《じっくり解説》キリスト論とは?

キリスト論とは?

スポンサーリンク

キリスト論…

[英語]Christology.キリスト,特に,キリストの人格についての教理であり,キリスト教教義学の体系においては,通例,神論,人間論に次いで取り上げられ,救済論,教会論,終末論がその後に続く.キリスト論の中に救済論を含めるべきであるという主張も根強くあり,最近では,以前にまして強くなってきている.<復> キリスト論を仲保者に関する教理としてとらえ,恩恵の契約であるキリストから始め,キリストの性質,キリストの人格,謙卑と高挙の二状態,預言者,祭司,王という三職,さらに,キリストのわざとして贖罪論までをキリスト論として取り上げる場合も多い.<復> 今日,上からのキリスト論と,下からのキリスト論という表現が用いられていることから理解されるように,キリストの先在性,キリストの神性から展開されるキリスト論と,全く対照的に,キリストの人性,あるいは,歴史的イエスの問題から展開されるキリスト論との間で,鋭い議論が交されているが,下からのキリスト論は,キリストの神性を視野に入れないものが多く,聖書的,正統的キリスト論とは言えないものが見られる.<復> ペールマンによれば,上からのキリスト論の立場は,古代的伝統的キリスト論に加えて,カール・バルト,ブルトマン,ガルティニによって採られており,下からのキリスト論は,ティリヒ,パネンベルクによって採られている立場である,と言われるが,いずれも伝統的キリスト論とは異なるアプローチによっている.<復> 正統的キリスト教神学においては,ピリポ・カイザリヤで,イエスが弟子たちに尋ねられた,「あなたがたは,わたしをだれだと言いますか」という問に対するペテロの信仰告白,「あなたは,生ける神の御子キリストです」(マタイ16:16)が,中心となって構築されるものである.従ってニカイア総会議(325年)において一応の確立を見た三位一体論に見られる御父と御子との同質性,カルケドン総会議(451年)において明らかにされた,神人二性一人格の教理の中に,正統的キリスト論の中核を見なければならない.<復> 本項においては,キリストの人格に関して,キリストの御名,キリストの性質,キリストの様態の三点から取り上げ,キリストの事業に関しては,キリストの三職,キリストによる贖罪の二点から取り上げる.<復> 1.キリストの人格.<復> (1) キリストの御名.キリストの人格論においてキリストの御名を取り上げることに対する反対もあるが,キリストの御名が持つ意味を理解する時,その批判を認めることはできない.キリストの御名は,キリストの人格だけでなく,キリストの性質,キリストの働きを示すものとして,キリスト論の重要な導入部を構成するものと考えられねばならない.聖書の中で,キリストは,多くの名を与えられている.彼は,神の子,人の子,悲しみの人,栄光の主,メシヤ,仲保者,主,預言者,(大)祭司,王などの名で呼ばれている.その中で,特に,a.イエス,b.キリスト,c.人の子,d.神の子,e.主という五つの御名が重要なものとして考察される必要がある.<復> a.イエス.これは,ヘブル語のイェホシュア,あるいは,ヨシュアのギリシヤ語形である.救うというヘブル語に由来すると言われるこの語は,キリストを救い主として示している(マタイ1:21).元の形は,ホシュアであり,イェホシュア,「主は救い」の意味を持たせることで,救いの確かさを表現したものと考えられている.この御名は,彼が,われらの救いであるヤハウェの啓示であることを示す.<復> b.キリスト.イエスが個人的名称であるのに対して,キリストは職務の名称である.旧約聖書のヘブル語マシアハ(メシヤ)の訳語であって,油注がれた者を意味する.油注ぎは,職務に任命すること,神との聖なる関係の樹立とその結果として油注がれた者の神聖,また,その者への聖霊の交流を目に見える形で示す行為である.旧約聖書では,預言者(Ⅰ列王19:16),祭司(出エジプト29:7),王(Ⅰサムエル10:1)は,聖霊を象徴する油を注がれて,それぞれの職務に任じられている.キリストは,預言者,祭司,王という三つの職務に聖霊によって任命されているメシヤである.<復> c.人の子.旧約聖書,詩篇8:4,ダニエル7:13のほか,エゼキエル書でしばしば用いられるほか,外典にも見出される表現である.イエスは,御自分をこの名で40回以上呼んでおられる.