《じっくり解説》罪,罪論とは?

罪,罪論とは?

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罪,罪論…

1.用語.<復> ヘブル語では多くの用語によって罪の多面性が言い表されている.その中でも重要なものは[ヘブル語]ハッタース(的はずれ)で,ギリシヤ語のハマルティアと用法が類似している.また[ヘブル語]ペシャ(反逆,違反),[ヘブル語]アーウォーン(倒錯),[ヘブル語]ラ(邪悪),[ヘブル語]レシャ(悪)などがある.<復> ギリシヤ語訳旧約聖書(70人訳)と新約聖書において共通に見られるものとしては次のものがある.[ギリシャ語]ハマルティア(的はずれ),[ギリシャ語]パラバシス(違反),[ギリシャ語]アディキア(不義),[ギリシャ語]アセベイア(不信心),[ギリシャ語]アノミア(不法),[ギリシャ語]ポネーリア(邪悪),[ギリシャ語]エピスュミア(欲望).<復> 2.定義.<復> 宗教改革時代のプロテスタント諸教会は,罪の性質について哲学的に定義しようとはしなかった.彼らは,神のことばと道徳的・宗教的意識の上に教理を建て上げ,罪とは律法に対する違反であり,神の律法に対する一致の欠如であるとした.また,C・ホッジは次のように定義している.「(1)罪は特別の悪であって,あらゆる他の形態の悪とは異なる.(2)罪は法と関係し,この両者は互いに深くかかわり,法のないところには罪はない.(3)罪がこのようにかかわりを持つ法とは,単なる理性の法ではなく,良心の法でもなく,また便宜の法のことでもない.神の法である.(4)罪は,理性的被造者の側に見られるものであって,神の性質あるいは律法との一致を欠いていることにその本質がある.(5)罪は咎と道徳的腐敗とを含んでいる」.<復> こうした神との正しい関係が破壊されるところには,人間相互の正しい関係の崩壊と自己自身の分裂とをもたらす契機が含まれている.<復> 3.堕落.<復> 人間が神に似せて造られ,正しい者として造られたことは,罪が人間に固有のものではないこと,人間は本来,正しいことを行う能力を所有した者として造られたことを意味する.その人間がサタンのことばによって堕落したことは,少なくとも二つの事実を明らかにしている.その一つは,人間の堕落以前にすでに宇宙には罪が存在していたということである.この罪と悪の王国のかしらはサタンである.彼は術策と力とに極めて優れた霊的存在である.もう一つの事実は,このサタンの実在性と活動,またサタン的支配の秩序の現実性と活動が存在しているということである.この世の知覚できる罪の背後には,見えない霊的な諸力が存在する.サタンはこの世の君であり,空中の権威を持つ支配者である(エペソ2:2).「私たちの格闘は血肉に対するものではなく,主権,力,この暗やみの世界の支配者たち,また,天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペソ6:12).この点に関して言えば,キリストの働きは,サタンの力と働きを破壊し終結させるためになされるという本質的な面を持っている.キリストの贖いのわざにおいて,これは周辺的な事柄ではなく,包括的なわざの一面である.そのため,キリストは十字架への道を歩む中で次のように言われた.「今がこの世のさばきです.今,この世を支配する者は追い出されるのです」(ヨハネ12:31).<復> サタンに誘惑されて,人間は罪を犯した.このサタンの誘惑は人間の堕落の契機とはなったが,堕落を生起させる原因ではなかった.外部からの力が罪を犯させたのではなく,アダムの知情意に変節,不信,違反の思いが生じ,その結果として彼は堕落したのであって,彼自身が堕落に至った行為者である.責任は全く彼にある.アダムはそれとは反対の行動をとる力をも与えられていた.また,彼の肉体が罪を犯させるような状態に創造されていたわけではない.彼の道徳性についても同じことが言えるし,彼が置かれたエデンの園が誘惑に負けるのに適する環境だったわけでもない.園の中央にいのちの木があったことも,むしろその反対の状態であったことを物語っている.