バプテスマとは?
バプテスマ…
〔序〕<復> [ギリシャ語]Baptisma,[英語]Baptism,[ドイツ語]Taufe.しばしば「洗礼」と訳されるが,「洗礼を受ける」という語がキリスト教以外の表現として用いられる時は,大きな出来事を初めて経験することを指す場合が多い.聖書では,イエス・キリストの救いを受けて新生した際に聖霊が与えられることを聖霊のバプテスマを受けると表現し,また信仰者に対して水を用いて行う儀式を水のバプテスマと呼ぶ.この水によるバプテスマは,聖霊によるバプテスマの目に見える表現である.<復> キリスト教会には,水のバプテスマについての解釈と適用で幾つかの異なった立場がある.これはバプテスマを救いの手段と見なすローマ・カトリック教会に代表される見解と,救われた者への神の恵みの一手段とする大部分のプロテスタント教会の理解という基本的で重要な違いに始まる.さらにバプテスマは誰に授けられるかについて,すなわち信仰告白者は当然として,信仰者の子供,特に幼児(正しくは乳児)にも授けられるべきか否かで意見が分れている.また様式について,すなわち全身を水中に没する浸(水)礼か,水を頭上から注ぐ灌水礼,注水礼もしくは滴(水)礼か,どれが聖書で行われ,教えられているバプテスマの様式と合致するのかという点で見解が相違する.<復> 本項では,バプテスマに関するそれぞれの主張を,プロテスタント教会を代表するものとして長老改革派教会,ルーテル教会,バプテスト教会の立場から取り上げることにする.<復> ローマ・カトリック教会のようにバプテスマが罪の赦しに必然だとすると,死の直前にバプテスマを受けてそれまでの罪が赦されるとするか,乳児の時にバプテスマを受けてそれ以後の罪の赦しを保証されるかが論じられてきたという歴史的過程が,バプテスマ論に影響を与えてきていると言えよう.ことに幼児洗礼の問題は,神学的な理解とともに,この歴史的な流れに関連した部分を考える必要があるのではないか.すなわち,宗教改革時代の初期にプロテスタント教会は,ローマ・カトリック教会からの改宗者によって構成されていた.宗教改革者たちの多くは,神学的な考察の結果ではあるが,ローマ・カトリック教会のバプテスマそのものを有効と認め,それによって,乳児の時代にバプテスマを受けたこともそのまま承認してきた.他方,ローマ・カトリック教会の行為義認の教理と深い関係があるバプテスマ論,罪の赦しの手段としてのバプテスマという基本的な解釈を疑問視してそれを否定する群れは,幼児洗礼自体をローマ・カトリックの誤った教理に基づく制度と見なして否定するのである.聖書学的,神学的な考究とともに,このような歴史的な経緯もバプテスマ論にとっては見過してはならない面であるはずである.<復> バプテスマの様式に関しては,語源の意味自体の議論も重要であるが,聖書で行われていたバプテスマがどのような様式であったかという点,さらにその可視的な様式が何を表象しているかに注目する必要があろう.灌水礼,注水礼,滴(水)礼を主張する人々の多くは,バプテスマが聖霊の注がれたことの表象である点を重視し,浸水礼の立場では,イエス・キリストの死と葬り,復活において彼と一体となったことの表象と理解している.確かに聖書はバプテスマにおいて,それぞれを表すものとして述べているが,新約聖書時代にどのようなバプテスマの様式が行われていたかを合て考慮すべきであろう.<復>(鈴木 昌)<復><復> 〔長老改革派系〕<復> 1.用語.<復> 新約聖書において通常用いられている名称は,動詞が[ギリシャ語]バプティゾーであり,名詞が[ギリシャ語]バプティスマ,[ギリシャ語]バプティスモスである.しかし,これらの用語がバプテスマの意味でだけ使われているわけではない.ユダヤ人による食前のきよめ(ルカ11:38)や,儀式的なきよめの水に対しても用いられる(マルコ7:4).また,キリストの十字架の苦難がバプテスマとも呼ばれている(マルコ10:38,ルカ12:50).名詞のバプティスマとバプティスモスとの間には,前者がキリスト教のバプテスマを意味し,後者は儀式的きよめを意味して使い分けがあるという説があるが,根拠は認めがたい.