《じっくり解説》聖書の霊感とは?

聖書の霊感とは?

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聖書の霊感…

1.霊感の定義.<復> 聖書の霊感は基本的には,「神が選ばれた聖書記者たちの上に及ぼされた神の御霊の超自然的な影響であり,その影響の結果として彼らの著作が神的な真実性を与えられることになった」と定義される.その概念の前提として,ことばをもって御自身を啓示される人格的な神,という聖書の教えがある.<復> 2.聖書の自己証言.<復> 「霊感」ということば自体は,聖書においてまれな用語である.実際新改訳聖書における使用はⅡテモテ3:16に限られている.しかしその概念は旧新約聖書の中に広くあかしされている.<復> (1) 旧約聖書の霊感.旧約の預言者たちは,自分たちは生ける神の代弁者であるという確信を持っていたので,「主は言われる」という前置きとともに語ることができた.モーセやアロンは,神が彼らの口にことばを置くという約束を受けた(出エジプト4:15).ダビデも「主の霊は,私を通して語り,そのことばは,私の舌の上にある」と述べている(Ⅱサムエル23:2).イザヤは自分を生れる前から召された主が,自分の「口を鋭い剣のようにし」たと語る(イザヤ49:2).彼やエレミヤ,エゼキエルの預言のことばは「主の御告げ」であると繰り返される.アモスも「主はこう仰せられる」と繰り返す.彼はまた,こうした預言者に対する神の働きかけを「神である主が語られる.だれが預言しないでいられよう」と表現している(アモス3:8).さらに注目すべきことは,預言書がたいてい「…にあった主のことば」といったことばや(ホセア1:1,ヨエル1:1,ミカ1:1,ゼパニヤ1:1),それに類する表現で始められていることである.これは,個々の預言のことばばかりでなく,その書に記された使信の全体が神のことばであるという確信を表明しているものと思われる.また預言者に対する霊感は,語る行為にとどまらず書かれたものにも及ぶ.エレミヤは「主の御告げ」を手紙にして書き送っている(エレミヤ29章).また主が彼に告げたことをみな巻物に書き記すように命じられたことも報告している(36:2).<復> 旧約聖書の霊感は,主イエスと新約聖書記者たちによってもあかしされている.イエスは創世2:24に記された結婚の聖定のことばを,神が語られたこととする.イエスにとって聖書のことばは神のことばである.しかもその聖書はイエス御自身について証言するものである(ヨハネ5:39).従って御自分の苦難や弟子たちの離散,ユダの裏切りなどは旧約聖書に書かれており,またそれゆえ必然的に起るとしている(マタイ26:31,54,マルコ14:21,27,49,ヨハネ13:18,17:12).またイエスは,旧約聖書の権威の普遍的妥当性について,「聖書は廃棄されるものではない」(ヨハネ10:35),また「天地が滅びうせない限り,律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません.全部が成就されます」(マタイ5:18)と語る.従ってサタンの誘惑に対抗するのに「…と書いてある」と旧約聖書を引用すれば十分であったし(マタイ4:1以下,ルカ4:1以下),同様に論争に決着をつけることもできた(ヨハネ10:36).また人々が聖書を読んでいても,その真意を理解していないことはイエスにとって驚きであった(マタイ19:4,5,21:16,22:29,マルコ12:10,11,ヨハネ5:39,40).イエスは旧約聖書の中に神のことばを見出したのではない.「モーセの律法と預言者と詩篇」すなわち「聖書」の全体を自らをあかしする預言とし,その成就を明らかにするのである(ルカ24:25‐49).律法としての性格を持たない詩篇82:6のことばであっても,その権威のゆえに「律法」として引用するのである(ヨハネ10:34).このようにイエスは,旧約聖書を統一あるものとしてとらえ,その内容によって神のことばとそうでない部分を区別したりせずに,全体を権威ある神のことばとして受け入れている.