キリスト教と美術とは?
キリスト教と美術…
1.はじめに.<復> キリスト教と美術のかかわり方は,時代・教派・地域(民族)によって実に様々である.例えば,礼拝堂内の絵画や彫像をどう取り扱うかということ一つとってみても,教派間の信条の違いが端的に現れる.態度では,完全否定から積極的肯定まで,位置付けでは,それらを偶像と見る立場から描かれた聖書として見る立場まで,過去には流血騒動を起したほどに見解の相違は歴然としており,また,根深い.<復> 本項目で取り上げるものは,いわゆる「キリスト教美術」として知られている,2—15世紀のローマ教会及び東方正教会の美術と,16世紀の宗教改革以後のローマ・カトリック教会及びプロテスタント教会の美術の一部であり,キリスト教美術史の核を成している部分である.「2.通史—各時代のキリスト教美術の特徴」では,上記の各美術を全体の流れの中で解説することに中心を置く.「3.補足説明」では,キリスト教美術を理解する上で重要な事柄を,各派の教理との関係でとらえたもの((1)破壊と再生)と,図像表現の特徴からとらえたもの((2)文字と図像)とを紹介する.なお,文中の各美術の年代区分は概略である.<復> 2.通史—各時代のキリスト教美術の特徴.<復> (1) 初期キリスト教美術(100—300年).<復> 初代教会時代は,その時代を教会誕生に近くさかのぼればさかのぼるほど,人々の関心は,建築や絵画といったいわば信仰の外面的表現よりも,いかなる内容を保持するかという信仰の内実にあったと思われる.内容が聖書や礼拝・礼典として明確にされるにつれて,次第に聖書の装丁や礼拝・典礼用品といった工芸品の制作への関心が高まっていったと推測される.<復> ローマ帝国西側の教会の絵画や彫刻は,カタコンベと呼ばれる地下墓所の壁画や石棺にその断片を見ることができる.初めのうちは直截的表現は避けられたようで,例えば十字架は錨で,キリストは魚で,というように象徴的に表現された.3世紀中頃になると,次第に現実的表現も増していった.<復> 一方,帝国の東側では,絵画にも直截的表現が早くから現れたようである.1934年,ユーフラテス川上流の町ドゥラ・エウロポスで230年頃の教会堂が発見されたが,内部には旧新約聖書を題材とした壁画が描かれていた.<復> (2) ビザンチン美術(4—15世紀).<復> 4世紀になると事態は一変する.ローマ帝国内でキリスト教は公認され,さらには国教となった.その結果,大教会堂や礼拝堂が盛んに造られるようになった.絵画はそれら新しい建物と一体となって表現の場所を得た.395年,ローマ帝国は東西に分裂したが,東ローマ帝国内では3回のキリスト教美術の隆盛期があり,独自の様式を持つものとなった.<復> 第1期は,ユスティニアーヌス帝(527—565年在位)の時代である.首都コンスタンティノポリスの聖ソフィア大聖堂をはじめ,ラベンナの聖ヴィターレ会堂など各地に教会堂が建設された.内部はキリスト像や皇帝・皇妃・司教などのモザイク画(イコン)で彩られた.生き生きとした顔と平面的な衣服の下の肉体とによって表された人物像には,霊と肉との結合とでも言うべき高い精神性が感じられる.<復> 第2の黄金期は,イコノクラスムと呼ばれる聖画像(イコン)破壊運動(726—843年)(→本項目3.(1))への反省から出発した.図像は,聖書や伝承と一致することを目標に描かれた.教会堂内には,キリストなどの単身像ばかりでなく,次第に「キリスト降誕」「マリヤの死」といった教会暦中の12大祭の出来事も合せて表現されるようになった.11世紀には,これらを統合して表現するために,正十字形プランの円蓋式教会堂の採用が決定的となった.ギリシヤ古典文化が大規模に研究され,コピーされたこともあり,モザイク画の人物像には,表情豊かでより量感のあるものや優雅なものも現れた.