《じっくり解説》キリストの称号とは?

キリストの称号とは?

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キリストの称号…

新約聖書の中心人物は何と言っても,イエス・キリストである.この人物に対して新約聖書においては種々の名称または称号が用いられている.ここではその主要なものについて述べることにする.<復> 1.イエス.<復> これは称号と言うよりは名称であり,[ギリシャ語]イエースースに由来している.この語は旧約における人名のヨシュア([ヘブル語]イェーシューア,[ヘブル語]イェホーシューアの短縮形)のギリシヤ語形であり,このヘブル語は「主は救い」あるいは「主の救い」という意味である.この名は紀元1世紀においては決して珍しい名前ではなかった.コロサイ4:11には「ユストと呼ばれるイエス」という名が見られる.その他ヨセフスの文書やエジプトのパピルス文書などにも,イエスという名は多く見られる.キリストに対してこの名が用いられるようになったのは,マタイ1:21に見られるように,親が命名したのではなく,主の使いの命名によるものである(参照ルカ1:31).これは彼の救い主としての使命と関連があったことは明らかである.キリストに対してこの名が用いられている用例は,新約聖書全体にわたり,数多く見られるが,福音書においては単独で用いられることが多く,「イエス・キリスト」として用いられているのは,ごくわずかしかない(マタイ1:1,18,マルコ1:1,ヨハネ1:17,17:3).イエスというのは一般的名であったので,他のイエスと区別するために「ナザレ人イエス」(マタイ26:71,マルコ16:6,ルカ24:19,ヨハネ18:5,7,19:19),「ナザレのイエス」(マルコ10:47,ルカ18:37),「ナザレの人イエス」(マルコ1:24)などという表現が用いられている.そして「キリスト・イエス」及び「主イエス・キリスト」という表現は,全く用いられていない.使徒の働き以降になると,「イエス・キリスト」「キリスト・イエス」「主イエス」という表現がより多く用いられている.<復> 2.キリストまたはメシヤ.<復> キリストは[ギリシャ語]クリストスを日本語に音写したものであるが,この語は[ヘブル語]マーシャフに由来する[ヘブル語]マーシーアハ(油を注がれた者の意)のギリシヤ語の訳語である.[ギリシャ語]メシアスはこの[ヘブル語]マーシーアハを音写したものであり,日本語では「メシヤ」と訳している(ヨハネ1:41,4:25).これは固有名詞ではなく,職務を表す称号である.旧約聖書においては,王,祭司,預言者などが職務に任命される時,油を注がれた.特にダビデの子孫から油を注がれた者すなわちメシヤが現れ,神は彼によってイスラエルを解放し,救われるという期待がユダヤ人の間に強くなっていった.イエスの誕生の時代にも,このような期待を持っていた人がいたことは,シメオンのことばによっても十分にうかがい知ることができる(ルカ2:25,26).福音書においてイエスに対してキリストという称号が用いられた時,一般的にこのようなイスラエルの救いと解放をもたらす人物という意味であった.ところが,福音書におけるこの称号の用例を調べて顕著なことは,イエスはこの称号を自分自身に対して用いていないという事実である.しかし,だからと言って,イエスは御自身がキリストであることを信じていなかったという意味ではない.このことは,ペテロが「あなたは,生ける神の御子キリストです」(マタイ16:16)と言った時,それを否定せず,むしろ称賛したこと(同16:17)からも明らかである.イエスがこの称号を自ら用いようとしなかったのは,前述したように,これにはイスラエル民族の救済者という,民族的な色彩が色濃く含まれていたので,彼の救済者としての使命を正しく表現していないと考えたからであろう.しかし,初代教会はイエスを「キリスト」と呼ぶことにいささかも躊躇しなかった.このことは「キリスト」という語が使徒の働きからヨハネの黙示録に至るまで数多く見出されることからも明らかである.パウロ書簡においてこの語は称号としてよりも,固有名詞として多く用いられるようになり,「キリスト・イエス」(ローマ2:16他),「私たちの主イエス・キリスト」(同1:4他),「主イエス・キリスト」(同1:7他),「私たちの救い主イエス・キリスト」(Ⅱテモテ1:10.