<復> こうしたイエスの聖書観は,新約聖書全体に浸透している.神は預言者たちを通して語っていると,しばしば語られる.マタイは初めの二章で「主が預言者を通して言われた事が成就するためであった」という導入の定式を用いている(1:22,2:15).「主が」という主語を欠いた形式,例えば「預言者エレミヤを通して言われた事が成就した」といった導入句も,その預言の究極の語り手が神であるという自覚を同様に示している.<復> しかし神のことばは預言のことばばかりではない.預言に限らず,旧約聖書に記されている事柄の語り手が新約において神とされている.例えば詩篇2:1が引用される際,「あなた(神)は,聖霊によって…ダビデの口を通して」言われたとされる(使徒4:25).同様に詩篇69:25や109:8のことばも「聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことば」である(使徒1:16‐20).さらに詩篇16:10にあるダビデの祈りが「(神が)言っておられます」ということばで引用されている(使徒13:35).このような現象が見られるのは「使徒の働き」ばかりではない.ヘブル3:7,8でも詩篇作者の呼びかけ(95:7,8)が「聖霊が言われる」こととされている.このように旧約聖書のことばは神のことばである.<復> また逆に,旧約聖書において神が語っていることを聖書が語ることとしている例もある.すなわち「聖書がパロに…言っています」とか(ローマ9:17),「聖書は…アブラハムに…告げた」(ガラテヤ3:8)とあるが,本来の文脈で実際に語りかけているのは神御自身である.こうして聖書と神が置き換え可能のものとして提示されていることは,前者が,そこにおける直接の話者が誰であれ,究極的に神のことばとして理解されているからである.さらにまた,旧約聖書の様々な箇所から連続して引用される際,神が語り手となっていることばとそうでないことばが区別されず,いずれも神に帰せられている現象(ローマ15:9‐12,ヘブル1:5‐13等)も,旧約聖書全体を語り手のいかんにかかわらず神のことばとする新約の教会の理解を裏付けている.<復> 新約聖書記者たちが旧約聖書を権威ある神のことばとして受け入れていたことを示す証言は,多種多様である.「聖書の示すとおりに」といった表現(Ⅰコリント15:3)は,聖書の権威を前提にしている.パウロは特に「…と書いてあるとおりです」といったことばで旧約を引用することにより,自分の議論の根拠付けをしている(ローマ1:17,3:4,10,4:16,11:26,14:11,Ⅰコリント1:19,2:9,3:19,15:45,ガラテヤ3:10,13,4:22,27).ペテロもまたその倫理的な勧めの裏付けを旧約聖書の権威に求めて,「…と書いてあるからです」と記している(Ⅰペテロ1:15,16).初代教会における福音の宣教は,あくまでも旧約聖書に基づくものであった(使徒17:2,18:28,26:22).それゆえまた,その福音を聖書によって吟味することが勧められている(使徒17:11).またキリスト者にとって最高の律法である愛の律法や復讐の禁止も,旧約聖書に基づいて教えられることである(ヤコブ2:8,ローマ12:19).旧約聖書の倫理的な教えがいかにキリスト者としてのパウロを律していたか,彼の議会における弁明のことばからもうかがわれる(使徒23:5).確かに新約聖書の教会は旧約聖書を再解釈し,律法の内のあるものは,メシヤの到来によってもはや字義通りの実行を要しないとした.しかし注目すべきことに,それだからと言って旧約聖書に神のことばとそうでないものとの区別を設けたりはしない.もはやそのままでは当てはまらなくなった教えは神から出ていなかったのだ,などと主張したりはしないのである.パウロが「ユダヤ人のすぐれたところ」の第一に,「神のいろいろなおことばをゆだねられてい」ることを挙げることができたのも(ローマ3:1,2),旧約聖書の全体を権威ある神のことばとする新約の教会の共通理解があったからであると言えよう.