この呼称が,旧約の中で,人間の意味で用いられていることもあって,イエスの人間性を示す表現として伝統的に理解されてきたが,今日では,キリストの神性と審判者であることを中心とする神的メシヤを示すものとして理解されるようになっている.<復> d.神の子.キリストは,次の三つの意味で,神の子と呼ばれるにふさわしいお方である.①三位一体の神の第2人格であり,神御自身でありたもう(マタイ11:27).②メシヤの別名として,彼の職務の上で,父から区別して子と呼ばれる(マタイ24:36).③聖霊の超自然的お働きによってこの世に生れ出た子という意味で神の子と呼ばれる(ルカ1:35).<復> e.主.ギリシヤ語訳旧約聖書では,アドナイの訳語として,ヤハウェと同義語として用いられている.新約において,単に敬愛の念を込めたあいさつのことばとして用いられているし,キリストの神的権威とは無関係に,所有権,権威を表すことばとしても用いられているが,実質的に,神の名と同様に,至高の霊的権威を表す名として用いられており(マルコ12:36,37),特に,復活後は,教会の所有者,支配者としてのキリストを指す名として用いられている(Ⅰコリント7:34).さらに,すべての被造物の上に及ぶ主権的支配を表す名として用いられる(ピリピ2:9‐11).<復> 以上五つの呼称から明らかなことは,それらの名が,すべて,イエス・キリストの神であること,救い主であることを示しており,その本性において神であり,その働きにおいても,特別なことをなしたもうお方として示していることがわかる.<復> (2) キリストの性質.キリストの教会は,その発端から,特に,451年のカルケドン総会議以降,キリストの神・人二性一人格の教理を受け入れてきた.しかし,18世紀以降,啓蒙主義の時代,あるいは,理性の時代と呼ばれる時代に,キリストの神性の告白は,大胆な挑戦の前に立たされ続けてきている.彼らにとって,キリストは,偉大な宗教家,宗教指導者にすぎない.例えば,シュライアマハーにとってキリストは,最高の神意識に到達した人物であり,ハルナックにとっては,神の価値を持つ人物であり,共通して言えることは,信仰の対象ではなく,信仰の模範者であるにすぎないということである.従って,「イエスについての福音」から区別された「イエスの福音」を求める.ギリシヤ思想,あるいは,ユダヤ主義に着色されたキリストではなく,思想と信仰の着色を取り除いた歴史のイエスを求めることになり,キリストの神性は完全に否定される.また,今日,異端ということのできる「ものみの塔」(エホバの証人)などによっても,キリストの神性は否定されている.従って,特に,キリストの神性に関する聖書の証言に聞かなければならない.以下,キリストが真の神であることを証言している聖書個所を列記する.<復> ① 旧約聖書.詩篇2:6‐12,45:6,7,110:1,イザヤ9:6,エレミヤ23:6,ダニエル7:18,ミカ5:2,ゼカリヤ13:7,マラキ3:1.<復> ② ヨハネ文書.ヨハネ1:1‐3,14,18,2:24,25,3:16‐18,35,36,4:14,15,5:16,20‐22,25‐27,11:41‐44,20:28,Ⅰヨハネ1:3,2:23,4:14,15,5:5,10‐13.<復> ③ パウロ書簡.ローマ1:7,9:5,Ⅰコリント1:1‐3,2:8,Ⅱコリント5:10,ガラテヤ2:20,4:4,ピリピ2:6,コロサイ2:9,Ⅰテモテ3:16.<復> ④ ヘブル人への手紙.1:1‐3,5,8,9,4:14,5:8.<復> ⑤ 共観福音書.マタイ3:17,9:6,11:1‐6,27,14:33,16:16,17,28:18,25:31,マルコ8:38.<復> 以上,キリストの神性に関する聖書証言の主要なものを列挙したが,キリストの人性についての聖書証言にも目を向けなければならない.教会の歴史において,グノーシス主義者のように,キリストの人性を否定した者もあったが,今日では,イエスの歴史性を問題にする者はあるが,イエスの歴史的存在を認める者で人性を否定する者はいない.私たちは,イエスの人性が,私たちと同じ,弱さを持った人間性であったことを認識する必要がある.イエスには私たちと同じ成長の過程があった(ルカ2:40,52).空腹を覚えられた(マタイ4:2),眠られた(同8:24),お疲れになった(ヨハネ4:6),涙を流された(同11:35),不安に,心を騒がせられた(同12:27).