参照テトス1:4,2:13,3:6)という表現を生み出した.これは福音が異邦人世界に広まるにつれて,「キリスト」という用語のユダヤ民族主義的色彩が失われ,イエスとともに固有名詞化して用いられるようになったことを示しているのであろう.このような傾向はパウロ以外の新約の著者たちの著作にも見られる.<復> 3.ダビデの子.<復> メシヤはダビデの子孫から出るとユダヤ人は考えていたので,この表現もメシヤ称号として用いられた.しかし,この表現は共観福音書にしか用例が見出されない(マタイ9:27;12:23;15:22;20:30,31=マルコ10:47,48=ルカ18:38,39;マタイ21:9,15;マルコ12:35,37=ルカ20:41,44.参照マタイ1:1.直訳は「ダビデの子」).これらの用例を見ると,イエスは人々から「ダビデの子」と呼びかけられたが,それを肯定も否定もしなかったし,彼自身はこの表現を自分に対して用いておられない.パウロはイエスがダビデの子孫であったことを認めてはいるが(ローマ1:3),この表現を用いていない.この表現はあまりにもユダヤ的色彩が強いので,福音が異邦人世界に広まるにつれて,用いられなくなったのであろう.<復> 4.人の子.<復> この表現は四福音書中に84回用いられているが,そのほとんどすべてがイエスによって用いられている(例外はヨハネ12:34において群衆が用いている2回だけである).福音書以外では使徒7:56においてステパノが用いている1回だけである(黙示録1:13は「人の子のような方」とあるので除外した).<復> (1) この表現の背景.「人の子」([ギリシャ語]ホ・フュイオス・トゥー・アンスロープー)という表現は,ギリシヤ語では不自然な表現であり,[ヘブル語]ベン・アーダームまたは[アラム語]バル・エナーシュを直訳した表現であると考えられる.旧約において[ヘブル語]ベン・アーダームは107回用いられているが,そのうち93回はエゼキエル書において用いられている.残りの14回のうちダニエル8:17を除いた他の場合は,いずれも詩的対句の中の第2句に用いられており,ほとんどの場合[ヘブル語]アーダーム(「人」の意)あるいは[ヘブル語]エノーシュ(「人」,死ぬべき哀れな者の意)の対句として用いられている.従って「人の子」という表現は「人」あるいは「人間一般」を意味していると言えよう(民数23:19,ヨブ16:21,25:6,35:8,詩篇8:4,80:17,144:3,イザヤ51:12,56:2,エレミヤ49:18,33,50:40.参照エレミヤ51:43).つまり「人の子」とは人を意味する詩的表現であると言える.エゼキエル書においては「人の子」(2:1,6,8,3:1,3,4等)という表現は,エゼキエルに対する神の呼びかけのことばとして用いられている.これは神と対照される被造物の一員としての人間を指していると考えられる(参照エゼキエル28:2).[ヘブル語]アーダームは単なる一個人としての人を指すだけでなく,集団としての人間一般を指す意味もある.それゆえ,ここでエゼキエルに対して「人の子」という表現を用いる場合,神の民の一員としての意味を持っていると言えよう.ダニエル書においては8:17で,ダニエルがガブリエルによって「人の子よ」と呼びかけられている.これはエゼキエル書におけるのと同様な用法である.ダニエル10:16には[ヘブル語]ベネー・アーダームと複数形が用いられて「人の姿をとった者」と訳されている(直訳は「人の子たちの」,参照新改訳欄外注).この表現は天使を指していると解される.7:13には[アラム語]ケバル・エナーシュという表現が見られ,「人の子のような方」と訳されている.これは前後の文脈から天的人物を指していると考えられる.この天的人物という思想の起源をカナン,ウガリット,エジプト,グノーシス主義,イラン,バビロンなどに求めようとする学者もいるが,いずれも大方の支持を得ていない.この表現は天的人物を人間になぞらえているのであり,この幻の解き明かしにおいては,「いと高き方の聖徒たち」とされている(同7:18).この解き明かしに基づいて理解するなら,「人の子のような方」は個人ではなく,集団であるということになる.