《じっくり解説》理性と信仰とは?

理性と信仰とは?

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理性と信仰…

初めに理性と信仰の関係について退けるべき三つの典型的立場について述べ,最後に理性と信仰の関係の問題をどのように考えるべきか,その方向性について記すことにする.<復> 1.スコラ的総合の立場.自然と恩恵の二元論.<復> この立場においては,ギリシヤ哲学と聖書の立場との総合が考えられており,特にスコラ哲学の完成者トマス・アクィナスにおいてはアリストテレース哲学と聖書の総合が考えられている.ギリシヤ哲学は自然的理性(生れながらの人間の理性)を代表し,聖書は信仰の立場を表明している.それゆえ,これは理性の真理と信仰の真理の総合([英語]synthesis)の立場である.ここにおいて特色的なことは,人間理性に対する罪の影響が原理的には排除され,自然的理性は物質的なもの,身体的なものと結合している霊魂の欲性的部分(ギリシヤ哲学者の霊魂の理性的部分,怒性的部分,欲性的部分の三分法が継承されている)の影響によって認識的倫理的に多少の混乱は受けるが,その混乱の原因は後者にあるので,前者(理性)は本質的,原理的には健全で,神の聖言啓示なしに,神について,人について,世界について,不完全ではあるが正しい神認識,人間認識,世界認識を持つことができる,と考える.もともと人間にあったこの混乱と不調和を抑える目的で創造の後で付加的に与えられた超自然的付加的賜物([ラテン語]donum superadditum)をアダムは罪を犯すことによって喪失したから,この原義の喪失はアダム以後の人間に再び混乱と不調和をもたらしている.この混乱と不調和を修正・補修するものがキリストの恩恵である.創造の時の人間に混乱と不調和があったという考えは,創造がはなはだ良かったとする聖書の言明に対する矛盾があり,また,堕罪後も人間理性には原理的には罪の結果が及んでいないという考えは,罪の影響が人間の全本性に及ぶという聖書の言明に対する矛盾がある.このように,この考えにおいては,罪による原義の喪失を超自然的付加的恩恵のみの喪失に限定し,理性に対する罪の影響は原理的には承認されていないと言える.このスコラ的総合の立場はローマニズムの基本的立場であるが,そこでは全的堕落の教理が否定され,まず,自然の光([ラテン語]lumen naturale)に基づく自然的領域における自然的理性による認識体系(自然的神認識,自然的人間認識,自然的世界認識)がある.そして,その上に,恩恵の光([ラテン語]lumen gratiae)に照らされる超自然的領域が広がり,神,人間,世界それぞれについての啓示的認識が補完して真理体系が完成する.これは「恩恵は自然を廃棄せず,完成する」([ラテン語]gratia non tollit naturam, sed perficit)という自然と恩恵([ラテン語]natura et gratia)の二元論である.従って,自然的理性に基づく異教哲学の主張も,不完全ではあるが特別な問題を除けば啓示的真理と同質の主張として承認され,少し傷ついた理性を恩恵がいやし補修して自然的理性による真理を信仰による啓示の知識が完成すると考える.神認識について言えば,自然神学の承認がまずあって,啓示神学は自然的理性の及ばぬ秘義([ラテン語]mysterium)を啓明することによって自然的神知識を補修し完全な神認識に至ると考える.トマスはアリストテレースの神存在論証によって神存在を証明し,純粋思惟としての神の本質を確定し,その上で,三位一体とか秘義に属することを啓示的真理が補って神観が完成すると考える.これは典型的な総合の考え方であるとともに,まず自然的理性による信念体系が基底になっている以上,これに合致するように啓示的真理が順応させられることであり,総合([英語]synthesis)は同時に,順応([英語]accommodation)でもあるわけである.ここには「哲学は神学の侍女」([ラテン語]philosophia ancilla theologiae)の合言葉とは逆に,聖言啓示なしに理解された哲学的な神,人間,世界についての自然的理解が根本にあるので,実質的には,自然的理性の全領域支配,理性の自律性の全領域における承認がある.