キリストは,私たちと同じ弱さを持ち,同様に人生の試練に遭われたから,私たちに同情することができた(ヘブル4:15).しかし,イエスの人性は,なお,私たちと一つの点で異なっていた.それは,罪のない人性であり,従って,罪を犯されることがなかったということである(ヘブル4:15).キリストの無罪性について,以下の聖句を挙げることができる.ルカ1:35,ヨハネ8:46,14:30,Ⅱコリント5:21,ヘブル4:15,9:14,Ⅰペテロ2:22,Ⅰヨハネ3:5.キリストの使信の第一声は,「罪を悔い改めよ」というものであった.しかし,キリストは生涯を通して自ら罪を悔い改めることをされなかった.御自身罪なきお方であったから罪の意識を全く持たれなかったのである.イエスの無罪性を認めなければ,福音書のイエスの教えも,行動も,なぞと矛盾に満ちたものとなる.<復> 以上の聖書証言から明らかなように,聖書のキリストは,真の神(Vere Deus)であり,同時に,真に人(Vere homo)でありたもうお方であった.キリストにとってそれは必要なことであった.キリストが私たちの身代りとなるためには,私たちと同じ人間性をおとりになることが必要であった.彼が,私たちの罪を代って負うためには,御自分は,罪なきお方でなければならなかった.彼が,御自分の犠牲に無限,永遠の価値と効力を持たせるためには,御自分が神でありたもうことによって初めて可能なことであったのである.<復> キリストは,私たちと同じ人間性をおとりになったが,私たちと同じような人間の人格を持っておられたのではない.彼の人格は変ることのない神の御子の人格である.受肉によって,キリストは,人間の人格に変ったのではないし,人間の人格をおとりになったのでもない.御子として永遠にお持ちになっておられる神性に加えて人性をおとりになったのであり,そのことによって,御子は,神・人となりたもうたのである.だから,神と人間の意識を持っておられるお方であり,神と人間の双方の意志をお持ちになっているお方である.これは,神のみがなしたもうことのできるみわざであり,私たちにとっては神秘としか言い表しようのないことである.聖書は,キリストの全き神性を証言する.同時に,全き人性を証言する.また,人格の統一を教えているのである.これが歴史的,正統的キリスト教会がすべて告白してきたキリスト論であり,二性一人格のキリストにほかならない.451年のカルケドン総会議において成立を見たこの教理は聖書的であるゆえに受け入れられなければならない教理である(成立に至る過程に見られた論争については,別項「キリスト論論争」を参照).<復> (3) キリストの様態(State).キリストの様態を謙卑(Humiliation)と高挙(Exaltation)の二つの様態に分けて考えることができる.低い状態と高い状態と表現されることもある.この教理が神学上の問題となったのは17世紀であって決して古いものではない.また,様態を,仲保者の人格の律法に対する関係と理解する改革派と,キリストの人性にかかわる事柄と理解するルター派の間に,理解の相違が存在する.<復> 本項では,仲保者の人格と律法との関係の問題として考察することにする.<復> 謙卑の様態とは,宇宙の主権的支配者として,キリストがお持ちになっておられた神の威厳を放棄され,人間の性質をとられて,しもべの様で来臨されたこと,また,至高の律法賦与者であられるキリストが,律法の要求とのろいのもとに服されたことのうちに見られる.ピリピ2:6‐8で,「キリストは,神の御姿であられる方なのに,神のあり方を捨てることができないとは考えないで,ご自分を無にして,仕える者の姿をとり,人間と同じようになられたのです.キリストは人としての性質をもって現われ,自分を卑しくし,死にまで従い,実に十字架の死にまでも従われたのです」と語られていること,また,ガラテヤ4:4で,「しかし定めの時が来たので,神はご自分の御子を遣わし,この方を,女から生まれた者,また律法の下にある者となさいました」と語られていることである.<復> この様態を,キリストの受肉と降誕,キリストの受難,キリストの死,キリストの埋葬,陰府(よみ)への降下までと考える.陰府への降下に関しては,ローマ・カトリック教会,ルター派教会,英国教会(聖公会)とそれぞれ解釈を異にするが,いたずらに思弁をもてあそぶことは,慎まなければならない.