同10:16との関連において,天使の集団と解釈する者もいる.1世紀後半に書かれたと考えられる旧約偽典の第1エノク書及び第4エズラ書にはダニエル7:13の影響を受けたと見られる人物が登場する.これらの人物を通して知り得ることは,後期ユダヤ教においては,超自然的,黙示文学的な,個人としての救済者が存在することが考えられていたという点である.しかし,それらは福音書におけるイエスが用いた人の子の概念の背景をなしたと思えるものは何一つない.結局,イエスが用いた人の子の概念の背景は,直接ダニエル7:13の「人の子のような方」に求めるべきであろう.<復> (2) 共観福音書における「人の子」の概念.福音書において,この表現は前出の「キリスト」や「ダビデの子」と異なり,イエスが自分自身を指す表現として用いている点に,特色がある.このことから,この称号がイエスの自意識と密接な関係にある点も見逃すことはできない.この表現の共観福音書における用法は,伝統的に次の3種類に分けられている.<復> (a)「人の子」の地上における現在の働きに関する用法.これはイエスが罪を赦す権威を持っていること(マタイ9:6,マルコ2:10,ルカ5:24),及びイエスが安息日の主であること(マタイ12:8,マルコ2:28,ルカ6:5)を示している.ブルトマンはこの場合の「人の子」はメシヤ的称号ではなく,一般的「人」とか,一人称の「私」という意味であると主張した(『新約聖書神学』).しかし,テットはブルトマンの見解を批判して,この場合の「人の子」はイエスの特異な権威を示していると主張した(『共観福音書伝承における人の子』).この称号がイエスの自称であり,救い主として罪を赦す権威を示すものであることは,これらの用法の前後の文脈から,極めて明瞭である.<復> (b)「人の子」の苦難と復活に関する用法.この用法はイエスが十字架において苦しみを受けて死に,3日目によみがえることを明らかにしている.この用法はマルコに圧倒的に多く見られる(マルコ8:31,9:9,12,31,10:33,34,45,14:21,41,マタイ12:40,26:2,ルカ17:25,22:48,24:7).ブルトマンはこの用法は本来イエスに基づくものではなく,初代教会がユダヤ的メシヤ・人の子の概念を再解釈したものであると主張した.またQ(ロギア)にはこの用法が見出せないので,Q時代以後のものであり,「人の子」という称号が元来の意味ではもはや理解されなくなった,ヘレニズム教団が形成したものであり,「人の子」の苦難と復活に関する預言は「事後預言」であって,イエスの真正のことばではないと主張した(『新約聖書神学』).これに対し,これらの「人の子」の用法が,かなり初期の伝承に属していたことは多くの学者が認めているところである(テット「前掲書」,エレミアス『神の僕』,クランフィールド『マルコ福音書注解』,テイラー『イエスの御名』,クルマン『新約聖書のキリスト論』,R・H・フラー『新約聖書のキリスト論の基礎』,ハーン『キリスト論的称号』等).これらのことばはイエスの真正なことばまで十分さかのぼり得るものであり(テイラー「前掲書」,W・マンソン『メシヤ・イエス』,クランフィールド「前掲書」,山口昇「福音書における『人の子』の概念」),イエスの自意識を明らかにするものである.イエスにおける「人の子」の苦難の予告は,イエスの「人の子」としての使命感が基礎となっており,苦難のしもべの概念と密接に結び付いていた.しかし,救済的な面においては前述の地上的現在的用法及び,後述の未来的用法と密接に結び付いている.<復> (c) 未来的用法.この用法は「人の子」が未来に栄光の雲に乗って来る,審判者としての姿を持っていることを示している(マルコ8:38=ルカ9:26=マタイ16:27;マルコ13:26,27=ルカ21:27=マタイ24:30,31;マルコ14:62=ルカ22:69=マタイ26:64;ルカ12:8,9=マタイ10:32,33;マタイ10:23;13:41;19:28;マタイ24:27=ルカ17:24;マタイ24:37‐39=ルカ17:26,27,30;11:30;マタイ24:44=ルカ12:40;マタイ25:31;ルカ21:36).この用法はブルトマンもイエスの真正なことばに基づくものであることを認めているが,これらのことばは「人の子」を第三者的に語っているので,これはイエスを指す称号ではないと主張している(「前掲書」).