《じっくり解説》教会建築とは?

教会建築とは?

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教会建築…

1.誕生と発展.<復> 建築史においては,ローマ帝国のコンスタンティーヌス大帝(306—337年在位)によるキリスト教公認が教会建築の誕生のように語られるが,史実は旧約聖書のイスラエル史にさかのぼることになる.<復> 前722年,北王国イスラエルのアッシリヤ捕囚,及び前597年,南王国ユダに対する最初のバビロン捕囚によって,ユダヤ人は異国に移住させられた.前586年のエルサレム陥落前後に,多くのユダヤ人がモアブ,アモン,エドム(エレミヤ40:11)に移り住んでいた.バビロン捕囚のユダヤ人は,前586年にソロモンの神殿が破壊された後も,エゼキエルの指導のもとに,異国の地にあって礼拝を守っていた(エゼキエル11:16).前515年に第二神殿が完成された後も,ユダヤ人は散らされた地域で植民地を形成していたことを考えると,この時期にシナゴーグ(ユダヤ人の会堂)が建設されていったと考えることができる.<復> アッシリヤ人,バビロン人,ペルシヤ人によって次々と圧迫された彼らが最も危機に瀕したのは,マケドニアのアレクサンドロス大王やローマに征服された時であると言われる.ユダヤ人は排他的で,また圧政者に対する解放者としてのメシヤ観を持っていた(参照Ⅰコリント1:22).それに対してギリシヤ人は占領地にギリシヤ文化を持ち込み,その定着を目指し,ギリシヤの都市を模写してアレキサンドリアのような新しい都市を造ったのである.また芸術の分野に秀でており,人間の肉体の美を追求し,それを比例的数値に整理して建物に利用した.彫塑像は,8頭身が創出されるに及んで優雅さの度合を増し,建築にも採用されるようになった(イオニア式の柱の長さと直径の比は8:1である).言語もギリシヤ語が公用語となり,離散したユダヤ人の中には,もはやヘブル語を語ることもなく,割礼を受けていない,ギリシヤ文化に慣れ親しんだ人々が多くなっていった.またギリシヤは宗教に関してもギリシヤの神,オリンピアのゼウスを押し付けてきた.これに対してユダヤ人はマカベア一族の反乱によってユダヤ教を保持した.前63年,ローマ共和国(後のローマ帝国)はユダヤを含む西アジヤ諸国をローマ領に編入,建築面においてもギリシヤ文化を全面的に導入し,発展させていった.やがてローマ帝国の支配地は,広く地中海沿岸世界をその中に取り込んでいった.ユダヤ教はローマ政府から公認され,シナゴーグは,このような中で発展していったと考えられる.主イエスはこの会堂で聖書を朗読したり,教えたりされた.シナゴーグを使用されたことは,旧約からの一連のつながりの中にあって,主イエスの誕生と生涯が旧約の成就であったこと(マタイ1:22,5:17,18,ローマ1:2‐4等)を考えれば,当然であった.主イエスにとっては,宮は地上における父の家であった(ルカ2:49).<復> 主イエスの昇天後,ユダヤ人の中でイエス・キリストを信じる者と,そうでない旧来のユダヤ人との信仰の違いがはっきりしてくると,もはや一緒に礼拝することは不可能となった.初めは,家で礼拝を守ったり(使徒12:12.シリアにある遺跡,ドゥラ・エウロポスの教会堂は232年頃に建設されたと考えられているが,それは,やはり教会堂と言うよりも,家といった形である),また自由に議論のできる学校の講堂が用いられた(使徒19:9).初代の教会の人々にとって礼拝形式は重要であったが,その礼拝は非形態的だったようである(Ⅰコリント14:40,ヨハネ4:24).2世紀末のある著作は,立派な祭壇を持つユダヤ教の礼拝に比べて,キリスト者の礼拝が何を対象としているか不明だとしている.礼拝のための場所や建物も同じだったようで,主イエスが山で語り,湖に小舟を出して人々に教えられたように,どこでもよかったのではなかろうか.<復> キリスト者は徐々に数を増すに従って,バシリカ風の教会堂を建てていった.人々は,ユダヤ教とキリスト教が両者とも唯一の神を礼拝するのに,キリスト者が磔刑に処せられたイエス・キリストを礼拝すると言って疑惑を抱き始めた.やがてネロ帝(54—68年在位)時代やディオクレティアーヌス帝(284—305年在位)時代の迫害によって,人々はカタコンベ(地下墳墓)(→口絵写真)で礼拝を守るようになる.