《じっくり解説》キリスト教哲学とは?

キリスト教哲学とは?

キリスト教哲学…

[ラテン語]Philosophia Christiana,[英語]Christian Philosophy.普通,キリスト教哲学と言う場合,人はスコラ哲学のことを念頭に浮べる(→本辞典「理性と信仰」の項,『新聖書・キリスト教辞典』「聖書と哲学」の項,いのちのことば社).スコラ哲学においては,E・ジルソンも言うように,キリスト教哲学はその可能性を巡って論議する必要がないほど明瞭に歴史的に存在していると考える.ローマ・カトリックの立場の根底にはスコラ的総合の哲学が存している.この立場においては,罪による全的堕落と腐敗,すなわち,人間本性全体への罪の影響を認めず,特に霊魂の理性的部分への影響を認めず,自然的理性は少し傷ついているだけであると考えている.しかも,その傷も身体と結合した霊魂の欲性的部分に由来すると考えている.自然的理性は神について,人間について,世界について,不完全であるけれども正しい真理体系を立て得ると考える.トマス・アクィナスにおいてアリストテレースの権威は絶大である.この自然的理性の真理体系を,聖書の神,人間,世界についての啓示的真理が補修し補完して真理体系が完成すると考える.神の恩恵は優しくこの人間本性の傷の手当をし,人間本性をかばうと考える.言い替えると,ローマニズムはもともと人間の全的堕落を承認せず,罪によっても腐敗していない自然的理性を原理的に承認し,この自然的理性が自律的に立てる神・人・世界についての自然的真理の基盤の上に,啓示的真理を受容する.自然的理性が見出したものを恩恵が完成し,理性の浸透を許さない真理は恩恵が補完する.トマスの「恩恵は自然を廃棄せず,完成する」という言葉に表現されているように,自然の光による真理と恩恵の光による真理の総合にキリスト教哲学が成立している.<復> しかし,聖書の主張によれば,非再生者は不義をもって一般啓示の真理を阻み,正しい神認識に到達せず,かえって神の怒りを招き,神の前に弁解の余地をなくしている.聖書は自然的理性が自然啓示に対するある程度の正しい認識的応答をすることを容認するような自然神学を認めていない.それゆえ,自然的理性の真理と聖書の真理の総合に成り立つようなキリスト教哲学を認めることはできない.<復> 自然神学や哲学と神学の総合を拒否するプロテスタンティズムの立場においては,キリスト教哲学は成立するだろうか.プロテスタンティズムの中でも,信仰一元論的立場や敬虔主義的傾向においては,キリスト教哲学に対して否定的態度を示すことが多い.しかし,宗教改革が,聖書の独占的権威性の原理を中心にする運動であり,被造世界の全領域,思想と生活の全体を聖言の権威と支配の下にもたらし,全生活領域において神の栄光を現すことを教えたとするならば,それはまず,人間の思惟における聖言の支配を確立し,キリスト者をして,すべての実在に対して新しい関係に立たせ,またこの新しい関係を認識させ,すべてのものを神の力と権威による支配の下にあるものとして見させる聖書に基づいた全包括的実在観である哲学原理を原理的には包含しているはずである.その意味で,宗教改革は,人間の思惟を有神論的に基礎付け,全実在と人間の全体的生に関する全体知,知識の最高統一の学と言われてきた哲学にこそ,革新的原理(reformatory principle)を提供する原理的必然性を持っていたと言わなければならない.「宗教改革はキリスト教宗教がすべてを支配する立場であることを再び理解したのであるから,宗教改革は原理的には哲学的思惟の根元的改革(a radical reformation)でもあった」(ドーイヴェールト).確かに,宗教改革が,スコラ的順応と総合(accommodation and synthesis),自然と恩恵の二元論に立つトマス的統一的世界観を認識論としても存在論としても哲学体系としても排除するなら,これに代る有神論的認識としての理論的思惟の基礎付けと包括的実在観とを提示しなければならない.