《じっくり解説》結婚とは?

結婚とは?

結婚…

男女が法律上の手続きを裏付けとし,社会的に認められ,経済面・精神面で互いに助け合いながら,一緒に夫婦として暮すことを言う.わが国の婚姻率の推移を見ると,10.5%を記録した1971年以降,減少が続いている.1987年はわが国の最低5.7%を記録している(→図「婚姻件数と婚姻率の推移」).これには,結婚年齢の高齢化と結婚しない人の増加も原因となっていると思われる.<復> 1.歴史的展望.<復> 人類の始祖アダムとエバについての聖書の記述は,神の御計画が一夫一婦制にあったことを表している.旧約時代の一夫多妻の結婚はカインの子孫のレメクが二人の妻をめとった記録で知られている(創世4:19).また,アブラハムは腹違いの妹と結婚したが(創世20:2,12),後に,モーセの律法ではこのような結婚は禁じられた.またヤコブの二人の妻は姉妹同士であったが,モーセの律法はこのような結婚も禁じている.<復> イスラエルの風習では,結婚は同族間でなされた(創世24:4,28:2,29:19,士師14:3).いとこ同士の結婚は旧約のイスラエルではよく見られ,今日でも中東アラブ人の間で行われている.エジプト,インカ,ハワイの王侯貴族の間では,兄弟姉妹間の結婚が宗教によって血統を守るために行われたが,これは一般庶民には適用されなかった.イスラエル内の同族結婚の中でも,男性が自分のおばと結婚することは禁じられている(レビ18:12‐14,20:19,20).また父親と娘,母親と息子(レビ18:7),兄弟と姉妹の結婚も禁じられている(レビ18:9,申命27:22).イスラエル人は外国人との結婚も禁じられていた(申命7:3).外国人との結婚を禁じることはヘブル民族の純粋性を保つために必要とされた.異教の神々の影響を受けないためにもこれは必要なことであった.<復> 一人の男性が二人の妻を持つことは,既成事実として記録されている(申命21:15‐17).士師(さばきつかさ)と王制の時代にも,一夫多妻の例が見られる(士師8:30,Ⅰサムエル1:2,Ⅱサムエル5:13,Ⅰ列王11:1‐4).箴言は一夫多妻の結婚形態には触れていない.預言者はイスラエルを唯一の主なる神によって選ばれたおとめとして描いている.エゼキエルも同じ比喩を使っている(エゼキエル16章).<復> バビロン捕囚後は,一夫一婦制が通常の結婚形態であった.子供は3歳になると乳離れし(Ⅱマカベア7章27節),盛大に祝われた(参照創世21:8).5歳までは母親が面倒を見,その後は父親が息子の教育の責任を負い,生活の糧を得る何らかの技術を身に付けさせた.ヘブル民族は他の民族に比べて,高い性道徳を身に付けていた.バビロン人は基本的には一夫一婦制で,アッシリヤ人は一夫多妻制であった.<復> 第二神殿の時期も,基本的には一夫一婦制であったと思われる.配偶者の選択,娘の父親に与えられる花嫁料の額またはその内容は,通常両親が決定していた.花嫁料は契約書にその額が記された.花嫁料は花嫁の勤勉さや徳を表すもので,高い代価は名誉なことであった.花嫁が処女の場合は銀50シェケル,再婚の場合はその半額が支払われた.花嫁料は通常父親が娘を失うことの埋め合せであったが,必需品の購入に当てられたりもした.花嫁料の基本的な考えには,万一未亡人となった時にも困らないようにというものもあった.花嫁の両親に労働を提供するケースも記録されている(参照創世29:18).時にこれは結婚後も,また子供の生れた後も続くことがあった.<復> 処女の結婚は水曜日に行われ,処女のしるしがなかった場合,夫は訴えを木曜日に起こすことができた.再婚女性の結婚は木曜日に行われ,安息日前の2日間,夫とともに過すことができた.<復> タルムード(ユダヤ教の律法と解説書)の時代には,性欲そのものが悪と見なされることはなかった.結婚を聖礼典の位置に引き上げることもなく,かといって単なる市民律法の契約と見なすこともなかった.結婚は聖なるものであった.タルムードの時代に見られたユダヤ民族の禁欲的傾向も,結婚に影響することはなかった.結婚はユダヤ教にとって,強力な家族を育成するために重要なものであった.<復> 新約時代には,結婚前の純潔はキリストに喜ばれることとされた.