<復> 旧約聖書に対する新約聖書記者たちのこうした態度を端的に言い表した証言がⅡテモテ3:16とⅡペテロ1:20,21である.前者から明らかなことは,旧約聖書の全体が「神の霊感によるもの」([ギリシャ語]セオプニューストス),すなわち詩篇33:6に述べられているような神の創造的な息吹の所産だということである.ここには,神が聖書記者たちの上にどのように働いたかは語られていない.ただ旧約聖書という文書が神によって生み出されたものとされている.また後者は聖書の預言について,それが人間の意志から出たものではなく,「聖霊に動かされた人たちが,神からのことばを語った」のだとしている.ここで言われていることは,必ずしも聖書の中の預言的な部分ということだけではなく,預言的な性格を持つ聖書ととることもできる.以上のように,旧約聖書自身が,そして新約聖書が旧約聖書の霊感と神的起源をあかししている.<復> (2) 新約聖書の霊感.ユダヤ教の歴史において預言の霊は久しくとだえていた.しかし聖霊の働きによってマリヤの胎に宿られたイエスはバプテスマに際し,自らの上に聖霊が下るのを見,その聖霊に促されて荒野に赴き,試みを受けた.そして宣教の開始においてイザヤの預言の成就を宣言する.「わたしの上に主の御霊がおられる」(ルカ4:18).こうしてイエスの教えは自らのものではなく彼を遣わした天の父のものであると,繰り返し語られる(ヨハネ7:16‐17,8:26,28等).また彼は律法学者と違い,権威ある教えを語ることができ(マタイ7:29),弟子たちの派遣に際しても,話すことは父の御霊が明らかにして下さると約束することができた(同10:20).このようにイエスの働きを導いた御霊は,イエスの昇天後も働きを継続する.すなわちペンテコステの体験は御霊の注ぎの結果であり(使徒2:4,17,18),その後の教会の前進も一重に聖霊の働きによるものであった(4:31,13:2等).「神の霊感」という語は見出されなくても,イエスの働きも弟子たちによるその継承も神の御霊によるものであるとされている.<復> こうした背景を考慮する時,旧約聖書と並ぶ神の権威あることばが生み出されていったことは,不思議ではない.イエスは御自分のことばが旧約聖書に勝るとも劣らぬ権威を持つものであると主張するとともに(マタイ5:18,24:35),そのことばや出来事が忘れ去られることなく覚えられていくと約束された(ヨハネ17:8,14,マルコ14:9).しかも弟子たちがイエスについて正しい理解を得るのは,彼が去って後のことであるとする(マルコ9:9,ヨハネ8:28).弟子たちにとって,イエスの教えや出来事の重要性が旧約聖書のそれ以下のものであったとは考えられない.イエスの生涯は旧約聖書の成就であり(マタイ26:24,ルカ18:31‐33等),イエスは「律法や預言者」を成就するために来られた(マタイ5:17).また彼らが見聞きしていることは,旧約の預言者や義人でも許されなかったことだと,教えられていたのであるから.こうしてイエスに関する記録としての福音書が,権威ある伝承の担い手として立てられた使徒たちを通して生み出されたのである.ヨハネ14‐16章にあるイエスの約束通り,聖霊が派遣されて旧約聖書と同等の権威を持つ文書を編むように弟子たちを教えたとすれば,すなわちイエスのことばを思い起させ,「すべての真理に導き入れ」たとすれば,福音書の霊感は明らかなことである.<復> またこのイエスの約束は,パウロ書簡を初めとするその他の書物についても当てはまる.使徒たちは神によって任命された使者として,特別な権威をもって語ることができた.例えばパウロはテサロニケのキリスト者たちが自分のことばを神のことばとして受け入れたことを正当なこととしている(Ⅰテサロニケ2:13).実際彼は「主イエス・キリスト(の御名)によって命じ」ることができた(Ⅱテサロニケ3:6,12).また,「私たちのことば,または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい」と命じている(Ⅱテサロニケ2:15).