もしそのことをしないなら,再びスコラ化して順応と総合に陥るか,世界に関する無関心(アパシー)や無世界論(アコスミズム)に陥らざるを得なくなる.改革者たちは,哲学の面での任務や責務を帯びていたわけではないし,後継者たちも宗教改革の革新的原理を新しい哲学の建設に向かって適用するという方向へは議論を発展させなかったし,プロテスタンティズムの歴史は独自の哲学の展開を見せなかった.それどころか,メランヒトンにおいては,キリスト教思想と非キリスト教思想の総合の伝統が復興した.しかし,19世紀後半から20世紀半ばにかけて,オランダのネオ・カルヴィニズムの流れの中に,改革主義哲学([英語]Reformational Philosophy,[オランダ語]Reformatorische Wijsbegeerte)という宗教改革の伝統に立つキリスト教哲学の運動が起った.彼らは,自然と恩恵のスコラ的二元論や自然と自由の近代主義的二元論と対決して,被造世界の全領域において神の主権を認める,聖書に立脚する哲学の擁護と樹立を考えた.ドーイヴェールトは『法理念の哲学』(1935年)(英訳『理論的思惟の新批判』)を書き,理論的思惟が成立するための普遍的条件の研究に着手したことは画期的意義を持っている.カントは『純粋理性批判』を著して近代哲学の認識論を確立した.理論的思惟が成立するための普遍妥当的条件の問題とは,「認識能力には何と何があるか」「それぞれの固有の働きと機能は何か」「それぞれがどのような相互関係に入った時に,学問的思惟は成立するか」「学的思惟の限界は何か」といった問である.この理論的思惟の成立のための普遍妥当的条件の研究の課題を超越論的課題と言い,この仕事を超越論的批判([ドイツ語]die transzendentale Kritik)と呼ぶ.カントの批判主義哲学はこの課題を探究して近代哲学的認識論を基礎付け,認識論におけるコペルニクス的革命をもたらし,近代主義的思惟に大きな影響を与えた.理性の自律性の原理に立つこの超越論的批判を承認できないとするならば,われわれキリスト者は独自にこの問題に答えつつ有神論的思惟を樹立しなければならない.学的認識というものの性格,認識能力の働き,認識能力と対象との関係,認識の限界というような認識論的課題は,まだ改革者たちには未知の問題であった.この近代的意識と課題の中で,革新的原理,改革主義的原理は,どのようにこの超越論的課題に答えるのか.理論的思惟が成立するための普遍妥当的条件を明らかにするこの重大な課題に取り組んだのがドーイヴェールトやフォレンホーフェンなど法理念哲学派の人たちであった.彼らは,理論的思惟,学的思惟が可能となる普遍妥当的条件を明らかにし,これによって可能となる理論的思惟によってすべての学問的思惟を原理的に基礎付け,同時に,被造世界の固有領域の意味と被造領域全体の意味連関を問うキリスト教哲学の樹立を構想した.<復> A・カイパーの「対立の原理」([英語]antithesis‐principle)の主張は,このキリスト教哲学の成立に対する先駆的役割を持っている.彼はスコラ的総合や近代主義的総合の原理に反対して,二種類の自己意識と二種類の学問を主張した.再生者の自己意識と非再生者の自己意識は,根本的に質的に異なっているので,両者の間に総合はあり得ない.人間の学的思惟も含めて一切の営みは,この出発点・第1原理としての心,自己意識から発するものであるから,再生者の学的思惟と非再生者の学的思惟は質的に異なっており,両者の間に総合はあり得ない.それぞれはそれぞれの建物を建築する.近代主義の世界観に,原理には原理で対抗するために,全包括的実在観としての聖書的世界観を構築しなければならない.カイパーには,対立の理論という認識論的課題意識と全包括的実在観・世界観の樹立という存在論的課題意識があり,これはキリスト教哲学に対する先駆的貢献である.