教会の指導者は結婚を禁じることをしなかった.しかし教父たちの見解では,最高に良いことは結婚しないで純潔であること,2番目に良いのは結婚しても禁欲することであり,結婚は3番目にランクされた.<復> アレキサンドリアのクレーメンス(140/150年頃—211/215年頃)は,結婚は聖なるものと宣言した.4世紀末ヒエローニュムスは修道院生活のほうが結婚にまさるとした.その根拠は,パウロの「情の燃えるよりは,結婚するほうがよい」(Ⅰコリント7:9)にあるとした.<復> アウグスティーヌスは,独身のほうが結婚することにまさると説いた.このように教父たちは概して結婚に対して消極的であった.<復> ユダヤ教の結婚式は,10人の成人男性の出席のもと,会衆の祝福を受けるのが望ましいとされ,中世になってこれが決定事項となった.10世紀には,結婚式は花婿の住居もしくは会堂で,会衆の面前で行われるようになった.結婚式後1週間,花婿は働かないでよかった.結婚式の夜(参照創世29:23),花嫁の両親は,娘の処女のしるしとして,血のついたシーツを保存する習慣があった(参照申命22:13‐21).<復> 結婚年齢はその社会によって相違がある.オーストラリアのある部族では,結婚しない女性の存在は考えられないことで,胎内にいる時から結婚の約束がなされることもあった.ヘブル民族の結婚年齢は,極めて低かったようである.後ラビは結婚年齢の最低基準を女子12歳,男子13歳と定めた.男子13歳は大人と認められる年齢であり,そのための儀式が執り行われた.配偶者の決定は通常両親によってなされていた.二人が一緒に生活することによって愛は芽生え育つと考えられたが,イスラエルには恋愛結婚もあった.その場合,親の同意がなくても若者は自分で配偶者を決定することができた.<復> ヘブルの女性の地位はエジプトの女性の地位より低かったが,アッシリヤの女性よりははるかに高かった.男子を出産すると女性の地位は高められた.子供が母親を,父親と同様に尊敬することを律法は求めていた.また,女性も宗教儀式に参加することができた.しかし,通常女性のほうから離婚の申し立てはできなかった.妻は法的には夫の所有物と見なされていたのである.<復> 未亡人は義理の兄弟と結婚するか,夫の家族とともに生活するか,実家に帰るか,のいずれかを選択することができた(創世38:11,ルツ1:8‐13).子供のいる未亡人は最もあわれまれる存在で,手厚く保護しなければならなかった(出エジプト22:22‐24,申命10:18,イザヤ1:17).<復> 姦淫は最も大きな罪で,女性も相手の男性も死罪となった(レビ20:10,申命22:22‐27).疑われた女性は,身の潔白を証明するために「苦い水」(民数5:12‐31)を飲まなければならなかった.<復> 2.結婚の意義.<復> 結婚は人間の考え出した制度ではない.もし人間の考え出した制度であれば,時代にマッチする新しい制度にすることも可能であったろう.しかし結婚は次のようなものである.<復> (1) 神のつくられた制度である.結婚の制度は試行錯誤の中で偶然に生れてきたものではなく,神が人間社会の基礎となるべきものとして制定されたものである.「男はその父母を離れ,妻と結び合い,ふたりは一体となる」(創世2:24).<復> (2) 結婚は契約である.結婚は神によって定められた契約(カベナント)である.箴言に次のように記されている.「彼女は若いころの連れ合いを捨て,その神との契約を忘れている」(2:17).若い時結婚した夫を捨てた女は,神との契約を忘れた者として責められている.契約はそれを守る時に祝福となり,破るときには当然の報いが伴う.マラキも結婚を契約と見ている.「『なぜなのか.』とあなたがたは言う.それは主が,あなたとあなたの若い時の妻との証人であり,あなたがその妻を裏切ったからだ.彼女はあなたの伴侶であり,あなたの契約の妻であるのに」(マラキ2:14).妻は伴侶であり,契約による妻である.結婚は神の御前で結ばれた契約であり,人の好みでつくられた制度ではない.<復> (3) 結婚は良いものである.結婚は人類の堕落以前に制定されたものである.神は男と女とを創造し,「生めよ.ふえよ.地を満たせ」(創世1:28)と言われた.