ちょうど植物が地下に根を張るように,また建築が地下で荷重を支えるように,キリスト者は社会から全く無視された中で信仰を保ち続けたのである.<復> 313年,コンスタンティーヌス大帝によってキリスト教が公認されると,一躍,教会堂の建設ブームとなった.当時,多目的な大ホールがバシリカ方式で建設されており,教会堂も,多くの人を収容できるという理由でこの方式が採用された.バシリカ方式では,内部の壁を支える列柱は強い方向性を生み,祭壇に集中する.サンタ・マリヤ・マジョーレ教会(→口絵写真)は,それをよく表している.これは5世紀前半に再現されたものと言われる.その後,内陣部分は増築や改修が行われて,現在,当時の内陣の司教座席は残っていない(トルチェルロの教会堂〔→口絵写真〕のように内陣の司教座席がはっきり残っている例は少ない).以上のバシリカのほか,集中式教会堂が建てられた.これはもともと霊廟として発達したもので,平面が円形である.2世紀にパンテオン(→口絵写真)が神殿として建設されていることから,かなり早い時期から円型ドームを造る技術があったと考えられる.コンスタンティーヌス大帝はバシリカのサン・ピエトロ教会(サン・ピエトロ大聖堂の前身)等,幾つかの教会堂を建設しているが,彼は死ぬ間際まで洗礼を受けなかったと言われている.ローマ帝国の広大な領土を守るには,武力や法律以外の精神的共通性がどうしても必要であった.キリスト教公認には,そういった状況下にあって行われたという極めて政治的な背景があったのである.<復> 380年にキリスト教が国教となると,キリスト者が以前受けたのと同じような迫害が逆に異教徒に加えられた.パンテオン神殿は教会堂に変更され,異教の神殿が取り壊されて,その材料で教会堂が建設されていった.また,国家と教会の結び付きによって異教徒が教会に流入して名目だけのキリスト者となったことは,教会の礼拝にも変化をもたらした.形像を礼拝する習慣のある人々は,天使,聖人,聖遺物,絵画,彫刻を崇拝することが当然の結果となった.4世紀,マリヤが「神の母」として広くあがめられるようになると,教会堂の多くがマリヤにささげられた.サンタ・マリヤ・マジョーレ教会,この美しい教会堂は,ローマではマリヤにささげられた最初の教会堂である.<復> 広大なローマ帝国には様々な民族,言語,伝統の違いがあって,各地域と隣接する民族との緊張を無視することができなくなり,東西に分離していくことになる.330年,コンスタンティーヌス大帝はコンスタンティノポリス(後のイスタンブール)を建設し,帝国の中心を東方に移した.そしてテオドシウス1世(379—395年在位)の死後,ローマ帝国は東西に分裂する.このことは西ローマ帝国の衰退を早め,西方教会の発展に貢献した.東方教会は国家権力に押え付けられ,大きく発展することができなかった.また,キリスト教の神学上の問題は早くから起っていた.キリスト教が公認される頃には,東方のアンテオケやアレキサンドリアでユダヤ教的一神論に傾く人々が出,325年,ニカイア総会議で異端として退けられ,コンスタンティーヌス大帝はこれを帝国の法律として宣言,西方教会はこれを支持したが,東方教会はコンスタンティーヌス大帝の死を機会にテオドシウス1世の前まで,アリウス派に傾く皇帝が続いた.次に起るキリストの二性に対する論争は451年,カルケドン総会議で決着するが,東方の一部には支持されなかった.その原因の一つは言語の違いであったと言われる.また,東方は伝統を重んじる傾向があった.文化としては東方はギリシヤ的オリエント文化圏であった.こうして東方はコンスタンティノポリスを中心としたビザンチン文化が展開する.ユスティニアーヌス帝(527—565年在位)は聖ソフィア大聖堂(→口絵写真)を完成した.これはドーム型バシリカとして最大の教会堂で,直径31メートルの大ドームを載せている.また,内部をモザイクで装飾,平面をギリシヤ十字とした.ベネチアの聖マルコ聖堂等を除いて東ローマ帝国においては以降,このような大事業は行われなくなる.それは東ローマ帝国にイスラム教徒の圧力がかかるようになり,対内的にも歴代の東ローマ皇帝に教会が押え付けられたことによる.<復> 西ローマ帝国内には4世紀後半になると,ゲルマン民族が,アルプスから北のローマ帝国領内に移動して来,476年には西ローマ帝国が滅亡.481年にフランク王として即位したクローヴィスがフランク族を統一した.