以上のことから,アダムとエバが罪に陥ったのは,神の善意,知恵,愛を疑い,神の語られたことばに対して不信を抱き,神の主権的立場をねたむようになり,神の命令への不従順の道を自ら歩んでいったから,ということになる.<復> 聖書の内的証言から判断して,この人間の堕落は歴史的事実である.堕落は創世記において不可欠な部分を占めているだけでなく,人類の起源,違反,発展という聖書の救済の歴史の全体にとっても本質的な部分となっている.旧約においても新約においても,創世記の堕落の記事は歴史的な事柄と見なされ,そのように言及されている.そして,この歴史的事実は,聖書に啓示された教理全体の体系の基礎となっている.キリストや使徒たちが堕落の事実を真実のこととして言及しているだけでなく,堕落以後の神の啓示とその展開のすべてがこの堕落を根拠としている.キリストの民がキリストにあって生きなければならないのは,アダムにあって死んでいたからである.<復> さて,堕落に関しては解答を得ることのできない困難な問題があるので,そのことも知っておかなければならない.その第1は,堕落は神によってあらかじめ定められていたものであり,すべてのものを支配する神の摂理の中にあって起ったものであるが,同時に神は罪の作者ではない,という点である.それは,人類の歴史の中で最大の犯罪とも言うべきキリストの十字架上の死が「神の定めた計画と神の予知とによる」(使徒2:23)のと同じである.しかし,罪深さという意味での罪に対して責任のあるのは神ではなく人間だけである.人間だけがその罪を犯した行為者だからである.神は罪を犯されなかっただけでなく,人間に罪を犯すように仕向けることもなさらなかった.ウェストミンスター信仰告白はこう告白している.「神は,全くの永遠から,ご自身のみ旨の最も賢くきよい計画によって,起こりうることは何事であれ,自由にしかも不変的に定められた.しかし,それによって,神が罪の作者とならず,また被造物の意志に暴力が加えられることがない.また第二原因の自由や偶然性が奪いさられないで,むしろ確立される」(3:1).神の側から言えば,あらかじめなされた不変の決定がここにあり,人間の側から言えば,人間の自由と責任に対して強制も抑制もないということになる.それではその両者をどう調和するかという問題については,人間の理解を越えているとしか言いようがない.<復> 第二に,なぜ神が罪を聖定されたかという問題である.もちろん神の聖定の究極的な目的は,神御自身の栄光を現すことである.しかし,神がなぜこの方法を用いられたかということについては,ただ神がそのようにすることを良しとされたからであると言う以外にない.明らかにされていない神の意志を,人間が知ることはできない.「なぜこのように私を造ったのか」というような文句を言えば,「人よ.神に言い逆らうあなたは,いったい何ですか.形造られた者が形造った者に対して,『あなたはなぜ,私をこのようなものにしたのですか.』と言えるでしょうか」(ローマ9:20)という答が返ってくる.<復> 第3に,神によって完全にきよく正しいものとして造られた者が,どのようにして罪深くなったのか,聖なる魂にどのようにして罪が入り宿り支配するようになったのか,という問題がある.つまり道徳的な問題である.これに対しても答えることはできない.<復> 罪と堕落の教理には,このように神秘の面があるが,それは神の絶対的主権と人間の罪過(咎)を二つの焦点として回る楕円の軌跡のようなものである.前者がなければ後者は成り立たず,後者があることによって前者がいっそう明らかになる.キリスト教の真の敬虔はこの解決されない問題を,すべてを知り尽しておられる神の御手にゆだねることである.<復> 4.原罪.(→本辞典「原罪」の項)<復> 5.罪の伝達.<復> アダムの最初の罪は人類全体にとって特別な意味を持っている.ひとりの人の不法によって,罪,有罪判決,そして死が全人類に及ぶようになったからである.この罪は「アダムの違反」(ローマ5:14),「ひとりの違反」(同5:15),「一つの違反」(同5:18),「ひとりの人の不従順」(同5:19)とあるように,アダムのことを指している.