<復> C・ヴァン・ティルは,キリスト教弁証学の立場で,信者と不信者がそれぞれ全く対立した哲学を前提にしていることを見抜き,キリスト教有神論哲学の擁護に努力を傾注した.このような,カイパーやヴァン・ティルに見られる,キリスト者と非キリスト者が,それぞれの哲学的前提を持っているという「対立」([英語]antithesis)の指摘は重要である.そうであれば,いかなる「総合」([英語]synthesis)もあり得ないからである.ヴァン・ティルによれば,非キリスト者は,未解釈的原事実([英語]brute fact)という存在論と自律的理性の立法者的法則付与的解釈,普遍定立的包摂作用という認識論を持っている.これに対して,キリスト者の前提する哲学は存在論的三位一体の神によって解釈された存在と,この存在を再生理性が神の解釈に従って再解釈する認識である.<復> 一般哲学の世界で,近代哲学の二つのデカルト的公理が揺さぶられている.現代哲学の状況は,特に最近復興してきている超越論哲学において,このデカルト的公理に対して懐疑的である.近代哲学の第1の公理は,宗教家はこれだけは真理という前提を持つが,哲学者は健全な自然的理性が明晰・判明にとらえるものだけを真理とするという無前提の立場に立っている.哲学は無前提の学であると.しかし,最近のパラダイム論は,それぞれの科学者が一定の現象理解の方法と枠組みを前提にしていることを明らかにし,K.‐O.アーペルの超越論的言語遂行論([ドイツ語]die transzendentale Sprachpragmatik)は,認識の普遍妥当的条件を考える時に,前提的言語のアプリオリを無視できない条件と考えている.このような思想的状況の中で,カイパーの対立の原理に基づく二種類の人間([オランダ語]Tweee¨rlei soort menschen)と二種類の科学([オランダ語]Tweee¨rlei wetenschap)における哲学的前提の指摘や,ヴァン・ティルの前提的哲学の指摘と前提による思惟方法は説得力を増していると言える.カイパーやヴァン・ティルやドーイヴェールトの立場から,一般哲学においても自覚されてきた理論的思惟の前提に対して,その前提が→宗教的性格/・・・・・←のものである,超理論的性格のものであることを教えなければならない.一般啓示に対し,自然的人間は,神の怒りの対象であるような真理抑圧的応答を繰り返し,神の前に弁解の余地をなくしている.非再生者が自然啓示に対して,神をあがめず感謝もせず,被造物崇拝に向かうような偶像崇拝的反逆的応答をするということは,宗教的中立ということは幻想であって,無知と暗黒にとらわれた心における異教宗教性の支配を証明する.ドーイヴェールトは,理論的思惟の普遍妥当的条件を探究しようとすれば,カントのように理性の自律性を前提にした上での理性の自己批判によってそれをなすことは不毛であることを明らかにし,逆に理性の自律性というような偶像的公理を生み出す,心における超理論的宗教的前提を明らかにしなければならないと考えた.理性の自己批判という理論的思惟の次元で認識の条件を探ることは不可能である.むしろ,理性という思惟の論理的機能を駆使する心そのものがどのような宗教動因によって支配されているかという,いわば,理論的思惟のレベルを超えた超理論的,あるいは前理論的前提を探ることこそ,理論的思惟の成立を可能とする条件の探究である.理論的思惟を支配しているのは,理論的思惟という次元を一歩底に超越した,心における超理論的宗教的前提である.心そのものは神の啓示に対する態度決定の宗教的中心的座として宗教的根本動因に支配されるので,神に対して宗教的中立ということはあり得ない.従って,非再生者の心は,異教的宗教的根本動因によって支配され規定されている.異教宗教的根本動因がその心を支配する時,被造的実在の一側面たる論理的思惟機能を絶対化して,理性の自律性の偶像的原理を生み出し,異教的理論的思惟を成立させ,そしてこの思惟は被造的時間秩序の中に思惟の究極的準拠点と実在の存在根拠を置く内在哲学([英語]immanence philosophy)を建てる.