《じっくり解説》性倫理とは?

性倫理とは?

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性倫理…

1.性(sex)と人間性.<復> 人間が男性か女性であるという性別の事実は,聖書の人間学の中で繰り返し強調されている.性別を離れては,どのような表現を用いても人間性を十分に理解することはできない.そして,男女の性別は変ることがない.この性の関係を巡って,人は喜びと悲しみ,愛と憎しみ,希望と失望を味わう.性欲は食欲に次いで人間を力強く支配する生理的衝動の一つであり,それゆえに性の問題は人間性の問題そのものであると言える.<復> 人間が男か女であることは,性的行動よりもはるかに大きな概念である.それは,人が何をなすかということよりも,人が何であるかを問題にするからである.聖書は,創造の記事の中で,このことを明確に述べている.人が男と女に創造されたことを,聖書が特に,人が神のかたちに創造されたことと関連して述べていることに注目すべきである.つまり,聖書的に言えば,人が男か女であるということは,人が人格的存在であるということである.<復> 創造に関する聖書の教理は,性別の価値と目的を強調している.創世2章は,男性の交わりの対象として女性が造られたのは神の摂理であった,と教えている(2:18‐25).聖書は,男女の二つの性を扱う時,圧倒的に肯定的な立場をとっており,創造の神学は,性が善であることを強く主張している.そして,性の価値を否定する禁欲的理想を非難する(参照箴言5:18,19,雅歌).<復> 男女両性が持つ積極的価値についての新約聖書の証言は,旧約聖書よりもさらに印象的である.使徒たちが手紙を書き送った多くの若い教会の中で,禁欲を選ぶことについては徹底して議論された.特に使徒パウロは,結婚を軽視する者を遠慮なく非難した.そして,乱用や否定の余地のないよう,性に対して積極的態度をもって生活することを勧めた(Ⅰテモテ4:1‐5,Ⅰコリント6:12‐15,7:3以下).<復> 2.性に関する聖書的基礎.<復> 人とのかかわりの中に生きる個人にとって,性は最も重要な関係の一つである.それはまた,世の中で最も重要であるにもかかわらず,最も歪曲されている.それが歪曲されるのは,性の持つ力のゆえである.腐敗への傾向を持つ力は,強力であればあるほど,その腐敗への傾向も大きい.そして性の乱用は,多くの場合,性についての誤解から生じている.性的行動について,聖書はどのように教えているだろうか.<復> (1) 性に関する聖書の教え.聖書は,性について基本的に三つのことを教えている.第1に,性は善であること,第2に,性は強力な力を持っていること,第3に,性は制御される必要があることである.<復> a.性は本質的に善である.「神は…人をご自身のかたちに創造された.…男と女とに彼らを創造された」(創世1:27).神は,人間を性別を持つ存在として創造された.そして創造のわざを終えた時,「神はお造りになったすべてのものをご覧になった.見よ.それは非常によかった」(創世1:31).従って,性は善である.それは神が造られたものであり,人間の性のうちに神の善なる性質が反映されているからである.性が神の存在の一面と似ているのは,性の持つ創造的な力のゆえであり,性の力が人と人とを結び付け,一心同体にするからである.性は,最も強力な絆をつくる力を持っている.<復> グノーシス主義やプラトーンの哲学などの非キリスト教的哲学とは異なり,聖書は,人体や身体の諸器官を含む物質や物理的宇宙が善であることを宣言する.創造のわざがなされるたびに「神は見て,それをよしとされた」と聖書は繰り返し記し(創世1:10,12,18,21,25),創造の最後に,「見よ.それは非常によかった」と述べている(同1:31).性は,この善である創造から切り離すことのできない一部である.この見方は,聖書の他の箇所でも確認されている.「神が造られた物はみな良い物」であると(Ⅰテモテ4:4).性を不純なものと見る人に対して,聖書は言う.「きよい人々には,すべてのものがきよいのです.しかし,汚れた,不信仰な人々には,何一つきよいものはありません」(テトス1:15).