またすべてのものを御覧になると,「それは非常によかった」(1:31).結婚における性は良いものであり,人を祝福し,幸せにし,喜びで満たすものである.パウロは結婚関係をキリストと教会の関係になぞらえている(エペソ5:22,23).結婚は独身と比べて劣るものではない.Ⅰコリント7:26のパウロのことばは,独身主義が結婚より優れていると言っているのではない.特別な「現在の危急のときには」独身のままがよいと言っているのである.従って,結婚しても性関係を持たないで禁欲するほうがよいという考えは聖書的ではない.結婚生活をしていくうちには多かれ少なかれ禁欲が必要な時がある.しかしだからといって,結婚における性を過小評価してはならない.<復> (4) 結婚は子供を産むための制度ではない.もちろん二人が一体となることで子供は生れてくる.しかし結婚と生殖行為を同一視してはならない.子供を産むことは第一義的なものではない.確かに子供は生れ,愛に満ちた夫婦の間で育てられることが必要であり,その価値観は重要である.しかし親子関係が家庭の基本なのではない.「一体」「結び合う」「だれも離してはならない」という表現が当てはまるのは夫婦関係だけである.家庭が子供中心であることは,子供にとって最も有害なことである.<復> (5) 結婚と性関係を同一視してはならない.女性と性関係を持つことは,その女性を妻とすることでも結婚することでもない.結婚は,性関係によって成立したり,破棄されたりするものではない.出エジプト22:16の例では,「妻としなければならない」のは性交渉の後である.ここからも,性関係そのものがその女性を妻とすることでないことは明らかである.この場合でも父親が,娘を男に与えることを否定することができた.<復> (6) 結婚は助け手を得,また助け手となる制度である.「人が,ひとりでいるのは良くない.わたしは彼のために,彼にふさわしい助け手を造ろう」(創世2:18).結婚によって男性は協力者,助け手を得ることになり,女性にとっても同様のことが言える.女性が助け手であるという考え方は,現代の結婚観にはほとんど見られない.これが結婚をいたずらに問題に直面させているとも言える.女性には男性にないものがあり,助け手として機能する時,真の自由を得ることができる.ウーマン・リブの運動はこの点の理解が不足していると思われる.夫と妻は互いによって初めて一つの完成されたものとなる.男性は自分を完成するために女性を必要とし,女性も自分を完成するために男性を必要とする.また,夫婦となって連れ添うことによって互いの孤独の問題を解決することができる.<復> 3.婚約.<復> 古くからユダヤ人の結婚は婚約と結婚という2段階からなっていた.婚約は法的拘束力を持つ結婚の約束である(申命20:7).婚約した男性は兵役を免除された.既婚者の場合と同様に婚約している女性を犯す者は,石打ちの刑に処せられた.野でこの事件が起った時は男だけが処罰され,町で起った時は二人の合意と見なされ,男女ともに死罪に定められた.このように,婚約中の女性が他の男性と寝た場合,姦淫と見なされ死罪となった(申命22:23‐27).婚約していない女性の場合は死罪にはならなかった(申命22:28,29).<復> ヨセフは婚約者のマリヤがみごもっていることを知った時,「内密に去らせようと決めた」(マタイ1:19).当時ユダヤはローマの支配下にあったため,石打ちの刑の代りに「去らせる」(離婚する)ことになっていたと思われる.<復> 以上のように,婚約は二人の男女が一生連れ添うことを約束する契約である.結婚は性的結合によって始まるのではなく,すでに婚約において始まるものである.<復> 新約時代になると,婚約は金銭の授受によってなされ,中世にはこれが指輪に取って代った.これが今日の婚約指輪である.<復> イスラエルでは,初婚の婚約期間は9か月から1年,再婚の場合は3か月であった.<復> 今日では,婚約者を対象とした婚前カウンセリングが行われており,問題の予防に効果を上げている.婚前カウンセリングがアメリカの産婦人科医の学会誌に発表されたのが1928年である.それ以来1950年代の半ばまでは医学的側面からのアプローチであったのが,以後,宗教,精神医学の面からのアプローチが注目されるようになった.