《じっくり解説》教会政治とは?

教会政治とは?

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教会政治…

1.教会政治の聖書的基礎.<復> (1) いかなる意味においても教会政治を認めず,これからの自由を主張する立場,例えばキリスト友会(クエーカー派)や無教会派もある.しかし教会政治は聖書的根拠を持つと言える.まず,イエス・キリストがどのように御自身の民を治められるかを見てみなければならない.イエスはわれわれの「たましいの牧者であり監督者」であられる(Ⅰペテロ2:25).この大牧者の下で羊を飼う者を,聖霊が神の民に奉仕する任務に召し,その能力を与えられる(使徒20:28,エペソ4:11,Ⅰペテロ5:2‐4).教会政治は,教会の中の力のある者が気ままに行うことのできるものではない.それはキリスト御自身が,御自身のからだなる教会の構造として定められた生命的なものである.教会政治は,教会の主であるキリストから発する独自のものである.<復> (2) 教会政治に形を与える原理は,まず第1に神の国の権威であり,第2に有機的生命体の原理,第3に教会の奉仕のわざの根底にあるスチュワードシップの原理である.<復> a.神の国の権威.<復> ① キリストは教会をみことばと聖霊によって支配される.キリストが救い主として行われる支配は,神の国の支配である.そして,教会の権威はキリストの権威である.キリストは御国のかぎを与え,地上で御名によって決定することを天において確証される.このキリストの権威は絶対的なものであり,教会政治は,啓示されたキリストの御旨を加減修正することはできない(ガラテヤ1:8,12,黙示録22:18,19).また,キリストは審判の日にさばきを公に行われるが,御自身の戒めに聞こうとしない者を除くように教会に求めておられる(ローマ16:17,18,Ⅰコリント5章).<復> ② キリストの御国の支配は教会政治のあり方を定める.教会の権能は霊的である.キリストは御国の進展のために剣の力を用いられない(マタイ22:16‐21,ヨハネ18:36,37,Ⅰペテロ2:23,Ⅱコリント10:3‐6,Ⅱテモテ2:24).教会は新しいイスラエルである.新しい形のセオクラシー(神権政治)である.キリストの御国はこの世の国ではない.<復> ③ 教会政治はキリストがとられた奉仕の姿勢を継続する.キリストは仕えられるためではなく仕えるために来られた(マタイ20:28).神の国での地位の上下を論じる弟子たちにキリストは,神の国と異邦人の支配の違いを教えられた.神の国でかしらであろうと思う者はしもべとならなければならない(マタイ20:20‐28,マルコ9:35,ルカ22:24‐30,Ⅰペテロ5:3).<復> ④ 教会においてすべての権能はキリストに属しているゆえに,教会政治とはただキリストの御旨とみことばを宣言することだけである.それは,聖書に基づかない新しい教理,新しい礼拝,新しい政治形態を法制化することはできない.教会の指導者は,意のままにキリストの権威を行使することはできない.彼らは主のしもべにすぎない(マタイ23:1‐12,Ⅰコリント4:1,2).教会権能は宣言的なものである(参照マルコ7:8,Ⅰコリント15:3).<復> ⑤ そして同時に,教会政治の権能は御国の権威であるゆえに,キリスト者は権威を持つ者に従うよう命じられている(マタイ16:19,18:17‐20,10:14,15,ヨハネ20:22,23,ヘブル13:17).キリストのみことばが命じる時,キリスト者は主のゆえに従わなければならない.しかしキリストのしもべは天から火を呼んで焼き尽してはならない(ルカ9:49‐56).教会政治の権威は建てるために授けられたのであって倒すためではないからである(Ⅱコリント10:8).<復> b.教会の有機体としての形態.<復> ① 聖霊の賜物は多様であるが,それは相互に役立つように働いてキリストのからだを形成する.教会は身体の肢体のような構造を持っている.それは軍隊のような命令系統から成り立つものではない.教会の働きは相互的なものである.教会政治の初めに,まず教会を統治する力のある者がいるのではない.