<復> 聖書は,性について次のように述べている.「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい.寝床を汚してはいけません」(ヘブル13:4).結婚は,まさしく尊重すべきものである.性は結婚生活に不可欠な部分であるから,性が善でなければ,結婚を尊重することはできない.性が神聖なものであればこそ,聖書は,人間が神とのかかわりにおいて持ち得る最も親密な交わりを,性によって説明している.「『それゆえ,人はその父と母を離れ,妻と結ばれ,ふたりは一心同体となる.』この奥義は偉大です.私は,キリストと教会とをさして言っているのです」(エペソ5:31,32).<復> 性が本質的に善であることは,神が性的一体化を命じられた事実からも明らかである.神は最初の夫婦に,「生めよ.ふえよ.地を満たせ」と言われた(創世1:28).そして,初めての子供が生れた時,エバは,「私は,主によってひとりの男子を得た」と言った(創世4:1).このことばは,性的なプロセスを神が制定されたことを示している.そして,聖書全体を通じて子供への祝福の例が無数にあるということは,神が性を善と見ておられることを明らかに示している.<復> b.性の力は強力である.性は本来善であるだけでなく,強力な力を持っている.その力は,性が人間を殖やし,地を満たすために用いられることに示されている(創世1:28).性の力は,男と女を「一心同体」にする力によって劇的に表現されるだけでなく,性によって生み出されるものによってもあかしされている.人間の親を持つ子供は,神のかたちをもって生れてくる.アダムは,神のかたちにかたどって創造された.そして,神のかたちにかたどって造られた子供の親になった(創世9:6,ヤコブ3:9).従って,人間の性的プロセスによって,多くの人が生れただけでなく,多くの小さな神のかたちを持つ人々が生れたのである.この意味でイエスは,詩篇82:6を引用して,「わたしは言った,あなたがたは神である」と言われた(ヨハネ10:34).性によって生れる人間の本性が十分に価値を認められる時,性が地上における最も意義ある力の一つであると言っても過言ではない.<復> c.性は制御される必要がある.性のように強力な力を持つものに統制が必要であることは,誰もが認めることである.幼い子供がダイナマイトをもてあそぶのを許す人はいない.また,核兵器を一般の人に手渡す政府もない.性は,ある意味でダイナマイトや核兵器よりも強力な力を持っている.それだけに,その力が適正に生かされるためには,その力を正しく制御し,規制することが必要になる.人間の幸福のために性の力を導き,方向付ける手段が必要である.性の強力な力を良い目的のために活用しなければ,その乱用は核エネルギーのように人類を破滅させる脅威となる.<復> 聖書によれば,善でありかつ強力な性の力を正しく方向付け規制するために,神が定められた手段は結婚である.初めに神は,「それゆえ,男はその父母を離れ,妻と結び合い,ふたりは一体となるのである」と言われた(創世2:24).イエスは,それに加えて,「それで,もはやふたりではなく,ひとりなのです」と言われた(マタイ19:6).つまり,男女を独自の永続的関係に結ぶ結婚は,性の力を制御するために神が制定された手段なのである.<復> 性は,生殖の力であるだけでなく,快楽をもたらす力でもある.この意味でも,性を制御しなければならない.情欲を,抑制のない状態に放置してはならない.強姦やサド的性犯罪を,それが加害者に性的快楽をもたらすという理由で是認することはできない.快楽が本質的に善であるとしても,すべての快楽が善であるわけではないからである.快楽のあるものは,当人はもとより他の人々にも有害である.例えば,ある人々は残酷,不義,憎悪に満ちた行動によって快楽を得るが,それは良い快楽ではない.従って,性が快楽を与えるというだけの理由で,抑制のない性の行使を正当化することはできない.すべての快楽は制御されなければならない.単なる肉体の性的快楽よりもはるかに高い精神的満足があることを見失ってはならない.聖書は,生殖の力と同様に,性的交渉が持つ快楽の力を制御する道が結婚である,と教えている.