マルコ7:4ではバプティスモスはきよめの儀式を意味しているが,ヘブル6:2ではキリスト教のバプテスマを指していると考えられるからである.またキリスト教のバプテスマを意味していながら,バプテスマ以外の用語で表される場合もある(使徒10:47,エペソ5:26).<復> 2.キリスト教以前のバプテスマ.<復> イエスの時代にバプテスマが初めて存在するようになったのではない.それは宗教的表象として広く行われていたものであって,ゾロアスター教,バラモン教の弟子たち,またエジプト,ギリシヤ,ローマ,そして特にユダヤ人の間に見られた.シナイ山でモーセが神に命じられた幕屋でのきよめには,水が用いられた.罪のためのいけにえがささげられる祭壇と会見の天幕との間に大きな洗盤が置かれ,その中の水でアロンとその子たちは手と足とを洗わなければならなかった(出エジプト30:17‐19).この様式の象徴するきよめは,ユダヤ人の儀式と言語生活の中に浸透した(詩篇26:6,ヘブル9:10).またこれは,キリストの時代においても,世俗的な日常生活の中で実行された(マルコ7:3,4).<復> 新約の時代に水のバプテスマが容易に受け入れられていたことは,バプテスマのヨハネのことを考えてもうなずける.パリサイ人たちが,「キリストでもなく,エリヤでもなく,またあの預言者でもないなら,なぜ,あなたはバプテスマを授けているのですか」(ヨハネ1:25)とヨハネに尋ねたことは,彼らにとって,バプテスマを授けること自体が疑問に思われることでも奇異に感じられることでもなく,むしろある意味で当然であったということを物語っている.もしパリサイ人らの代表がバプテスマのことを知らず,それを認めていなかったのであれば,異端について熱心に捜し回る彼らのことであったから,新奇な儀式を教えそれを行っている者として,ヨハネを激しく責めたはずである.次に,キリストがヨハネからバプテスマを受けた時に言われた「今はそうさせてもらいたい.このようにして,すべての正しいことを実行するのは,わたしたちにふさわしいのです」(マタイ3:15)ということばからも,彼の受けたバプテスマの起源が旧約にあったことが考えられる.キリストが「正しいことを実行する」と言われる場合,それは旧約聖書に照らしてのことであるから,彼のバプテスマは旧約聖書に従うためであったということになる(民数8:6,7).<復> このほかに,ユダヤ人の間で行われていたもので,いわゆる改宗者のバプテスマというものがあった.<復> 3.キリスト教のバプテスマ.<復> (1) キリスト教のバプテスマの制定.キリストは十字架による和解のわざを完成し,復活によってその証明を父なる神から受けた後で,仲保者としての権威をもって制定された.それを次のことばで弟子たちに語られた.「それゆえ,あなたがたは行って,あらゆる国の人々を弟子としなさい.そして,父,子,聖霊の御名によってバプテスマを授け,また,わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように,彼らを教えなさい.見よ.わたしは,世の終わりまで,いつも,あなたがたとともにいます」(マタイ28:19,20).この制定のことばから,幾つかのことが言える.(a)ユダヤ人という一つの国民だけに当てはまることではなく,あらゆる国民にバプテスマは適用される.(b)この命令はまず使徒たちによって実行されるが(使徒2:38,10:47,16:33等),ある一時期のものではなく,世の終りまで,つまり主の再臨まで(Ⅰコリント11:26),常に守り行われるべきものである.(c)キリストの弟子たちが生れることとバプテスマの行為は,切り離すことのできないものである.(d)三位一体の神の名によってなされるバプテスマが,最初からあらゆる国の各教会において,同じようになされるよう命じられた.<復> (2) バプテスマの意味.礼典は霊的な恩恵を表すしるしであるとともに,その霊的な恩恵の約束を確認する証印である.