従って権威は語られたことばばかりでなく,書かれた手紙自体にもある.同様にペテロも自分たちが聖霊によって語っているという確信を表明している(Ⅰペテロ1:12).「使徒と預言者」が教会の土台であるとされ(エペソ2:20,3:5),しかも使徒が預言者より重要な位置に置かれていること(Ⅰコリント12:28),また旧約の成就としてのキリストにある新しい契約にあずかる者としての意識を教会が持っていたことを考慮するなら,新約聖書記者たちが旧約聖書に帰した霊感を自分たちの文書にも拡張したことは,当然のことと思われる.こうしてペテロはパウロの手紙を「聖書」に加え,そして恐らくはパウロもルカの福音書を申命記と並べて聖書と呼ぶのである(Ⅱペテロ3:16,Ⅰテモテ5:18).そしてこのような成長しつつある集合体としての聖書観が,あるいは前述のⅡテモテ3:16の「聖書はすべて」([ギリシャ語]パーサ・グラフェー)という言回しにも反映しているのかもしれない.というのも,パウロは通常ひとまとまりの旧約聖書に言及する時には,冠詞のついた単数形(ヘー・グラフェー)を用い,個々の旧約文書を念頭に置いている時は複数形(グラファイないしハイグラファイ)を用いるのに対し,ここでは無冠詞でしかも「すべて」(パーサ)という形容詞が付せられていて,「何であれ聖書と呼ばれるものはすべて」と訳すことができるからである.<復> 3.教会史における霊感の理解.<復> 初代教会が旧約聖書と自らの証言である新約聖書の霊感をどう理解したかについては,すでに見た通りである.それは異教的な神託や恍惚状態での発言などと区別されていた.教父たちは聖書の霊感と権威を自明のこととしているように思われる.聖書の全体が神のことばであるだけでなく,その細かな言回しに至るまで霊感が考えられている.しかし,聖書の神的性格を強調するあまり,聖書記者たちを単なる道具と見なす傾向が見られる.例えばアテーナゴラースは,聖霊は預言者たちを笛吹きとして用いられたと言い,ヒッポリュトスは同様に琴を弾くように弾いたと説明している.またアウグスティーヌスは聖書の口述筆記に近い考えを示している.<復> 中世の教会も聖書の霊感を受け入れていたが,その権威は教会のその他の権威と並べられるものとされた.それに対し宗教改革者たちは,聖書を神の御心を知るための唯一のよりどころとした.聖書の霊感は彼らにとって自明のことであった.また聖書の神的性格とともにその人間的な側面も理解することにより,教父たちの内に見られた極端な傾向を正すことができたし,その使信の理解のために聖霊の働きが必要であるとして,中世の形而上学的キリスト教にも抗することができた.しかし宗教改革後再び人間的な側面が過小に評価されるようになり,また例えばヘブル語の母音記号まで霊感されているといった,極端な霊感論が提唱された.<復> それとは逆の,そして今日まで続く傾向が,18世紀に始まる合理主義的な霊感論である.進化論の影響と聖書批評学の隆盛により,自然科学と触れる事柄はもとより,歴史的な事柄に対する信頼が動揺し,聖書自体の超自然的神的性格が放棄されたり,過小に評価されることになった.霊感が歴史的な事柄から分離された教理的な事柄(信仰と生活の問題)に限定されたり,言語ではなく思想においてのみ霊感されているといった霊感の縮小化が生じた.またシュライアマハー以来,霊感をキリスト者の内的な経験と置き換え,自らの霊的な洞察によって聖書の内容を評価する主観的な霊感理解が,一定の影響力を持つようになった.<復> 4.霊感の解釈.<復> (1) 機械的霊感説.教父たちの間に見られた「笛吹き説」「琴弾き説」などは聖書の人間的な側面を過小に評価する.それをさらに押し進めた見方が,聖書記者が機械的に口述筆記のようにして記したとする機械的霊感説ないし口述筆記説である.確かに預言者の経験にはそれに似たものがあるかもしれないが,聖書全体をそのようなものと見ることはできない.また特に日本の社会には,神がかり状態になってことばを語るとか,文字を書くといった異教的な「霊感現象」があるゆえ,聖書の霊感をそのようなものと混同することのないよう警戒する必要があろう.