<復> (2) 性の機能に関する聖書の教え.性の機能は,結婚以前,結婚生活(一夫一婦の結婚生活),婚外関係,複婚関係,離婚などの観点から見ることができる.ここでは,結婚以前,結婚生活,婚外関係における性の役割について述べる.<復> a.結婚以前における性.聖書の教えに関する限り,結婚以前における性交渉の役割は教えられていない.性的交渉は一種の結婚である.その行為が生涯的な愛の献身でないなら,それは悪である.それは事実,聖書が不品行と呼んでいる罪である(参照Ⅰコリント6:18,ガラテヤ5:19).聖書は,結婚への初めての言及において,男と女は「一体となる」と宣言している(創世2:24).これは,二人の体が結び合される時に結婚という事態が発生することを意味している.<復> ① 婚前交渉.結婚における性交は,普通,男が女と「寝る」という行為として表現される.モーセは次のように命じた.「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は,その女と寝ていた男もその女も,ふたりとも死ななければならない」(申命22:22).新約聖書では「結婚」と「寝床」ということばを併用することによって,このことを確認している(ヘブル13:4).この意味で,婚前の性交はあってはならないことである.性交は「結婚」を開始する行為である.それゆえ,旧約聖書では,一組の男女が性的交渉を持つ時,男は女の父親に結納金を納めて,女を妻に迎えることを義務付けているのである(申命22:28,29).また,男が遊女のもとに行く時,聖書はそれを「結婚」と見なしている.「遊女と交われば,一つからだになることを知らないのですか」(Ⅰコリント6:16)とパウロが述べている通りである.このように,聖書の教えでは,男女の性交は結婚と見なされるのであるから,婚前交渉の余地はない.売春も不当な結婚と見なされる.<復> 婚約した男女は,自分の性的衝動を抑制するか,それとも結婚すべきである(Ⅰコリント7:9).もし二人が性的交渉を持つなら,彼らはその行為のゆえに,神の目から見れば結婚したことになるのであるから,できるだけ早く婚姻届の手続きを完了すべきである.国の法律に従うことを神が命じておられるからである(ローマ13:1,Ⅰペテロ2:13).<復> ② 同棲.共に住むことを選びながら,結婚式は不必要と考える人々がいる.結婚の誓約や儀式は二人の関係に何らの影響を与えるものでもなく,結婚の儀式などはなくても,自分たちは約束事を受け入れた人々と同じように実際に結婚したのだと考えるのである.しかし,人生のどの領域においても,例えば,商取引きや雇用においても,契約は付き物である.法的拘束力を持つ契約を結ぶことを拒む人はいない.低い次元で考えれば,結婚も法に基づく契約であり,高い次元で考えれば,それは神の前になされる約束である.確かに儀式がなくても契約を守っていける人はいるであろう.しかし,人生には契約を守ることが困難になる時や,契約を破る誘惑にさらされる時がある.そのような時に,人生の土台となる約束を守ることを誓約した歴史的瞬間を振り返り得ることは,非常に価値あることである.<復> 儀式や誓約を省略しても一緒に暮していけると言う人々は,互いに取消しのきかない形でかかわることに抵抗を感じているのかもしれない.そして,無意識的に逃げ口を用意しているのかもしれない.結婚は,人の目には人と人との契約であり,神の目には人格と人格との結合である.それほどに重大な人生の出来事であればこそ,神と人との前で誓いを立てる行為とその歴史的瞬間が必要なのである.<復> 聖書は,結婚する用意がない人たちの婚前性交を否定している.妻と家族への責任を引き受ける準備がない人は,性をもてあそんではならない.この点でソロモンの勧めが当てはまる.「人妻は尊いいのちをあさる…人は火をふところにかき込んで,その着物が焼けないだろうか」(箴言6:26,27).生涯をかけて生活を共にする用意なしに,性的交渉を持つべきではない.結婚するまでは,性交すべきではない.神の御心においては,性交は結婚のために保留されているからである.<復> b.結婚生活における性.結婚生活における性の基本的機能が幾つかある.