婚前カウンセリングは多くの場合,挙式の司式者である牧師によってなされてきた.アメリカには,18歳未満の結婚に関して,挙式の前に婚前カウンセリングを受けることを義務付けている州もある.<復> 婚前カウンセリングの目的は,第1に挙式に関する話し合いをして,結婚の意味を理解させること.ここで,両人の個人的な信仰の基礎を築く助けがなされ得る.第2に,正しい情報を提供すること.互いの長所,短所を理解し,現実的な期待が持てるよう調整すること.第3に,誤った情報を正すこと.結婚後,こんなはずではなかった,ということにならないためである.第4に,最終的決断をさせること.婚約はしたものの,本当に結婚してもよいかどうか,再度考える機会とする.アメリカでは35%から45%の婚約が結婚に至らずに破棄されている.<復> 4.性の充足.<復> 男性と女性は,結婚の絆(きずな)の中でのみ互いの性的欲求に応えるよう期待されている.「姦淫してはならない」(出エジプト20:14)の戒めから,結婚の絆に限定されていることは明確である.パウロはテモテとテトスに,教会の指導者の資格を述べて「ひとりの妻の夫」でなければならない(Ⅰテモテ3:2,テトス1:6)と教えている.男性は生涯に一人の女性を,そして女性も生涯に一人の男性を持つことが期待されている.旧約聖書の人物の中には,これを踏みはずした者が多くいる.神の戒めを破った時はいつでも,ねたみ,不一致,心痛,その他種々の問題が派生してくる.アブラハム,ハム,ヤコブ,ダビデ,ソロモン等の生涯にその例を見ることができる.<復> 結婚生活における性行為は,自然で正常なものとして教えられている(Ⅰコリント7:3‐5).結婚している者は互いに対して性行為を拒む権利を持たないことをパウロは明確に教えている.性的欲求は,結婚生活の中でのみ満たされるものであるから,互いの欲求を満たし合う責任がある.性行為を控えたい時は,二人の合意が必要となる.結婚生活では,合意なしに禁欲状態を続けることは神の御心ではない.結婚しても性行為は控えるほうがよいというある教父たちの教えと,パウロの教えは真っ向から対立する.<復> 人間だけが生物学的行為以上の意味を性行為に持たせることのできる存在である.<復> 5.一体となる.<復> 「ふたりは一体となる」(創世2:24)ということばの中には,夫婦の一体は生殖行為以上のものであることが示唆されている.イエス・キリストは「それで,もはやふたりではなく,ひとりなのです」(マルコ10:8)と強調し,パウロは結婚を大いなる「奥義」(エペソ5:32)と呼んでいる.<復> アダムはエバと出会う前に,動物に名前を付ける任務を与えられた.しかし,被造物の中に自分と同じようなものがほかにいないことに気付かされた.エバを見たアダムは,自分とそっくりな被造物として,肉体的,精神的,霊的な,特別な存在として自覚した.夫と妻は性行為によってのみ一体となるのではないが,性行為はそれを外的に表す行為である.<復> パウロは「遊女と交われば,一つからだになることを知らないのですか」(Ⅰコリント6:16,17)と言っているが,「一つからだ」([ギリシャ語]ソーマ),「一心同体」(サルカ),「一つ霊」(プニューマ)と,ことばを使い分けている.「一つからだ」は確かに親しい結合であるが,「一心同体」はさらに親しい結合であり,「一つ霊」は最も親しい結合と言えよう.<復> 夫婦の関係は,あらゆる人間関係の中で最も親密な関係であり,自分の配偶者以上に親密な者があってはならない.一体とは,二人でありながら一人であるということである.二人の男女の共同生活や同棲以上のものである.<復> 人はイエス・キリストを信じた時,キリストと一体とされるが,その時点で一体性が完成するわけではない.成長があり,関係は強められていく.同じように結婚も,二人が一体感を深めていく成長の過程である.これは奥義であり,夫婦には,これを体験することが期待されている.結婚の目的はこの一体性を深めていくことと言えよう.その結果として子供も生れ,神の栄光も現されることとなる.<復> 6.婚前交渉.<復> 結婚前の性交経験について,男子学生の56.1%,女性学生の37.7%が22歳までに「経験あり」と答えている(1983年).