<復> 高挙の様態とは,キリストが,罪の罰を罪人に代って受け,罪人のために義と永遠のいのちを獲得され,契約の義務である律法から解放されて,栄光の冠を受けておられる状態であり,ピリピ2:9‐11で,「それゆえ,神は,キリストを高く上げて,すべての名にまさる名をお与えになりました.それは,イエスの御名によって,天にあるもの,地にあるもの,地の下にあるもののすべてが,ひざをかがめ,すべての口が『イエス・キリストは主である.』と告白して,父なる神がほめたたえられるためです」と語られていることである.改革派教会は,この様態は,復活に始まり,昇天,神の右に座すること,キリストの審判者としての再臨と考えるが,ローマ・カトリック教会とルター派教会は,高挙を,陰府への下降とともに始まったと考える.しかし,陰府への下降の内容の理解はそれぞれ異なる.<復> 2.キリストの事業.<復> (1) キリストの職務.キリストが,私たちの救いのために,預言者,祭司,王としての職務を果されるという理解は,すでに,教会教父エウセビオスに見られるが,彼は,聖書がキリストの働きについて述べている思想を見出したにすぎない.キリストの三職論の持つ重要な意味を強調したのは,改革者ジャン・カルヴァンであった.<復> 人間は,神によって創造された時,この被造世界に対して,預言者,祭司,王としての職務を果す者として用いられるために,神のかたちに従って創造され,知識と義と聖とを与えられたのである.人間は堕落によって,その職務を遂行する能力を喪失した.人間を本来の職務に回復するために,また,人間が人間としての本来の光栄と特権を回復するために,キリストは,預言者,祭司,王としての働きを全うされるのである.<復> キリスト教会の中には,三職の中,一つか二つの職務しか認めない教会もある.例えば,合理主義,自由主義神学の立場に立つものは,預言者職のみを認める.神秘主義者は,祭司職のみを認める.千年王国論者は,王職のみに関心を向ける.私たちは,キリストが私たちの救いのために,この世界の回復のために,この三つの職務を果されることに注意を向けなければならない.そして,キリストにあって,この世に対して,預言者として語り,祭司としてとりなし,王として支配する使命を与えられていることを学び取ることが必要である.<復> a.預言者の職務.すでに旧約聖書に,大預言者としてキリストの出現が預言されている.「あなたの神,主は,あなたのうちから,あなたの同胞の中から,私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる.彼に聞き従わなければならない」(申命18:15).イエス御自身,自らを預言者と語っておられる(ルカ13:33).預言者にふさわしく,権威ある者として語られた(マタイ7:29).人々が,イエスを預言者と認めたことは当然のことであった(同21:11,46).預言者は,口に神のことばを授けられるものである(申命18:18).キリストは,その地上生涯を通して,預言者として語られただけでなく,天に上げられたもうた後も,使徒たちの宣教と,聖霊の働きを通して預言者としての働きを続けられた(ヨハネ14:26,16:12‐14,使徒1:8).現在も,みことばの宣教とともに働く聖霊をもってその職務を続けておられる.それゆえ,イエスに遣わされる証人たちについて「あなたがたに耳を傾ける者は,わたしに耳を傾ける者である」(ルカ10:16)と言われる.<復> b. 祭司の職務.旧約聖書は,来るべき救い主が,祭司であることを預言し,「主は誓い,そしてみこころを変えない.『あなたは,メルキゼデクの例にならい,とこしえに祭司である.』」(詩篇110:4)と語っている.新約聖書では,ヘブル人への手紙の中で,キリストの祭司職が詳細に論じられている(3:1,4:14,5:5,6:20,7:26,8:1).預言者が,神の代務者として民に向かって立つ職務であるのに対して,祭司は,民を代表するものとして,民のために神に向かって立つ.祭司は,人間を代表するために,人間の中から選ばれ,神によって任命され,民の罪のためにいけにえをささげ,人々のためにとりなしをする者である(ヘブル5:1‐4).祭司としてキリストは,御自身をいけにえとしてささげられた(同5:5‐10).さらに祭司としてとりなして下さる(同9:23,24).「キリストは永遠に存在されるのであって,変わることのない祭司の務めを持っておられます.