まず初めに賜物のスチュワードシップがある.キリスト者はすべて,神が与えた権威に従うゆえに他者に従い,また神から与えられる権威を愛をもって行使する者である.主であるキリストへの服従と,キリストが与える柔和の御霊への服従がかぎである.<復> ② キリスト者は互いに重んじ合うだけでなく,他のキリスト者が受けた召命,役割を認めなければならない.教会の中で教え治める賜物をキリストから受けている者を,喜んで尊敬しなければならない.そして教え治める者は,父または羊飼いとして教会を愛し,キリストにきよい花嫁としての教会をささげるために働くのである(Ⅱコリント11:2).キリスト者は上に立てられた者を主にあって愛し敬い従わなければならない.彼らを助け,彼らが喜んでその職務を遂行できるように努めるべきである(ヘブル13:17).<復> ③ キリストの有機体としてのからだを整える賜物は,単独ではなく共同的なものである.キリストの使徒は12人であった.使徒や長老たちは会議を開いて問題を討議し決定した(使徒15:1‐29).また,パウロは町々に複数の長老を立てた(同14:23).キリストのからだの一致のために,同じ賜物を与えられた者はそれを共同的に行使しなければならない.<復> c.スチュワードシップあるいは代表の原理.<復> ① 最初の使徒はイエスによって直接に選ばれた者たちである.イスカリオテ・ユダの代りを決める時には全会衆が2人の候補を立てた上で,主の決定にゆだねるという方法が採用された.エルサレム教会で分配のことで問題が起った時,使徒は直接指名をせず,会衆の選挙にゆだねた(使徒6:5,6).使徒14:23の「長老たちを選び」とあるのは,語源的に,挙手による選びと解することができる.<復> ② 旧約時代には民の長老たちが立てられ,モーセとともにイスラエルをさばいた(民数11章).彼らは民を代表して語る人々であった(参照出エジプト3:16,4:29,24:1,2,Ⅰサムエル8:4,Ⅱサムエル5:3).新約時代にも「民の長老たち」がいた(マタイ21:23,26:3,47,27:1).使徒の働きでは,教会の中の長老たちの存在が特別な説明なしに言及されている(使徒11:30).″新しいイスラエル″の長老は,古い時代のイスラエルの場合と同じような働きをしたものと思われる.<復> ③ 長老は民を代表する者であるが,その権威は民に由来するものではない.神が彼らに賜物を与え,聖霊の召しによって職務につかせられたのである(使徒20:28).教え治める賜物を持つ人々は,キリストが教会に与えられた者である.その権威は会衆によって承認される(参照使徒20:28,エペソ4:1‐6).<復> 2.教会政治の諸形態.<復> 教会の統一性・公同性の原理に基づき,教会はこの原理をこの世においてできる限り現さなければならない.礼拝のために一定の場所に集まる会衆によって形成される各個教会は,見える一つの公同教会の肢体である.聖書,特に使徒の働きによれば,エルサレムその他の大きな町で信者が増えた時,幾つかの会衆の群れができたと考えられる.一つ一つの群れはそれぞれが使徒の教えを聞き,パンを裂き,祈りと交わりをなす独立の群れでありつつ,同じことを行っている他の群れとともに一つのキリストの教会を形成する.伝道の進展とともにユダヤの町々,サマリヤ,アンテオケ,小アジヤの各地に教会が建てられ,各地で各個教会と全体教会の関係が生れた.その関係とは,第1にイエス・キリストの生命にともにあずかっているという自覚,第2に各個教会が直面する敵に対して共同の戦線を張って戦わなければならないという必要,第3に伝道をより強力に推進するため,またそのために生じる実際上の必要である.これらに応えるため,生活と教理において一致する各個教会は一つの全体教会を具現するためにより大きな組織となるのである.教会政治は,このような教会の全体性と各個性とその関係を巡って,幾つかの形態をとることになる.それは基本的には三つ考えられる.すなわち監督制,長老制,会衆制である.<復> (1) 監督(主・司教)制.<復> a.この政治形態をとる教会において,中心となる職務はビショップ(司教,主教,監督)であり,他の職務はプレスビター(司祭)とディーコン(執事)である.