《じっくり解説》贖罪とは?

贖罪とは?

スポンサーリンク

贖罪,贖罪論…

1.キリスト教の救いの教理の中心的なテーマである.贖罪とは,罪を贖うことであり,犯した罪の赦しのために,その罪の中から救い出すことを意味している.キリスト教においては,神がその贖罪のわざのために,御子を救い主としてこの世に遣わして,罪の中にある人間をその罪から救い出し,赦しを与えることを意味している.贖罪は救いに関する神の主権的なわざである.この救いのわざが人間にどのように適用されるか,このことで,キリスト教の救済の教理は成立している.特に神と人間との間にあって,キリストの贖罪のわざがどのようにかかわっているかについての神学的な議論が贖罪論である.ここで,贖罪について,旧約聖書においてどのように教えられ,新約聖書でキリストの到来においてどのように成就し,教会の歴史においてどのように議論されてきたかを見ることにする.<復> 2.旧約聖書における贖罪.<復> (1) 神の創造のわざの中で神が最も悲しまれたことは,人間が神に背いて罪を犯したことである.しかし神は,その人間を捨ててしまうことはせず,その犯した罪の中から救い出すことをよしとされた.罪を犯して隠れていたアダムとエバに,神のほうから近付き,赦しを与えようとされた.隠れていたアダムに神が「あなたは,どこにいるのか」(創世3:9)と呼びかけられたことは,神が人間を救うためのわざをなそうとしておられることを語っている.神が赦そうとされない限り,人間の罪の赦しは成り立たない.神は初めから,犯した罪を赦そうとされた.しかしその赦しは自動的なものではなく,その罪のために神御自身が苦しむことになったのである.エバと誘惑した蛇に対して神が,蛇の子孫と「女の子孫との間に,敵意を置く」(創世3:15)と言われた時,その「女の子孫」とはマリヤより生れた御子イエスのことであると理解されてきた.罪を犯したアダムと,そのアダムを罪の中から救い出そうとされた神のわざとが,キリスト教の救いの教えを理解するための基本的なテーマである.<復> (2) 神は,罪を悔い改めることをしなかったアダムとエバに対して,その罪の報いを示し,エデンの園から追放された.神は,犯された罪を放っておくことはせず,何らかの形で報いることを示された.神は,アダムとエバをエデンの園から追放されたが,しかしなお神の恵みのうちにあることを,アダムの子孫を祝福することによって示しておられる.その子孫も,アダムから10代目のノアの時代には,神から全く離れてしまった.そこで神は洪水をもって地をさばかれた.しかし箱舟によってノアとその家族を救い出されたことは,そこに神の救いの計画のあることを示している.洪水によるさばきは罪に満ちた地に対する神の報いであるが,ノアの家族の救出は,報いが目的ではなく救いが目的であることを示している.ノアの箱舟は,神の救いの手段として用いられたのである.<復> (3) 旧約聖書において,神の救いのわざがさらに直接的に示された出来事は,イスラエルの民の出エジプトである.出エジプトは特に神の贖いの意味を示している.イスラエルの民がエジプトに移り住むことになったのは,カナンの地の大ききんと,すでにエジプトに売られていたヨセフの取計いによる.イスラエルの民がききんのためにエジプトに下らなければならなかったのは,民に対する神の報いであるが,ヨセフによって民を守られたのは,神の恵みであった.しかし結局,民はエジプトで奴隷として使われることになり,以前よりも厳しい状況に置かれることになった.しかし神は,イスラエルの民をその奴隷の状態から救い出すことを,モーセを通して約束された.「わたしは主である.わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し,労役から救い出す.伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う」(出エジプト6:6).ここでは,神の救いのわざが直接的に贖いのわざであると語られている.「伸ばした腕」は,神の直接の贖いのわざ,すなわち,民をその奴隷の状態から救い出すわざを意味し,「大いなるさばき」は,エジプトをさばくことによって民を解放することを意味している.贖いのわざには,救い出すことと同時に,束縛している力を滅ぼすことによってそこから解放することが意味されている.このことは,後のキリストによる贖いのわざにおいて,人間を罪に閉じ込めているサタンの力から解放することを意味している.