<復> 第1期・第2期を通して,ミニアチュールと呼ばれる装飾写本は質量ともに豊富である.キリスト教関係だけでも6世紀の「ウィーンの創世記」や「ロッサノの福音書」,10世紀の「レオの聖書」や「聖者暦集」等々あり,特に第2期には,古典文化の再編成に伴って装飾写本群は文化の中枢を形成した.<復> 9世紀以降活発となった伝道活動に伴ってビザンチン様式は,ブルガリア,セルビア(ユーゴスラビア),ルーマニアなどでは,それぞれの土着様式と融合し発展した.とりわけロシアでの板絵(イコン)の発達は周知のところである.<復> 帝国末期のパラエオログス朝時代(1261—1453年)に,第3の黄金期を迎える.モザイク画とともにフレスコ画も用いられ,表現は,より緻密で情念的なものとなった.人物群では,合せて背景や建物も表現されるようになった.<復> 彫刻は,それ自体が持つ現実性の強さゆえに避けられる傾向にあった.聖人の遺物を入れる遺物箱や司教座などの装飾には浮彫りも見られ,その丹精さはイコン(聖画像)にも共通するものである.<復> これら東方正教会の美術は,片やロシアに渡って現代まで存続している.一方,1453年の首都コンスタンティノポリス陥落後,ビザンチン美術は近隣諸国,特にクレタ島で展開された.現在,フォティウス・カンタグルのようなイコン画家がビザンチンの技法を復興させて,アトス山諸修道院を中心にその文化の粋を保ち続けている.<復> (3) ロマネスク美術(10—12世紀).<復> 330年,ローマ帝国の首都がコンスタンティノポリスに移された.旧首都のローマ教会は東方諸教会との見解の相違もあり,次第に独自の文化圏を形成せざるを得なくなった.東方諸教会が東ローマ帝国内で正教会を名乗って文化全般にわたり主導したのに対し,西方のローマ教会は普遍(カトリック)教会を名乗ったが,独自の文化形成を見るのはようやく10世紀に入ってからである.<復> ロマネスク美術の大きな特徴は,その表現の多様さである.西ヨーロッパには,本来のローマ古典文化の基盤に加え,ビザンチン文化が絶えず流れ込んだ.ゲルマン諸族は,彼らが影響を受けたオリエント文化を持って移動してきた.北部には,早くから東方的キリスト教を保持したケルト人が独自の文化を形成していた.6世紀の大教皇グレゴリウス以来,ローマ教会はこれら諸民族とその文化を包含して,西ヨーロッパ全域にわたる視野を持つこととなった.8世紀にはイスラム文化も入り込み,幾世紀にもわたる揺籃期を経て,それら文化の独自性がロマネスク美術の多様性として結実したのである.<復> 8世紀アイルランドのケルト人修道士たちは,組紐文様や渦巻文様で装飾した聖書写本を残した.極めて抽象的で空間を埋め尽すようにして描かれたそれらの写本は,その表現方法の違いはあっても,ビザンチンのイコンと同様に見る者を深い思索へと導く.<復> 初期の教会堂はローマの集会所(バシリカ)を模して建てられたので矩形プランが多かったが,次第に袖廊が付けられて,10—12世紀のロマネスク美術の全盛期には長十字形プランの安定感のある教会堂が支配的になった.<復> 教会堂扉口周辺には上部のタンパン(半円形の壁面)を中心に多くの浮彫りが残されており,「最後の審判」や「栄光のキリスト」のテーマが,動植物の装飾文様に囲まれるようにして表現された.彫り方で言えば,立体感の薄い線彫りから,丸彫りに近いものまである.圧縮されたような人物像もあれば,逆に引き伸されたものもある.概して空間充填的で,人物の表情は生き生きしており,そのうごめくような表現の中にも(多くの場合はキリストを中心として)見事な統一感がある.同時代のビザンチンに範とすべき彫刻がなかったとは言え,ロマネスクの彫刻は真に独創的であった.<復> 礼拝堂に入ると,柱と半円形アーチの繰り返しのリズムによって,人々の目は自然とアプス(祭室)へと導かれる.