《じっくり解説》義認とは?

義認とは?

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義認…

義認は,使徒パウロの「人は律法の行ないによっては義と認められず,ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」(ガラテヤ2:16)という救済理解を端的に表現したことばである.教理的には,人の救いは「キリストのみ(恵みのみ)・信仰のみ」による,と言い表される.このような救済の使信としての義認は,福音信仰のかなめであり福音主義教会の根本条項である.また教会が,この福音によって成り立ち,その存続がこの福音を宣べ伝えることと不可分であり,またこの福音が神の国のあけぼのを「今・ここで」告知しているゆえに,この福音が純粋に保たれるか否かによって,教会が立ちもし倒れもすると言われる.<復> さて義認は,宗教改革において初めて現れた新しい教理ではない.確かに16世紀の宗教改革の時,極めて論争的な形で提示されたが,それは聖書的な救済の使信の実質であったことに変りはない.義認は旧新約を貫いている救済についての理解であり,使徒パウロにおいて極めて鮮明に宣教された.<復> 義認というのは「義と認められる」という意味であるが,その最も端的な根拠であるギリシヤ語は,dikaioo~の受動態dikaiousthaiである.その本来の意味は「義と認められる」よりも,「義とされる」であろう.その事情はラテン語のjustificare, justificariの場合も同様である.従って,それぞれの名詞形である[ギリシャ語]dikaiosune~,[ラテン語]justifiticatioを,義認と訳すのは言語上の意味合いを超えて,ある特定の理解を前提とするものであることがわかる.つまり,justificare, justificariは,「義と認める,認められる」という場合のように「認める」側の決断が中心になっているのに対し,「義とする,義とされる」という場合は「義とされる」側の状態の変化が主要な関心となっていることを暗示するからである.この理解のどちらを福音の真理ととるかによって,訳語も違ってくる.実際,カトリック教会の対抗宗教改革の教理的所産である「トリエント信条」は,実質的に「義とする,義とされる」の意味で用い,「成義」あるいは「義化」と訳される.しかし福音主義教会において「義認」という用語が当てられているのは,聖書の「義とする,義とされる」の的確な意味をとらえたものであると言えよう.なぜなら以下に見るように旧新約を通じて罪人が「義とされる」と言われる時,罪人がその罪から脱して実質的に義の状態にもたらされることを第一の側面としているのではなく,「義と宣言される」という神のあわれみの判断が最後決定的な要素となっているからである.人間の「義・不義」が決定されるのは,神御自身にも第三者的・客観的な基準がありそれに沿ってなされるのではなく,神が自らの至高の権威に従って「義」と宣言される時に成り立ち,与えられる「義」である.それゆえにこそ「罪人が義とされる」あるいは「義人にして同時に罪人」ということも可能になるのである.神の「義」は,基本的に宣言され・与えられる義という性格を持つものであり,律法の遵守の見返りとして獲得される「自分の義」ではないのである.<復> 旧約において「義」([ヘブル語]s∵ed_a~qa~h)は神と人間の関係を表すことばである.神は御自身と人間とのあるべき関係を定められたが,その関係において神の人間に対する態度,逆に人間の神に対する態度が「義」であるかどうかが論じられる.「神の義」とは,従って神がその関係にふさわしく振舞われる時現れるのであり,「人間の義」が認められるのはこの関係に人間がふさわしくある時である.ところでこの神と人間の関係は,神の一方的な愛に由来するものであり,この関係においては神がその愛に固着したもうことが「神の義」であり,その愛に応じて救いのみわざを行使したもうことが「神の義の現れ」となるのである.「あなたの義によって,私を助け出してください」(詩篇31:1,71:2)は,「義」の原義にさかのぼってその真意を知ることができる.旧約においては,「神の義」はすぐれて神の「救いのみわざ・介入」にかかわっている.「あなたの義にしたがって,私を弁護してください.