それは,神によって定められた性の機能が結婚によって制御されることを示してくれる.結婚生活における性の積極的な役割は,第1に夫婦に独自の親密な一体化をもたらすこと,第2に独自な関係に入った夫婦に喜びをもたらすこと,第3に生殖によって子供を世界に送り出すことである.<復> ① 独自の親密な人格的結合.結婚の第1の目的は,夫婦が最も親密な結合を実現することである.「ふたりは一体となる」ということは,聖書の中で繰り返し述べられている(創世2:24,マタイ19:5,Ⅰコリント6:16,エペソ5:31).性によってもたらされる夫と妻の人格的結合があまりにも独特なものであるため,聖書はそれを用いて,信者とキリストとの間の神秘的な結合を説明している(エペソ5:32).独特な性質を持つ性的関係は,ただ一人の配偶者との間で保持されるべきものである.この独特な関係を同時に二つ以上持つことは不可能である.結婚,つまり一夫一婦の結婚は,夫婦が永続的で独自な関係を維持するただ一つの統制された道である.複婚(複数結婚)には,絶えず嫉妬の脅威がある.その生活においては,誰がより愛されている妻であるかが問題になる.実際に,二人の妻を同等に愛することはできない.従って,独特な関係は一人の妻との間においてのみ持ち得るのである.一夫一婦の結婚こそ,神がお定めになった男女の理想的な関係である(申命17:17,Ⅰテモテ3:2,テトス1:6.参照マラキ2:15,マタイ19:4‐6).<復> ② レクリエーション.性交は,文字通り結婚による自然な結合の至福から生れるレクリエーションである.それは,最初の愛の喜びを想起させる礼典的な経験である.性的結合は,結婚によって一体化された人々の幸せな再結合である.性が与える満足は,二人が初めて交した相互の愛の誓いを再確認することによって得られる喜びである.結婚生活が持つレクリエーションの機能と再結合の機能は,分離することができない.真実の性の喜びは,最初の時点でもたらされた独特な夫婦の結合が再確認され,改めて強化されることによって得られるものである.従って,独自で永続的な結婚関係を抜きにして性の喜びを得ようとするなら,幻滅に終るしかない.真実の性の喜びは,真実の結合から生れる.そして,この真実の結合は,二人の異性の間に独自な永続的関係がある時にのみ生れるのである(参照Ⅰテモテ4:3‐5,6:17).<復> ③ 生殖.結婚による一体化の結実は,子孫の増加である.もちろん,子供は結婚生活の自然な結実であるが,必ずしも必然的な結実ではない.そして,結婚は自然なことではあるが,必ずしなければならないわけではない.独身者は,結婚しないことを選ぶことができるが,それは罪を犯すことではない(参照マタイ19:12,Ⅰコリント7:7,8).従って,結婚した夫婦が子供を持つことは自然なことではあるが,子供を持たないことを決意することもできる.それは,罪を犯すことではない(参照Ⅰコリント7:5).結婚生活によって子供が誕生する時,子供の誕生は,両親が独自の永続的関係を維持するもう一つの理由になる.子供は,愛のしつけを必要としている(箴言22:15,エペソ6:4,コロサイ3:21).子供が健全に成長するためには,両親の幸福な結婚生活がもたらす一体性と保障が必要である.複婚,離婚,親を知らない事情などは,子供の人格を強化する力にはならない.健康で幸せな子供の養育には,両親の永続的結合が最高の条件である.<復> 以上を要約すると,結婚生活における性の機能には,結合,レクリエーション,生殖の三つがある.この三つの機能は,夫婦の貞節が必要であることを明示している.独自な結婚関係が婚外交渉によって破られる時にはいつも,それが結婚の独自な結合を破壊し,可能なはずの真実の喜びを低下させ,結婚関係の中で生れる子供を支える安定した基礎を弱体化させるという事実が見落されている.<復> 結婚生活におけるこれら三つの積極的な性の機能から,一つの消極的な役割が推論される.それは,結婚における性が,情欲の満足を求めて婚外交渉の混乱に走るのを防ぐ道になるということである.「不品行を避けるため,男はそれぞれ自分の妻を持ち,女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい」(Ⅰコリント7:2).