堂内の静寂さに比して,壁画は饒舌である.壁画の中心はフレスコ画であった.教育的な意味もあって,主題は旧新約聖書全般から広く採られた.表現方法は,イタリアではビザンチンの影響が強かったが,概してのびのびとして生命感に溢れるものであった.<復> ロマネスク美術の中で諸修道院の占める割合は大きく,そこでは膨大な装飾写本が制作された.イスラム美術と出会ったスペインでは,10世紀中頃「ベアートゥス本」として知られる激しい色彩と図式化に特徴を持つ装飾本が作られ,多くの修道院で書写されていった.が,1134年,シトー派修道院では挿絵入り写本の制作は禁止されるようになる.<復> 遺物箱の制作は,西方教会においてもやむことがなかった.フランスのエマイユ(七宝焼),ドイツの金工や鋳造,イタリアの青銅鋳造などは,遺物箱や教会扉にその質の高さを残している.<復> (4) ゴシック美術(12—14世紀).<復> 都市では,その発達に伴って大聖堂が建設されるようになった.ローマ教会が常に世界の霊的首位権を主張しつつも包容的であったように,これらゴシックの大聖堂は,幾多のものを含みつつも統一的であった.<復> 建築工法の改良と文化の成熟が大聖堂にもたらしたものは,高さと光と象徴であった.<復> 高さは,外観においてはその塊としての大きさとともに尖塔によって表現された.天を指し示すようなその姿は,見る者に明快に神の御座を思い起させる.窓や内部は,天井の軽量化の可能な尖頭アーチが採用された.内部の石組は,石の存在感よりも垂直線を強調した.<復> 光は,大きく取れるようになった窓のステンドグラスを通して,豊かに堂内に降り注ぐように配慮された.中世の人々にとって,光は神の属性であった.ステンドグラスのテーマは,聖書全般はもとより,当時の社会生活にまで及んだ.純粋に抽象的なものも多く見られた.<復> 象徴は,当時だけでなく中世の大きなテーマの一つであった.存在するものはすべて,文字通りの意味とともに霊的な意味を持つと考えられた.それら霊的意味を付加された人や物や動植物が,外部には彫刻で,内部では彫刻とステンドグラスによって表現された.<復> ゴシック期の彫刻は,建築工法の改良と相まって,浮彫りばかりでなく丸彫りのものも多くなった.表現的には,個々のものへの観察が進み,次第に写実性と情感表現へと向かっていった.ランス大聖堂に見るように,肉体を持たない天使でさえ,自然な量感と豊かな表情をもって表現されるようになった.<復> イタリアの黒死病が猛威を振った14世紀中期以後,「苦難のキリスト」やキリストの死を悼む「ピエタ」など死をテーマとする彫刻が盛んに作られた.並行して墓に関心が向けられ,墓像は次第にリアルなものとなっていった.フランシスコ派の修道士たちは,その生活と同じく簡素な建物を求めた.内部は,豪華なステンドグラスは避け,フレスコ画が用いられた.制作は,チマブーエやジョット(1266/67—1337年)が担当した.特にジョットの三次元的空間把握は次代の源泉となった.彼の厳しいまでの人物表現は,その肉体とともに精神をも表現しようとする試みであった.<復> 一方,イタリア・シエナ派の画家シモーネ・マルティーニ(1284年頃—1344年)が晩年,南フランスのアビニョン教皇庁に招かれたことからその様式が広くカトリック教国に伝わり,宮廷の祭壇画に特に好んで採り入れられた.流麗で豪華ではあるが地方色や激情性も合せ持つこの様式は,国際ゴシック様式として知られ,その後15世紀まで西欧絵画の主流を形成した.<復> 装飾写本でも,従来の教会用の大型聖書写本に加え,宮廷の個人用の詩篇や祈祷書などが作られるようになった.ランブール兄弟による「ベリー公の豪華時祷書」(1416年)は,フランドル派特有の素直な自然描写に作者の優しい持ち味が加わって,みずみずしい.<復> 遺物箱には教会堂を模したものが多くなり,細部まで表現されるものも出てきた.