<復> (4) 出エジプトの出来事を通して,イスラエルの民は,彼らの神が天地万物の造り主であるだけでなく,奴隷の下からの贖い主であることを明確に知ることになる.ダビデは,落胆し,苦難の中にある時に,民のうちになされたこの贖いのわざを思い起している.「私は,あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし,あなたのみわざを,静かに考えよう.…あなたは御腕をもって,ご自分の民,ヤコブとヨセフの子らを贖われました」(詩篇77:12,15).イスラエルの民がエジプトで苦しんでいることと,自分が苦難の中にあることとを結び付け,そこから神が贖い出して下さるという望みを示している.預言者イザヤは,造り主である神が民をエジプトから贖い出されたことを,イスラエルの民に思い起させようとしている.「イスラエルよ.あなたを形造った方,主はこう仰せられる.『恐れるな.わたしがあなたを贖ったのだ.…あなたが水の中を過ぎるときも,わたしはあなたとともにおり,川を渡るときも,あなたは押し流されない.…』」(イザヤ43:1,2).イザヤは,神において創造のわざと贖いのわざとが結び付いていることを,繰り返し示している(同43:14,15,44:24).すなわち,贖いのわざによって救い出された民の行くべき所は,神の創造による地であることを意味している.ここに,贖いの目的が示されているのである.<復> (5) 神は,この贖いのわざの意味を,ルツを通して示しておられる.ルツはモアブ人であったが,その地に来たベツレヘム人のナオミの息子の嫁となった.しかしナオミは夫にも息子にも先立たれ,ユダの地に帰ることになり,ルツはナオミについてユダの地に来た.そこでナオミの夫の親戚のボアズがルツを「買い戻す」ことになった.この「買い戻す」と訳される動詞[ヘブル語]ガーアル(その分詞形[ヘブル語]ゴーエールは「買い戻しの権利のある親類」,ルツ2:20,3:9,12)は,「贖い」を表す用語の一つである.すなわち,失われてしまったものを,その権利のある者が買い戻すということである.夫が死んで失われた状態にあるルツを,ボアズが買い戻して自分の妻とした(ルツ4:10).異邦の女がイスラエルの民の中に贖い取られたのである.そしてボアズとルツの子孫は,ダビデを通してイエスにまで結び付いている(マタイ1:1,5,6).<復> (6) 出エジプトの出来事が神の贖いのわざの先例として示されたが,この後,イスラエルの民の罪の赦しのために,雄牛が罪のためのいけにえとしてささげられることによって贖いのわざがなされた.この場合には,その贖いのわざを取り扱うために,祭司が立てられている.祭司は「毎日,贖罪のために,罪のためのいけにえとして雄牛1頭をささげなければならない」(出エジプト29:36)と言われている.レビ記においては,さらに明確に,祭司が雄牛を罪のためのいけにえとしてささげることによって,罪を犯した民のための贖いをすることが求められている.「こうして祭司は彼らのために贖いをしなさい.彼らは赦される」(レビ4:20.参照レビ4:26).祭司による贖いのわざと,民の罪の赦しとが結び付けられているのである.祭司は自分の罪のためにも同様にすることが求められている.「アロンは自分の罪のためのいけにえの雄牛をささげ,自分と自分の家族のために贖いをする.彼は自分の罪のためのいけにえの雄牛をほふる」(レビ16:11).祭司が自分の手で雄牛をほふることが,罪の贖いのわざであり,雄牛はその代価であり,その結果は罪の赦しである.レビ記には,そのほふる方法まで明確に記されている.それは新約聖書において,イエス・キリストが十字架においてほふられた小羊としてささげられることと結び付いている.<復> 3.新約聖書における贖罪.<復> (1) 新約聖書においては,贖いのわざはイエス・キリストと結び付けて語られている.出エジプトの後にもイスラエルの民はなお罪の中を歩むことになり,エルサレムは荒廃し,民はエルサレムが贖われることを待ち望んでいた.イエスの誕生の後,その両親が幼子イエスを宮に連れて来た時,宮で神に仕えていた女預言者アンナが「神に感謝をささげ,そして,エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に,この幼子のことを語った」(ルカ2:38)と記されている.