独身者は誰も性を自制することによって自分をきよく保つべきである.「しかし,もし自制することができなければ,結婚しなさい.情の燃えるよりは,結婚するほうがよい」からである(Ⅰコリント7:9).そこでパウロは,若いテサロニケのキリスト者たちにこう書き送っている.「神のみこころは,あなたがたが聖くなることです.あなたがたが不品行を避け,各自わきまえて,自分のからだを,聖く,また尊く保ち,神を知らない異邦人のように情欲におぼれ」ないことであると(Ⅰテサロニケ4:3‐5).このように,結婚生活には,性的衝動による混乱を防止し,不品行から人を守るという消極的な意味がある.<復> c.婚外関係における性.結婚の目的を考えるなら,聖書が不法な婚外関係を禁じていることは明らかである.姦淫,不品行,売春,同性愛は,すべて罪に定められる.この行為はどれも罪であり,神がお定めになった人間関係を破壊するものである.<復> ① 姦淫と売春.姦淫と売春は複婚であり,二つの基本的理由で不正である.まず,その行為は,最も親密な関係を同時に数多く持とうとすることだからである.いずれにしても,その人は,自分が真実に最も愛している人をだまし,最高に愛していない人を偽るのである.第2の理由は,神が性的結合を永続的なものとして望んでおられるにもかかわらず,それを一時的な結合としてしか考えないことである(マタイ19:6).お互いが生涯にわたる愛の献身をするという背景がなければ,夫婦の結合における最高の喜びを保障する道はない.<復> 聖書は「姦淫してはならない」と強調する(出エジプト20:14).旧約聖書において,姦淫は死罪とされた(レビ20:10).新約聖書も同様に,姦淫に反対する.イエスは,姦淫がその基本的動機において間違っていることを指摘された(マタイ5:27,28).パウロはこれを,神の国にふさわしくないものとしており(Ⅰコリント6:9,10),ヘブル人への手紙の記者も,神のさばきを受けるべきものとしている(13:4).<復> ② 不品行(不倫).不品行ということばを,聖書は,結婚関係以外の不正な性的関係について使用している.エルサレムの使徒たちは,すべてのキリスト者に対して,不品行を避けるように勧めた(使徒15:20).パウロは不品行を「肉の行ない」と呼び,神の国にふさわしくないものとしている(ガラテヤ5:19,21).また,「からだは不品行のためにあるのではない」と教え,「不品行を避けなさい」と命じている(Ⅰコリント6:13,18).エペソ教会の信徒たちは,不品行を口にすることさえ禁じられた(エペソ5:3).ヨハネは,不品行の者の受ける分が火と硫黄との燃える池の中にあることを示された(黙示録21:8).不品行が悪であるのは,それが結婚外の「結婚」であるからであり,当事者の永続的で独自な関係を意図することなく,二人を不正な方法で結合させるからである.<復> ③ 同性愛.同性愛は,姦淫,売春,不品行という異性間の性的罪とは異なり,厳密な意味での性交は行われず,従って,子供が生れることはない.しかし,性的な刺激を与え,同性の人をもてあそぶのである.この意味で,聖書は同性愛を禁じている.この罪は,そのために滅ぼされた悪の町ソドム(創世19:5‐8,24)の名にちなんで,ソドミーと呼ばれる.後に,モーセの律法では,同性愛の罪を犯す者がイスラエルの共同体にとどまることを禁止した(申命23:17).その後,アサ王の改革の時,「彼は神殿男娼を国から追放」した(Ⅰ列王15:12).同性愛の罪への言及は少なくない(レビ20:13.参照イザヤ3:9,エゼキエル16:46).<復> 同性愛の罪については,新約聖書も同様に明らかな立場をとっている.パウロは,同性愛が「自然の用を不自然なものに代えた」と述べている(ローマ1:27).また他の箇所では,「だまされてはいけません.不品行な者…姦淫をする者,男娼となる者,男色をする者…はみな,神の国を相続することができません」と述べている(Ⅰコリント6:9,10).こうした行為はすべて,性の正しい用法を曲げた行為である.婚外関係における異性愛は,事実上夫婦でない二人を夫婦の関係に入らせる点で誤っている.