<復> (5) イタリア・ルネサンス美術(15—16世紀).<復> イタリアではゴシック美術はあまり発達しなかった.むしろ,その古代ローマの豊かな遺産からすれば,ゴシック美術は野卑に思われた.古典文化はフランスやドイツでもすでに研究されていたが,15世紀以降のイタリアでは質量ともに文化を支配し,キリスト教美術にも多大な影響を及ぼしたのである.<復> 教会堂建築は,古代建築に倣って明快に,数学的になっていった.特に半円筒形アーチ群に見られる幾何学的な繰り返しはリズミカルで,ゴシックの非統制的で生物的とも言うべき教会堂とは著しい対比をなしている.<復> 絵画は,古代の遺産が少ないこともあって,自然描写や客観的表現に重点が置かれた.その結果,宗教画は,教義内容の伝達や出来事の意味を伝えるという従来の意義に加えて,場面の状況や人物の個性をいかに表現できるかという画家の能力を試す格好の手段となっていった.その上に新プラトン主義的な理想を加えられた多くの宗教画は,あたかもそこに存在するかのような現実性と物質性を持ったが,それゆえにかえって作り事めいたものとなってしまった.<復> 彫刻ではドナテルロ(1386—1466年)が冷徹な目で「ダビデ」や「マグダラのマリヤ」のような情感豊かな人物像を作った.「ピエタ」(1498—99年)に見る若き日のミケランジェロ(1475—1564年)は,マリヤの深い悲しみを静寂の中に見事にとらえつつも,マリヤをキリストよりも若く(あるいは同年齢に)表現した.<復> (6) 宗教改革の美術(16—17世紀).<復> 同時期のフランドル地方はいまだゴシックの時代にあったが,ヤン・ヴァン・エイク(アイク)(1390年頃—1441年)に見られる精緻な現実描写や,ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデン(1399/1400—64年)に代表される情感表現は,その後,カトリックとプロテスタント双方に広く影響を与えるものとなった.<復> 1517年に始まった宗教改革の波は,多かれ少なかれドイツ人芸術家を中心に影響を及ぼすこととなる.アルブレヒト・デューラー(1471—1528年)は1526年,ルター派の信条を採用したニュルンベルク市に寄贈した「4人の使徒」と題する絵の中で,使徒ペテロ(カトリック教会の象徴)をヨハネ,マルコ,パウロと同じ画面に,しかもヨハネの後方に描いた.しかし同時期,彼の弟子たちのうちの3人は,その過激な信仰ゆえに市から追放される.<復> 「イーゼンハイムの祭壇画」(1511—15年頃)のキリスト像で知られるグリューネヴァルト(1475/80年頃—1528年)は,その遺品からルター派の信仰者であったと思われる.しかし,晩年に仕えたアルブレヒトは野心的な枢機卿で,1523年,自分の肖像をエラスムスとして描かせた.これはルターを激怒させることとなり,逆に農民戦争にも関心を示したグリューネヴァルトは,1526年,枢機卿のもとを去った.以後,彼は死ぬまで作品を描かなかった.<復> ルターの友人としても知られるルーカス・クラーナハ(1472—1553年)は,1505年以降ザクセン侯に仕えたことでルター派の主要な画家の位置を占めている.彼の描いたルター像の数々は,われわれのルター理解を助ける.ルター訳のドイツ語聖書には,クラーナハによる11枚の挿絵が添えられた.<復> カルヴァン派は,既存のカトリックの教会堂を改修して,礼拝に一体感を持たせるように工夫した.<復> 17世紀,改革派のオランダから生れた一群の画家たちは,プロテスタント美術の新しい方向性を示した.わけてもレンブラント(1606—69年)の宗教画は,真に独創的である.「福音書記者マタイと御使い」では,注意深く思い出してはつづろうとするマタイの耳もとに,御使いが記すべきことばを伝えている.