ここでは,理性と信仰の問題は「自然的理性の秩序と信仰の秩序の総合」,端的には「自然的理性と信仰の総合」と考えられている.この場合,恩恵の注入を受けない非キリスト者と注入を受けたキリスト者の真理理解の相違は,理解の完全性の程度の問題であり,認識的倫理的に両者の間に広大な共通領域が存在することになる.<復> この立場は,教父の立場に類型を求めると,ユスティノスからアレキサンドリア教校を経てスコラ哲学につながる線上でとらえることができる.ユスティノスにはロゴスの種子([ギリシャ語]ロゴス・スペルマティコス)の思想があり,ギリシヤ哲学者にもロゴスの不完全ではあるが認識的に正当な顕現を認める.旧約の預言者と新約との関係と相等しい関係がギリシヤ哲学者と新約との間にあり,「理性と信仰が未完成と完成の関係で考えられている」(山中良知).自然的理性の正しい使用による直接的ロゴスの分有([ギリシャ語]メテクシス)の思想がある.これは教父におけるギリシヤ哲学に対するキリスト教弁証の一つのタイプであって消極的折衷主義と呼んでよいと思うが,これはアレキサンドリア教校(オーリゲネース,アレキサンドリアのクレーメンス)の積極的折衷主義を通ってトミズム的総合の考え方に至る源流としてとらえることができる.C・ヴァン・ティルもユスティノスをローマニズムの先駆者と呼んでいる.アレキサンドリア教校について言えば,グラープマンは次のように語っている.「哲学とキリスト教の緊密な結び付きがアレキサンドリア教校において結ばれた.プラトン主義,ストア学派及びフィロンの教説はこの教校で好意的な評価を受け,神学的思弁及び体系化の基礎づけにおいて充分に活用された.ギリシア哲学はここでは異教徒をキリストにまで導く補導者,神学の予備学,信仰の霊知への発展の準備と考えられた」(下宮守之訳).<復> 2.理性との交渉を拒否する信仰一元論.<復> この立場は理性との交渉を拒否する信仰一元論とも言うべき立場である.ここでは異教哲学の誤謬(ごびゅう)を拒否することが,理性機能そのものを排撃することと混同され,信仰が地上的事象の認識や行為,地上的歩みとしての文化や労働の中に具体化される道が閉されてしまって,修道院的隠遁主義かアコスミズム(無世界論)かあるいは地上的歩みの中に信仰を論証的機能と無媒介に持ち込む狂熱主義となる.罪の腐敗が人間本性の全体に及んだように,再生の恵みは人間本性の全体に及び,再生が理性の再生をも含む点についての具体的思惟の欠如がある.これは必然的に「恩恵は自然を廃棄する」とでもいうような理性機能の存在論的廃棄に陥り,理性を再生理性として位置付けることを不可能にする.この立場は再生理性による聖書の有機的体系的把握,合理的理解と教理的論証的態度に対する反感を生み,信仰の反知性的逆説性を強調する立場ともなる.信仰は再生的理性の論証的機能を媒介して客観化された合理的信仰とならないので,その信仰は深い知識によらず主観的敬虔となる.またみことばの光が地上的歩みを照らす確かな知識として具体化される契機を欠いているので内面的信仰にとどまる.そこにはみことばの要求に耳を傾けない覆面された自律的理性の強固な自己主張がある.<復> この弁証の原型を教父に求めれば,テルトゥリアーヌス型の弁証であり,彼は異教哲学との折衷総合の立場の醜悪なるものをグノーシス主義に見出して,純粋な信仰を弁証しようとした.しかし,テルトゥリアーヌスの弁証の不幸は,ギリシヤ哲学とキリスト教の対立を即,理性と信仰の対立と考えた点にあった.そう考えると,異教哲学は退けられなければならないから理性は断罪されることになる.再生者にとっての真理は常に非合理主義的,背理的,逆説的真理となる.彼は「アテネとエルサレムは何のかかわりがあろうか.アカデミアとエクレシアとは,異教徒とキリスト教徒とは何のかかわりがあろうか」と言っている.異教的真理,哲学的真理を理性的なものとし,信仰の真理の逆説性,背理性を主張する.テルトゥリアーヌスは晩年,熱狂的な殉教を説くモンタノス運動に加入したと言われる.