したがって,ご自分によって神に近づく人々を,完全に救うことがおできになります.キリストはいつも生きていて,彼らのために,とりなしをしておられるからです」(ヘブル7:24,25).御自分がいけにえであり,同時に,いけにえをささげる祭司であり,とりなしを続ける祭司であるということは,私たちの救いが全くキリストの側の働きによって備えられるものであることを示している.救いは全く神の恩恵によるのである.<復> c.王の職務.キリストの王としての職務,彼の王権についても,旧約聖書の中で多く語られている(詩篇2:6,132:11,イザヤ9:6,7,ミカ5:2,ゼカリヤ6:13).<復> キリスト御自身,ピラトの「それでは,あなたは王なのですか」との問に対して,「わたしが王であることは,あなたが言うとおりです」と答えられた(ヨハネ18:37).キリストは,昇天の前に,弟子たちに,「わたしには天においても,地においても,いっさいの権威が与えられています」と語られた(マタイ28:18).キリストの御支配は,神の民のすべてに,神の国のすべてに及ぶ.それは,霊的な支配として,私たちの心の中に及ぶものである(ルカ17:21).それは,イエスの再臨において完成するものであり,終末的希望をもって待ち望むべきものである(ルカ22:29,Ⅰコリント15:50,Ⅱペテロ1:11).キリストの王権は,信徒,教会に限られるものではなく,世界に,そして,宇宙に及ぶものである.教会は,今の世にあって,試練の中に置かれる.しかし,なお,キリストは,勝利の王として,御自分の民を守られる(Ⅰコリント15:24‐28).キリストは,弟子たちに,「あなたがたは,世にあっては患難があります.しかし,勇敢でありなさい.わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33)と言われた.<復> (2) キリストによる贖罪.贖罪は,神が,祭司としてのキリストによって,私たちの罪からの贖いのためになしたもう事業である.私たちの救いの客観的側面であり,根拠であると言うことができる.私たちの救いは,神が,私たちのために,キリストにおいてなしたもうた働きに全く依存している.<復> ここでは,贖罪の動機,贖罪の必要性,贖罪の性質,贖罪の範囲を取上げる.<復> a.贖罪の動機.イザヤ53:10のみことばは,贖罪の動機をよく表現している.「しかし,彼を砕いて,痛めることは主のみこころであった.もし彼が,自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら,彼は末長く,子孫を見ることができ,主のみこころは彼によって成し遂げられる」.同じ思想は,より濃縮された表現で,エペソ1:5‐7で述べられている.「神は,ただみこころのままに,私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと,愛をもってあらかじめ定めておられたのです.それは,神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が,ほめたたえられるためです.私たちは,この御子のうちにあって,御子の血による贖い,すなわち罪の赦しを受けているのです.これは神の豊かな恵みによることです」.贖罪の動機は,全く神の一方的好意によるものである.それは,また,神の愛と,神の義に動機付けられたものであると語られる(ヨハネ3:16,ローマ3:24,25).<復> b.贖罪の必要.贖罪の必要を否定する者は,いつの時代にも教会の中に存在した.教会教父のエイレーナイオス(イレナエウス)は,贖罪の絶対的必要を強調した.中世には,アンセルムスが,その必要性を強調して,『神はなぜ人となりたもうたか?』を書いた.罪は神に対して犯された行為であり,神の正義,神の聖は,罪の償罪なしに赦しを差し出すことはできない.神の聖なる律法の不変性は,罪を犯した罪人の償いを求める.神は真実なるお方でありたもう.「神は人間ではなく,偽りを言うことがない.人の子ではなく,悔いることがない.神は言われたことを,なさらないだろうか.約束されたことを成し遂げられないだろうか」(民数23:19).神の真実は,神が罪に対して宣告されたさばきの遂行を求められるのである.「見よ.すべてのいのちはわたしのもの.父のいのちも,子のいのちもわたしのもの.罪を犯した者は,その者が死ぬ」(エゼキエル18:4).