これは相手が婚約者ということではない一般の学生の調査結果である.アメリカでは19歳になるまでに性交経験がある男子は70—80%,女子は60—70%と推測されている.これに比べ,日本では男子26%,女子17.1%という調査結果がある.アメリカの若者の婚前交渉率の高さと離婚率の高さとは無関係ではない.日本でも未婚男女の性交経験率が高くなるにつれて,家族崩壊に拍車がかかるものと思われる.<復> 性道徳に関しては,男女に要求される規準が異なる社会が多い.女子の処女性を尊ぶ社会ですら,男子の婚前交渉に対しては許容的であることが多い.<復> 聖書では,婚前交渉は「不品行」に分類されている.結婚という絆の外での性関係はすべて不品行である.結婚の約束をしている二人の間の性関係も結婚前なら「不品行」である.二人がまじめかまじめでないかが問題なのではない.愛し合っているから,結婚の意志があるからよいというものでもない.聖書は「不品行を避けなさい」(Ⅰコリント6:18)と命令している.<復> 女性が結婚前に妊娠の危険を冒してまでセックスに応じるのには,次のような誤った認識が動機となっている.(1)そうすれば男性の気を引くことができると考えている.(2)拒めばもう付き合ってもらえなくなると考えている.(3)自分には女性としての魅力がないのではないかと思っている.(4)セックスに応じることが愛のあかしになると考えている.<復> しかしながら,女性は次のことを知らなければならない.(1)すぐに体を許す女性を男性は尊敬しない.(2)結婚前のセックスは自分に魅力があることの証明ではなく,軽薄さの証明である.(3)男性は性欲のはけ口を求めたにすぎず,たまたま自由になる女性を相手にしただけである.(4)「愛のあかし」として要求する男性は,本当にその女性を愛しているのではない.(5)結婚を考えないセックスは二人の考えのなさと自制のなさを示しているにすぎない.(6)「愛している」「好きだ」と言いながら近付き,相手に罪悪感を持たせようとする男性は,セックスだけが目的と考えてよい.男性は,性欲を満たすはけ口が欲しい時に,つい「愛している」「君はきれいだ」と言ってしまうことがある.<復> 結婚までセックスをしないことには,次のような利点がある.(1)罪悪感を持たないですむ.(2)性病や妊娠を恐れないですむ.(3)他の異性の性反応と比較しないですむ.(4)結婚式の日の喜びが大きい.(5)しばらく離れて生活する場合でも互いに信頼できる.(6)自制心が身に付く.(7)セックスによる近道でなく,時間をかけることによって堅実に親密感を増すことができる.(8)自分の子供に対する良い性教育を手がけ始めている.子供にしてほしくないことは自分もしないことである.子供に対する良い性教育は,すでに自分たちの交際期間から始まっていると言える.<復> 7.互いに従う.<復> パウロは,「妻たちよ.…夫に従いなさい」と言う前に「互いに従いなさい」と双方に勧めている(エペソ5:21,22).「互いに従う」ことは,すべての人間関係に求められていることである.パウロは,夫には「キリストが教会を愛し,教会のためにご自身をささげられたように…自分の妻を愛しなさい」(エペソ5:25)と教える.キリストはしもべの姿をとって愛を示された.服従しないしもべはしもべではない.キリストのように愛することの中には,服従の姿勢も含まれている.しかしパウロは,夫婦関係においては,妻が夫に従うことを強調している.複数の人が集まる所では秩序が必要である.家庭にあっては,子供が親に従い,妻は夫に従うべきなのである.女性が男性と同等であることは,両者が神のかたちに創造されていることでも明らかである.しかし,女性がイニシアチブをとり,そして罪がこの世に入ってきた.妻が家庭にあって夫に従うという原則は,この事実と無関係ではない.罪を犯したエバに神は言われた.「あなたは夫を恋い慕うが,彼は,あなたを支配することになる」(創世3:16).「恋い慕う」は「支配する」の意味である(参照創世4:7).つまりアダムとエバの間には,どちらが支配するかという権力争いが,のろいのごとくまとい付くというのである.