<復> 「不合理なるが故に,われ信ず」([ラテン語]Credo, quia absurdum est)というテルトゥリアーヌスのテーゼは近代の実存哲学や実存論神学にも大きな影響を与えた.再生者の新しい理性の位置付けがないために,信仰の真理は常に逆説・背理(パラ=ドクサ)となり,安心立命的静寂主義の方向へ行くか,逆に狂熱主義([英語]enthusiasm)の方向へ行くかである.この世の思想に含まれる真理契機,政治,文化などの一般恩恵に支えられる相対的善に属する事柄,この世の種々の領域における信仰の具体化としての営み,それらを聖書の立場からどのように位置付け,批判し,またどう関係するかという論証の道は閉されて,信仰は次第に内面化して,聖書を体系的合理的真理として追求する教義学的熱心も成立せず,その信仰は専ら個人の内面性と主体性とにのみかかわる実存的真理となり,主観的敬虔主義となる.「逆説的方法は,信仰による方法ではなく,信仰の仮面をかぶった理性にすぎない.その底には啓示に源を持たない理性の自己主張があることを看過することは出来ない」(山中良知).このように,信仰一元論は,いずれの形態をとっても,信仰は主観的となり,内面一元的となり,自然認識や社会認識,学問や科学,芸術,市民的正義等の問題に関する領域ではこの世の知識に頼らざるを得ず,暗黙裡には自律的理性に立つ異教的なものに支配され,信仰一元論といっても結局,原理的には信仰と理性の二元論である.救いにあずかったキリスト者は再生理性によって一般啓示を正しく解釈することを通して有神的文化を樹立し,創造の目的に仕え,御国の建設に励む文化的責任と使命を負うものであることを忘れてはならない.<復> 3.近代神学における理性と信仰.自然と自由の二元論.<復> 「私は信仰に場所を空けるために知識を制限した」というのはカントの有名な言葉であるが,近代神学はこのカントの知識・認識と道徳・宗教の二元論を継承している.カントにおける近代哲学的認識論の確立とともに,教父たちに源流的類型を見出すことのできない新しい理性と信仰の問題が始まる.自然的理性は時間空間的世界についての科学的真理を扱う悟性(理論理性)と道徳や信仰の叡智的真理を扱う実践理性に分割され,理論理性は自然の領域を,実践理性は道徳的自由や内的敬虔の世界を確立するものとして共に強固な自律性を主張し,この「自然と自由」([ドイツ語]Natur und Freiheit)の二元論は,学的真理(自然的真理)と信仰の真理を区別して,近代的聖書解釈を生み出し,近代主義神学,自由主義神学の成立に大きな影響を与え,近代的宗教認識の基礎となった.「自然と自由」の二元論は,一方において宗教や信仰に関係のない科学の真理,自然の真理があり,他方において自然的欲望に打ち負かされない内的道徳的自由や,科学的自然的真理の進歩に圧迫されない内的敬虔にかかわる自由の真理,信仰の真理があるという,今日,常識的に定着している間違った二元論に通ずるものである.<復> カントの場合,自然認識においては理論的理性(悟性)が感覚的素材に範疇(概念)を付与し,自律的立法者として原則を立て,これを自然に適用して自然の現象結合の法則を規定する.この理論理性の認識総合作用が自然的世界の法則性の唯一の根拠であるから,自然法則的因果的に把握できないもの,感覚的素材の与えられないものは理論的認識を超えるものとして認識から除外され,自然においてはいかなる信仰的要素,聖定的根拠,一般啓示,すべての宗教性は排除され,この認識論的根拠付けを強調する近代哲学の性格は,反形而上学の態度となる.しかし,単なる自然存在にとどまらない叡智的存在としての人間の自由を保証する道徳の領域においては,この自然因果性は人間の自然存在としての側面である身体的感性的欲望的法則性からの超越論的自由と,道徳法則の立法者的自律を意味する実践的自由の問題となる.道徳の領域においても,この自然法則に対抗して,実践理性(意志)は道徳法則の立法者として自律的道徳を立て,宗教は宗教的表象をもってこの道徳を助け,感性的欲望に対する理性の戦いを鼓舞し,勝利の希望を与える役割を与えられた希望の神学となり,神学は道徳神学としてのみその存立を保証されることになる.