王は496年頃カトリックに改宗し,旧ローマ帝国民と,ゲルマン民族との和解一致を目指した.800年,カール大帝が教皇レオ3世(795—816年在位)から新しいローマの皇帝に任ぜられて,ローマ教会との結び付きを強める.彼はイタリアのロンバルド人,ドイツのサクソン人を征服,またフランス全土を征服して,旧ローマ帝国の没落以降最大の領土を獲得した.また古典文化の復興に努め,805年,首都アーヘンに宮廷礼拝堂(→口絵写真)を建設した.彼は,教会の主権よりも国家主権者のほうが上と考えていたが,同時に神から民を守り治めるように立てられたと信じていた.教会堂の身廊は8角形平面で外壁は16角形,堂の直径14メートル,天井の高さは31メートルである.入口上にある玉座室から中庭や身廊部分に集まる人々に姿を現し,皇帝は神の代理人であることを人々に示したと言う.<復> 人々によって寄進された土地がローマ教皇領となり,教会の財力が蓄えられた.また教会が封建的な戦争を抑制したことにより,人口が増加した.加えてグレゴリオ聖歌による音響的要求,またローマ典礼に対する強い憧れは,教会堂の荘厳化を目指し,形態的意欲を増していく.内部は天井を木造から石造にする努力がなされる.これをロマネスクと呼び,天井に石造ヴォールト(穹窿)が用いられるのが特徴である.11世紀から12世紀の百数十年間のロマネスク建築の時代はそのための工夫をした時代である.石材の材質や塔の位置や高さも様々である.二つある袖廊の一つは,4世紀に広まった聖徒や殉教者崇拝のために聖徒の遺骸を納める聖体奉納室と聖器室が変化したものと言われる.ロマネスク建築とは修道院建築のこととして語られるが,こうした聖遺物崇敬の巡礼をする一大宗教運動が起り,活気を呈した.ザンクト・パンタレオン(→口絵写真)は正面左右に階段室塔を設け,入口上に方形の塔を付けている.また,ザンクト・アポステルン(→口絵写真)は3葉式内陣を持っている.<復> ゴシック建築は,12世紀中期にフランスで形成された様式である.イタリア北部から北の,ゲルマン人の地に多く建てられた様式であるため,ルネサンスの建築家が「ゴート人的」とか「野蛮な」と言ったことが名前の由来とされる.ロマネスク建築の試行錯誤から一つに突き詰められた表現を持っている.また,そこにはいろいろな種類の職人がその建設に携わり,彫刻,絵画等の工芸活動がこれに奉仕した.教会堂は,礼拝の目的だけでなく,今日の公民館の役割も果し,多くの人に用いられた.ゴシック建築が建設された12世紀中期から16世紀中期は,スコラ哲学が盛んな時期である.スコラ哲学が,聖書によってよりも理性によって神を理解しようとし,神学を哲学的な観点から扱ったと定義できるなら,ゴシックは「全体的統一を目指し,削除と総合によって,完全で最終的解決を目指した」と言えよう.また,両者は深く関連していると言われる.以上のことは,中世以降も中世に対する強い憧れとして抱かれ,後にゴシック建築が教会堂として理想の建築様式であるとするリバイバル運動が起きてくる.ロマネスク建築で石造天井が可能になったが,内部の身廊高窓部分はまだ囲いとして面的であった.これに対しゴシックでは交差ヴォールトやアーチによって荷重が柱に集中することになり,窓を大きく開けることが可能となった.また内部は,視線が柱から尖頭アーチ,交差ヴォールトへつながり,天井からさらに天井に向かっていく形状に造り上げられた.パリ大聖堂(→口絵写真),ケルン大聖堂(→口絵写真),ストラスブール大聖堂(→口絵写真)は,それぞれ統一されたデザインで完成されている.<復> 一方,イタリアでは十字軍遠征によって地中海貿易が盛んになり,港湾都市や工業都市が栄え,市民が力を持ち,宗教建築ばかりでなく,宮殿,邸宅といった世俗建築も,建築家の重要な課題となった.ゴシックのように突き詰められた形とは対照的に,イタリア人が持つ古代ローマの文化遺産によって,新しい建築の方向を探ろうとした.これをルネサンス(文芸復興)と呼ぶ.イタリアでは15世紀,フィレンツェを中心に開花した.フィレンツェ大聖堂(→口絵写真)は,バシリカ式と集中式教会堂の空間的統一を指向している.ドームを支えるため,ゴシックで使われたフライング・バットレス(飛梁)はなく,ドーム内の鉄のリングでドームの破壊を防いでいる.これは全く新しい試みで,古代ローマをモチーフにしながら,自由に物事を発想していこうとするルネサンスの特色である.