確かに男性にも女性にも「支配する」性質がある.これを解決するには,「互いに従う」ほかない.うまくいかない夫婦の間には必ずこの「誰が支配するか」が形を変えて現れている.当時のエペソ人の中には,異教の慣習から解放されたばかりの女性も多くいただろう.彼女たちは自由を無責任に用いて,今度は自分たちが支配する番だと考えたのかもしれない.このような状況下では,特に,従うことが強調される必要があったのである.妻の義務は「愛する」ことよりも「従う」ことの中に要約されている.恐れからの服従ではなく,強制されてでもなく,夫への愛と尊敬からくる服従である.夫がキリストに服従するように,妻は夫に服従する.夫がキリストをかしらとして妻と接する時,妻は夫をかしらとして夫に従うことができるのである.<復> 8.父母を離れる.<復> 人が妻と結ばれるためには「父母を離れる」ことが必要である.父母を離れ,別の家族関係をつくって,自分たちの永続する関係を確立するのでなければ,夫婦の一体は経験できない.「離れる」とは必ずしも物理的な意味ではない.別居したとしても精神的に離れていないことがある.「離れる」とは,優先順位を親から妻へ移すことである.聖書の時代には,子供は親と一つ屋根の下に住むか,親のすぐ隣に住むかの大家族制度であった.従って「父母を離れる」ことは通常,親の家を出ることではない.考古学上の発見によって,一つの家に幾つかの家庭があったことが判明している.<復> 父母との関係は,生れた時から存在するごく自然な関係であり,また重要な関係である.しかし妻と結ばれるためには,この最も重要だった人間関係を離れなければならない.つまり結婚関係はあらゆる人間関係の中でも,最も重要な人間関係になるのである.場合によっては,独身時代の習慣も考え方も変える必要が生じてくる.全く新しい共同体をつくるのに,互いの考え方を押し付け合っていたのではうまくいかない.父母を尊敬しながらも,父母から離れることが必要なのである.<復> 9.キリストの愛をもって.<復> 夫は,キリストが教会を愛されたように,妻を愛するよう命令されている(エペソ5:25).キリストが愛されたようにとは,聖書の最も基本的な戒め,「新しい戒め」である.「わたしがあなたがたを愛したように,そのように,あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34).教会は愛されるに値する存在だったであろうか.そうではない.むしろ,私たちは神に敵対する者であった.罪人であり,反逆者であり,汚れた者,忌むべき者であった.それでもキリストは私たちを愛して下さった.このような愛で妻を愛するように,夫は命令されている.夫に要求されている愛は,<復> (1) いのちを犠牲とする愛.キリストは自ら十字架につき死んで下さった.夫は死ぬほど妻を愛さなければならない.<復> (2) 無条件の愛.キリストの愛は,私たちがまだ敵対している時にも注がれていた.もう少し良くなったら,などという条件付きではない.<復> (3) 目的を持った愛.妻を成長させ,内面的に→しわ/・・←も→しみ/・・←もない者にするのが夫の務めである.妻が成長しないとすれば,それは夫の責任である.<復> (4) 思いやる愛.パウロは「養う」ということばと「いつくしむ」ということばを使っている.ちょうど傷をかばいいつくしむように,妻を思いやる愛で愛さなければならない.<復> (5) 解消しない愛.「妻と結ばれる」(エペソ5:31)とは,強力な糊でくっつけたようなもので,どのようにしても離すことができない.問題があってもあきらめない愛である.<復> エペソ5章でのパウロの教えは次のように要約できる.「夫よ,妻のために死んでもいいと言えるほど,妻を愛しているか.妻よ,夫のために生きていると言えるほど,夫を愛しているか」.→独身,離婚.<復>〔参考文献〕J・E・アダムズ『クリスチャンの家庭生活』いのちのことば社,1976;G・A・ゲッツ『結婚生活の規準』いのちのことば社,1982;柿谷正期『しあわせな夫婦になるために』いのちのことば社,1988.(柿谷正期)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社