<復> シュライアマハーは,このカントの自然と自由の二元論を継承しながら,宗教に単なる意志的道徳補完的役割ではない積極的役割を与えようとした.信仰は認識でも道徳でもなく,感情であるとした.ここで感情というのは感性的欲望の世界にとらわれているような低次の生から解放された高次の自由なる生,つまり,自分が神に規定された依存的存在であるという,神意識と一つになった自己意識(これを敬虔自己意識,あるいは絶対依存の感情という)のことである.宗教は,自然因果性に支配され,欲望に規定され,低次の感情に纏綿(てんめん)される自然存在としての人間に,この自然因果性から解放する高次の自由としての道徳性や高次の感情としての敬虔自己意識を回復させるという役割を荷なうものとされる.近代神学においては,宗教はこのような信仰体験と考えられるようになる.救いの信仰体験が宗教である.認識(理論理性)と宗教体験(信仰)は二元論的に分離されている.カントが知識を制限してあけた信仰の場所をシュライアマハーは宗教体験の場所とした.<復> 近代神学における信仰の第3の契機を,バルト,ブルトマン,リチャード・ニーバーなど現代神学者の師であったリッチュル学派の中心人物であるヨーハン・ヴィルヘルム・ヘルマンの新しい「歴史」概念の中に見てみよう.新カント学派の影響を受けたヘルマンは,カント的な自然と自由の二元論,シュライアマハーの宗教体験としての信仰の真理の独自性の主張を継承しながら,さらに,実在性([ドイツ語]Wirklichkeit)を自然的実在性と歴史的(内的生起的)実在性に分け,これに対応する真理として自然的真理と歴史的真理に分けた.そして,この歴史的真理を信仰の真理と呼んだ.自然的に実在するものについては悟性(理論理性)が実験と数学的証明の不可避的論理によって自然法則に基づく自然的真理についての認識を樹立する.それに対して,信仰の真理はイエスの内的生に直接触れる体験によって,感性的欲望的存在としての人間が道徳法則の当為に覚醒する主体に生れ変る体験的真理である.これは学問的認識の与えることのできない,また学問的真理の実在性と質的に異なった真理である.信仰の真理は信仰者の内部に直接起る([ドイツ語]geschehen)という意味で歴史的([ドイツ語]geschichtlich)な真理であり,外的な自然的真理と違って内的に触れられる人格変革的真理である.イエスの生涯や教説から受ける人格的衝撃を人間の内部における神の直接的行為としての啓示と考え,このようなイエスの「内的生」([ドイツ語]das innere Leben Jesu)に触れる体験的現実性([ドイツ語]Wirklichkeit,リアリティー,真理性)を,学問的認識(歴史学)の態度による史的イエスの探究(歴史学は学問的認識であり,出来事の因果関係をとらえる[ドイツ語]Historieにかかわるもので,内的生起としての[ドイツ語]Geschichteにかかわるものではない)がとらえることのできない真のイエスを主体的にとらえる現実性と考えて,歴史学研究の相対性を克服する新しい信仰の真理を発見したと考えた.ヘルマンは理論理性によって論証されるような実在性と全く異なった実在性の新しい次元を見出したとして宗教改革的信仰原理の復興者と見なされたほどである.ここにも自然因果性に基づく学問的認識と,主体の変革の出来事として体験的に知る信仰の真理の二元論,自然の外的出来事にかかわる科学の真理と人間の内心の出来事にかかわる信仰の真理の二元論,自然と自由の二元論がある.シュライアマハーの敬虔自己意識としての体験の真理は,ヘルマンにおいて内的生起的意味での歴史的真理としての信仰の真理の主張となった.<復> このように近代神学においては,科学の急速な発展による自然因果的真理と区別して,信仰の真理を主体的体験的真理とすることによって,科学的学問的真理や,特殊的には歴史学による科学的聖書批評学の成果によって左右されない信仰の実在性を守ろうとする傾向が出てきた.しかし,科学的真理に攻撃されない信仰の真理の次元を開いたということは,他面,聖書を自然的事実真理と切り離して,信仰の真理の書と見ることを意味する.