同性愛は,お互いが同性であるために夫婦になり得ない者同士を独自な夫婦の関係に入らせる点で誤っている.<復> もちろん,同性愛についての聖書の禁止命令は,同性間の親しい友情を禁じるものではない.ダビデとヨナタンは,その古典的な実例の一つである.「ヨナタンの心はダビデの心に結びついた.ヨナタンは,自分と同じほどにダビデを愛した」(Ⅰサムエル18:1).親しい友情は一つのことであり,不正で不自然な性的交渉は全く別なことである.<復> 3.キリスト教の性理解への挑戦.<復> キリスト教の性理解は,創造に関する旧約聖書の啓示と,人格の全体性を教える聖書の人間学に基礎を置いている.一人の男と一人の女は,互いに相手を人格的存在として受け入れ,相手への責任を引き受ける契約を通して一体にされるのである.また,男女の性別は,個人の生活の他の領域全体から切り離すことができない.男性としてあるいは女性として行為することには,全人としての個人が含まれており,男女が共に行う性的行為は,生の他の領域に潜在的にも実際的にも影響を与えるのである.性的行為の最も重要な基準は,他のすべての人に勝って互いに配偶者を思慮深くケアすること,そして,夫と妻は堅く貞節を守ることである.<復> ユダヤの律法によれば,姦淫は既婚婦人が夫以外の男と交わりを持つことであり,夫のほうは妻以外の既婚婦人と関係しない限り,姦淫の罪には問われなかった.このように,イエスの時代には性道徳には二重の基準があり,不道徳な性的行為は女が行うこととされ,女性の社会的地位は決定的に低いものとされていた.しかし,イエス・キリストは,男も女も自分の性的行動に平等な道徳的責任を負うべきことを教えられた.女性を男性の犠牲者としての地位から解放することは,イエスの教えの中に明瞭に表現されている(マタイ5:27‐32).<復> 現代の性倫理においては,上述の人間の性生活の前提が幾つかの厳しい挑戦を受け,試練にさらされている.<復> (1) キリスト教世界からの挑戦.キリスト教会のあるグループでは,男女間の親密な性的関係が教会法の領域に属していると考える.この考え方の主要な点は,教会の権力構造にある.この法的態度は,律法の文字に関心が集中するあまり,男と女の性的関係に含まれる精神的な意味を見落したり,否定したりすることになりかねない.夫婦の性交の目的を生殖だけに限定する伝統的な教えは,新約聖書の観点から見直される必要がある.<復> (2) 精神分析からの挑戦.第2の挑戦は,男女関係の性質,精神的健康に関する精神分析からの試練である.S・フロイトは,ローマ・カトリック的性理解がヴィクトリア朝風の道徳主義であることに強く反対した.彼は,そのような道徳性が近代の人々を神経質にすると考えた.しかし,この反動的なフロイトの教えはゆがめられ,人格の全体性における性による人格的結合を説く聖書の観点を回復する力にはならなかった.むしろ,律法の責めからの自由を強調するあまり,日々罪を告白し,熱心に聖化を求めることを軽視する反律法主義(アンティノミアニズム)と,性的無責任性を許容する機会をつくる結果となってしまった.これは,フロイトの意図しないことであった.<復> (3) 試験的結婚の考えからの挑戦.第3の挑戦は,伝統的結婚観からの遊離である.結婚は一人の男と一人の女による相互の永続的な愛の献身であるという文化的前提から離れ,結婚を一時的なものとして考える風潮が起ってきた.有名な人類学者M・ミードは,結婚しようとするアメリカ人のうち,結婚を一時的なものと考える人々が優勢であることを指摘している.それより早く,A・キンゼーは,アメリカにおける離婚の大きな要因は,人々に結婚生活継続の決意が欠けていることだと述べている.このような背景から,ミードや他の学者たちは,お互いが夫婦としてうまくやっていけるかどうかを3年間試した上で,永続的な結婚生活に入るかどうかを決意するよう,限定的な試験期間を置くことを提案している.結婚を希望する男女は,試験期間が終る時,お互いの関係を再評価し,二人の関係を恒久的なものにするかどうかを決めるのである.<復> この考えは一見合理的に見えるが,このように試験もしくは実験という理由で性的交渉を持つことは,間違っている.