オルフェウス宗教から由来するギリシヤ哲学の「形相—質料」の宗教的根本動因,スコラ哲学の「自然—恩恵」の宗教的根本動因,近代人本主義的宗教性に基づく近代哲学の「自然—自由」の宗教的根本動因は,それぞれ性格の異なる理性の自律性の原理を建てた.しかし,そこには共通して,人間の論理的思惟機能の絶対化が見られる.<復> それに対し,聖霊によって直接開かれた新生の心は,「創造—堕落—贖い」の聖書的根本動因に支配され規定された真の神知識と自己知識を保持する自己意識である.この自己意識としての心,充全的自我は,理論的思惟の成立にかかわる時,人間の論理的思惟機能を絶対化せず,自らの保持する認識のかぎとしての「真の神知識と自己知識」([ラテン語]Deum et animam scire.これは直接,心に与えられるもので,理論的思惟による認識ではなく,むしろ,その出発点となるものである)に基づいて,理論的思惟を確立し,被造的時間秩序における世界の様態的構造を固有の創造の法の下に分析し,論理的側面と非論理的諸側面との間の対象関係(主—客関係ではない)における間様態的総合として対象認識に向かうのである.この理論的思惟においては,内在哲学におけるように思惟の究極的準拠点と実在の存在根拠を共に立法者としての理性という被造的時間秩序内の論理的思惟機能に置くことをせず,これを分離して共に被造的時間秩序を超越したところに置く超越哲学([英語]transcendence philosophy)が求められているのである.キリスト教哲学におけるドーイヴェールトの貢献を,次のようにまとめてみる.(1)カイパーの世界観としてのキリスト教の主張を,世界観の問題から理論的思惟の立場での経験の時間的領域の全体観としてのキリスト教哲学の主張に発展させた.(2)カイパーの自己意識における対立の原理を,理論的思惟の成立の普遍妥当的条件を探究する理論的思惟の超越論的批判の仕事にまで深化させ,理論的思惟とレベルの異なる一段と深い,心という神の像の宿る宗教的中心的座としての超理論的宗教的前提における対立の問題に発展させた.(3)すべての理論的思惟の宗教的中立性を否定し,ギリシヤ哲学,スコラ哲学,近代哲学など内在哲学におけるそれぞれの異教的宗教的超理論的前提を明示して,これがどのようにそれぞれに独特の理性の自律性の偶像的原理を生じさせたかを探究した.この視点から哲学史を整理し,聖書的超理論的前提を持つキリスト教哲学との真の「対立」([英語]antithesis)を示した.(4)このように,彼は,宗教的に中立で自律的な哲学的思惟は存在せず,哲学的思惟は常に宗教的かかわりから生ずるものであることを明らかにすることによって,哲学的思惟は常に,異教的か聖書的かの,超理論的宗教的前提を持っており,この主体における宗教的アプリオリが理論的思惟の全体を規定することを明らかにした.キリスト者について言えば,哲学史上初めて,キリストにおける神の啓示が哲学的思惟における中心的統一的座を占める「キリスト教哲学」が考えられた.それまでは,キリスト教的性格を持つ哲学と理論的思惟といえども,常に聖言啓示の受容の前提として,世俗的思惟,一般哲学の基盤を要するものと考えられ,総合的性格を有するものと考えられてきた.この新しいキリスト教哲学は,キリスト者に,素朴経験のみならず理論的学的思惟も,要するに生の全体がキリストに基盤を持つことから意識的に生起しなければならないことを徹底して教えた.このキリスト教哲学に基づく聖書的有神論的諸学問・諸科学の反総合的性格の強調は重要である.カイパーにおいては,まだ,数学や自然科学や論理学は,キリスト者と非キリスト者に認識論的に共通領域と考えられていた.非キリスト者の思惟において,この異教的宗教動因が,経験の時間的秩序の全領域における自我の活動を規定する限り,数側面を初め,非規範的領域も規範的領域も含めた様態的側面の全領域における理論的思惟において,キリスト者の思惟との認識論的共通領域は存在しない.