2.プロテスタント教会建築と発展.<復> カトリック教会は,マタイ16:16‐19に基づき,使徒ペテロを初代の主教とし万世一系,教皇が続いていることを主張する.これは3世紀のローマ主教ステファヌスやカリストゥスが初めに主張したと言われる.5大聖地のうち,アレキサンドリア,エルサレム,アンテオケ,コンスタンティノポリスが15世紀中頃までに次々と異教徒の手に渡ると,ローマはカトリック教会にとってますます重要な都市となった.そのような状況下で教皇ニコラウス5世(1447—55年在位)はローマの再建を計画する.サン・ピエトロ大聖堂の再建は,その計画の一つであった.ペテロの墓と伝えられるところの上に建てられたバシリカの旧サン・ピエトロ教会をこれまでにない規模で計画するのは,当然,ペテロを起源とする権威の主張の延長線上のことであった.1506年,教皇ユーリウス2世(1503—13年在位)は建築家ブラマンテ(Donato d’Angelo Bramante,1444—1514年)の案に基づき,着工する.しかし,その資金はすぐに枯渇し,資金調達のため免罪符が売られた.<復> 1517年,ドイツのヴィッテンベルクの近くに免罪符売りが来た時,歴史は大きく変貌する.免罪符の販売が,ドイツの一修道士ルターによって反駁されたのである.聖書研究に没頭していたルターは,神から罪を赦していただくのにそのような仕方でよいのかといった,個人的で,穏健な問いかけをしたのであった.しかしルターは次第に,カトリック教会とは根本的に違っていることに気が付く.その違いの一つは,教会の最高の権威をローマ教皇ではなく,聖書に置くことであった.彼とその支持者たちは1555年,公にプロテスタント教会として分離することになる.<復> これは建築においても象徴的である.と言うのは,プロテスタント教会建築とカトリック教会建築の違いは,前述のマタイ16章の解釈の違いとしてはっきりしてくると考えられるからである.プロテスタントの聖書理解では,マタイ16:18における「この岩(ペトゥラ)」はペテロ自身ではなく,ペテロがその働きを常に目にし,体験してきた上で信仰告白をした主イエス・キリストそのものを指す.事実,1530年,ルター派の信条,アウグスブルク信仰告白から始まり,プロテスタント各派とも,その存続を賭けて信仰告白を形成し,成立している.信仰告白,つまり聖書における主イエス・キリストをどのように信じるかは,以降教会建築の取り扱いの差として出てくる.プロテスタントにとって,新しい会堂を造るよりも,まず初めにすることがあった.既存の教会堂には,聖遺物,聖画像等聖書的でない物が多くあり,それらを撤去しようとする宗教改革者たちがいた.それは,ルター派のカールシュタット,ストラスブールのマルティーン・ブツァーにも見られるが,ここではフルドリヒ・ツヴィングリ(1484—1531年)に焦点を合せて述べよう.<復> チューリヒのツヴィングリとその支持者たちは,聖画像の除去を個人的にではなく,教会単位としての活動の中で行った.それは神学的熟慮に基づき世俗権力の指導と監視のもとに行われたと言う.彼が芸術破壊者であるというレッテルは外されなければなるまい.以後プロテスタント各派において多少異なるが,原則的に聖画像は置かなくなった.聖画像が,教会堂の付属的なものにとどまらず,建築空間ひいては人間心理に影響を与えることが問題だったのである.その行動には,神学的な裏付け,彼らの信仰告白が影響している.それは,ツヴィングリが持っていた聖餐論に代表される.彼の聖餐論はカトリック教会の化体説に対し象徴説と言われ,主イエスのことば「これはわたしのからだです」(マタイ26:26)を″わたしのからだを意味する″というように象徴的に理解した.教会堂の中で聖餐式のたびごとにキリストが犠牲としてささげられることもなく,サクラメント(秘跡)が救いの直接的方法でないと考えると,教会堂には神を体験するという一種魔術的で圧倒的な表現は不要となる.そこには聖書原理と信仰による義だけが残るのである.つまり,何か拝むべき価値が存在する教会堂よりも,キリスト者が集まり霊とまことをもって礼拝することに価値がある教会堂が見えてくる.キリスト者同士の共同体の空間,聖書が語られることの重要性である.