三つとも原語は新約聖書に見出される名称であるが,[ギリシャ語]エピスコポス(ビショップ)と[ギリシャ語]プレスビュテロス(プレスビター)は同じ職務を指していたと言われる.<復> 監督(司・主教)制をとる者たちは,12使徒との関係を重視する.12使徒の権威は,使徒が任職したビショップたちによって受け継がれると考えられている(エルサレムのヤコブ,あるいはテモテやテトスのような者が使徒と後のビショップの間にいたと考える者もある).彼らが重視するのは使徒による按手である(使徒6:6,Ⅰテモテ4:14.また,使徒14:23でも按手が行われたと見る).すなわち,初代教会における最高の職務である使徒が,ふさわしい者たちを按手によって自分たちの後継者とし,後継者がまた次の者を按手によってビショップとして立てていく,という制度となったと考えられているのである.<復> b.新約時代以後,監督制は制度として確立していったと主張される.イグナティオス,エイレーナイオス,テルトゥリアーヌス等2世紀の教父らが引き合いに出される.司教,司祭,執事という三重の職務が,教会の制度として広く認められていたと言う.しかしながら,監督(司・主教)と長老が別の職務であり段階的上下関係にあることを,新約聖書から証明するのは困難である.また,教会すべてが使徒の任職した監督によって指導されたと立証することもできない.<復> c.このように歴史的には確言できない点もあるが,監督(司・主教)制が起源も古く,初代教会において広く行われていたことは疑い得ない.1054年に東西教会の分裂が起るが,どちらの教会も司教制と使徒伝承の教理を持ち続けた.(ローマ・カトリック教会は,司教の中でペテロの後継者としてのローマ司教の優位性,すなわち教皇の首位権という特別な教理を持つ).<復> d.宗教改革の時代,英国教会はローマの至上権を否定してその支配の外に出た.しかし司教制度は維持した.ルーテル教会では,主として北欧諸国で監督制が採用されたが,使徒継承は主張しない(ただし,スウェーデンとフィンランドでは1884年までこの教理を採用していた).プロテスタントの中ではこのほかに,アメリカ,アフリカのメソジスト教会が監督制を採用しているが,ウェスリ(ウェスレー)を継承することが重視されている.また,モラビア派は長老政治を採りつつ監督の使徒伝承を認めている.<復> e.カトリック及びアングリカンの諸教会において,司(主)教は叙階(按手)と堅信を行う権能を認められる.この点で司祭と区別される.また司(主)教区を,その中にいる聖職者も含めて監督する.司(主)教任職は,主都大司教と他に2人の司(主)教の手で行われる.司(主)教への選別は,カトリックの場合通常教皇が行い,それ以外では,司(主)教区の大聖堂の主任司祭と聖堂参事会によって選ばれるのが普通である.また,英国教会では,主教区主教は教会裁判を彼の主教区裁判所で行う.<復> (2) 長老制.<復> a.16,17世紀に長老制を擁護した者たちは,この制度が新しいものではなく,新約聖書において使徒たちによって樹立された制度の再発見であると主張した.また,長老主義者の多くは,長老制のみが聖書的政治の形態であり,恒久的に教会を拘束するものと考えていた.しかし,この政治形態を各地の教会の幾つかの事情に適応させるためには若干の幅を持たせる必要があった.例えば,中世的な形態を多分に持った都市国家ジュネーブでは,カルヴァンの努力にもかかわらず,長老たちによる教会自治は実現できなかった.ジョン・ノックスがこの制度をスコットランド国教会の教区制に適用するためには,様々の工夫を必要とした.それゆえ今日の長老主義者の中には,新約時代の教会政治の中に監督制と会衆制の要素も含まれていることを認め,長老制のみが神的制度である(jure divino)との主張を変えつつある者も現れている.<復> b.長老教会の政治は,普通,教会会議に集まった教役者と治会長老によって行われる.通常,各個教会レベルの会議,一定地域内にある教会の教役者と代表治会長老から成る上位の会議,さらにその上にある会議,と段階がある.