このことは,哲学史において一度も成功したことのなかった「順応と総合」の打破を成し遂げたことを意味し,これは同時に,哲学者の公理とも言うべき,「宗教的独断と偏見からの自由」と「理性の自律性」の原理の打破をも意味する.(5)宗教改革が,あらゆる二元論や総合を排し,被造世界の全領域を神の主権の下に置くことを目指したとすれば,それは当然に,人間の理論的思惟そのものをも神の主権と聖言の権威の下に置くこと,すなわち,理論的思惟の改革(哲学的思惟における革命)と,この思惟に基づく被造世界の理論的全体観を目指す「改革主義原理」を含むはずであることを見抜いた.そして,哲学は理論的思惟・学的思惟の基礎付け([ドイツ語]begru¨nden)の使命を帯びるものであるから,哲学における改革は,すべての学問の改革へと進むはずである.<復> 近代哲学の第2の公理としての客観的アプリオリについて一言する.近代哲学は,「自然と自由」という人本主義的宗教動因に規定されて,人間の理性に明晰・判明に映るもののみを真理とするというコギトの原理と理性の自律性という偶像的原理を確立し,ここから,対偶像としての機械論的自然観を成立させた.人間理性に最も明晰・判明に映るものは,数式や物理的因果性によって規定される世界だからである.すべてを数式に還元し,すべてを物理的法則性のみによってとらえようとする現代の科学的実証主義は,超越論的現象学などの哲学によって批判を受けている.フッサールは,人間が生きているままの「生活世界」([ドイツ語]Lebenswelt)としての豊かな世界が,自然の理念化と自然主義的態度によって貧しくされ,諸学問が生の有意義性と切断され危機に陥っていることを指摘する.近代実証主義は,あたかも数式,観念,物理法則などの符号が打ち込まれているかのように,自然を理念化している.現象学的還元によって,人間の意識に直接与えられる現象の内的構造を記述することによって,生活世界と生の有意義性を回復することによって,ヨーロッパ諸学問の危機を克服しようとする(参照『ヨーロッパ諸学問の危機と超越論的現象学』1936年).この点でも,ドーイヴェールトが,近代哲学や近代科学が,数式や量的規定や物理的因果性のみの世界に世界を還元・縮小してしまったことを批判して,創造の法の固有性に基づく客観的アプリオリとしての様態的諸側面の豊かな多様性の中での多様な間様態的総合としての理論的思惟を構築しようとする努力と一致するところがある.しかし,「批判的超越論的哲学の創始者であるカントも,また自分の現象学的哲学を,認識の最も徹底的な批判と呼んだ近代現象学の創始者フッサールも,思惟の理論的態度を批判的問題にしなかった.両者は共に,それ以上の弁明を要しない公理としての,理論的思惟の自律性から出発した」(ドーイヴェールト『西洋思想のたそがれ』法律文化社,p.5).ドーイヴェールトは,理論的思惟そのものを超越論的批判のテストにかけることを要求し,理論的思惟の内的構造を明らかにし,現象のうちに原理として働いている論理的・分析的側面と非論理的諸側面の対立的構造を詳細に考察した.<復> 第1の主観的アプリオリとしての超理論的宗教動因が,カイパーの「対立の原理」の深化発展であるならば,この第2の客観的アプリオリとしての被造世界の法理念の多様性の主張は,カイパーの「領域主権の原理」の深化・発展である.この点でもカイパーのキリスト教哲学に対する先駆的貢献がある.被造世界全体の本源的主権は神にあるが,神は被造世界にそれぞれの領域を定め,それぞれの領域に固有の法を定めておられるので,それぞれの領域は派生的主権を持つ.それゆえに,それぞれの領域は互いに固有領域における主権と法を犯し合ってはならない.逆に言えば,それぞれの領域に神の主権を認める主張である.