<復> (2) 人間のインスピレーション説.逆に聖書の霊感を人間の「霊感」のレベルに引き下げて,詩人や芸術家のインスピレーションと同じように見なす立場がある.しかし聖書は明らかに人間的な思いや体験を超えた神の超自然的な働きかけをあかししている.それに芸術的な「霊感」という見地からは推奨されない部分も,神のことばとしてキリスト者に霊的な影響を与える事実も,この見解に不利である.<復> (3) 部分霊感説.近代の合理主義的な聖書批評学の影響により,聖書に誤りがあると考えられるようになったため,その「誤り」を聖霊に帰すことを避けて,「誤りのない部分」にのみ霊感を限定しようと試みられてきた.例えば歴史と科学にかかわる部分と信仰と生活にかかわる部分を分けて,霊感を後者に限る立場がある.また,ことばから切り離された思想にのみ霊感を認めようとする思想霊感説も,部分霊感説の一つである.しかし思想をことばから切り離すことはできないし,歴史と信仰も聖書において分離しがたい.確かに聖書の主題は救いであるが,聖書の中にまたイエスや使徒たちの教えの中に,中心的な部分とそうでない部分の霊感の質の違いを見るような見方はない.それに仮に聖書を二つの部分に分けることができたとしても,例えば「歴史的な部分」の霊感と信頼性をその超自然的な要素ゆえに放棄しながら,同様に超自然的な「救いに関する部分」の霊感と権威を擁護できるであろうか.<復> (4) 新正統主義の霊感論.聖書は神の啓示をあかしするものであって啓示自体ではない,という新正統主義の主張がある.神の救いのわざは歴史の出来事においてなされており,聖書はその啓示の出来事に対する人間の応答を表しているにすぎないから,聖書という書かれた書物自体の霊感は認めることができないとする.しかし歴史の事実だけではそれに神の救いのわざとしての意味があるとはわからない.出来事が啓示として意味を持つためには,解釈が必要である.それも単なる人間のあかし以上の,それ自体が啓示であるような解釈を必要とする.また啓示を「霊感」した神が,どうしてその啓示のあかしをも霊感して確実なものとしなかったのか,という疑問が生じる.さらにこの立場は,聖書がしばしば啓示のあかしではなく啓示そのものだという聖書の自己証言を見落している.<復> またこの霊感の解釈では,聖書という文書それ自体の霊感を認められないので,その点で聖書は他の文書と変らない.ただ霊感がそれを用いる時,それが啓示の手段となる.すなわち,聖書の読者に神が「霊感」を与えるとき,それが神のことばになる,というのである.こうした聖霊の照明の働きは確かに重要である.しかしながら,その働きと文書自体を霊感した神の働きは,互いに補い合うものであって,排除し合うものではない.霊感を聖霊の照明で置き換えてしまうこうした新正統主義の立場には,文書化されたものは人間の支配下におかれ,神の霊がことばのおおいの中に閉じ込められてしまうので,啓示はその本性上文書化を許さない,という確信がある.この確信は概念的な知識と実存的な知識を区別し,前者を過小評価する現代の反主知主義的傾向から来ている.しかしもし真理は命題の形で伝達できず,啓示を人格的な出会いに限定するなら,神認識を著しく主観的なものとし,啓示から客観性を取り去ることになる.その結果神学は一種の神秘主義となり,霊感された聖書の代りに霊感された経験を信頼することになる.また神は真理を命題の形で表すことがないと断定するなら,それこそ神の働きを人間の主観的な経験の領域に閉じ込めることにならないだろうか.<復> 聖書は確かに,人間が神の啓示を啓示として受け止めるために聖霊の働きが必要であることを明らかにしている(Ⅰコリント2:4,10‐16).聖霊の照明の働きを過小評価してはならない.またしばしば,神のことばはまず語られたことばである.神の御霊はダビデを通し,あるいは預言者たちを通して語られたのである.従って,聖霊の働きを聖書記者たちの文書作成の過程に見ることも妥当である.