「十字架を立てる」では,キリストの十字架を人々と一緒に力一杯立てているレンブラント自身が主題ではないかとさえ思われる.<復> レンブラントにおいては,自画像群も覚えられてよいだろう.理想化することなく,創られたままの自分を見詰め続けた彼の姿勢は,それだけで彼の信仰告白と言えよう.<復> (7) 対抗宗教改革の美術(16—18世紀).<復> 宗教改革に対するカトリック教会の反応は,美術の分野にも様々な形で現れた.当初のうちこそそうでもなかったが,トリエント公会議(1545—63年)をきっかけに建築や絵画は以前にも増して重要な位置を占めるに至った.そして次第に,劇的で希望に満ちた,誰にでもわかりやすい,直接感情に訴える傾向が強まっていった.<復> 建築では,1506年に着工されたローマのサン・ピエトロ大聖堂が,その間の事情を反映している.当初,ブラマンテ(1444—1514年)によって正十字形プランの採用された同教会は,彼の死後,何人かの手を経て1607年,カルロ・マデルナ(1556—1629年)に引き継がれた.彼は,今日あるように西方教会の伝統に従って長十字形プランの教会堂として完成させた.<復> 宗教改革前後のカトリック絵画の特色は,ティツィアーノ(1487年?—1576年)の「聖母被昇天」(1516—18年)によく表れている.そこでは,神のもとに昇るマリヤは若くて美しく,地上で見送る使徒たちの希望のように表現されている.<復> ミケランジェロは,「メーディチ家礼拝堂」の一連の彫刻(1519—34年)や「最後の審判」の壁画(1534—41年)など,当時のカトリック教会の代表的な仕事をし,若い芸術家たちにも多大な影響を与えた.が,その内省的な主題解釈が,ティツィアーノの明朗なそれを越えてカトリック教会の主流となることはなかった.<復> 同じことはカラヴァッジョ(1573—1610年)にも言える.その激しい明暗対比による表現方法は次の時代のカトリック美術にも受け継がれたが,「聖母の死」(1605/06年)の祭壇画は教会に拒否された.彼は死の床のマリヤをむくんで青白くなった屍として表現したのである.<復> 16世紀のうちに熱情的な敬虔によって信仰を回復したカトリック教会は,次第に,絢爛豪華で力強い教会堂を造るようになった.その教義の重要性や真実性が,激情的な絵画や彫刻で語られた.<復> ローマのサン・ピエトロ大聖堂の「教皇の祭壇」(1656—66年,ベルニーニ作)は,西方教会が主張し続けた「ローマ教皇の首位権」の荘厳な視覚化であった.また,ジェズ聖堂の「イエスの御名の勝利」(1674—79年,ガウリ作)に代表される一連の天井画は,天の栄光にあずかる御使いやおびただしい人々の中に,見る者をも巻き込むかのように描かれている.<復> 3.補足説明.<復> (1) 破壊と再生.<復> キリスト教美術は,その歴史の中で2回の教会内部からの大きな破壊運動を経験した.それは,8—9世紀の東方正教会内においてと,16世紀の宗教改革においてである.<復> 教会堂や画像をつくるのがその人々の信仰告白であるのと同様に,それらを破壊する行為も破壊者たちの信仰告白である.ゆえに,過去2度の破壊活動は激しく,また,擁護者によるその後の再生にも破壊と同じほどの力があった.<復> a.第1回目.<復> 第1回目の破壊活動は,聖画像破壊運動(イコノクラスム)として知られている東方正教会内でのものである.<復> 312年,時のローマ皇帝コンスタンティーヌスが回心したことは,キリスト教会に大きな変化をもたらした.キリスト教はその世紀のうちに帝国の公認となり,さらに国教となって優遇された.が,一方では,異教的な習慣も多く残ったのである.<復> コンスタンティーヌスは回心後も貨幣に異教の神々の像を採用し,また,常勝太陽神を好んだ.4世紀には教会堂が多く建てられたが,それらは殉教者の墓の上にであった.