神の普遍的主権性の原理に基づいて,科学,学問,政治,芸術の諸領域が固有の主権と法を持つという主張は,家庭,教会,国家という制度的集団における領域主権の主張から,さらに「論理の法が支配する思惟の領域,自然の法が支配する自然の領域,信仰の領域」と言われているように,思惟,自然,信仰の諸領域へと重層的な深まりを見せている.ドーイヴェールトにおいては,この領域主権の原理は,理論的思惟の抽象化作用において,経験の時間的地平における15の様態的諸側面の主張となる.人間の存在と経験は様態的側面の偉大な多様性を示し,経験の時間的地平のそれぞれの様態的諸側面は,固有の核心的契機を持ったもので,互いに他の側面に還元されない意味特殊性を持っている.カイパーの領域主権の原理は,ドーイヴェールトにおいては,経験の時間的世界の秩序として,存在論的概念に深化している.「法理念において,法は神の聖なる創造者としての主権性に根拠を持つものと認められており,法は始源者の存在と,法に従うものとして造られたすべてのものの意味との間の絶対的境界として認められているので,その時間的意味特殊性,時間的意味多様性,時間的意味連関性において法に従うということの意味もまた主体概念の中に含まれている」(『法理念の哲学』1巻,pp.74—5).すべての被造者は,法に従うものとして造られているがゆえに,認識主観はsubjectと言われるのである.われわれの認識主観は決して自律性を持つものではない.経験の時間的地平の諸側面は,宇宙的時間の変様としての法の諸領域であり,法の諸領域は同時に意味の多様性である.心,経験の時間的地平の様態・法・意味特殊性・連関性・全体性,起源者,これらが宗教的アプリオリであり,超越論的根本理念である.心が異教的宗教性に支配された場合には,これらの超越論的根本理念が,すべて絶対化・実体化された自律的理性とその活動に集約されてしまうのが特色である.このように,キリスト教哲学においては,超越論的根本理念,すなわち,宗教的性格の超理論的・前理論的前提としての宗教的アプリオリが,主観的(認識主観の側)にも,客観的(認識対象の側)にも,前提されるのである.<復> K.‐O.アーペルの超越論的言語遂行論における主体の側の言語のアプリオリの主張と,超越論的現象学における客観的アプリオリの主張という最近の超越論哲学復興の中で,ドーイヴェールトの超越論哲学は説得力のあるものとなっている.認識論的には,非キリスト教的超越論哲学とキリスト教的超越論哲学の間には「対立」があり,認識的共通領域は広がっていない.しかし,哲学的思惟が超理論的前提を持つこと,世界が法則的多様性を持つことの「感覚」は知られてきている.ここに哲学的対話の「接触点」([ドイツ語]Anknu¨pfungspunkt)があり,存在論的・形而上的意味と心理的意味においては広大な共通領域が広がっている.キリスト者が,聖書的前提を置いて語る時,その理論的思惟は世界をどのように説明するか,非キリスト教哲学者は聞く耳を持ってきていると言える.キリスト教哲学の責任は重い.→理性と信仰,キリスト教倫理.<復>〔参考文献〕春名純人『哲学と神学』法律文化社,1984;春名純人「アブラハム・カイパー」『受け継がれた信仰』日本キリスト改革派教会西部中会教育委員会,1985;E・スフールマン『技術文化と技術社会—現代の文化的危機についてのキリスト教哲学的考察』すぐ書房,1984;H・ドーイヴェールト『西洋思想のたそがれ—キリスト教哲学の根本問題』法律文化社,1970;Dooyeweerd, H., A New Critique of Theoretical Thought, 3 Vols., H. J. Paris/Presbyterian and Reformed Publishing, 1953 ; Young, W., Toward a Reformed Philosophy, Piet Hein/T., Wever, 1952.(春名純人)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社