それで,礼典には二つの面があると言われる.すなわち,一つはキリストの制定に基づいて用いられる外的,感覚的しるしであり,もう一つは,それによって意味される内的,霊的恵みである.さらに,バプテスマの儀式がそれを授ける側にも受ける側にも,信仰によりふさわしい熱意をもって行われる時,霊的恩恵がこの儀式に伴う.従って,バプテスマの神学的意味を考える時,約束される霊的恩恵とは何かということが問題になる.<復> 新約の時代においてバプテスマは次のことと関係がある.(a)罪の赦し(使徒22:16,ヘブル10:22).(b)新しく生れること(ヨハネ3:5,テトス3:5,6).(c)キリストに接ぎ木されたこと(ガラテヤ3:27)—この結合は,彼の死,葬り,復活との結合である(ローマ6:3‐6).(d)父なる神との新しい関係に入ったこと(ガラテヤ3:26以下).(e)聖霊を与えられたこと(Ⅰコリント12:13).(f)教会に属するようになったこと(使徒2:41).(g)救いを賦与されたこと(マルコ16:16,ヨハネ3:5).<復> 以上のような聖書の箇所から,バプテスマとは積極的にはキリストとの結合のしるしであり証印であって,そこから再生,子とすること,永遠のいのちのしるし及び証印とも言える.そして他方,消極的には,罪の赦し,罪のきよめのしるしであり証印である.バプテスマに用いられる水は,罪を取り除くキリストの血と,人間の性質に潜在する罪と破壊の支配に対する聖霊の聖化の影響力とを表すものである.従って水のバプテスマを受けることは,キリストの血により,またキリストの功績により罪のきよめがなされ,キリストの死と復活のゆえに罪に死に新しい生命に生きることを象徴的に表している.<復> 4.バプテスマのフォーミュラ.<復> キリスト教のバプテスマのフォーミュラ(式文)は,マタイ28:19に見られる.それは「父,子,聖霊の御名によってバプテスマを授ける」というものである.しかし,三位一体の御名を含むフォーミュラは,新約聖書ではここだけであるし,教会史に記録されているものとしては殉教者ユスティノスの時代まで出てこない.使徒時代にこの儀式が行われた聖書の記録においては,短い慣用句が用いられている.ペンテコステの日に信じた3千人が「イエス・キリストの名によって」(使徒2:38)バプテスマを授けられた.またカイザリヤにおいて,コルネリオとともにいて信じた人々も同じであった(使徒10:48).ピリポの伝道によって信じたサマリヤの人々は「主イエスの御名によって」バプテスマを受けている(使徒8:16).エペソにいたバプテスマのヨハネの弟子たちは,パウロの伝道の結果,やはり「主イエスの御名によって」バプテスマを受けた(使徒19:5).このように短い表現が用いられたのは,イエス・キリストが特に強調され,バプテスマの意味するキリストとの霊的結合によって,彼との特別な関係に入れられるためであろう.<復> これらの慣用句において用いられる前置詞の相違によって,バプテスマの意図する点の理解に光が与えられる.使徒2:38の「イエス・キリストの名によって」の「よって」は[ギリシャ語]エピである.イエスをメシヤと告白するその告白に依拠して,バプテスマが授けられたところに強調点があるのであろう.使徒10:48の「イエス・キリストの御名によって」の「よって」は[ギリシャ語]エンであるが,イエス・キリストの権威に基づいてバプテスマが授けられたことを表している.その他の場合は[ギリシャ語]エイスが用いられている.それは目的を表し,イエス・キリストとの特別な関係に入れられ,彼を主なるお方として仕えていくことを示している.それは,「モーセにつくバプテスマ」(Ⅰコリント10:2)がモーセに民が信頼して従うことを意味する用法と同じである.<復> 5.幼児洗礼.<復> 幼児洗礼はそれ自体として,聖書に直接的に命じられてもいなければ禁じられてもいない.バプテスト系の教派によって幼児洗礼は否定されている.しかし改革派においては,正当で必然的な結論として聖書から引き出される教理であると考える.