ローマ5:12の「それというのも全人類が罪を犯したからです」とは,全人類の犯す現実の罪のことに言及しているのではあり得ないし,全人類が受け継いでいる堕落のことでもなく,アダムの罪の中に全人類の罪が見られるということである.この12節では死が全人類に及んだ理由を語っていて,それに続く上記の箇所では,一つの違反が普遍的死の原因となっていることを語っている.つまり,アダムの罪を全人類が犯したということを別の表現で言い表したものである.<復> 聖書によると,全人類がアダムの罪に加わっていることを説明するアダムとの連帯性は,アダムが自然の関係で人類の父だからではない.むしろそれはキリストに結合されている人々との間にキリストが持っておられる連帯性と同じ種類のものである.つまり契約的連帯性である.ローマ5:15‐19やⅠコリント15:22,45‐49に見られるアダムとキリストとの間の並行性は,共に同じ種類の関係を示している.アダムと人類の場合のほうがキリストとその民との場合よりも根源的であると考える必要もないし,そうすべきでもない.後者は代表としてのかしらという関係であり,このことがアダムの罪におけるすべての者の連帯性の根拠にとっても必要なことである.アダムの罪が全人類に転嫁されるということは,全人類がわざの契約におけるアダムの代表的かしら性という理由で,彼の罪にかかわりを持ったということである.アダムの罪の転嫁がアダムから全人類に直接的であるという主張には充分な理由がある.パウロが,多くの者が罪人とされたのはひとりの違反と不従順によるということ,有罪の判決が全人類に言い渡されていること,そして死の宣告もすべての人に言い渡されていることを繰り返し語る時,そこには一方ではアダムの違反との直接的な関係があり,他方では全人類に対する罪とさばきと死とがあるからである.全人類がアダムの罪とその結果に巻き込まれた理由として,アダムの罪と全人類の罪との間に他の別の罪を持ち込むことはできない.唯一の根拠は,アダムとその子孫との間に成立したアダムを代表とする契約的一体性である.アダムの罪が,アダムの有罪判決と死とに直接的な関係があったように,全人類の有罪判決と死にとっても直接的関係のあることを支持している.これがこれらの聖書の箇所の意味である.このアダムとわれわれの関係を支配する原理と救いの秩序の原理との関係が,罪の転嫁の教理に関係してくる.人類の歴史は,罪—有罪判決—死と,義—義認—いのちという二つの組み合されたものを包含する.前者はアダムとの結合から,後者はキリストとの結合から来る.アダムとの関係を認めて初めて,キリストを適切に理解することになる.死ぬ者はすべてアダムにあって死に,生かされる者はみなキリストにあって生かされる.<復> 6.罪の結果.<復> 罪の結果は様々な変革をもたらした.(1)人間の内的変化,特に神との関係における変化,(2)神の人間に対する関係の変化,(3)人間関係における変化,(4)世界の人間に対する関係の変化を挙げることができる.<復> (1) 人間の内的変化.この変化の中心点は,神に対する態度の変化である.「それで人とその妻は,神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」(創世3:8).「私は園で,あなたの声を聞きました.それで私は裸なので,恐れて,隠れました」(同3:10).ここには,人間の精神的態度に根本的な変化の生じたことが事実として示されている.本来,人間は神の前に生き,神との交わりの中に造られた者であるから,神の前にいることは最高の喜びであったはずである.しかし,今や神の顔を避けるようになった.罪過の意識と光から逃れようとする思いが,恥と恐れとして現れたのである.神は光である.「悪いことをする者は光を憎み,その行ないが明るみに出されることを恐れて,光のほうに来ない」(ヨハネ3:20).神に対する関係の変化に伴って,神理解にも変化が入ってきたために,人間は自己を神の目を通して理解することができなくなり,そのため正しい意味で自己を理解することが生来的にできなくなった.また神を避けることによって,理解できなくなった自己を神に代えて生活の中心に据え,自己実現に努めるようになった.