これに対しテイラーは「人の子」という称号はイエスが意識して用いたものであり,メシヤの国の支配権を意味していたと主張している(「前掲書」).またクルマンは「人の子」がイエス以外の者を指していると考えるのは,問題を解決するよりは,むしろ多くの問題を提起すると反論している(「前掲書」).なぜイエスが「人の子」という称号を第三者的に用いたのかという点に関しては,当時のユダヤ人にとって「人の子」という表現は意味が不明であり,固定した概念を持っていなかったという点を考慮に入れなければならない.ユダヤ人たちは「人の子」という表現を耳にする時,それがメシヤ的人物を指していることは理解できたが,それ以上の詳しい点まで理解できなかった.それゆえ,イエスは「メシヤ」という明確な概念を持った表現をことさらに避け,「人の子」という不明瞭な表現を意図的に用いて,ユダヤ人の持っていた政治的解放者という概念で理解されることを避けられたのである.そして「人の子」という表現を第三者的に用いることによって,聞く者が本当に注意深く,イエスの真意を求めて考える時にのみ,イエスのメシヤ性に対する正しい理解を得ることができるようにされたのである.<復> (3) ヨハネの福音書における「人の子」の概念.ヨハネにおける人の子の用例(1:51,3:13,14,5:27,6:27,53,62,8:28,9:35,12:23,34,13:31)は,先在(3:13,6:62),受肉(3:13),現在的働き(9:35),十字架,復活,昇天(3:14,8:28,12:23,34,13:31),未来における救いとさばき(5:27,6:27,53)など,共観福音書よりも広範囲に及んでいる.先在や受肉は共観福音書には見られなかった用法であるが,ブルトマンはこれはグノーシス的な天における「原人」の思想の影響を受けたものであると主張する(「前掲書」).しかし,これはダニエル書における「人の子」が天的存在であることの思想的発展であると見るべきであろう(山口昇「前掲書」).その他では大体において共観福音書の用例と類似しているが,共観福音書の未来的用法に見られた栄光の雲に乗って来る人の子というダニエル的像はヨハネ5:27において示唆される程度であり,むしろそれに代って,信じた者に与えられる永遠のいのちの面が強調されている.ヨハネは「上げられる」(ヨハネ3:14,8:28,12:32,34),「栄光を受ける」(同12:23,13:31)という表現によって,人の子の苦難と高挙の二重の面を示している.また同12:34の前後の文脈から,「人の子」はイエスの自称であると理解することができる.<復> 5.神の子.<復> この称号はイエス御自身も用いておられると同時に,初代教会もイエスに対してこの称号を用いている.この称号には,このほかに「子」「御子」「わたしの子」「わたしの愛する子」「ひとり子」など類似した表現がある.ここではこれらを一括して取り扱うことにする.<復> (1) この称号の背景.旧約聖書において,この称号は天使(「神の子ら」創世6:2,ヨブ1:6,2:1,38:7),イスラエル(「わたしの子」ホセア11:1,出エジプト4:22;「わたしの長子」エレミヤ31:9),王(「わたしの子」詩篇2:7,「わたしの長子」詩篇89:27;参照Ⅱサムエル7:14「彼はわたしにとって子となる」)などを意味している.また外典・偽典においては,義なる者(ベン・シラ4章10節「いと高き方の子」,ソロモンの詩篇13章8節「義なる者を愛する子のように懲らしめる」)を意味していた.1世紀において「神の子」という称号がメシヤを指す意味を持っていたということに対しダルマンは否定的な態度をとっているが,クムラン宗団においては詩篇2:7及びⅡサムエル7:14に基づいて,メシヤ的期待を持っていたと言える(4QFlor).またマルコ14:61において,「ほむべき方の子」と「キリスト」が同格に用いられていることから,イエスの時代にはこの称号がメシヤ的意味に用いられるようになったことは明らかである.ヘレニズムにおいても「神の子」という称号は用いられた.その背景にはバビロニヤやエジプトにおける用法があった.例えば,エジプトにおいて,王はラーの神の子であると考えられていた.またダイスマンによれば,ローマ皇帝も「神の子」と呼ばれていた(『古代東方の光』).