キリスト受難の時に使われたと信じられた道具や殉教者や聖人の遺骸への,いわゆる聖遺物崇拝は根強く残っていた.また,聖徒は人々の祈りを神にとりなす者と信じられていた.431年,エペソでの第3回総会議で「神の母」(セオトコス)という教義がイエスの母マリヤに与えられたことは,それ以前からあった処女マリヤ崇拝に大胆に道を開いた.7世紀には,聖徒の画像(イコン)は,聖徒と同じように人々の祈りをとりなすと信じられ,人々は自ら教会堂にイコンを寄贈した.<復> 礼拝は父なる神とキリストにささげられるべきであるのに,これらのことはその礼拝の焦点をぼかしてしまった.敏感な人々はこうした傾向の中に明らかに偶像崇拝の危険性を感じ取った.彼らはついに直接行動に出てきた.<復> 726年,皇帝レオ3世は画像表現を禁止し,画像破壊の勅令を出した.以後1世紀あまりにわたって,各時代の皇帝の見解に従って破壊と擁護が繰り返されることになる.787年,第7回総会議で画像破壊者が非とされてから後も聖画像破壊運動は再燃,843年になって,ようやくその激しい嵐がやんだ.<復> なぜ画像は肯定されたのだろうか.当時の教会指導者たちは次のように説明している.「肖像は決して,本人と同質ではあり得ない.単に,それに似せただけである」「神のロゴスが御心によってわれわれと同じ肉になった時に,目に見えないものは,目に見えるものとなった.従って,キリストは画像に表現され得る」.さらには,「画像に対する崇敬はその原型にまで到達する」.<復> 聖堂は,その中で行われる儀礼にふさわしく,また,儀礼体験を助けるものとして,より有機的な方向に発展していった.初期の聖堂以来内包していた正十字形プランは,次第に明確に表されるようになった.聖画像は,個人の趣向によらず,聖書や聖伝に一致するよう描くこととされた.聖画像が聖堂内で描かれる位置にも方向性が示された.聖堂中央最上部の円蓋に,天空と全能者キリスト,至聖所上部に聖子を抱く生神女(しょうしんじょ)マリヤ,聖所の上部に12使徒,下部に諸聖人,といった具合である.時代が下ると,これら単身像に加えて新約聖書の主要場面も合せて表されるようになった.<復> 以後,聖堂や聖画像は,東方正教会の信仰内容の具体的な表れとなり,信仰生活全般にわたって重要な位置が与えられるようになった.<復> b.第2回目.<復> 第2回目の破壊は,宗教改革に深くかかわっている.が,宗教改革の主目的は教会堂や画像の破壊ではなかったので,当時の破壊運動は,東方正教会で起ったものとは結果において異なる.宗教改革の主目的は,カトリック教会の信仰生活の改革及びその結果としての新教会の方向付けであった.旧教において保持されていたものは,教会堂や画像も含めてすべてが,新しい信条において見直された.以下,まず,礼拝との関連を中心に,それらがどのように取り扱われたかを見てみよう.<復> ルター派は一般に穏健であり,教会堂には大きく手を加えることはなかった.ルターは,十字架像や聖人像は記念となりあかしとなるから尊敬に値する,と考えた.1522年,ウィッテンベルクにおいて画像破壊に走ったカールシュタットをルターは激しく非難した.しかし一方では,枢機卿アルブレヒトの聖遺物収集を「ハレの偶像」と呼んだように,人の心が物にとらわれやすい危険性を持っていることを指摘している.<復> ツヴィングリは,チューリヒの大聖堂を改装して用いた.聖像や装飾は取り除いたが,ステンドグラスは残しておいた.1525年,彼とたもとを分かったアナバプテストの中の一部は,もっと徹底して改革を推し進めた.<復> カルヴァン派では,教会堂は積極的に改修された.その礼拝形式に従って,説教台と聖餐テーブルは中心部に置かれた.カルヴァンは,聖像を初め象徴的なものであっても,それがまことの神への礼拝を妨げるものと考えられる時には,偶像と見なして排除した.