しかしそれだからといって,聖書の霊感をその作成の過程に限定するなら,それは聖書自体の証言に合致しない.なぜなら書かれたことば,文書それ自体が霊感された神のことばであるというのが,聖書の自己証言だからである.実際Ⅱテモテ3:16は聖書が記された過程については何も語らず,伝えられてきた文書の霊感を主張している.旧約聖書において,神御自身が自らの指で石の板にことばを書いたと言われているし(出エジプト31:18,32:16),主はモーセに御自身のことばを書き記すよう命じている(34:27).そこでモーセは自分の書いたことばを「主の命令とおきて」「みことば」と呼ぶことができた(申命30:11‐16).同様にエレミヤも自分の記す使信を主のことばと同一視することができた(エレミヤ29章).このように神のことばは,その伝達を永続的なものとするために書き留められる必要があった.聖書は語られたことばと書かれたことばの間に質的な違いを見てはいない.それには文書それ自体の霊感があかしされている.<復> (5) 言語十全霊感説.様々な形をとった部分霊感説の主張に対して,聖書全体が神の御霊の働きによって記されたものであるとする十全霊感説は,聖書自身の証言に合致する.すなわち上述のように,イエス・キリストも新約聖書記者たちも旧約聖書を一つのまとまりとして扱い,それが神のことばであるとしたし,その旧約聖書の成就としてのキリスト御自身をあかしする権威ある文書の成立を必然的なものとして予測しているのである.本体であるキリスト,律法の終りとなったキリストの到来によってすでに適用されない律法の諸規定であっても,それは捨てるべきであるとか,低いレベルの霊感によるものであるとか述べてはいないことに注目しなければならない.聖書の中心はキリストであり,聖書の目的は人をキリストに対する信仰による救いを受けさせることにあるが,そこから霊感の程度の違いがあるとか,霊感されている部分とそうでない部分を区別できると言うことはできない.やはり聖書はその全体が霊感された神のことばであると言える.<復> 言語霊感は英語のverbal inspirationの訳であるが,その内容は思想霊感や,書かれた文書の霊感を否定ないし軽視する霊感論に対するものである.すでに述べたように,神はことばや出来事を通して御自身を啓示されたが,しかもそれらを記録するように命じられた.そして記録されたもの自体が神の霊感によるものであると,聖書はあかししている.このような意味において言語霊感は理解されるべきである.しかしこうした見解に対する反対論においては,しばしばverbal inspirationが逐語霊感と訳され,口述筆記説や機械的な霊感論と同一視される傾向がある.あるいは例えばヘブル語の母音記号まで霊感されたと主張するような逐字霊感説と混同されることもある.そこでそのような誤解を避けるためにも,逐語霊感と区別された言語霊感が用語としてふさわしい.<復> 言語霊感説においては,聖書の「人間的な側面」が無視されない.すなわち聖霊は聖書記者たちの性格,関心,背景,個性,文体の特徴などを用いて聖書を生み出した,ということである.神は彼らに能動的に働きかけ,彼らをして文書を書かしめたのであるから,神こそが真の著者である.しかも書いた者たちも自ら進んで,自分の知性や経験やその他の諸能力を用いて記したのである.彼らは自由行為者でありながら,しかも神御自身も神として行為しておられた.彼らを選び,備え,ふさわしい時に,ふさわしい状況において,ふさわしい賜物,ふさわしい思想,ふさわしいことばをもって書くよう,彼らを完全に支配された.その結果すべてにおいて神の望まれるもの,誤りのない神のことばが生み出されたのである.こうした聖霊の同時協同的な(concursive)働きは創造のみわざとの類比において理解できる.聖書は創造は神のみわざであるとしているが,それはまた自然の因果関係においても記述できる.両者は相互に補足し合うものであって,一方が他方を排除することはない.それと同様に聖書の作成も,人間の作業として見ることができるが,しかもそのプロセス全体が聖霊の働きであるとすることができる.