長老主義者の理解によれば,新約の教会とは各個教会(家の教会?)であるだけでなく,一定地域内の教会(エルサレムやエペソといった町単位),さらには全世界の教会を含むものである.キリストは,このような意味での教会に教会統治と統治者を備えられた.使徒たちがまずキリストから鍵の権能を直接受け,彼らが設立したすべての教会においてこれを行使した.使徒時代以後も,キリストは教会に統治の賜物を持つ者を備え続けておられる.使徒や預言者は今は停止した特別職であり,その後の恒久的な一般職として,牧師・教師,治会長老,執事がある.この中で特に教会統治に参与するのは長老である.聖書において[ギリシャ語]プレスビュテロスと呼ばれるもので,みことばに仕える長老(牧師・教師)と,特に治会,統治の任に当る治会長老の二種に分けられる.各個教会のレベルでは,その教会の牧師と治会長老によって会議を構成するが,幾つかの教会が集まって構成される地方会議(プレスビテリー)には,すべての教役者と各個教会の代表長老が集まって会議を行う.その上の会議として,幾つかの地方会議の集りから成るシノッド,さらに全国規模の総会が置かれる.これらのどのレベルにおいても,教会の統治は個人によっては行われない.さらに,みことばに仕える長老と治会長老とは会議において平等であり,共に教会統治の賜物を与えられた者として共同的に権能を行使する.<復> c.長老たちの会議による教会統治の形態の聖書的根拠としては,一つはイスラエル共同体の長老の働き,もう一つは新約時代の教会の長老たちの働き,特に使徒15章のエルサレム会議における長老の立場,がある.地方会議(プレスビテリー)については,Ⅰテモテ4:14の「長老たちによる按手」がまず挙げられる(ここでは,特にみことばの教役者である長老の任職をつかさどる務めがプレスビテリーにあることが示されている).また使徒11:30には,パウロとバルナバが届けた献金を受け取ったのはエルサレム教会の長老たち(すなわち長老会)であった,とある.Ⅰコリント6:1‐6においてパウロは,コリント教会が「賢い者」から成る裁判を行って教会内の問題を処理できるはずだ,と訴えている.<復> d.長老主義が段階別の会議を主張する聖書的根拠は,使徒15章のエルサレム会議である.アンテオケの地方会議で解決できない紛争が生じた時,教会はエルサレムで総会議を開いて問題の処理を行った.アンテオケ教会は,地方会議として独自の問題を自ら処理する能力があったが(参照使徒13:1),全体の討議を必要とする問題についてはユダヤ人議会(サンヘドリン)にならい,新しいイスラエルの最高会議を開いて意思決定を行った.教理上の問題のような全教会的な事柄は,最上位の会議が扱う.下位の会議が上位の会議の決定に従うことにより全体教会の一致と平和が保たれるが,各会議固有の権能は侵されず,相互関係は失われることなく,全教会一致の精神が実現する.<復> e.長老の理解を巡って長老主義者の間に見解の相違がある.ある者は,みことばの教役者と長老が共に長老(プレスビター)であるとの共通面を強調する.両者は共に聖職者であり,その中のある者はみことばの説教者,教師として任職され,ある者は統治の任に当るべく任職される(Ⅰテモテ5:17)とする.これに対し,長老はレイマンであり,教会において補助者・管理者として治会の任に当る者(Ⅰコリント12:28)と見る立場がある.長老は教会員によって選ばれるが任期制であり,教役者と違って按手を受けない,とされる.前者の考えでは,長老も教役者同様,終身職であり,按手によって任職すべきことが強調される.また使徒伝承について,ある者は,みことばと礼典をつかさどる教役者の務めの重要性のゆえに,プレスビターには使徒伝承性があることを認める.他の者は,このような伝承性には触れないかまたは反対する.ただし使徒伝承についてどのような立場をとるとしても,みことばの教役者の任職がプレスビテリーにおいてプレスビターたちによって行われるという点では一致している.<復> f.長老主義教会はみことばの教役者,治会長老のほかに,執事を聖書的な職務として認める(ピリピ1:1,Ⅰテモテ3:8).