わが神,主よ.彼ら(敵対者)を私のことで喜ばせないでください」(詩篇35:24)において祈られているのは断罪なり無罪宣言なりを言っているのではなく,「あなたの変らぬ約束に従って救って下さい」との祈りを意味している.それゆえにこそ,「神の義」は賛美の対象とされるのである(詩篇145:7).他方人間はどのように義とされるのであろうか.「彼(アブラハム)は主を信じた.主はそれを彼の義と認められた」(創世15:6)には,人間の「義」はどのような性格のものであるかが古典的に語られている.彼は,子孫を天の星のようにするという神の愛と好意に満ちた約束を信じ,頼ったそのことによって「義と認められている」のである.彼は,義であったから祝福を受けたのではなく,祝福を信じて受け入れたから義と認められたのである.ここに義と認められることの旧約的な原型を見ることができる.人間の義はその意味で神の恵みの御心に対応している概念であって,非人格的な律法規準に沿って判断されるものではない.むろん旧約において客観的な律法の行為基準による奨励・断罪があるが,先に述べた人格的な関係が第1次的でありいわゆる倫理的な次元はそれより派生する第2次的な側面であって,後者が断罪されるのは神の恵みの関係をその不法行為によって否認しているからなのである.「わたしの民は二つの悪を行なった.湧き水の泉であるわたしを捨てて,多くの水ためを…自分たちのために掘ったのだ」(エレミヤ2:13)と神は責めておられるが,この根源的な悪が個々に具体化したのが行為罪と言うべき事態である.<復> 新約においては,このような人格関係的・救済論的な義の理解がより鮮明に描かれている.義とは,人間が宗教的・道徳的にある水準に達した評価として与えられるものではなく,いわゆる「義なき者」であってもその状態の中で救済のみわざについての知らせを聞き,心を翻してそれを信じ神を頼む時に与えられる神の賜物なのである.「もし,私たちが自分の罪を言い表わすなら,神は真実で正しい方([ギリシャ語]dikaios)ですから,その罪を赦し,すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:9)は,端的にこの義認理解を反映している.神が義であられるからさばかれるのではなく,まさに義であられるゆえに,救いのみわざを信じて罪の告白をする者を,赦し・不義からきよめ,義とされるのである.福音書においてそのことが典型的に語られているのは「神殿におけるパリサイ人・取税人の祈り」である(ルカ18:9‐14).目を天に向けようともせず胸を打って神にあわれみを請うた取税人が「義と認められて家に帰った」のである.主イエスは,またその行動を通し明確に「罪人の義認」を公に提示された.「罪人たちを受け入れて,食事までいっしょにする」(ルカ15:2)主イエスのお姿はパリサイ人のつまずきであった.また類似の関連で「わたしは正しい人を招くためではなく,罪人を招くために来たのです」(マタイ9:13)と言われているが,義認の具体的な現れと言えよう.神に義とされるということは,神に救われ受け入れられるということであり,事柄としては罪の赦しと重なる.「わたしもあなたを罪に定めない.行きなさい.今からは決して罪を犯してはなりません」(ヨハネ8:11)と主イエスは姦淫の場で捕えられた女に語られたが,神の義に基づいての赦しであった.<復> パウロにおいて信仰による義認は,それを否定し義とされるためには律法の行為が必要との立場が出現した時,戦闘的な論調を帯びたが,彼にとっても義認は福音の核であった.「ただ,神の恵みにより,キリスト・イエスによる贖いのゆえに,価なしに義と認められる」(ローマ3:24)と彼は確言している.「人が義と認められるのは,律法の行ないによるのではなく,信仰による」(ローマ3:28).注目に価するのは,「それは,今の時にご自身の義を現わすためであり,こうして神ご自身が義であり,また,イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです」(ローマ3:26)のことばである.主イエスが十字架上で「わが神,わが神.どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)との絶叫をもって死なれたが,それは人間の重罪の処罰であり,「血を注ぎ出すことがなければ,罪の赦しはないのです」(ヘブル9:22)という意味での「義」の成就である.