「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23).この罪の価は,まず神に対して支払われ,神の義が満たされ,神の怒りが和らげられなければならないのである.<復> c.贖罪の性質.贖罪の必要性から示されたように,贖罪は何より神に対するものとして,神中心に考えられなければならない.また,神がキリストにおいてなしたもう行為であるから,それは一つの客観的,歴史的な出来事なのである.「神は,罪を知らない方を…罪とされた」(Ⅱコリント5:21).贖罪が,神に対する和解を成り立たせるものであるから,私たち罪人に対する神の和解が成立するのである.贖罪の性格は,何より神中心であり,客観的なものなのである.<復> 神のキリストによる贖罪事業の性格を特徴付ける最もユニークなものは,それが代替的であるという点である.「神は,罪を知らない方を,私たちの代わりに罪とされた」(Ⅱコリント5:21)のである.キリストは,客観的にも,主観的にも,罪を知ることのないお方として,御自分の罪のためにいけにえをささげ,償いをする必要は全くなかった.自ら罪の代償をなし得ない私たちの代りに,御自身をささげられたのである.罪の贖いは,このような無罪者の代替死という方式によって実現されるものなのである.キリストの贖罪の独自性はここにある.キリストが,人間性をおとりになってこの世に来られたという受肉だけでは贖罪は成り立たない.キリストが,神でしかないなら,私たち人間の身代りとなることはおできにならない.キリストの人性が有罪性であれば,やはり,代替性は成り立たない.キリストが,神・人であり,罪なき人間性をお持ちになっておられる方であるからこそ,代替性による贖罪は成立したのである.キリストの贖罪の代替性について以下の聖句を参照されたい.イザヤ53:6,マルコ10:45,ヨハネ1:29,ローマ8:3,Ⅱコリント5:21,ガラテヤ1:4,3:13,ヘブル9:28,Ⅰペテロ2:24,3:18,Ⅰヨハネ2:2.<復> さらに,キリストの贖罪を特徴付ける性格を加えなければならない.それは,キリストの贖罪の完全性である.キリストは,律法違反者としての罪人の受けなければならない罪ののろいと罰のすべてを,私たちに代って担われ,のろいの木,十字架につけられて死なれた.それによって,私たちは罪の刑罰から解放される.キリストは,さらに,律法の要求を完全に満たされることによっていのちと義とを得られた.キリストの律法に対する服従の消極面と積極面が共に理解される時,初めて,キリストの贖罪がいかに全きものであるかを知るに至るのである(ローマ8:4,10:4,Ⅱコリント5:21,ガラテヤ4:4‐7).キリストは,律法の要求を完全に満たすことによって,贖罪を完全なものとされたのである.<復> d.贖罪の範囲.贖罪の範囲,すなわち,誰のために神はキリストにおいて贖罪事業を全うされたかという点について,それは,すべての人のためであるという普遍主義的理解と,神が選ばれた御自身の民のみのためであるという限定主義的理解がある.確かに,キリストがすべての者のために死なれたという聖句が見られる.代表的なものとして,Ⅰテモテ2:6,テトス2:11,ヘブル2:9を挙げることができよう.しかし,キリストが,御自分の羊のために,教会のために,そして選民のために死なれたことも繰り返し語られている(マタイ1:21,ヨハネ10:11,15,使徒20:28,エペソ5:25‐27,ローマ8:32‐35).聖書の統一性を信じる立場から言えば,「すべての者のために」という表現を限定的に解釈するのが妥当であろう.その場合,世のすべての国,民族のために,あるいは,国民のあらゆる階層の者という意味で「すべて」と言われていると解される.キリストの贖罪の効果は,すべての人を贖って余りあるものであるが,その目的,その範囲について言えば,御自身の民のためであったと考えるほうが,主権的であり,真実であられる神の贖罪事業にふさわしい理解であろう.→キリスト論論争,三位一体・三位一体論争.<復>〔参考文献〕岡田稔『改革派神学概論』聖恵授産所出版部,1985;H・G・ペールマン『現代教義学総説』新教出版社,1982;ジェイコブズ『キリスト教教義学』聖文舎,1970;J・マーレー『キリスト教救済の論理』小峯書店,1972.(橋本龍三)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社