執事は恒久的な教会の職務であるが,その職は,みことばの説教や礼典の執行,治会の任とは区別され,愛のわざを行うこととされる.これは,聖職位階制におけるように司(主)教,司祭の下位にある教職と見られることはない.教会役員としては教役者,長老と同等であり,職務としての違いがあるだけと見なされる.<復> g.司(主)教制において職務への選挙は聖職位階制度の中でのみ行われる.これに対し,長老制では役員選出における教会員の役割が重要視される.教会統治の形態として一般会員は被治者の立場に立つとは言え,教会は神の民であり,その構成員は聖霊の宮であるから,役員を選出する権利はすべて教会員の手にある.みことばの教役者は,教会員が選びプレスビテリーが任職する.治会長老と執事は教会員が選び,各個教会の牧師と長老とから成る会議によって任職される.<復> (3) 会衆制.<復> a.会衆制は教会政治において各個教会の独立制と自治をよりどころとする.会衆制を主張する人々は,これがキリストを教会の唯一のかしらとする教会政治の形態の中で,最も民主的な形であると言う.教会の構成員はすべて神に対して「祭司」である.このような者が二人三人キリストの御名において集まる時,キリストは彼らのただ中にいて彼らの思いと行為を導かれる.このような会衆が正しく選ばれた役員を備える時,それは普遍的教会の現れ,あるいは代表であると見なされる.このような形態が新約の教会の最も古い形であると主張されている.彼らは,司(主)教も長老も会衆の上に立つべきではないと主張する.キリスト者一人一人が祭司として最も聖なる所に近付き得る.教会の生ける主として導くキリストと会衆の間に立って,権威を行使する人間がいてはならない.使徒たちには権威があったが,彼らはキリストに直接選ばれて教会の基礎を築いた人々であり,彼らの死後,使徒の地位に取って代る者はいない.キリストはそのような制度を教会に命じられなかった.「ディダケー」に見られるような自治の各個教会が,新約時代の教会統治のあり方である.新約聖書によれば,キリスト者はすべてキリストにあって一つなのであり,その中に絶対権威を主張する人間が介在し得るはずがない,と言う.<復> b.会衆制は宗教改革時代に起った制度である.改革者の中のある者たちは国教会制度を徹底的に否定し,教会とはキリストの召しを聞いてこれに応答した者が集められたところであると理解した.1582年にロバート・ブラウンが「何者にも期待しないで行わるべき宗教改革,ならびに,為政者からの命令や強要があるまで改革を行おうとしない説教者たちの不正について」を出版し,会衆制の信仰を明らかにした.イギリスではこの信仰を実行に移すことが禁じられたので,多くの者がオランダに渡り,さらに,そこからピルグリム・ファーザーズがアメリカに渡り,新大陸,特にニューイングランドに会衆主義教会(組合教会)が多く起された.<復> c.会衆制政治を採用している教会は組合教会だけでなく,バプテストを初め,幾つかの教派にも見られる.また,教派を形成しない単立教会主義の教会政治の原理も同様のものと言えよう.会衆制の教会は,信条による統一を求めないために寛容であるが,同時に聖書の基本的な立場から離れていく危険性を含んでいる.そのために,会衆制の教会の中からユニテリアンが生れた.<復> d.会衆制政治は直接民主主義的である.成人男子会員にはすべて選挙権が認められた.教会員の入会・脱会は教会員の投票によって決せられる.譴責(けんせき)の場合も同様である.教会の恒久的職務として認められるのは牧師と執事である.牧師は任職され,教会による選挙により就職と辞職が決る.各個教会は独立しており,より上位の組織の権威に服することはないが,会衆制を採る教会の間には姉妹教会の関係が結ばれる.場合によっては,各教会間に共通の問題を扱いこれを処理するために,合同会議が持たれる.ただ,そのような会議の決定は各個教会を束縛するものではなく,単なる宣言にとどまる.会衆制によれば,各個教会は教会の王であるキリストのかしら性を代弁するものであるから,教会役員は会衆の意志に常に従わなければならない.<復> 3.戒規.<復> (1) 教会政治における教会権能の行使の重要な分野に戒規がある.