しかしその背後に,さらに本来的な義の成就の理解がある.つまり神が御子を与えることによって上に見たような旧約的意味における「神の義」を現され,「自ら義となり,罪人を義と認める」ということを成就されたということである.「神の義」はさばく義としてではなく,救いとして人間が信仰をもって受け取るべき義として提示されているのである.義認とは,罪人に対する神の徹底的な恩恵を言おうとすることばである.<復> 「義と認められる」ことは,旧新約においては神と人間(罪人)との人格関係において理解されている.罪人が,その罪を悔いつつ,救おうとされる神を信じる時,その信仰ゆえに義とされるのである.罪人が罪人でなくなって義とされるのではなく,罪人でありつつ義とされるのである.「信じます.不信仰な私をお助けください」(マルコ9:24)ということばに見られる通り,義として下さる神を信じることによって与えられる義なのである.ここには,私の宗教的修業・道徳的行為の入る余地は全くない.徹底した「恵みのみ」である.<復> 使徒教父(ローマのクレーメンス,アンテオケのイグナティオスなど)から教会教父(エイレーナイオス,テルトゥリアーヌスなど)の時代になると,聖書の徹底した恩恵理解は律法主義・道徳主義というように平板化していく.福音は「新しい律法」([ラテン語]nova lex)として理解されるようになる.つまり神に義と認められるのは信仰のみによるのではなく,信仰によって可能にされた律法の遵守にもその根拠が求められるようになる.「キリストは律法の完成者であり,律法をとおして義とされるのであるが,しかしその律法は,義とされたものが喜んで守っていたものである」(エイレーナイオス)というような理解が一般的であったと言えよう.<復> 義認に関して古代教会は信仰と律法の行為の関係を未整理・並置したままであったが,5世紀初めに起ったアウグスティーヌスとペラギウスとの間の論争において問題化したと言えよう.ペラギウスは合理的な道徳主義者であって,人間の自由意志を原則的に主張しその努力によって天への道を開くことができるとした.原罪は否定され,キリストは道徳の教師であると理解された.この説はアウグスティーヌスの原罪の理解,救いにおける意志の奴隷状態に対する反論であった.アウグスティーヌスは,その新プラトン主義の影響にもかかわらず,パウロの救済における恩恵の排他性を自己の実存経験から深く体得し,回心から聖化を経て救いの完成に至るまで,その全過程において恩恵が先行し,恩恵がすべてを完成すると主張した.しかし中世へと受け継がれていく義認の教理の伝統の中で問題となったのは,彼は一方で「信仰によって義とされる」([ラテン語]justificari fide)を強調しながらも,他方「愛による義」(justificatio ex caritate)を主眼としていることである.彼においては,恩恵とは「不義なる者を(実質的に)義とする」超自然的な力の賦与と考えられている.いわゆる「注入された恩恵」([ラテン語]gratia infusa)である.このことは,罪人がこの恩恵の導きに従い「功績」を積むことが可能にされ,その功績の報酬として救われた者となるということを意味する.確かに彼は,神がその功績を報われるとしても,それは実質的に御自身の恩恵を報われるのであって人間本来の功績に対してではないとするが,なおその理解の根底にあるのは功績に対する応報の考えである.救済論において功績の範疇が基本的となっている.<復> 中世の教会はペラギウス派の楽観的道徳主義を退けたが,他方アウグスティーヌスの「恩恵のみ」もそのまま踏襲しなかった.総じて,その中間である半ペラギウス主義の立場に立ったと言えるであろう.恩恵の必要性と自由意志の肯定の総合である.そこから救済における神人協力説が生れてくる.細目における相違はあるとはいえ,中世初期からロンバルドゥス,トマス・アクィナス,ボナヴェントゥーラのスコラ神学に至るまで,恩恵を(礼典を通して)注入される聖化への力と理解し,それに人間が「協力」し功績を挙げることによって救いにふさわしい者となり,救われるという基本的な考えの枠は変らないと言えよう.しかしスコラ神学後期、スコートゥスに始まりオッカムへと展開する中で,その基本理解を保持したままでなお新しい義認の観点が生れてきた.