神の一般恩恵によって支えられているものの,その本来の目的を果すことができないでいる.さらに人間に死が入ってきた.創世5章は,この事実を雄弁に語っている.どんなに長寿であったとしても,神が警告したことから逃れることができない.それは罪の支払う報いが死であることを証言している.<復> (2) 神の人間に対する関係の変化.神は人間に対するその関係を変えられた.神は,その存在,本質,性格,三位間の関係,及び人間との関係において変らないお方である.それゆえこの変化は気変りではなく,その変らぬ性質に逆らう者に対する必然的な反応を表しているのである.<復> 神と人間との間のこの決裂は,人間の側の失敗に原因があるが,人間の側だけの一面的な変化ではない.創世3:9を境として,両者の関係は著しく違ったものになっている.それ以前では,あらゆる面で,好意と平和と調和が見られ,叱責も不快な態度もないだけでなく,不和も見られない.しかし,今や神と人間との関係には全く新しい面が現れた.それは怒り,叱責,懲罰,のろい,罪の宣告という面である.「わたしは,あなたのみごもりの苦しみを大いに増す.あなたは,苦しんで子を産まなければならない.しかも,あなたは夫を恋い慕うが,彼は,あなたを支配することになる」(創世3:16).「土地は,あなたのゆえにのろわれてしまった…あなたは,顔に汗を流して糧を得,ついに土に帰る…あなたはちりだから,ちりに帰らなければならない」(同3:17‐19).「そこで神である主は,人をエデンの園から追い出されたので,人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった」(同3:23).有罪の宣告の中にも,神は救いの約束を与えて下さった(同3:15).しかしこの約束は,人間が神から離れるという恐るべき結果をただちに変えるようなものではなかった.<復> (3) 人間相互の関係における変化.罪はアダム個人にだけでなく,人類全体に影響を及ぼした(ローマ5:14).創世3:7は,罪の結果が人間相互の間にも及んでいることを示している.そして,何よりもまず,罪の結果は基本的に男と女との間に見られるが,それは堕落の過程ですでにある程度現れていた.なぜなら,アダムに与えられていた指導性をエバは奪い,またアダムはこの転倒を受け入れたからである.幸福と調和に至ることが可能であった両性の関係は失われ,性的関係も恐るべきものとなる可能性を秘め,また実際に恐るべきものとなっていった.それだけではなく,アダムの家庭の歴史はただちに罪のカタログのように,次々と恐るべき結果をもたらした.すなわち,ねたみ,敵意,憎しみ,殺人,一夫多妻,暴力などが見られた.「私の受けた打ち傷のためには,ひとりの若者を殺した.カインに7倍の復讐があれば,レメクには77倍」(創世4:23,24).「地上に人の悪が増大した」(同6:5).「地は,彼らのゆえに,暴虐で満ちている」(同6:13).<復> (4) 世界の人間に対する関係の変化.罪は人間の精神における霊的領域で起った一つの出来事である.罪は物理的な世界における混乱ではないし,物理的状態が調整不能になったことでもない.しかし,罪は物理的な非霊的なものにも根本的な変化をもたらした.罪の影響は宇宙的だからである.「土地は,あなたのゆえにのろわれてしまった…土地は,あなたのために,いばらとあざみを生じさせる」(創世3:17,18).「被造物が虚無に服した」「被造物全体が今に至るまで,ともにうめきともに産みの苦しみをしている」(ローマ8:20,22).キリストが成し遂げて下さった和解が最終的にその目的を果す時が到来して初めて,被造物は滅びの束縛から解放され,神の子らの栄光の自由の中に入れられる.もちろん,神の一般恩恵の支配下に世界があるため,人間は自然と調和して森を造り畑を耕すこともしてきたが,世界の歴史は破壊の歴史でもある.文明と科学技術の進歩が自然界にもたらしたものは,全体的に見て,破壊をとどめる方向に向かうものでないことは明らかである.<復> 7.罪の刑罰.<復> 罪の刑罰は聖書で明らかに語られている.罪が死をもたらすことは,神がアダムに前もって予告したことであった(創世2:17).