<復> 幼児洗礼を考える場合,まず第1に考えなければならないことは,旧約と新約の全体を通じてそれぞれの時期に,神がその民の救いのために啓示した恵みの契約である.この契約は,旧約の時代も新約の時代もその本質において同じであり,その対象に幼児も含まれてきたのである.神の民の救いと望みは,エデンの園からパトモスに至るまで啓示されており,自由な恵みの約束はその性質と実質において変らなかった.原福音としてアダムに啓示されたその契約は,形式や条件は変っても,実質的には同じ契約としてノアに与えられ(創世9:11),ことばや予型をもってアブラハムに繰り返され(創世17:7,8),モーセ以後の時代の旧約の教会に対し,長い歴史,預言,様々な象徴的制度の中で明らかにされた.そしてそれは福音の時代において充分な光が当てられるようになった.福音によって確立した恵みの契約が,その時になって初めて知られるようになったものではなく,すでに旧約の時代に始まっていることは,パウロの告げている通りである(ガラテヤ3:8,17,18).この恵みの契約の外に信者の子らが置かれることはなかった.なぜなら,契約のことばが述べられる時,ほとんど常に「あなたとあなたの子孫」というように言われているからである.「あなたは,あなたの後のあなたの子孫とともに,代々にわたり,わたしの契約を守らなければならない.次のことが,わたしとあなたがたと,またあなたの後のあなたの子孫との間で,あなたがたが守るべきわたしの契約である.あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい」(創世17:9,10).この割礼という契約の証印は,アブラハムから新約の時代に至るまでの約2千年にわたる証拠として続けられた.これに対し,恵みの契約には現世的な契約と霊的祝福の契約との二つが別個にあって,アブラハムの「子孫」は肉による子孫として,成人も幼児も含めて現世的な契約に属し,アブラハムの霊的子孫という点では成人だけが霊的祝福の契約に属する,という説がある.そして,割礼というしるしは霊的祝福の証拠ではなく現世的契約の証拠として,幼児にもなされたのであると主張する.しかし,繰り返して啓示されたこの契約は,二つの別個のものではなく,一つの契約であって,現世的と霊的の二重の祝福を持つものである.地上のカナンと天のカナンの両者を同時に受け継ぐことが,一つの契約において具現される.事実,アブラハム契約のしるしである割礼が,現世的祝福ではなく霊的祝福の証印であることは,パウロが明言している通りである(ローマ2:28,29).また新約聖書に多く暗示されているように,恵みの契約は,福音の豊かさのゆえに,新約の時代になっても適用範囲が拡大されることはあっても縮小されることはないのである(使徒2:39,16:31).<復> 第2に,神への信仰を告白する者たちから成る神の教会は,旧約の時代においても新約の時代においても本質的に同じである.神の教会は,旧約においても新約においても,同じ恵みの契約という土台の上に立っているからである.キリストの自己啓示,キリストとの交わり,キリストの与えられた霊的賜物や祝福の程度の点で時代によって異なるとしても,恵みの契約の仲保者であるキリストなしに神の教会は存在しなかった.言い換えると,教会はキリストの教会であった.そうであれば,旧約の時代に信者の子らが教会に加えられていたのであるから,新約の時代に信者の子らが教会に加えられるのは当然である,と言えよう.<復> 第3に,新約の教会が成立する以前の期間において,教会に加えられるために割礼が必要であった.新約の教会が成立して以来,それはバプテスマを受けることに変った.そして,この割礼とバプテスマとは,単に外面的な行為であるだけでなく,同じ恵みの契約の祝福のしるしであり証印であり,霊的真理を表明しているものである.霊的福音とは,一つにはキリストに対する信仰によって与えられる罪過からの義認であり,もう一つは聖霊の働きを通し心を新しくされることによって罪の腐敗からきよめられる聖化のことである.割礼が明らかに義認を述べていることは,パウロの語る通りである(ローマ4:11).