それはアクィナスらの神は「第一原因・純粋行為・存在自体」であるというような主知的・静的な神観にかわって,「神は絶対的な意志」であるという主意的・動的な神観が前面に出てきたことである.そこで主張されたのは,神が恩恵の助力によって人間が得た功績に報われるのは,神が応報の原理に拘束されてのことではなく,神がそのような手続きで「受容」([ラテン語]acceptatio)すると決意されたことによるということであった.人間が神に受け入れられるのは,最終的には何によっても拘束されることのない神の絶対的意志によるということが主張されたのである.この観点は,ある意味で主知的・静的な神観が優勢であったスコラ神学における聖書的な神観の回復であると言えよう.<復> いずれにせよ中世的な救済は「信頼」という意味での信仰によるのではなく,恩恵に協力しあるいは「受容」を前提に人間の聖化努力によるとされた.神の恩恵と人間の責任の微妙な総合であったと言えよう.ルターが福音の真理を発見するまで,なぜ苦しんだかは,以上の中世的背景なしには理解できない.彼の問題は,神に義とされるためにすべてにまさって神を神のために愛することが求められたが,いかなる修道,苦行,秘跡への参与によってもそのような状態に達し得ない自分であった.神を求める時でさえ自己を求めるという「自己追求」は,まさに神を否認する端的な罪であり,「自らの力の範囲の最善を尽す」([ラテン語]facere quod in se est)ことによってもとうてい「恵み深い神をかち得る」ことはできなかった.それは義と認められる根拠が,キリストの義,私の「外なる義」ではなく,どれほど大きな恩恵の助けであろうとも,結局は「注入された恩恵」によって達成された私の「内なる義」,内なる聖であると信じられていたからである.しかし厳密に考える時誰が自らの内に義を確信することができようか.この内なる義の要求を、額面通りに受け止めたからこそルターは苦悩の底に沈んだのである.ルターはその最晩年,1545年にラテン語著作集の序言を自ら書いているが,そこにおいて,「神の義」の真意を発見し,喜びに圧倒されたことを回想している.「福音のうちには神の義が啓示されていて…『義人は信仰によって生きる』」(ローマ1:17)を昼夜分たず思い巡らしていた若きルターは,「神の義」はそれによって神御自身が律法的に「義」であり,その義をもってそれにもとる罪人をさばかれるということを意味するのではなく,それとは全く異なり「与えたもう義」,それによって信じる者のその罪を赦し,その罪人に義を宣言される「義」であることを見出したのである(いわゆる「法廷的義」).「神の義」は罪人が自ら獲得する「能動的義」ではなく,徹頭徹尾与えられる「受動的義」であるとの理解に達したのである.「恩恵」とはルターにとって「罪の赦し」による「義の贈与」,「義の転嫁」([ラテン語]imputatio)であって,それは神のあわれみと愛による罪人の受容を意味する.「恩恵」はもはや罪人が協力すべき聖化への力ではなく,協力に先立って与えられている神の「好意」([ラテン語]favor)なのである.ルターはこの「神の義」の真意を発見した時,「新しく生れ変り開かれた門を通って天国に入った!」ことを経験している.また,ルターはこの「神の義」の贈与的性格の発見と同時に,神の力,神の知恵,神の聖,神の栄光などの「属性」も,それらは神が御自身にとどめおかれるものではなく,恵みにより信じる者に分与されるものであるとの認識に達したのである.義認とは文字通り神のあわれみにより「義と認められる」ことであり,罪人が「(実質的に)義となる」ということが第1次的な関心ではないのである.<復> ルターによって再発見された福音としての義認の理解は,アウグスブルク信仰告白第4条に古典的に表現されている,つまり「人は自らの力,功績,また行いによって神の前に義とされることはありえない.むしろ,恵みの中に受けいれられたこと,またその死をもってわれわれの罪をあがなってくださったキリストのゆえに罪がゆるされることを信じるとき,信仰をとおし,キリストのゆえに,無償で義とされるのである.この信仰を神はみ前に義と認めてくださるのである」と.