それはエゼキエル18:4の教えているところであり,パウロ(ローマ6:23)やヤコブ(ヤコブ1:15)の教えているところでもある.聖書が死の刑罰を語る時,単なる肉体的な死ではなく,人間の全体としての死のことである.われわれは肉体の死,霊的死,及び永遠の死というように区別するが,聖書はそういう区別をしているわけではなく,死を総体的に見ている.この刑罰はアダムが罪を犯した時に執行されたが,完全な意味では,神の恵みのゆえに一時的に延期された.便宜上従来の区別によって分けるが,L・バーコフ(ベルコフ)は次のように説明している.<復> (1) 霊的な死.罪は人間を神から分離する.それが霊的死である.人間が真の意味で生きることができるのは,生ける神との交わりの中においてだけである.死の状態において,人間は罪の咎という重荷を負う.その咎はイエス・キリストの贖いのわざによる以外に除き去ることはできない.それで生来の人間の良心は,やがて刑罰を受けることを予感している.この霊的死は咎だけでなく腐敗をも意味するため,神の目に人間は不義なる者であるだけでなく,汚れた者である.そしてこの汚れが人間の思いやことばや行動の中に現れてくる.そのため,神の一般恩恵の働きによって抑制されることがなければ,社会生活というものは全く不可能となる.<復> (2) 人生の苦しみ.人生の苦しみも罪の刑罰の中に含まれる.罪は人間の生涯全体に混乱をもたらした.その肉体的生活は弱さや病気の犠牲となった.その結果は不快な苦しみを与えることもあり,時には生活の喜びを奪い,日常の生活を不可能にし,精神面を破壊することさえある.それだけでなく,人間の罪のゆえに,被造世界が破滅に服し,腐敗の絆に縛られている.しかし,これらのものを具体的に特定し,罪と結び付けて個々の刑罰とすることはふさわしくないであろう.それでも,それらのものが神の御手にあることを否定するのは正しくない.<復> (3) 肉体的な死.身体と魂の分離も罪に対する刑罰の一つである.「あなたはちりだから,ちりに帰らなければならない」(創世3:19)ということばが示しているように,主が刑罰を語られた時,この死のことを考えておられたことは明白である.ローマ5:12‐21の議論において,パウロも肉体の死を考えていたと思われる.<復> (4) 永遠の死.これは霊的死の終極と見ることができる.現在の抑制が排除される時,罪の堕落が極限にまで達し,神の怒りが滅びに至る者たちの上に最高度に達する.いのちと喜びの源である神からの分離はその極限に至る.死はことばで言い表すことのできない恐ろしいものとなる.永遠の死に至る者の外的状況は,その悪い魂の内的状況に相当するものとなる.良心の呵責と肉体的苦痛がある.そして彼らの苦しみの煙が永遠に立ち上る(黙示録14:11).<復> 8.罪の赦し.(→本辞典「罪の赦し」の項)<復> 9.赦されない罪.<復> いわゆる「聖霊を汚す罪」というのは,主イエスがマタイ12:31,32及びその並行箇所で言われたものである.またヘブル6:4‐6,10:26,27,Ⅰヨハネ5:16もこの罪に言及しているものと考えられる.また,より一般的に「聖霊に対する罪」というように呼ばれることもあるが,これは赦されない罪の範疇に入るものではない(参照エペソ4:30).「聖霊を汚す罪」とは,死の床における不信仰のことを言っているのではないし,単にキリストを否定することでもない.ペテロはそうしたことがあったけれども赦されている.聖霊を汚すとあるから,聖霊の神聖さを否定する罪であるかのように見えるが,ヘブル6:4‐6から判断するとそういうものでもない.「聖霊を悲しませ」(エペソ4:30)たり,「御霊の火を消す」(Ⅰテサロニケ5:19)ということでもない.これらのことをした人々が救いから排除されたりすることはなかったからである.ヘブル6:4‐6は信者のことを指していると考えて,信仰から離れる罪のことだと考えるなら,それも正しくない.この箇所はそうは語っていないし,信者は決して失われることがないからである(ヨハネ10:27‐30).<復> この罪は次のようなものと考えられる.キリストにおける神の恵みを聖霊があかしして証拠と確信とを与えて下さる.