また割礼が聖化のしるしであることも,聖書の幾つかの箇所が明らかにしている(ローマ2:28,29,ピリピ3:3,コロサイ2:11).こうした霊的な祝福と真理とが,新約の教会のバプテスマの儀式において表されているおもな祝福と同じであることは言うまでもない.そしてさらに,この割礼がバプテスマに代えられていったことは,この両者がその本質的な性質と意味において同一であることを示している.それは単なる状況の変化ではなく,その代りになり得るものとして,パウロは理解し教えているからである.彼はバプテスマのことを「キリストの割礼」と呼んでいる(コロサイ2:11,12).この割礼において,男子の幼児が対象となったのであるから,バプテスマにおいても同じでなければならないはずである.<復> 最後に,幼児が割礼に加えられたのは,親子の関係が代表の原理に立って見られていたからである.パウロはこの旧約の原理を新約の教会に当てはめて語っている.それは,両親のどちらかが信者である場合の子のことである(Ⅰコリント7:14).ここで言われている「聖い」「汚れている」とは,合法的結婚によって生れたか否かを問題にしているのではなく,神との関係のことで,聖別された者か否かが問題なのである.ペンテコステの日にペテロはバプテスマの対象に「あなたがたの子ら」を含めたが,それが割礼を幼児に適用していたユダヤ人に語られたことを忘れてはならない.もし幼児を対象外にされたなら,彼らは必ず理由を尋ねたであろう.そして初代教会で繰り返して問題となり,それに対する解答が使徒たちの書簡に現れたことだろう.しかしそのような事実は見られない.問題として扱われなかったということは,ユダヤ人信者たちが契約のしるしであり証印であるバプテスマをその子らにも適用していたからである.<復> 6.バプテスマの様式.<復> バプテスト派によると,バプテスマの唯一の様式は,水の中に没し次いで水の中から再び現れる,つまり浸礼である.そしてこの様式が不可欠であるのは,バプテスマが,キリストの死と復活とを象徴するものであり,これを受ける者がキリストとともに死に,彼とともに復活することを表すからであると言う.おもにマルコ10:38,39,ルカ12:50,ローマ6:3,4,コロサイ2:12を根拠としている.しかし,前者二つの聖句は,キリストが受けようとする苦難によって圧倒されている様を描いているのであって,バプテスマには全く言及していない.後者の二つだけが問題に関係するが,それでも,これらの箇所は水のバプテスマの霊的意味を示しているのであり,様式を示しているものではない.ここでは水への言及が全くないだけでなく,文脈から言って信者がキリストと結合された一体化の真理が語られている箇所である.「肉のからだを脱ぎ捨て」(コロサイ2:11)たり,「キリストの割礼を受けた」(同)ということは,水のバプテスマには当てはまらず,聖霊によるものであると考えられる.またキリストの死,葬り,復活(ローマ6:4)は,浸礼の象徴するものとはかけ離れている.キリストの死と葬りは水中ではなかったし,水が象徴するものとも関係がない.またキリストの復活は,水浸しになった姿とは類似性がない.<復> 改革派神学では,バプテスマの表す象徴的意味を,「ジュネーブ信仰問答」の問324「…まず最初に洗礼の意義は何ですか」に次のように答える.「それには二つの部分があります.すなわち主は洗礼において,われわれの罪の赦しを,次にわれわれの新生もしくは霊的更新を,われわれに差し出されるのであります」.さらに問325とその答では,「水は,これらの事柄とどのような類似性をもっているために,これらを表すことになるのですか」.「罪の赦しは一種の洗いであって,あたかも体の不潔が水で洗い清められるように,われわれの魂がこれによってその汚れから潔められるからであります」.洗いきよめるという思想は,旧約のあらゆる洗いの儀式と関係があり,バプテスマのヨハネのバプテスマとも関係する.そしてキリストの制定されたバプテスマもこうした要素を持っている.