狭い意味の譴責や除名だけでなく,広い意味のケア,訓育をも含めた訓練の意味で取り上げることができる.キリスト者は相互に愛し合い善行を行うべき者であるが,同時に教会は贖われた罪人から成っているゆえに,矯正や譴責が必要となる.キリストは,新約の教会の役員たちに御国の鍵の権能を与えられた時,教会戒規の進め方についてお示しになった(マタイ18:15‐18).罪が私的・個人的なものである場合,当事者間の和解がまず求められなければならない.罪を犯した者が勧めのことばを聞き入れない場合,証人たちとともに教会裁判に訴えなければならない.教会が教理と道徳の事柄において戒規を行わないならば,教会は使徒的教え,使徒的制度を正しく守ることができないし,相互の交わりの義務も果すことができない(参照使徒2:38,42,20:28,Ⅰコリント5:1‐12,ガラテヤ6:1,ヘブル4:12,10:23,ローマ16:17,Ⅱヨハネ10).<復> (2) 戒規の第1の目的は,神の栄光とキリストの名誉の擁護である(Ⅱコリント6:14‐7:1.参照エゼキエル36:20,21,ローマ2:24).第2には,罪を犯した者を改心させ矯正することである(Ⅰコリント5:5,Ⅱテサロニケ3:14,Ⅰテモテ1:20,ユダ23).第3は,教会の純潔を保つこと(Ⅰコリント5:6),第4は,罪が伝染して他の者が罪を犯すことの予防(Ⅰテモテ5:20),そして最後に,神のさばきを免れることである(黙示録2:14‐25).<復> (3) 戒規は,教理や生活において神のみことばに違犯した教会員に対して行われるだけではない.教会政治を賢明に,正しく機能させることによって誤りを正すという方法は種々見出される.各個教会,あるいは上位の組織がそれぞれの管轄区域内,または権限内の事柄について,自らの教理・生活上の罪についてチェックする機能を発揮することが求められる.これが言わば行政上の戒規である.これに対し,司法上の戒規がある.この意味での戒規を行う時には,罪を告発される者の権利が注意深く守られなければならないし,有罪とされた場合,聖書的な意味での回復の手段が講じられなければならない.裁判手続きは聖書的に進められなければならず,あくまでも肉によってでなく霊において行われなければならない.罪に罰を加えるのでなく,悔い改めを目指さなければならない(マタイ18:17,Ⅰコリント5:2‐13,Ⅱコリント2:5‐11).戒規の対象となるのは,誤った教えと不道徳である(ローマ16:17,ガラテヤ1:8,Ⅰテモテ1:19,20,テトス3:10,Ⅱヨハネ10,11,黙示録2:14,20).教会は会員を異端から守るために,真理を常に明瞭に教えなければならない.また,健全な教えに聞こうとせず,誤謬(ごびゅう)を広めようとする人にのみ戒規を執行するべきである.<復> (4) 戒規のプロセス.ある人が罪を犯していることが明らかになった時,戒規の最も有効な方法について役員はよく考えなければならない.ある場合には警告を与えるだけで十分である(Ⅰテモテ5:20,テトス1:9,13,2:15).場合によっては,その人の教会での職務を停止したり陪餐を停止したりする必要がある(Ⅰコリント11:27,Ⅱテサロニケ3:6‐15).最終的なものとされているのは除名である.しかしこれは決して最終的なものではない.教会はその人物の悔い改めと復帰を祈らなければならない(マタイ18:15‐17,テトス3:10,Ⅰコリント5:4,5,11,Ⅰテモテ1:20,Ⅰヨハネ5:19,コロサイ1:3,エペソ2:12,ガラテヤ1:9,Ⅰコリント10:22).<復> (5) 教会政治の形態に応じて,それぞれの教派に戒規に関する教理と実践がある.宗教改革の時代,教会は俗権から区別された純粋に霊的な教会裁判の教理と実践を確立しようとした.その実現は多くの困難を伴うが,教会は,ヨハネの黙示録の七つの教会の間にいますキリストの御旨を考え,世界にキリストの光を輝かすために,そのともしびをきよく明るく輝かす使命があることを覚えるべきである.→教会・教会論,職制,教会戒規.(安田吉三郎)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社