プロテスタント教会を幾つかに分類することが許されるならば,英国教会,ルーテル教会,改革派,アナバプテスト,英国教会から分離したピューリタンと分けることができよう.ツヴィングリの考えは改革派やピューリタンの根底に流れていると言われる(ピューリタンは,ルターの免罪符攻撃から数えて25年前のアメリカ大陸発見と,約100年後のメイフラワー号の移民たちによって大きく発展することになる).建築面では,チューリヒの二つの教会,グロースミュンスター(→口絵写真),フラウミュンスター(→口絵写真)には簡素なまでに突き詰められた空間が今なお存在している.ツヴィングリの考えがプロテスタント全体を表しているというのではないが,一つの顕著な例と言えよう.<復> 宗教改革の嵐は建築においては,世俗的なルネサンスや完成された様式であるゴシックを終了させ,バロックへと移っていく.カトリックはトリエント公会議(1545—47年,1551—52年,1562—63年)により煉獄,免罪符等,中世後期の教理の大部分を確認し,権威付けた.教会堂も教皇シクストゥス5世(1585—90年在位)の時代から活発に建築されるようになった.これがバロックと呼ばれる様式で,その中心はカトリックの対抗宗教改革運動をバックにしてローマで発展し,1730年頃まで続いた.宗教心の高揚を図るため,感覚に訴える表現をし,教会の権威を視覚で誇示する.サン・ピエトロ大聖堂(→口絵写真)はミケランジェロ(Buonarroti Michelangelo,1475—1564年)によって設計変更され,1624年,献堂している.これは対抗宗教改革の本拠地であるローマの力と統一を示そうとしており,その圧倒的な空間は他に類を見ない.<復> 一方イングランドでは,1559年,エリーザベス1世の統一令により,カトリックとプロテスタントの中道を行く英国教会が確立した.また建築家クリストファー・レン(Christopher Wren,1632—1723年)が登場する.彼は17世紀後半から50以上の教会堂を設計しているが,もともとは数学者,天文学者で,30歳まで建築の設計には携わっていなかった.彼は当時のフランスやイタリアのルネサンスの教会堂から多くを学びヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂の大ドームには強い造形的影響を受けている.フランスではベルニーニ(Giovanni Lorenzo Bernini,1598—1680年.サン・ピエトロ広場の設計者)にも会っている.しかし彼が一番頭を悩ましたのは,17世紀の人々に受け入れられる造形的方法によって,プロテスタントの礼拝にふさわしい教会堂を造り上げるにはどうしたらよいかであった.彼はフランスのユグノーのキャレントン教会を見た時に,そのヒントを得たと言われている.それは建築史上名の残るような教会堂ではないが,説教者はバルコニー席に二重に取り囲まれた2階ほどの高さのやぐらの上で語っている.これは語られるみことばを多くの聴衆が聞くことができるように工夫した結果である.レンは造形的には当時の最先端のドームや円形のアーケードを使用して教会堂を設計しているが,その空間構成は強烈な感動をもたらす劇的表現ではない.礼拝する人々が一体となることができる空間である.それはセント・ポール大聖堂(→口絵写真),セント・ジェイムズ教会(→口絵写真)に見られる.その設計主旨は,教会堂を構成する重要な一要素として祭壇を東側の壁に設置し,その周りに手すりは付けるが,床からの段を設けないこと,説教台はどの席からも聞きやすく,また見えることである.そのため共鳴板が取り付けられている場合が多い.祭壇の位置は,カンタベリ大主教であり反ピューリタンの立場をとるウィリアム・ロード(1573—1645年)が徹底させた.説教台が重要な位置を占めるのはピューリタンの影響とも考えられる.このように,レンの設計主旨の中に,中道を行く当時の英国教会の姿を見ることができる.レンは1708年ロンドンの二つの教区教会堂建設のための委員に任命された.彼はすでに多くの教会堂を設計していた実績を踏まえた上でアドバイスし,教会堂は可能な限り大きく建設するべきであるが,説教が聞えなかったり,説教者が見えにくいほど大きなものを建てるのは無駄なことであると言っている.