聖書を信仰の真理の書として,信仰という啓示の受領者の側の記録,宗教体験の記述として考え,事実的真理の観点からは承認せず—「事実」つまり[ドイツ語]Historieに属することは因果法則的であって自然法則に合致しないことは承認できない—,聖書は主体の変革の体験の記述,ゲシヒトリッヒな真理の書となる.従って,超自然的,外的出来事は排除され,教義は知的命題の承認として認識的態度を信仰の真理に持ち込む形而上学になるので,主体変革の体験にとって価値あるものだけが象徴的に承認されることになる.かくして,教義学はシュライアマハー以来,信仰論という位置付けを得ることになった.事実は常に因果法則的に可能なものに限定され,事実の意味は常に実践理性がそこに付与することとなり,事実と解釈のユニティー(統一)としての特別啓示はないがしろにされた.<復> このような自然の真理と信仰の真理,自然的真理と歴史的真理の二元論は現代神学者にも継承されている.ブルトマンは師ヘルマンが科学的真理と峻別された宗教的真理を人間の自己意識の内部に生起する出来事として把握したことを高く評価しつつ,同時に,ヘルマンがその内的出来事の一回性に気付かず,イエス・キリストを単なる道徳の教師にしてしまったと批判する.イエス・キリストが人間の一般的行動原理の教師となり,福音の一回的出来事としてのイエス・キリストの出来事が軽視され,一般的普遍道徳の立場に福音が解消されてしまったと批判する.しかし,ブルトマンも真理を二元的にとらえている.科学的真理は人が自然現象を主観と客観の関係において見る時に成立し,因果連鎖の関係の上に成り立っている.従って,この科学的真理は客観化され得るものを知り得るにすぎない.科学は生と死について何事も語ることはできない.科学的探究が獲得し得るような実在性が唯一可能的実在性であるならば,われわれにもはや希望はない.しかし,実存的思惟が獲得し得る別の実在性があると言う.ブルトマンはこの実存的思惟を内的生起的真理の主張と結び付けることによってヘルマンを生かしつつ,ヘルマンの古い自由主義の残滓(ざんし)を取り除くことができると考えた.これは,人が宣教の言葉に接する時に,いま・ここで([ドイツ語]Hier und Jetzt)心に生起するイエス・キリストの一回的出来事の真理である.「いま」「ここで」起っていることは福音書の記者たちに起ったと同じ事である.神の側から言えば永遠の現在への躍入であり,信仰の主体としての人間の側から言えば,この瞬間における実存的決断として説明される.それは瞬間における永遠と時間の出会いであり,また,はかない時間的自然的世界に固着している古い人が死に絶える終末論的出来事であり,新しい信仰の実在性・リアリティーに固着する本来的自己の復活という終末論的出来事である.ブルトマンは信仰の真理を内的生起的真理として解釈する態度を継承している.信仰の真理は科学的真理にかかわる自然実在性から峻別される内的生起的実在性([ドイツ語]die Geschichtlichkeit),その意味での歴史的実在性にかかわるものであるという主張が,さらに実存的思惟の影響を受けて,信仰の真理は理論理性の推論に基づいている自然的真理を突破する実践理性の実存的決断によって開かれる真理であると考える.<復> このような理解は,リチャード・ニーバーの「歴史の二属理論」においても見出される.彼は歴史を「観察される歴史」と「体験される歴史」に分ける.前者は「事物に関する外的歴史」であり,後者は「自己に関する内的歴史」である.前者はすべての観察者に開かれている理論理性の因果把握の対象としての歴史であり,後者は参与者における主体の生における出来事のことであり,聖書は自己に関する内的歴史に属するものである.聖書が啓示の書であるということは,キリスト者共同体の宗教体験の書であるということであって,従来の過ちは啓示を非参与者の観点から知られる外的歴史の中に位置付けたことであると言う.この二つの区別を彼は「理論理性によって外部から観察される歴史」と「実践理性によって内部から見られる歴史」とも呼び,人は自己の決断,信仰の飛躍,心の革命によってのみ,観察から参与へ,観察された歴史から体験された歴史に至ることができる,と言う.このように,ブルトマンの神学におけると同様ニーバーの神学においても,実践理性が体験的実在性に参与する働きにおいて絶対化されている.