そのような方法は,真実の結婚状態の模擬実験にはならないからである.老人ホームの生活がどんなものかを知りたいと考えた人が短期間入所して,生活したとする.しかし,その人は本当の意味で老人ホームの生活を経験したことにはならない.観察や研究を目的に老人ホームで短期間の生活をしたとしても,その人の立場は,実際にそのホームで生活する人々の立場とは全く違っているからである.つまり,実際の入居者は,よほど特別なことがない限りそこから出ることはないのに対して,その人はいつでもそこから逃げ出せる立場にある.そのような人が,実際の入居者と同じ立場でホームでの生活を徹底して経験することは不可能である.<復> 結婚はせずに,試しに同棲してみようと考える人々は,本当の結婚の状態に身を置こうとしていない.二人の同棲関係を仮の状態と考え,都合が悪くなればいつでもその関係を解消しようとしているのである.二人が身を置いている立場は,問題が生じた時に,その問題を解決するか,さもなければ二人の生活状態を壊すしか道がないという切迫した立場ではない.自分を守るためにいつでも自由に立ち去ることのできる立場である.しかし,結婚関係は,実験的に試すことのできる関係ではない.受け入れるか拒絶するしかない,抜き差しならない関係である.<復> (4) 状況倫理からの挑戦.この挑戦も,キリスト者の交わりの中から来る.状況倫理の基礎は,神と隣人への愛が状況によって正しい場合と正しくない場合があるということである.なぜなら,一つの行為が行われる状況は,確かに,同じ行為であっても別の意味を与えるからである.しかし,状況倫理は,ある状況を開始したり継続させたりするに当って,その中心に個人の献身があることを見過している.状況倫理は律法主義に反対する.しかし,彼らは律法主義者と同じわなに落ちるのである.そのわなとは,行為または行動自体を注目の中心に据えて,心の問題を無視してしまうことである.つまり,行動を発動する約束,契約,献身などを無視するのである.<復> (5) 集団婚からの挑戦.性に関するキリスト教の前提に対する最後の挑戦とテストは,現在アメリカで提唱され実践されている集団婚で,コンミューンと呼ばれている.そこでは多数の男女が共同生活を送り,性の交わりも自由にし,生れた子供たちに対して共同の責任を負うのである.かつては,このような行動は精神病的逸脱行動と考えられていたが,あるマスコミがそれを,異常な性生活ではなく,正常な「新しい道徳」として紹介したことがある.<復> 集団婚には幾つかのタイプがある.集団婚を提唱する人々は,以下のような利点を挙げる.①より広い交わりの基盤があるため,孤独にならない,②子供は多くの人たちから親として面倒を見てもらえる,③より豊かな性生活ができる,④安定した経済基盤がある,⑤人間成長の機会が豊富にある,⑥より満足な生活ができる.<復> しかし,調査によれば,各種のコンミューンは急速に崩壊している.その原因は,①複雑な対人関係の葛藤を処理することができないこと,②共同体が経済的に支えられなくなること,③嫉妬,④安定した一対一の人間関係を維持することが極めて困難であること,⑤プライバシーが十分に保障されないこと,⑥人格的に未熟で無責任な人々と無秩序な生活を企てることである.<復> 人を男と女に創造された神は,「それゆえ,男はその父母を離れ,妻と結び合い,ふたりは一体となるのである」と言われた(創世2:24).二人の男女が一体となり,独自な永続的関係に結ばれる.それが,神によって定められた創造の秩序である.この秩序を無視する集団婚は,その存在根拠を必然的に失うのである.→キリスト教倫理,社会倫理,結婚,離婚,独身,人間論,神のかたち,からだの神学,対人関係.<復>〔参考文献〕佐藤敏夫/大木英夫編『キリスト教倫理辞典』日本基督教団出版局,1969;W・バークレー『十戒—現代倫理入門』新教出版社,1980;K・バルト『キリスト教倫理』Ⅱ,新教出版社,1970;Thielicke, Helmut, Theological Ethics, Vol.3, Eerdmans,1979.(谷口泰造)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社