カトリック教会のように,2千人も収容し,ミサでの司祭のささやき声がかすかに聞え,聖餐時のパンが少しでも見えればよしとするということではない.全会衆席から説教者の席が見え,声が聞えなければ教会堂の意味がないのである.これがプロテスタントに共通して言えることである.また建築家ギッブズ(James Gibbs,1682—1754年)はレンを範として,セント・マーティンズ・イン・ザ・フィールズ聖堂を建設,棟にまたがった尖塔はイギリス国内や,アメリカに渡ったピューリタンによって多くの模倣作品が造られた.これは日本でも多く見られる形式である.<復> 18世紀に入るとロココ芸術が出てくるが,内的精神が失われ,その美しさは見かけだけのものとなっていく.ただ舞台装置としての働きを持ち,聖堂の内部空間は祝祭用に極度に高められた.これらは優美と言うより豪華な感じで,宗教的陶酔が感じられる.また対抗宗教改革の行き過ぎた時代錯誤であったとも言われている.これらはスイス,ドイツ南部のアルプス地域に見られる(この地域は数十年にわたる宗教戦争等の後に,最も早く戦争の災害から立ち直ったと言われる).<復> 宗教改革以降,修道院は各国とも以前より顧みられなくなり,イングランドやドイツでは多くの修道院が解散させられたが,その中ではドイツのオットー・ボイレン修道院聖堂(→口絵写真)がバロック建築(ロココ装飾が同時に混合している)として有名である.聖堂は南北に向けて建てられ,東西の壁に高く開けられた窓から光が十分に差し込み,内部の装飾が見やすくなるよう心がけられている.そこには数世紀の蓄積が集中している.<復> こういった考え方に対する反動の形で,18世紀には啓蒙思想が登場し,理性の力によって非合理的な考え方を排除しようとする批判精神が現れ,古代のギリシヤ,ローマの建築を正確に再現しようとした.マドレーヌ教会(→口絵写真)はそれを表している.また18世紀後半のロマン主義は,現在より過去,形式より内容,理性より感情を重んじる思想であるが,建築においては中世のゴシックへの思慕として現れてくる(ゴシックは,その構造から,合理主義的であるとする見方もある).<復> 19世紀,英国教会内に起きたオックスフォード運動は,色彩的な祭式の重要性,聖礼典の要素にキリストが現存する等,カトリック教会にきわめて接近する考え方であった.そのため,ゴシック建築が礼拝に最もふさわしい建築として支持されることになる.19世紀は,以前のゴシックやバロックのようにその時代の表現する形式が出なかったと言われ,19世紀末になって「新しい芸術」を意味するアール・ヌーヴォーが出てくる.植物の優美な形態に着想を得た曲線によって表現する芸術活動で,絵画や家具,建築のデザインに至る分野に広がった.シュタインホーフの聖レオポルト教会(→口絵写真)は新古典主義の建築にアール・ヌーヴォーの装飾を採用した教会堂である.<復> 20世紀に入ると,スチールを使用したタービン工場がドイツに建設される.スチールはそれまで橋梁に使用されていたが,建築に使用されるようになり,大空間が容易に可能となった.これは現代への分岐点とも言える.つまり様式を表に出すのではなく,合理的な技術によって建築を造り上げていく方法を取ることである.また20世紀の特色は大量生産であり,建築も各部品に分けられ,同一デザインの建物がハイ・スピードで完成されていくようになった.教会堂は,中世において都市の中で市庁舎とともに広場を囲んで存在していたが,現在では,大きなビルの中でその影に隠れてしまっているかに見える.建築家ミース・ファン・デル・ローエ(Mies Van Der Rohe)が「建築はすべてしかるべき社会的位置を持つ」と言ったその通りに,住宅やオフィスが高層の建物として建設されてきた.職人が心を込めて造るのと違い,それは同時に人々から個性を奪い,人間性を失わせていく可能性も秘めていた.教会建築も新しい方向性を探ろうとする姿勢が現れてくる.それは高い鐘塔や十字架といった表現だけでなく,聖書から題材を得て表現する方向である.米国フロリダ州セント・ピーターズバーグの第一長老教会(→口絵写真)には,外部に十字架の表現はないが,ノアの箱船のイメージがある.パサデナ・コミュニティ教会(→口絵写真)は,キリスト誕生の時,博士たちを主イエスのもとに導いた星にちなんでいる.