さらにキリストの復活の後,2人の弟子がエマオの途上で復活の主に会い,その会話の中で「私たちは,この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ,と望みをかけていました.」(ルカ24:21)と,救い主の到来によるイスラエルの贖いの望みのことを示している.イスラエルの民は,旧約聖書から新約聖書に至るまで,イスラエルの神が贖い主の神であることを信じていたのである.イエスの誕生の前に,ザカリヤも次のように語っている.「ほめたたえよ.イスラエルの神である主を.主はその民を顧みて,贖いをなし,救いの角を,われらのために,しもべダビデの家に立てられた」(ルカ1:68,69).<復> (2) 新約聖書の中で特筆すべきことは,救い主イエス御自身が,自分が遣わされたのは多くの人々の贖いのためであり,自分自身がその贖いの代価として十字架にかけられることを知っておられたということである.イエスはこのことを,変貌の出来事の後,十字架と復活のことを明らかにした上で語っておられる.「人の子が来たのが,仕えられるためではなく,かえって仕えるためであり,また,多くの人のための,贖いの代価として,自分のいのちを与えるためであるのと同じです」(マタイ20:28,マルコ10:45).イエスがこの知識をどこで得られたのかということは,イエスのメシヤ意識のテーマとして議論されているが,基本的には三位一体の子なる神として,初めから知っておられたと理解すべきである.イエス御自身も旧約聖書において贖いの計画がなされていたことを知っておられたのである.イエスは御自分のいのちを贖いの代価としてささげることが,「多くの人のため」であることを認めておられる.この場合に,イエスのいのちは贖いの代価であって,その代価が支払われたことによって,多くの人々が神に買い戻されることになる.その代価が誰に支払われたかは,聖書には記されていないが,後に教会においてこの議論がなされている.<復> (3) イエスは御自分のそのことば通りに十字架にかけられたのであるが,イエスの死と復活の後に,使徒たちがイエスの死と復活をどのように見ていたかも重要なことである.贖いの教えについての聖書の一貫性を知ることができるからである.特にパウロは,イエスの先のことばに対応するようなことを語っている.「キリストは,すべての人の贖いの代価として,ご自身をお与えになりました.これが時至ってなされたあかしなのです」(Ⅰテモテ2:6).このようにパウロも,キリストの贖いの代価が,旧約聖書から約束されていたことの成就であることを語っている.<復> 贖いの思想について旧約聖書との結び付きを明確に語っているのは,ヘブル人への手紙である.特にレビ記に記されている贖いの代価としての動物との対比で,キリストのことを語っている.「しかしキリストは,すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ,手で造った物でない,言い替えれば,この造られた物とは違った,さらに偉大な,さらに完全な幕屋を通り,また,やぎと子牛との血によってではなく,ご自分の血によって,ただ一度,まことの聖所にはいり,永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブル9:11,12).ここでキリストは大祭司として,完全な幕屋を通って至聖所に入り,御自分のいのちをおささげになったことが語られている.レビ記では,祭司が動物の血をささげるのであるが,それは毎年繰り返しなされなければならない.しかしキリストが御自身をおささげになったことによって,繰り返す必要のない永遠の贖いが,「ただ一度」で成就したのである.ただ一度で充分な完全な贖いのわざであった.旧約聖書の時とは違った永遠の贖いが成就したのである.<復> (4) キリストの贖いはキリスト御自身の血がささげられたことによるが,それはレビ記に記されている動物の血がささげられることから来ている.贖いの代価には,血を流すことが求められる.それは十字架の死において成就した.そこに血によるきよめのわざが意味されている.「キリストが傷のないご自身を,とこしえの御霊によって神におささげになったその血は,どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ,生ける神に仕える者とすることでしょう」(ヘブル9:14).このことはペテロによっても語られている.「あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは,銀や金のような朽ちる物にはよらず,傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの,尊い血によったのです」(Ⅰペテロ1:18,19).パウロも,血による贖いと罪の赦しとを結び付けて語っている.「私たちは,この御子のうちにあって,御子の血による贖い,すなわち罪の赦しを受けているのです.これは神の豊かな恵みによることです」(エペソ1:7).<復> (5) キリストによる贖いは,キリストが御自身を私たちのために贖いの代価としてささげて下さったことにより,その結果として罪の赦しが私たちに与えられることを意味している.「この御子のうちにあって,私たちは,贖い,すなわち罪の赦しを得ています」(コロサイ1:14).罪の赦しとは,神が贖いの代価としてキリストを支払って下さったことによって,私たちを買い戻して下さったことなのである.「あなたがたは,代価を払って買い取られたのです」(Ⅰコリント6:20).<復> さらにパウロは,この贖いのゆえに,私たちが義と認められることを語っている.すなわち,贖罪と義認とが結び付けられている.「すべての人は,罪を犯したので,神からの栄誉を受けることができず,ただ,神の恵みにより,キリスト・イエスによる贖いのゆえに,価なしに義と認められるのです」(ローマ3:23,24).義と認められる前に,キリストによる贖いが事実としてあり,それに基づいて義認が起る.すなわち,贖罪とは,神の救いのわざの事実であって,神がその御子のうちになされたわざのことである.私たちはそれに対して信仰によって応えていくことが求められている.それゆえに「神の恵みにより」「価なしに」と言われているのである.<復> (6) 義認と同時に,贖罪のわざにはきよめのわざが続く.それはキリストの血によるきよめである.パウロは「キリストは,私たちにとって…義と聖めと,贖いとになられました」(Ⅰコリント1:30)と言っている.義認ときよめと贖罪とがキリストによってなされているのである.さらに,贖いが罪のきよめをももたらすことが語られている.「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは,私たちをすべての不法から贖い出し,良いわざに熱心なご自分の民を,ご自分のためにきよめるためでした」(テトス2:14).<復> (7) キリストの血によって永遠の贖いが成し遂げられたのであるが,贖いの最終的な完成は未来に置かれている.イエス御自身が,贖いの完成のことを終末の預言の中で語っておられる.「これらのことが起こり始めたなら,からだをまっすぐにし,頭を上に上げなさい.贖いが近づいたのです」(ルカ21:28).すなわち,キリストによる贖いによって救いに入れられた者たちが,終りの時に神に贖い出され,神の国に入ることができるのである.パウロも,贖いの完成が未来にあることを語っている.「御霊の初穂をいただいている私たち自身も,心の中でうめきながら,子にしていただくこと,すなわち,私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」(ローマ8:23)と,からだの贖いが未来にあることを示している.またその時を「贖いの日」とも呼び,「あなたがたは,贖いの日のために,聖霊によって証印を押されているのです」(エペソ4:30)と述べて,聖霊がキリストと終りの日との間で,証印としての役割を果しておられることを示している.<復> (8) 旧約聖書では,「贖う」という用語に「買い戻す」という意味が含まれていたが,新約聖書では,「買い取る」という用語が別にあって,「贖う」と同じ意味で使われている.「自分たちを買い取ってくださった主」(Ⅱペテロ2:1)という言い方で,贖い主キリストのことが語られ,この贖い主を否定する者に対するさばきが語られている.すなわち,キリストによる贖いを否定することは,その人に救いがなくなることを意味している.しかもそのような人々が,キリストの名を使っている人々の中から出て来ているのである.聖書はその人たちを「異端」と呼ぶ.現在「異端」と言われている動きは,キリストによる贖い,すなわち救いの成就を否定している.この意味でキリストによる贖いはキリスト教の中心的な教えである.<復> 4.教会における贖罪論.<復> (1) 初代の教会において,このキリストによる贖罪の理解は,キリストの神性と人性との理解と並行してなされてきた.