz, P. C., Psychology As Religion, Eerdmans, 1977.(山口勝政)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社