ブルトマンは新約における「神の子」という称号の背後にはヘレニズムの[ギリシャ語]セイオス・アネール(「神的人物」)すなわち奇蹟を行う人物という思想があったと主張している(「前掲書」).これに対してクルマンは,ヘレニズムのような多神教における「神の子」という概念と,聖書におけるイエスが「神の子」であるという概念とは,はっきりと区別すべきであると主張した.彼は荒野の誘惑において,悪魔がイエスに対し,奇蹟を行うことによって自分が神の子であることを立証してみよと語ったのに対し,イエスはこれを断固として拒絶した点を指摘して,イエスはヘレニズム的な奇蹟を行う者としての「神の子」という概念を否定したと述べている(「前掲書」).ヘレニズム世界において「神の子」という称号はギリシヤ神話の英雄からローマ皇帝に至るまで非常に広い概念で用いられていたが,それをそのままユダヤ教あるいは新約聖書に適用するのは誤りである.<復> (2) 聖書における用例.<復> (a) 福音書における用例.「神の子」という称号はマルコにおいて5回用いられており(マルコ1:1,3:11,5:7,14:61「ほむべき方の子」,15:39),「子」という表現は2回用いられている(同1:11と9:7「わたしの愛する子」).いわゆるQと言われる部分には,「神の子」が2回(マタイ4:3,6=ルカ4:3,9),「子」はマタイ11:27=ルカ10:22のわずか1節に3回用いられている.マタイ独特の記事においては,マタイ14:33,16:16,27:40,43,28:19などに用いられている.ルカ独特の記事ではルカ1:35に用いられている.ヨハネではこの書の執筆目的を「イエスが神の子キリストであることを」読者に信じさせるためであると明言している(ヨハネ20:31).その他「神の子」という表現は同1:34,49,11:27,19:7にも見られる.またイエス自身も「神の子」という表現を用いている(同5:25,10:36,11:4).さらに,この福音書独特の「ひとり子(の神)」という表現も3回用いられている(同1:18,3:16,18).しかし,むしろこの福音書は「(御)子」という表現を多く用いている(同3:17,35,36,5:19,20,21,22,23,26,6:40,8:36,14:13,17:1).このことは父なる神と「神の子」が,父と子という非常に親密な人格関係にあることを示している.さらにイエスが父なる神を「父」とか「わたしの父」と呼んでいること(マルコ14:36「アバ,父よ」,マタイ11:27=ルカ10:22,マタイ15:13,16:17,18:10,14,19,35,25:34,26:53,ルカ2:49,22:29,23:34,46,24:49,ヨハネ2:16,4:21,23,5:17,19,20,21,22,23,26,36,37,43,45,6:27,32ほか多数)も,イエスと父なる神との密接な関係を示している.特に「アバ,父よ」という表現はアラム語が残されており,初代教会における古い伝承に基づくものであることを示しており,「わたしの父」という表現とともに,イエス自身が「神の子」としての自意識を持っていたことを示している.<復> (b) 福音書以外における用例.使徒の働きにおいては,この称号は2度だけ用いられている(9:20,13:33).パウロ書簡ではこの表現は17回用いられているが(ローマ1:3,4,9,5:10,8:3,29,32,Ⅰコリント1:9,15:28,Ⅱコリント1:19,ガラテヤ1:16,2:20,4:4,6,エペソ4:13,コロサイ1:13,Ⅰテサロニケ1:10),これは「主」という称号が約130回用いられているのとは,大きな対照をなしている.パウロ書簡以外ではヘブル人への手紙では12回,ヨハネ書簡に16回,黙示録に1回(2:18)用いられている(Ⅱペテロ1:17では,イエスの変貌の時の天から聞えた「これはわたしの愛する子」ということばを引用している).これに対し,ヘブル人への手紙では「主」という称号は3回だけ,ヨハネ書簡は1回も用いていない.このことから,パウロは「神の子」という称号より「主」という称号を多用したことは注目に値する.<復> (3) イエスにおける自意識.以上の新約における用例を見る時,イエスは父なる神を「アバ,父よ」(マルコ14:36.参照ヨハネ17:1,5)と呼んで,父なる神と自分が父と子の関係にあることを認めていた.