キリストの神性は,325年のニカイア信条において明確にされたのであるが,その中で,キリストは神であるが,人間の救いのために受肉し,人となられたことが記されている.「また主は,我ら人間のため,我らの救のために降り,肉をとり,人となり,苦しみ,三日目に甦えり,天に昇り,生きている者と死んでいる者とを審くために来り給うのである」.このニカイア総会議の中心的な教父であったアタナシオスの受肉の理解の中にも,信条と同じ贖罪についての考えを見ることができる.<復> (2) 初代のギリシヤ教父たちは,神の贖罪のわざを,神の悪に対する勝利と見る.彼らは,この世界を神と悪との戦いという宇宙論的な視点から見ている.人間はサタンの支配下に置かれているのであるが,神が人間をサタンの支配から贖い出すために,キリストをサタンに身代金として支払ったというのである.この考えは殉教者ユスティノスによって提起され,オーリゲネース,そしてニュッサのグレゴリオスに受け継がれた.オーリゲネースは,イエス御自身のことばに,「人の子が来たのが…多くの人のための,贖いの代価として,自分のいのちを与えるためである」(マタイ20:28,マルコ10:45)とあるところから,その贖いの代価は誰に支払われたのかと問う.神に対してではなく,自分自身に対してでもない.それはサタンに支払われた,というのである.オーリゲネースは,この場合に代価を求めたのはサタンのほうであると見る.それに対してニュッサのグレゴリオスは,神のほうから,人間を買い戻すためにキリストをサタンに支払ったと理解する.サタンは,支払われたキリストのうちに神性のあることを知らずにそれを受け取った.それを手にした時,サタンはキリストの神性によってその力が滅ぼされたのである.神は御自分の力によって人間をサタンから救い出すことがおできになったのであるが,あえてそうせずに,キリストを人間のかたちで支払い,そこに神性を隠し,その神性によってサタンを滅ぼされた,と理解する.<復> (3) 贖いの代価がサタンに支払われたという考えに対して,キリストの代価は神に支払われたと理解したのはアンセルムス(1033—1109年)である.アンセルムスは,人間が神の求めておられることを行い得ずに罪の中にあることは,人間のジレンマであると同時に神の栄光を傷つけることであると考えた.人間が罪の中にあることは,神にとっても適切なことではない.人間はその負債を支払わなければならないが,それができない状態になってしまっていた.そこで神が御子を,神であり人であるものとして遣わし,その御子が人として自らをおささげになったことにより,神はさばきを下す代りに,満足されたのである.アンセルムスは,この受肉と贖罪の必然性を,Cur Deus Homo(『なぜ神は人間となられたか』)において説いている.彼の考えは満足説と呼ばれる.<復> (4) 以上の二つの考えは,教会の基本的な理解となったが,それ以外に次のような説もある.<復> a.模範説.キリストの死は殉教者の死であり,人間はキリストを模範とすることによって,自分の罪を悔い改め,自分を改良すべきであるという説.この説は16世紀にレーリオ・ソッツィーニとファウスト・ソッツィーニによって考えられた.彼らは,近代のユニテリアン運動の創始者である.<復> b.道徳感化説.キリストの受肉と苦難と死のうちに現された神の愛は,人間の心を和らげ,悔い改めへと導くものであるという説.キリストの死は,彼が人間性をとったことの当然の結果であって,神の怒りの現れでも,贖いの代価でもない.キリストはこの世の悪と戦い,神の愛を示された.それによって人間は心を開いて神に近付くことができるようになった,というのである.この考えは,ブッシュネル(1802—76年)によって説かれたが,すでにアベラルドゥス(1072—1142年)によっても教えられていた.アベラルドゥスは,アンセルムスに対して,神のうちにはなだめられるべき怒りはないと考えた.<復> c.統治説.神はその律法の正しさを示すために,キリストの死において,どんなに罪を憎んでおられるかの実例を示されたという説.キリストが身代りとして死なれたことが,人間の心をとらえ,その結果悔い改めに至るというのである.悔い改めが赦しの唯一の条件なので,神はキリストの死によって,悔い改めの道を人間に保証された.神のうちには償いを必要とするものはない.この考えは,オランダの法学者フーゴ・グローティウス(1583—1645年)によって説かれた.<復> 以上の三つの説は,神のうちには贖いの必然性はないと理解する点で共通している.