それに対して,憎しみと敵意から,それが聖霊のわざではなくやみの世の主権者であるサタンによるものだと言って,意識的に,故意に,悪意をもって拒否したり中傷したりする罪である.つまり,この場合,客観的には,キリストにある神の恵みの啓示と聖霊の力強い働きが共に明らかに示され,主観的には,聖霊によって与えられた啓明と知的確信とが非常に強力であって,真理を正直に否定することができないような状態が前提とされている.従って,この罪は,真理を疑ったり単に否定したりすることではなく,確信に逆らい,良心の啓示に逆らい,心の判断にも逆らうところにある.キリストはパリサイ人たちの見ている前で大きな奇蹟を数々行った.イスカリオテのユダも主と行動を共にした中で聖霊の働きを見てきた.つまり「光を受け」たのであり,「天からの賜物の味を知」った(ヘブル6:4)のである.こうした知識と経験があるにもかかわらず,彼らはキリストを冒涜した.彼らは,キリストを神でないとしただけでなく,彼を非難した.つまり,神をサタンとし,サタンを神としたのである.これはまさに神に対する悪魔的反抗である.従って赦されることはない.「死に至る罪」(Ⅰヨハネ5:16以下)は,キリストを信じ神の戒めを守ることを故意に拒絶することである.<復> 10.クリスチャンと罪.<復> クリスチャンは自分の罪が赦されており,自分が罪に対して死んだ者であり,罪はもはやその力を持っていないことを知っている.しかし,体験的に罪が自分の中にあることも知っているし,聖書には信者の罪,教会の罪のことが語られ,罪の赦しを祈るように求められている.「もし,罪はないと言うなら,私たちは自分を欺いており,真理は私たちのうちにありません」(Ⅰヨハネ1:8).「私たちの負いめをお赦しください」(マタイ6:12).宗教改革に至るまでの教会の歴史において,洗礼(バプテスマ)後の信者の罪についていろいろなことが言われ教えられてきた.煉獄思想が生れたのも,この問題に関係がある.ルターは,神の恵みによる信仰義認の真理を聖書から再発見した時,神の赦しが信者の全生涯に及ぶことを知り,同時に信者の生活が罪から全く解放されないことも知った.つまり原罪それ自体は残っていること,従って現実に犯される罪のあることも見た.キリストにあって新しくされるということは,罪と闘いながら,信仰によってすでに入れられやがて終りの日に完成する義の実在性を喜びながら生きることである.ルターはこの場合,どちらかと言うと罪との闘いに強調点を置き,カルヴァンは新しくされた性質に注意を向けた.宗教改革後,アナバプテストや敬虔主義者の影響によって,この世での完全聖化を求める傾向が現れた.しかし,聖書が明らかにしているように,罪の支配が完全に破壊されたのは,キリストにおいて起ったことである.そしてキリストはこのことを信者のためにして下さったのであるから,信者はキリストにあって,義とされ,聖とされ,栄化を受けたのである(ローマ8:30).信者の罪に対する勝利は,この世における生活において,暫定的,前進的な形で見られ,新しい時代の到来において完成した形となって現れる.それゆえクリスチャンは,自分がその思いとことばと行為においてなお罪を犯すことを知っているが,罪に常に負ける敗北者としてではなく,将来,完全に勝利する者として罪と闘わなければならない.勝利者キリストとの交わりの中で,また内住の聖霊の知恵と力とによって導かれて,そうするのである.→原罪,罰の赦し.<復>〔参考文献〕Berkhof, L., Systematic Theology, Banner of Truth, 1941 ; Murray, J., The Collected Writings of John Murray, Vol.2, Banner of Truth, 1977 ; Bromiley, G. W. (gen. ed.), The International Standard Bible Encyclopedia (fully revised), Eerdmans, 1988.(鈴木英昭)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社