「神の前に」([ラテン語]coram Deo)「キリストゆえに」(propter Christum)「恵みの中に受けいれられ」(in gratiam recipi)「罪がゆるされた」(peccata remitti)と信じる「信仰によって」(per fidem)「義とされる(受身.神によって!)」(justificari)と,義認の内容が明確に言い表されている.罪人である私たち人間が,神の前に「良し」とされてなお恵みと祝福の中に生きることが許されるのは,私たちの「外にある義」,私たちのではない「異なる義」つまり「キリストゆえ」であり,それを「信仰のみ」によっていただくのだ,と告白されているのである.この場合の「信仰」は,どのような意味においても義認の根拠となるような行為ではない.このことに留意しなければならない.それはあくまでも恵みの提示に対する受動的な応答であり「信頼」([ラテン語]fiducia)であり,また恵みの告知(「みことばと礼典」)により聖霊の働きを通して与えられる賜物である(参照エペソ2:8).<復> カルヴァンも,義認は「法廷的義」の宣言であり,全くキリストのゆえにただ信仰により,罪が赦され神の子とされると理解している.その意味で本質的にルターと変らない.ただカルヴァンの場合,義認そのものから義認の結果に,つまり聖化に重点が移っているというところにルター的理解との重要な相違点がある.ルター的理解においては,義認は「神に受け入れられる」ということであり,その中に救済の究極を見る.そこにこそ,あふれるいのちと限りない幸いと喜びがあると理解されるからである.聖化は義認の副次的な現れとなり,義認の中において成長していくものとされる.従ってルター的理解においては聖化は義認に従属するものとして考えられるのに対し,カルヴァン的理解においては聖化を義認の目的として見る.そこから,信仰者の生の形成に第1次的な関心を置いていると言えよう.それは「神の栄光」に仕えるために召されているという改革派の基本的な信仰者の存在の理解に根差すものであろう.また,義認の理解の相違は,ルター派が「神の恩恵」を第1次的な関心とするのに対し,改革派は「神の栄光」を主たる関心とするという相違を反映していると言えよう.<復> ところで義認理解において最も頻繁に論じられるのは,聖化との関係であろう.福音主義信仰は,終末を前にしての信仰者の現実を「義人にして同時に罪人」([ラテン語]simul justus et peccator)と認識する.「望みにおいて義人・現実において罪人」(justus in spe, peccator in re)も同様の認識を表現する.問題は,義認は「義と認める」だけで「義とする」,つまり聖化を伴わず聖化とは別個のものであるかどうかということである.今聖化を「神の恵みへの固き信頼・隣人への無私の愛に生きること」と理解する時,義認は聖化における成長を伴うもので聖化なしではあり得ない.「神の言葉がまず第一であり,そこから信仰が生じる.そして信仰から愛が生じ,愛はすべての善きわざを全うさせる.愛は律法の成就だからである」とルターは言っている.「信仰のみ,だが信仰は『のみ』ではありえない」と言われるように,信仰は必ず聖化を伴う.その背景には「主が仰せられると,そのようになる」(詩篇33:9)という神のことばの動的・創造的な事実がある.罪人を「義と宣言される」のが神であり,神の宣言が単なることばではなく,それはまた宣言したことを現実にもたらす「行為」でもある時,人間を宣言された義に呼応するものへとつくり変えずにはおかないのである.ただ義認の教理は,聖化はどのような意味においても神に受け入れられる,「義と認められる」根拠にはならないということを一切の妥協なく断言するのである.「なぜなら,律法の行ないによって義と認められる者は,ひとりもいないからです」(ガラテヤ2:16).それは律法の成就によって獲得されるはずの自己の義が,罪人には不可能であるからなのではなく,律法自身が律法による義を否定しているからである.つまり律法の本来的な意味が,第1戒にあるように「わたし(神)のほかに,ほかの神々があってはならない」(出エジプト20:3),逆に言えば「神のみを神とする」ということであるならば,信仰こそ「神のみを神とする」というこの戒めを成就するものである.しかも信仰は律法の行為によって義とされようとする人間の罪の対極に立って,神の義によって立とうとするものだからである.<復> ルターの「神の義」の発見は,「私はいかにして恵み深い神を獲得できるか」との問に促されてであった.