パルマパーク改革派教会には,Ⅰコリント10:1‐4にちなんだ,自然石をくりぬいた洗礼盤がある.それは聖礼典の目的だけでなく,キリスト者への警告ともなっている.カトリック教会は第2ヴァチカン公会議(1962—65年)で,祭壇をもっと会衆側に近付けるように指示したと言われるが,近年三方から祭壇を囲う形でミサを行う新しい教会堂が現れている(→口絵写真)(この形式は以前の集中式教会堂の形であって,新しい考え方ではないとする意見もある).プロテスタント教会の場合も形態的に同様の傾向が見られるが,説教者が説教に集中できないという報告もある.<復> 今日の技術主導型の時代は,当然その専門家を生み出し,社会的に自立させた.教会堂建設の際も建築家や技術者のイメージに頼ることが多くなった.それらは時にデザイン的独走になったり,神学的考察の欠如をもたらし,汎神論的傾向を示したりする場合がある.日本の例では,自然と教会建築を融合させることによって,教会堂が自然の中に埋没し,自然の一部を構成するといった表現である.これは,十字架の贖いのキリストよりも,神が日本の従来の宗教によく見られるように自然の中におられるといったイメージを未信者に与える.また,ゴシックのイメージから抜け出せない形であったりする.ゴシック建築の美しさは,中世という比較的平和な時代と,中世の民衆の信仰,中世に至る教会建築の芸術的・技術的発展という下地があった.そしてカトリック神学,ギリシヤ哲学を駆使して理性すらも神に近付けようと試みたスコラ哲学とのバランスの上に立っていると言える.一方プロテスタント教会には,優れた聖書理解があるにもかかわらず,その建築に対しては継続的な検討がなされてこなかった.バッハの音楽のようにプロテスタント芸術が生み出されていくためには,聖書信仰によって訓練された理性が必要である.そしてその理性までも主に全くささげた魂の中からしか,本当のプロテスタンティズムの教会堂は生れてこないであろう.神の恵みによって心は救われていても,常に罪の中にとどまろうとするキリスト者(ローマ6:1,2)には,ある意味では神の恵みの豊かさや深さは完全に知り得ない.そのような者たちに,あるべき教会堂のイメージを求めることができるだろうか.聖書に従おうとするプロテスタント信仰は具体的な教会堂建築の面に至るまで妥協を許さないほどに,信仰の理想が高いものなのではないだろうか.教会堂建築は,信じる信仰そのものが具体的に目の前に形となってすべて表れてくるものであり,空間なのである.<復> 礼拝における礼典や賛美に対する考え方にはもちろんのことであるが,キリスト者の信仰観,礼拝観に大きく影響される.礼拝を信者の共同体として(使徒2:46,ヨハネ4:23)ささげる姿勢を強調すれば,牧師を囲む形式が出てくるかもしれない.また,新しい契約の仲介者キリストによってみことばが語られる空間(Ⅱテモテ3:16,ヘブル9:11‐15)として強調されれば,学校のように会衆が同一の方向を向く形式になるかもしれない.兄弟姉妹に対する配慮についても,新来会者のスムーズな誘導であるとか,母子室を設けるのか子供も礼拝に参加させるのかといった問題もある.もっと身近なこととしては,日本的風土・慣習の中で生れ,発展してきたものの中で,教会堂諸室に使用できるものとそうでないものの区別はどうするのかという問題がある.例えば和室でも畳はよいが,欄間の模様は他の宗教的色彩が強いといったことまで問題となってくる.それらを十分に検討し,イメージをまとめた上で,優れた建築家に委託し,教会側の意図が計画内容に盛り込まれているかをチェックしながら計画を進めていく必要がある.<復> 教会堂建築もその時代の技術を用いて完成するのであるから,教会堂がその細部に至るまですべて象徴性を持つことは不可能かもしれない.しかし教会堂は,そこへ来る人々に語りかける何かを必ず持っているものである.中途半端な考えで造られた教会堂は人々を福音に引き付ける働きに寄与し得ないだろう.キリスト者はあくまでも,目に見える形として,正しいプロテスタンティズムに立った教会建築を目指すべきなのである.→チャペル,キリスト教と美術.(成田 望)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社