全く違ったことを表象するために制定されたのであれば,誤解を未然に防ぐために,キリストは何らかの説明を与えられたはずである.<復> 次にバプテスト派は,浸礼の根拠として聖書用語[ギリシャ語]バプトー及び[ギリシャ語]バプティゾーを挙げる.バプトーはギリシヤ語訳旧約聖書ではしばしば用いられているが,新約聖書では,ルカ16:24,ヨハネ13:26,黙示録19:13の3回だけであって,これらはみなバプテスマと関係がない.バプティゾーは新約で76回使われ,キリストのバプテスマの制定の時にも用いられた用語である.しかし,この語には多様な用法があって,必ずしも水の中に没することを意味せず,ユダヤ人のきよめの儀式である手に水を注ぐことにも用いられている(マルコ7:4,ルカ11:38).「私たちの先祖はみな,雲の下におり,みな海を通って行きました.そしてみな,雲と海とで,モーセにつくバプテスマを受け」(Ⅰコリント10:1,2)という表現の中にバプテスマの様式が描かれていると主張する人々もいる.しかしこの場合,彼らは身体的に水に触れることはなかったのである.聖書用語からバプテスマの様式を決定することが困難なのに加えて,実際問題として,浸礼を行うのがむしろ困難であったと思われる例が聖書に見られる.ペンテコステの1日で,使徒たちが3千人もに浸礼を授ける場所があっただろうか(使徒2:41).サウロのバプテスマは,文脈から見て池か川に行ってなされたと考えられるだろうか(同9:18).コルネリオと多くの人々は,その家でバプテスマを受けたのではなかろうか(同10:47,48).ピリピの看守は,その責任上,獄を離れて川に行くことができただろうか(同16:33).<復> T・M・リンジはこの様式の問題について,歴史的視点から次のように述べている.「古い教会法規にしろ初期の教父たちの著作にしろ,文献を調べてみると,奇妙なことに浸礼がこの儀式のほとんど一般的な様式であることがわかる.しかし,初期のバプテスマの様式を描いた資料を集めてみると,灌水礼が一般的な方法で,浸礼はむしろ例外的である.灌水礼の場合,ほとんど例外なく,受ける者が水の中に立ち,授ける者が水をその者の頭の上に注いでいる.従って,浸礼がほとんど一般的に行われていたという証拠にされるのは,川の水の留まっている所(そうした場所に地区の聖徒たちの名が記されているのは,その儀式を行うのに彼らがよく使った場所であることを示しているのであろう)や,ほとんどすべてが中世初期の大きな洗礼槽から来ている.多くの人がそれらを浸礼の証拠というように結論付けているが,灌水礼の証拠でもあったのである.また興味深いことに,信仰告白に基づくバプテスマを主張した時,16世紀のアナバプテストの大部分が行っていたのは浸礼ではなかった.ミュンスター市の市場で行われた大きなバプテスマの光景では,牧師たちは受ける者たちの頭に容器の水を3度注いだ.彼らは灌水礼を行い浸礼ではなかった.メノナイトや初期バプテストの間でもこれと同じである.この礼典の二つの様式—浸礼あるいは灌水礼—は初めの12世紀間にわたって教会の間で広く行われていた.そして13世紀になって初めて滴礼,つまり振りかけることがほとんど普遍的に行われるようになったのである」(“Baptism 〔Reformed View”〕, The International Standard Bible Encyclopedia).<復>〔参考文献〕Bannerman, J., Church of Christ, Vol.2, Banner of Truth, 1869 ; Berkhof, L., Systematic Theology, Banner of Truth, 1941 ; Bromiley, G. W.(gen. ed.), The International Standard Bible Encyclopedia (fully revised), Eerdmans, 1988.(鈴木英昭)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社