それは,聖なる神の現実と,自らが深く罪人であるという認識が前提となっている.そして罪ゆえに義となり得ない自分が,神の側の一方的な恵みの行為によって義とされるというのが義認である.ところで,啓蒙主義から近代における合理主義においては,神の聖なる実在に対する感覚が希薄になる一方,他方において楽観的な人間論が優勢となり,道徳主義が台頭してくる.当然,義認は周辺的関心となる.それは神のさばきと神の赦しの緊張の解消を意味する.シュライアマハーは神と人間との関係を,後者の前者に対する絶対依存関係として理解し調和的な関係を前提としている.リッチュルも神の怒りを認めない.<復> ところで現代はどうであろうか.義認を理解するための前提となる聖なる神の現実についての感覚を回復しているであろうか.ある意味では否であろう.現代人は神なしに生きていると言えよう.日本にはもとより「母のように包む」超越者は漠然と信じられていても,ねたむほどに人間を愛し求める聖なる神はなかったと言えよう.そのような背景においては,義認の理解は困難であると考えられる.しかし義認は,人間の存在に普遍的にかかわっている.神を知る・知らないにかかわらず,人間は自らの存在を義とせずには生きることのできない存在である.存在が是認されねば生きることはできない.それは深い意味において「義認」の問題である.自らの行為を道徳的に正当化せずにはおれない現象はそのことを語っている.また自己の存在を「功なり名を遂げる」ことによって意味付け確保しようとすることも,自らを義としようとすることの試みであると言えよう.それによって自己が自己の存在を受け入れ,人によっても受け入れられることを目指すからである.このことは,事柄の本質からいって「行いによって義とされよう」とすることにほかならない.これらすべての背後に誰に対してであれ,「義とされねばならない」という関心が見られる.だがこの自らの行為によって義とされようとすることは,ルターが罪の端的な姿とした「自己追求」にほかならず,「自己に内向する人間」なのである.それは神に向かわず隣人に向かうことのない姿である.この自己義認の試みは「水をためることのできない,こわれた水ため」(エレミヤ2:13)であって,より深刻に自己に内向していき「自分のいのちを損ずる」(マタイ16:26)ほかない.自己義認のために自己を失っていくという姿は,神のさばきである.人間は神を思いのままに描くかもしれない.ある時は有神論,ある時は無神論,ある時は怒りを知らぬ神,ある時は自分の思い通りになる神を考える.しかし究極的には人間は,その恣意を超えた厳然たる存在の前に義でなければならない.その存在こそ神御自身なのである.<復> 人間は罪人であるなしにかかわらず,根源的には神の愛と恩恵によってのみ存在を与えられる者である.アダムの創造は,神の一方的な愛ゆえであった.その神の愛こそがアダムの存在の基盤であった.ここに「人間が何によって生きるのか」の根源的な姿がある.罪に堕ち,なお絶望的に自己追求・自己義認(「律法」)の呪縛の中にある現実の人間のもとに,御子キリストは来て下さり,罪を贖い,私たちの「義と聖めと,贖い」(Ⅰコリント1:30)となり,「律法を終わらせられた」(ローマ10:3)のである.キリストが「私の義」であるとの使信こそ,義認の真意である.人間は,なお自己追求・自己義認の呪縛の中にある.これに逆らって「キリストの義」に生きることは,古い自己に死に,キリストを「私の義」と信じる信仰に生きることである.そして日々の「悔い改め」によってのみ「キリストの義」に生きることができるのである.キリストにあって神に義と認められること,つまり「神に受け入れられること」は,その意味で人間の存在の最も根源的な条件である.「義人は信仰によって生きる」(ローマ1:17).義認が,信仰者の現実の存在に対する,キリストにある神の「しかり」であるゆえに,「今・ここで」すでに始まり永遠に至る救いの祝福のアルファであり・オメガであると言えよう.キリストのゆえに罪赦され義とされるという事実の中に,根源的な神による人間の存在の是認が現れていると言えよう.義認は根源的なのである.→義,聖化,罪の赦し.(橋本昭夫)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社