実存的決断と参与としてのこの宗教体験は究極的準拠点としての実践理性によってなされている.ブルトマンやニーバーにおいて,キリストの出来事としてのケリュグマが強調されたといっても,認識と体験,自然的真理と信仰の真理の二元論は少しも変っていない.宗教は神と人間の間の関係の問題ではなくて,人間の自己意識内部の自然的欲望的自己と精神的叡智的自己との対立,自然法則に規定される現象的人間([ラテン語]homo phaenomenon)と自己立法的叡智的人間([ラテン語]homo noumenon)の対立の問題であるにすぎない.カントは認識を制限して信仰に場所をあけ,シュライアマハーは信仰を敬虔自己意識の宗教体験とし,ヘルマンなど多くの自由主義神学者はこの宗教体験を新しい近代的歴史概念に深化させ,内的生起的出来事の真理とした.こうすることによって,自然的真理,科学的真理と全く異なった次元の信仰の真理,内的出来事の真理の区別をもたらした.理論理性の真理と信仰の真理の二元論である.この自然と自由の二元論は,現代神学も近代神学から継承しており,神学的認識の認識論的基礎は共有財としての近代哲学的認識論である.<復> 近代的思惟の底流にはこのような「自然と自由」の二元論がある.宗教は神と人間の関係の問題として考えられず,人間の自己意識内部における自由回復の問題として内在化されている.自然の世界においても道徳・宗教の世界においても立法者,真理の究極的判定者,最終法廷は自然的理性であり,聖書の記述は人間の道徳の理想の投影や宗教意識,宗教体験の反映と見なされ,人本主義的に再解釈されている.近代神学の認識原理は,ヴァン・ティルの言う通り,神の創造と摂理のわざを排除する未解釈的原事実と非人格的法則付与者,立法者としての自律的理性である.その背後にある哲学は,まだいかなる秩序も解釈も投入されていない[英語]brute factの存在論と,これに人間理性が普遍・秩序・解釈を投入していく[英語]autonomy(自律)の認識論である.<復> 4.われわれは理性と信仰の問題をいかに考えるべきか.その方向性.<復> 「異教哲学」対「キリスト教」の対立と関係の問題を「理性」対「信仰」の対立と関係の問題と同一視することはできない.本項で述べた1.と2 .の立場に共通していることは,異教主義や異教哲学に対して福音の真理を擁護する時,これを単純に「理性」と「信仰」の対立と関係の問題と考えるから,両者の間に「順応と総合」([英語]accommodation and synthesis)をはかるか,それとも,異教主義や異教哲学を切り捨てることが同時に理性機能を切り捨てる信仰一元論となり,このいずれかの可能性しかなくなってしまうのである.3.の立場は,理性と信仰の問題を,理論理性と実践理性という自然的理性の自律性の主張の中で取り扱うことになり,正統的キリスト教信仰は,他律的なもの,独断的形而上学に等しいものとして,逆に,切り捨てられてしまうことになる.<復> 以上,(1)理性と信仰の総合か,(2)理性機能の断罪か,(3)信仰機能の断罪か,という結果に導き,しかも,いずれの場合も,理性の自律性という独断的原理が,顕在的にもせよ潜在的にもせよ,いわば公理となってしまっており,そこには,再生者と非再生者,信者と非信者の間に「認識的倫理的共通領域」が広がっている.<復> われわれは聖書において,「生まれながらの人間は,神の御霊に属することを受け入れません.それらは彼には愚かなことだからです」(Ⅰコリント2:14)と教えられている.その最後が滅びであり,その腹が神,その栄光が恥の中にあり,その思いが地上のことである人と,義とされ,子とされ,永遠の御国の相続者,国籍を天に持ち,御霊の法則によって歩む霊のイスラエル,選ばれた種族,王なる祭司,聖なる国民,神の民ら,この両者の鋭い「対立」([英語]antithesis)が教えられている.この再生者と非再生者,信者と非信者の間には認識的・倫理的な意味では共通領域は存在しない.従って,従来のいわゆる「理性と信仰」の問題の取り扱いの中では,十分にこの「対立」の問題は把握されていないと言わざるを得ない.