また,キリストの死は何らかの意味で悔い改めに導くのに充分であるとしている.この意味で,キリストによる贖罪を人間の主観的な面から見ていると言える.<復> (5) キリストによる贖いのわざは,キリストのからだがささげられたことであり,それによって神が人間を罪の中から贖い出すわざである.それゆえに,人間の悔い改め以前になされた神の客観的なわざである.主観的な面からの贖罪の理解は,教会において正統的な考えとは認められてこなかった.教会においては,キリストの代価が身代金としてサタンに支払われたと見る考えと,神に支払われたとする満足説の二つが基本的に認められてきた.西欧の教会は,基本的にアンセルムスの満足説の立場を取りつつ,それを補う形で贖罪論を形成してきた.アンセルムスにおいては,神の満足の面が強調されたが,キリストの代価が人類の身代りであったことは充分に説明されていなかった.この身代りの面から贖罪論を考察するのが代償説である.すなわち,キリストが私たちの罪を十字架上で負われたので,その結果私たちの罪は赦されるというのである.このことはイザヤの預言の中で語られている.「しかし,彼は,私たちのそむきの罪のために刺し通され,私たちの咎のために砕かれた.彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし,彼の打ち傷によって,私たちはいやされた.…主は,私たちのすべての咎を彼に負わせた」(イザヤ53:5,6).さらにイエス御自身が「人の子が来たのが…多くの人のための,贖いの代価として,自分のいのちを与えるためである」(マタイ20:28,マルコ10:45)と言っておられるが,この「(多くの人)のための」と訳された前置詞[ギリシャ語]アンティには「…の代りに」という意味もある.また端的に身代りを表す前置詞[ギリシャ語]ヒュペルも使われている.「神は,罪を知らない方を,私たち→の代わりに/・・・・・←([ギリシャ語]ヒュペル)罪とされました.それは,私たちが,この方にあって,神の義となるためです」(Ⅱコリント5:21).「私たちがまだ弱かったとき,キリストは定められた時に,不敬虔な者→のために/・・・・←([ギリシャ語]ヒュペル)死んでくださいました」(ローマ5:6).このように,キリストによる贖罪には,人類の身代りの面がある.<復> (6) この身代りの代価は,同時に「なだめの供え物」とも言われている.この用語には,その代価によって神の怒りがなだめられ,神が満足されるという意味がある.「この方こそ,私たちの罪のための,—私たちの罪だけでなく全世界のための,—なだめの供え物なのです」(Ⅰヨハネ2:2)と言われている.人間の不義に対して神の怒りが啓示されているが,キリストのなだめの供え物によって「神の怒りから救われる」(ローマ5:9)のである.このように,キリストによる贖いには,人類の身代りとしての死と,神へのなだめの供え物としての意味が含まれる.これらの要素は,アンセルムスの満足説を補うものとして教会によって取り上げられている.<復> (7) 満足説と代償説とは,キリストが人類を代表して人間の側から神にささげられたと見ている.これに対して,キリストが身代金としてサタンに差し出されたという説は,神の側からキリストを見ている.贖いの思想にはこの二つの面がある.「贖う」ということは,失われたものを神が買い戻すという意味で,神の一方的な行為を意味している.またさらに,そのわざが御子イエスにおいてなされたので,イエスを人間の側から神にささげられた供え物と見ることができる.この二つの面は,グスターヴ・アウレーン(1879—1978年)によって,古典理論とラテン理論という形でまとめられている.古典理論では,贖いは神の計画であり,神が人に近付いて行く方法で,神としてのキリストにあってその贖いが完成する.これに対してラテン理論では,贖いは神の計画であるが,世の罪に対する神の怒りに対して差し出された罪のない人としてのキリストによって完成する.この意味では,人が神に近付いて行く方法である.古典理論では,キリストによる贖いの完成は,受肉と十字架と復活によってなされる神のドラマであるが,ラテン理論では,贖いは十字架を中心に考えられていて,特に復活のことは考えられていない.古典理論では,キリストの一連のわざの中で,贖いと義認と聖化とは一つのことであり,別々の現れと見なされるが,ラテン理論では,贖いと義認と聖化とは別々に起ることと理解される.