そればかりではなく,すべてのものは父から自分にゆだねられ,父と自分は互いによく知り合っていると述べている(マタイ11:27).子は父の行うことを行い(ヨハネ5:19),父からの命令に従うのであり(同10:18),この点においても父と子とは一体であった(同10:30).そして父はさばきを行う権限を子に与えたと語っている(同5:22).イエスは自らも,自分は「神の子」であると語ったと述べている(同10:36).これらのことから,イエスが「神の子」であるという自意識を持っていたことは明らかである.<復> 6.主.<復> イエス・キリストに対して「主」という称号が用いられる時,その起源はどこにあるかは,ブセット以来多くの議論を呼んできた(『キュリオス・クリストス』,初版1913年).彼はこの称号がイエスに対して用いられたのは,シリヤのアンテオケにおいてヘレニズムの影響を初代教会が受けたからであると主張した.この立場はブルトマンによって踏襲された(「前掲書」).しかしクルマンはⅠコリント16:22に「マラナ・タ」(「主よ,来てください」)というアラム語の祈りのことばが,ギリシヤ語に訳されないまま保存されていることから,この表現は初代教会のごく初期において,「主」という称号が,イエスに対して用いられていたことの証拠であると述べて,ブセットらに反論している(「前掲書」).<復> [ギリシャ語]キュリオスは普通の場合「所有者」「主人」「主(敬称)」という意味で用いられている.70人訳では[ヘブル語]アドーナーイ(主)がこのギリシヤ語に訳されており,また神を表す固有名詞である[ヘブル語]ヤハウェも,[ギリシャ語]キュリオスと訳されている.ヘレニズム世界においては[ギリシャ語]キュリオスは王や支配者を指すことばとして用いられ,密儀教においては,その宗教が祭っている神々に対してこのことばが用いられた.福音書においてこの語がイエスに対して呼びかけとして用いられている場合は,マタイ19回,マルコ2回,ルカ15回,ヨハネ30回である.これらの中には「先生」と訳されている場合のように(ヨハネ4:11等)単なる敬称の場合から,師弟関係における「師」という意味の場合(マタイ14:28等),トマスがイエスに対して「私の主.私の神」と言った場合のように神に対する畏敬の念が含まれている場合まで,様々である.しかし,旧約聖書における[ヘブル語]ヤハウェを[ギリシャ語]キュリオスと呼んだのと同様な意味で,弟子たちがイエスを神としての意味において[ギリシャ語]キュリオスと認めるようになったのは,イエスの復活以後であったと言える(使徒2:36).<復> これに対し,イエス自身は詩篇110:1のことばを引用して,メシヤをダビデは「主」と呼んでいる点を指摘して,キリストの神性を主張し,暗に自分がそのキリストであると語っている(マタイ22:45=マルコ12:37=ルカ20:44).使徒の働き以後,書簡において[ギリシャ語]キュリオスは種々の語と共に用いられて,イエスを指すものとして用いられるようになった.その中には「主イエス」(使徒1:21,ローマ4:24,ヘブル13:20,Ⅱペテロ1:2,黙示録22:20,21等),「主イエス・キリスト」(使徒11:17,ヤコブ1:1等),「私たちの主イエス・キリスト」(使徒15:26,ローマ1:4,ヤコブ2:1,Ⅰペテロ1:3,ユダ17,21節等),などがある.また「主」だけでイエスを指す場合も多くある(使徒2:36,5:14,9:1等).特に書簡においては冠詞のついた[ギリシャ語]ホ・キュリオスは約46回用いられており,パウロ書簡では冠詞のないものや,[ギリシャ語]エン・キュリオー(「主にあって」)という表現などを含めると,少なくとも130回は用いられている.パウロは特に「聖霊によるのでなければ,だれも,『イエスは主です.』と言うことはできません」(Ⅰコリント12:3)と述べて,イエスを主であると信仰告白することが,初代教会にとって最も重要なことであり,すべての基本であったことを示している.<復> 初代教会における「イエスは主である」という信仰告白は,(1)イエスの神性を認めることであり(ピリピ2:6‐11),イエスがキリストであることを認めることであった(使徒2:36).(2)イエスが宇宙のすべてのものを支配し,すべての人の上にある権威を持っておられることを示している(Ⅰコリント8:6,使徒10:36,ローマ10:12).