その結果,聖書はすべてが人間のことばでありながら,同時にすべてが神のことばであると見なされるのである.その二面性はまた,全き神でありながら同時に全き人でもあるキリストの神人二性とも比べることができよう.<復> 5.言語十全霊感と無誤性・無謬性.<復> 言語十全霊感という見解は聖書自身の証言に基づくものであるが,その用語自体は比較的新しい.18世紀から19世紀にかけて起った信仰復興において,福音主義者たちは啓蒙主義者たちの部分霊感に対抗して十全霊感ということばを用いた.言語霊感という用語がよく使われたのは19世紀に入ってからであり,その世紀の後半から20世紀にかけてモダニストとファンダメンタリストの論争が激化していく中で,多くの保守派がこの二つの表現を結び付けて聖書の霊感と権威を主張することになったのである.<復> また聖書の言語十全霊感の帰結として聖書の無誤性と無謬性も主張されてきた.無謬性(infallibility)も無誤性(inerrancy)も共に「誤りがない」ことを意味する.聖書を全面的に信頼する保守的福音主義的プロテスタントの多くは,従来聖書の無謬性をその信仰の表明の出発点としてきた.しかし近年になって,例えば啓示にかかわること,救いにかかわることについては誤りがないが,歴史や科学にかかわる事柄については誤りがあるという限定的無誤性の主張をしつつ,しかも無謬性を受け入れる者が出てきたために,改めて全的無誤性を表す用語として無誤性ということばを採用すべきであるという主張がなされるようになった.特に北米において1970年代から80年代に,「聖書に誤りがない」ということの意味を巡る論争が行われ,全的無誤性を支持する者たちは1977年に「聖書の無誤性に関する国際協議会」(ICBI)を設立し,翌年「聖書の無誤性に関するシカゴ声明」を発表した.そして続く10年間の活動によって,同協議会は聖書の解釈や適用について福音主義の立場を明らかにしようとしてきた.これに対して福音主義内部に不要な対立をもたらすことになると懸念する者もあった.またキリストへの信仰による救いを受けさせるという聖書本来の目的があいまいになるとか,歴史的に,また科学的に誤りがないと立証できると不適切な主張をすることになるとか,聖書の人間的な側面を過小評価して仮現論に陥ることになるといった反対論と,それらに対する反論も見出される.<復> 日本においては,特に聖書の権威を擁護し,聖書信仰を推進するため1960年日本プロテスタント聖書信仰同盟(JPC)が設立された.その規約には「聖書は十全霊感による誤りなき神の言であり,信仰と生活との唯一無謬の基準であると信ずる」とある.続いて1970年には「聖書の十全霊感を信じる福音主義キリスト教の立場に立つ」日本福音主義神学会が生れ,福音主義の霊感理解に立ちつつ,聖書の学問的な研究が進められてきた.しかし近年,そうした諸団体の掲げる聖書観の内容を巡って議論が生じてきている.そうした中で同神学会は,「聖書論と釈義」(1983年),「釈義から説教へ」(1985年),「福音と文化」(1987年)といったテーマの下に,神学研究会議を開催してきた.すなわち聖書の霊感や権威の問題から出発して,聖書の解釈,聖書の適用にまで議論を進め,聖書自体のあかしする聖書観の正しい理解を求めてきたのである.神学と信仰のあらゆる営みの出発点として,聖書の霊感を正しく理解する努力は今後も続けられなければならない.→啓示論,聖書の権威,聖書主義,神のことば.<復>〔参考文献〕B・B・ウォーフィールド『聖書の霊感と権威』日本カルヴィニスト協会,1959;舟喜順一「霊感の用語と概念」(「福音主義神学」15号所収)日本福音主義神学会,1984;M・C・テニイ/C・F・H・ヘンリー編,舟喜順一訳編『聖書論論集』聖書図書刊行会,1974;Marshall, I. H., Biblical Inspiration, Hodder & Stoughton, 1982.(内田和彦)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社