<復> カトリック教会は,当然のことながら,聖堂や聖画,聖像をそのまま保持した.聖画や聖像への敬意はそれらが表す原型に向けられているという立場をとるカトリック教会からすれば,それらを破壊する者たちは激しい非難を浴びて当然であった.<復> これらの結果はどうであったろうか.詳細は「2.通史」の(6)及び(7)に述べているので,ここでは大局的にとらえておく.<復> プロテスタント各派では最小限必要なものだけが残った.カルヴァン派の教会堂では,十字架の代りに復活のしるしとしての鶏が塔に掲げられた.礼拝堂からは,ルター派に例外はあっても,彫刻や画像は排除された.宗教画は,レンブラントに代表されるように,芸術家の信仰告白といった,限定された,しかし新しい価値観を持って残ることとなった.<復> カトリック教会では,美術は以前にも増して奨励されていった.聖画や聖像が教会堂から追い出されはせず,むしろ,それらは教会堂と共同して,革新されたカトリック教会を人々に具体的に紹介するのに貢献した.新しいカトリック教会が「誰にでも理解できて,親しみやすく,豪華さと力強さを持った,栄光に満ちた普遍の教会」であることが,人々に無理なく理解された.しかしそれらは,教会が表現様式や表現内容に干渉し,不適格と判断したものは排除するという教会の統制によってもたらされたものであった.排除された作品の中には,ミケランジェロやカラヴァッジョのものがあったのも事実である.<復> (2) 文字と図像.<復> キリスト教美術では図像は,その描かれた内容を見る人々に正確に伝えるために,その誕生当初からいろいろな工夫がなされてきた.特に,文字の組合せによって内容を表したもの(モノグラム)や,象徴的に図像で表現したもの(シンボル)を知ることは,図像の理解に大変役立つ.ここでは,聖書中の人物がどのように図像に表現されてきたかを,モノグラムやシンボルを中心として見てみたい.<復> a.父なる神の図像.<復> 父なる神を表した図像は少ない.表現されても控え目で,「雲間から現れる手」,次いで「頭」「胸」で,老齢の全身像として表れるのはルネサンス以降である.三角形の光背で表されることもあり,その中に目が描かれる時もある.<復> b.キリストの図像.<復> 当然ながら,キリストの図像は豊富である.描かれる場合は,ほとんど主題としてである.単独像も多い.<復> 初期の頃には文字でキリストを表現することが多く,様々なモノグラムを生んだ.〓はキリストの代表的モノグラムである.キリストを表すギリシヤ語の最初の2文字を組み合せたものである.コンスタンティーヌスが用いたことがよく知られているが,2世紀にはすでに見られている.ヨハネの黙示録に由来するΑとΩもよく見かけるものである(黙示録1:8,21:6,22:13).IHSはイエスを表すギリシヤ語の最初の3文字から来ている.小文字を使ったものもある.これらと円(茨の冠,栄光—イザヤ28:5等)を組み合せた「勝利のキリスト」のモノグラムもある.<復> 魚はキリスト信仰を表したシンボルであると解釈されている.ギリシヤ語のΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ(イエス・キリスト,神の御子,救い主)の各頭文字をつづり合せると,ギリシヤ語の魚ΙΧΘΥΣになるからである.初期のキリスト教徒は,墓碑などに好んでこの魚を表現した.<復> 良き羊飼いは,最も早い時期から使用されたキリストのシンボルの一つである.旧新約どちらの聖書にも記述があり(詩篇23:1,ヨハネ10:11等),よく用いられている.キリストは小羊としてもしばしば表現される(イザヤ53:7,黙示録19:7等).<復> キリストは普通,ひげを生やした長髪の図像で表される.ビザンチン初期には,ひげのないものも見受けられる.