「対立」の十分把握されていないところでは,必然的に,「関係」も十分にとらえられ得ない.というのは,再生者と非再生者の「対立と関係」の問題は,「信仰と理性の対立と関係」の問題ではないからである.非信者において,理性機能が働いているのと同様に,信仰機能も働いている.信者において,信仰機能が働いているのと同様に,理性機能も働いている.問題は,「理性」対「信仰」ではなくて,「理性と信仰」(非再生者)対「理性と信仰」(再生者)である.否,対立は,理性機能や信仰機能の問題ではなくて,それらの機能の働きがそこから出てくる心,自己意識,自我における対立としてとらえ直さなければならない.神の像の宿る座としての心が造り変えられ新たにされた場合,生れながらの人間の心とは質的に全く相違している.ここをとらえない限り,われわれは,総合か捨象かの道を歩まざるを得ず,理性の自律性の原理に,好むと好まざるとにかかわらず,のみ尽されてしまうであろう.<復> そういうわけで,理性と信仰が対立するのではない.哲学と信仰,学問と信仰,科学と信仰が対立するのではない.対立するのは正信と迷信である.対立するのは,正信を前提とした哲学と迷信を前提とした哲学である.対立するのは聖書的有神論的哲学と異教哲学であり,超越哲学と内在哲学である.対立するのは超越哲学を基底とする学的思惟と内在哲学を基底とする学的思惟である.聖霊の再生のみわざに浴して真の神を知り,自己の罪とキリストのみわざを知り,受け入れ,聖書を神のことばと信じる心,自己意識とそうでない異教宗教動因(形相と質料,自然と恩恵,自然と自由その他何にせよ)に規定される心,自己意識の間には対立([英語]antithesis)がある.非再生者は,その心に神の像の残滓があり,彼を取り囲む一般啓示に真理抑圧的反応をして,真の神以外のものを絶対化する背教的宗教性があるので,宗教的中立ということはあり得ない.それゆえ,その心,自己意識,自我は必ず異教的宗教動因に規定されている.人間のすべての営みは心より出る([英語]Out of the heart are all issues of life).人間の一切の営み(理論的思惟も日常経験も)は,この出発点・第1原理から出るものであり,ここにある宗教的根本動因によって信仰機能も理性機能も根本的に規定されている.非再生者の心は異教動因に支配され,信仰機能は何らかの偶像的被造物に向かい,この信仰機能によって指導されて思惟機能(理性)は被造世界の意味を開示していくので,物理的因果法則性を絶対化して全体を唯物論的に見たり,あるいは自然必然的機械論的自然観を立てたりする.するとそれからの自由を欲して二律背反に陥ったり,二元論に逃避することとなる.非再生者の理性は認識的・倫理的には神に喜ばれるものを何一つ樹立できない腐敗の下にあるので,それとのいかなる総合([英語]synthesis)もあり得ない.しかし,信仰機能も理性機能も神の像の残滓として形而上的・存在論的には残存し,神のものである善きものに心理的感覚的に反応する働きを持っている.これらの機能は働いて相対的な意味での善きものを樹立している.<復> このように非再生者における信仰と理性の問題を考え,一方において再生者における信仰と理性の問題を考えつつ,異教的思惟と質的に区別された有神論的思惟の確立を追求しなければならない.そこで初めて,異教哲学との総合を断ち切り,質的に対立するキリスト者の思惟を樹立し,同時に,異教文化の中にある相対善をわれわれの立場から評価し,位置付けることも可能となる.被造世界の意味は正しい信仰によって再生理性機能が導かれる時,正しく開示していくのである.→科学とキリスト教,キリスト教哲学.<復>〔参考文献〕山中良知『理性と信仰』創文社,1964;春名純人『哲学と神学』法律文化社,1984;H・ドーイウェールト『西洋思想のたそがれ—キリスト教哲学の根本問題』法律文化社,1970;Van Til, C., The Defense of the Faith, Presbyterian and Reformed Publishing, 1955.(春名純人)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社