(3)イエスの死と復活により,死者と生者の主であることを示している(ローマ14:9).(4)イエスがすべての権威をもって教会を支配するかしらであることを示す(エペソ1:20‐23).(5)キリスト教の宣教と教えの中核を成すものである(ローマ10:8,9,Ⅱコリント4:5,コロサイ2:6,7).(6)審判者としてのイエスの権威を示す(Ⅰコリント4:5,Ⅱテモテ4:8).(7)異教の神々や「主」と呼ばれるものに対する信仰を捨てて,イエスのみに従う決意を表明することを意味している(Ⅰコリント8:5,6).特に迫害下においてイエスを「王の王,主の主」(黙示録19:16)と告白することは信者一人一人にとって重大な意味を持ち,皇帝礼拝を強要する政治的・宗教的権力に対し,いのちをかけて抵抗することでもあった.<復> 7.救い主.<復> イエスに対して「救い主」という称号が用いられているのは,彼の誕生の時天使が語ったことばが最初である(ルカ2:11).イエスが救い主であるということは,彼に「イエス」という名がつけられたことに深い関係がある.天使はこの命名の理由を「この方こそ,ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」(マタイ1:21)と述べている.福音書ではこのほかにヨハネ4:42に用いられているだけである.使徒の働きでは5:31,13:23だけであり,意外に少ないと言うほかない.パウロ書簡でも牧会書簡を除くとエペソ5:23とピリピ3:20だけであるが,牧会書簡だけで4回(Ⅱテモテ1:10,テトス1:4,2:13,3:6),公同書簡では6回(Ⅱペテロ1:1,11,2:20,3:2,18,Ⅰヨハネ4:14)も用いられている.このように新約においては比較的後期の文書において,イエスに対して「救い主」という称号が多用されているところから,「救い主」という称号はヘレニズムの影響により取り入れられたと主張する者もいる.事実[ギリシャ語]ソーテールは密儀教の神々を指すことばとして用いられ,医療の神であるアスクレピオスに対しても用いられている.また,ローマにおいては皇帝を指すのにこの語が用いられており,ヨハネが用いた「世の救い主」(ヨハネ4:42,Ⅰヨハネ4:14)という表現は,皇帝ハドリアーヌスの碑文にも見出せる.しかし,「救い主」という用語は後期の書簡より数は少ないが,福音書,使徒の働き,パウロ書簡の前半の部分にも見出されること,この用語は旧約聖書にまでさかのぼることができること(イザヤ43:3,11,45:15,21,49:26,60:16,63:8,エレミヤ14:8),新約においても神は救い主であると言われていること(Ⅰテモテ1:1,2:3,4:10,テトス1:3,2:10,3:4,ユダ25節),父なる神と救い主としてのイエス・キリストが並置されていること(テトス1:4,2:13,Ⅱペテロ1:1,Ⅰヨハネ4:14)などから,この用語はヘレニズムからの借用ではなく,本来旧約聖書において述べられていた,神がイスラエル民族と全人類の救い主であるという思想が新約にまで受け継がれ,神の子としてのイエスにまで,この用語が適用されるようになったと考えるほうが適切であると言えよう.<復> 8.その他の称号.<復> 上述したもの以外にも,「しもべ」,「仲介者」,「助け主」などがある.→神の称号,キリスト論,キリスト論論争,神(かみ)論.<復>〔参考文献〕山口昇「福音書における『人の子』の概念」(『途上』1—3,4,8号所収)思想とキリスト教研究会(1970—72,1973,1976);Cullman, O., The Christology of the New Testament, Westminster, 1959 ; Bultman, R., Theology of the New Testament, Charles Scribner’s Sons, 1951 ; Taylor, V., The Names of Jesus, Macmillan, 1959 ; Marshall, I. H., The Origins of New Testament Christology, IVP, 1976.(山口 昇)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社