キリストは大きく描かれる場合が多い.また,教会堂の中では一番高いか(ビザンチン),重要な祭室上部など(ロマネスク.ゴシックではステンドグラス)に描かれることが多い.手に何かを持つ場合が多く,いのちの書(黙示録3:5等),復活の場での勝利の旗(イザヤ11:10)などがある.頭に光輪をいただくのが普通で,光輪の中に十字架を描いてあるものが多い.<復> 錨は十字架を表すシンボルであって(参照ヘブル6:16),初期キリスト教時代によく用いられた.<復> c.聖霊の図像.<復> 鳩,特に白鳩は聖霊の最も顕著なシンボルである(マタイ3:16等).特に,「キリストの洗礼」の図像では,雲間の手・鳩・洗礼を受けるキリストの3図像で三位一体を表すものが多い.また聖霊は炎の舌として,特に「聖霊降臨」の場面で象徴的に描かれる(使徒2:3).生ける水の川として表現されることもある(ヨハネ7:38,39等)が,全般的には主題として扱われることはまれである.<復> d.天使ガブリエルの図像.<復> 天使ガブリエルは,「受胎告知」の図像に表れる(ルカ1:26等).通常,背中に翼があり,手に白百合を持ちマリヤに手渡そうとしている.百合は純潔の花嫁の象徴である(参照雅歌2:2).<復> e.バプテスマのヨハネの図像.<復> バプテスマのヨハネは,着古した着物を腰のところで帯で結んでいる場合が多い(マルコ1:6).手に十字架を持ち,もう片方の手でその十字架を指さしたり,聖書を持って十字架上のキリストを指し示したりしている.<復> f.イエスの母マリヤの図像.<復> イエスの母マリヤは,多少の見解の相違はあっても,東方正教会でもカトリック教会でも重要な位置を占める.図像も膨大な数が残っているが,その中心はいわゆる「聖母子」である.教会堂でも至聖所の上方(東方正教会)に多く見受けられる.マリヤの生涯を描いた図像は主として外典「ヤコブ原福音書」からとられている.<復> g.ペテロとパウロの図像.<復> ペテロの図像は,カトリック教会においてより取り上げられている.通常は手にかぎを持つ(マタイ16:19).外典「ペテロ行伝」からとられた逆さ十字架による殉教の図像は名高い.<復> パウロは通常,斬首刑による殉教であったと信じられていたことから,剣を持って描かれる.パウロの信仰とその働きを示す場合,剣がもう一本加えられた.彼の外見的な弱々しさ(Ⅱコリント10:10)をはげた頭で象徴させることが通例となっている.<復> h.四福音書記者の図像.<復> 四福音書記者の図像は,エゼキエル書に出てくる四つの顔になぞらえられることが多い(参照エゼキエル1:4‐14).すなわち,マタイ=天使(人間),マルコ=獅子,ルカ=牡牛,ヨハネ=鷲である.なお,ルカは,「聖母子」を描く画家としてしばしば登場する.<復> i.その他.<復> 以上のほかにも図像理解に有効なものがあるが,それらはいわゆる「諸聖人」に属する者たちの図像である.キリスト教図像は内容を正確に伝えることを目的とするので,絵の中に文字による説明書きのあるものが多い.文字はギリシヤ語やラテン語が多く,たいていは簡単な単語で,「諸聖人」の名前が記されている.→教会建築,チャペル,イコン.<復>〔参考文献〕『聖書美術館』1—5,毎日新聞社,1984—85;『西洋の美術』Ⅱ,Ⅲ,旺文社,1976;P・ミルワード他『ヨーロッパ・キリスト教美術案内』日本基督教団出版局,1985;高橋保行『ギリシャ正教』講談社学術文庫,1980;T・ドウリー編『カラーキリスト教の歴史』いのちのことば社,1979;F・A・シェーファー『それでは如何に生きるべきか—西洋文化と思想の興亡』いのちのことば社,1979;M・ルルカー『聖書象徴事典』人文書院,1988.(田ヶ原弘)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社