ラテン理論では,キリストによる贖いと,それに対する神の義認とは別々のことなのである.ラテン理論では,律法が強調され,それを破った人間への神の怒りに対するなだめの供え物が必要とされる.古典理論では,神の恵みと愛とが強調される.古典理論では,代価がサタンに支払われたと見るが,贖罪において罪と死と悪魔とが取り扱われ,それらからの解放が意味されている.それに対してラテン理論では,罪のみが取り扱われて,キリストの功績による義の転嫁が罪人になされると見る.古典理論では,罪に対する勝利が意味され,ラテン理論では,罪が除かれるという消極的な面が意味されている.アウレーンは,古典理論を,聖書から教会,そしてルターの立場と見,ラテン理論を,アンセルムスから始まってルター主義,そして西欧の教会の立場と見る.<復> (8) アウレーンによれば,古典理論では,贖罪を神による贖いのわざの宇宙論的なドラマと見る.特に神と悪魔との戦いの中でのキリストによる勝利のわざと見る.これに対してラテン理論では,神による律法の定めと,それを破った人間の償いの面から見る.贖罪を失われた人間の神による買い戻しという面から見ると,古典理論が妥当であるが,律法を破った人間による償いという面から見ると,ラテン理論が妥当であると言える.聖書における贖いには,この二つの面がある.<復> しかし代価が誰に支払われたかについては,聖書に記されていない.教父たちはこの議論を取り上げ,理論的な結論として,サタンに支払われたと見る.神による贖いの完成に対して,なだめの供え物としてのキリストの犠牲をどのように調和させるかが,贖罪論の難しい課題である.キリストによる贖いの代価を,神としてのキリストと見るか,人としてのキリストと見るかによって理解が違ってくる.古典理論をとる人たちの中でも,サタンに支払われたと考えない人たちがいる.アタナシオスは,キリストがよみに下り,そこから引き上げられたことによって贖いが完成したと見るので,サタンに差し出されたかどうかという議論を避けている.贖いのわざは神の主権的なわざであるので,古典理論を中心にラテン理論の面を取り入れ,調和させていく必要がある.そうすることにより,贖いについての全体的な視点が与えられる.<復> (9) この意味で,聖書におけるキリストの血による神の和解の教えは,贖いの意味を別の面から表現しているのである.「神は,キリストによって,私たちをご自分と和解させ」(Ⅱコリント5:18)て下さった.また「今は神は,御子の肉のからだにおいて,しかもその死によって,あなたがたをご自分と和解させてくださいました」(コロサイ1:22)と言われている.すなわち,神がキリストによって一方的に和解のわざをなされたのである.その和解のわざのために,神がキリストを敵に差し出されたのか,御自分で引き取られたのかについては何も言われていない.この和解のために特に人間のほうから何かを差し出す必要はなかった.「和解」と「贖罪」とは,キリストの血による救いのわざを別々に表現したものである.<復> 5.キリストの贖いの死について,それは全世界のためであったのか,選ばれた人々のためだけであったのか,という議論がある.キリストのなだめの供え物は,「私たちの罪だけでなく全世界のための」(Ⅰヨハネ2:2)ものであると言われている.さらに,神は「御子によって万物を,ご自分と和解させてくださった」(コロサイ1:20)と言われている.これらのことから,キリストの死は全世界のためであると言うことができる.それは,古典理論の,悪に対する神の勝利という考えに合っている.しかしこのことは,全世界が救われることを意味していない.神に逆らい続けた場合には救いにあずかることはできないのである.このテーマは,神の選びの教えともかかわっている(参照ヨハネ17:9).選びを堕罪以前に置く場合には,キリストの死は選ばれた者たちだけのためとなる.贖罪を神の視点から見る場合には,キリストの死は全世界のためであると言うことができる.すべての人に救いの道が開かれているということと,その救いが実際に人に適用されていくこととは別のことである.→救い,罪の赦し,血,和解.<復>〔参考文献〕G・アウレン『勝利者キリスト』教文館,1982;L・モリス『新約聖書における十字架』聖書図書刊行会,1977;J・マーレー『キリスト教救済の論理』小峯書店,1972.(上沼昌雄)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社