《じっくり解説》新約神学とは?

新約神学とは?

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新約神学…

1.新約神学の起り.<復> 16世紀の宗教改革は個人の聖書解釈権を正当に取り戻す運動でもあった.中世ローマ・カトリック教会の権威と伝統からの脱却を図ることは,とりもなおさず聖書の明白な意味を求めることに連なっていた.聖書語学・聖書歴史・聖書釈義の研究が着実に進められて行った結果,改革後の教会は聖書を教義学構築のための証拠聖句の鉱床としてのみ見る傾向から徐々に解放され,全聖書の中に神の啓示の歴史的進展を見ようとする聖書神学の芽が見られるようになった.しかし,聖書の各章句を教義学の立場から考察しようとする傾向は依然として強く,その結果,聖書釈義は教義学によって左右される形をとらざるを得なかった.18世紀の啓蒙思潮の流れの中で,聖書の歴史的批評の大きな影響のもとに,近代合理主義を色濃く反映する形で,J・P・ガーブラーの聖書神学に関する講演がなされたのは1787年のことであった.これは聖書神学と組織神学の正当な区別を論じ,両者の間に正しい境界線を引き,それぞれの目的を明白にすることを目指すものであった.聖書神学研究史では,一般にこの講演が聖書神学を真正面から取り上げたものとして認められている.<復> ガーブラーによれば,教義学から独立した学科としての聖書神学は,聖書の著者たちが神とその働きについて考えた事柄を語ることを目的とする.その意味で聖書神学は歴史的性格を持っており,文献批評・歴史批評の手法を一貫して適用することによって,その目的は達成される.歴史的=批評的方法によって聖書の多様な証言を再建しようとする試みは,ガーブラーを継ぐ人々によって進められたが,多くは聖書に対して理性の優位を主張する立場に支配される「純粋に歴史的」なものであった.ガーブラー以後,旧約聖書と新約聖書を別個に扱うことが一般的となり,その結果,新約聖書神学と呼ばれる学科が,独立した分野として立つこととなった.弁証法哲学の枠組み,宗教史学派の手法,実存主義哲学の影響などに彩られた「歴史のイエス」再建を目指す試みは,新約神学に関する多くの書物を生んできた.<復> 聖書の十全霊感と新約聖書本文の真正性を認める保守的な立場から書かれたものとして,G・ヴォスの『聖書神学』(Biblical Theology, 1948)および『イエスの自啓』(The Self‐Disclosure of Jesus, 1926, 1953)を挙げることができる.後で詳しく述べるように,ヴォスの聖書神学は神の啓示の歴史における漸進性と啓示の有機的性格を十分に認めることに根差している.特に契約を軸として神の特別啓示の進展を論じる手法の底には,聖書の各部分を聖書全体の文脈の中で正確に把握し,おのおのの時代あるいは状況での位置付けを明白にしようとする基本姿勢がある.<復> 2.贖罪の計画の実現.<復> 罪のうちにある人間を唯一の救い主イエス・キリストにおいて贖い出し,罪の赦しによる救いを得させる,との神の恵みの意思は,神御自身の支配される歴史の過程の中で順を追って明らかにされ,神の救いの計画はイエス・キリストの生と死と復活において十分に実現された.新約神学は,新約聖書の記述にのみ自己限定することなく,イエス・キリストに至り,キリストの贖罪のみわざへと上り詰める啓示の全過程に目を配り,歴史のおのおのの部分の連続性に注意を払う.その意味で,「聖書神学は聖書の中の神の自己啓示の過程を扱う釈義神学である」とするJ・マーレイの定義は,重要な基本線を示している.長い期間にわたる特別啓示の歴史そのものが聖書神学の対象のすべてである.新約神学はつまるところキリストについての神学である.旧約聖書と新約聖書の全体にかかわる統一性と連続性は,紛れもなく明白な要素であり,全聖書を貫く主題は神の恵みによる贖罪である.全聖書の中心は神の定めの救い主イエス・キリスト御自身である.キリスト教信仰の中核を成すキリストにこそ,新約聖書の全使信は集約されている.<復> キリストを中心とする新約神学の基本的な方法は,神中心の神学,信仰と矛盾するものではない.むしろ,キリストが主であられることにおいて明らかに啓示された神の主権を十分に認め,これを順序立てて究めることを,新約神学は自己の任務としている.「神は,キリストによって,私たちをご自分と和解させ」(Ⅱコリント5:18)に代表されるパウロの証言には,キリストの贖い主としての働きと使命が神の任命によるものである,という神中心の視点が貫かれている.十字架につけられて死に,3日目に死人の中からよみがえらされた主イエス・キリストにおいて,神の主権は輝くばかりに啓示された.高く挙げられたキリストを,神はかしらとして教会に与え,このキリストにおいて神は万物を支配しておられる.キリストこそは,もろもろの王の王,主の主にいます.歴史の過程で次第に明らかにされた神の贖罪計画はイエス・キリストにおいて実現され,終末における終局の完成を目指して進められている.<復> 新約神学が全記述の焦点として明白にしようとするのは,神のイニシアチブである.「わたし,主こそ初めであり,また終わりとともにある」(イザヤ41:4)と宣言される神が,世界と歴史に先立って存在し,御自身の聖定に従い世界と歴史に介入して働き,御心の実行を通して「天にあるものも地にあるものも,いっさいのものが,キリストにあって一つに集められる」(エペソ1:10)のである.すべては「神の民の贖いのためであり,神の栄光がほめたたえられるため」(同1:14)である.神の主権と神の栄光は,贖罪の計画の実現の全過程で明らかにされ,使徒たちによって正確に証言された.ペテロによれば,ナザレ人イエスが引き渡され十字架につけられて殺されたことは,「神の定めた計画と神の予知」とによることであった(使徒2:23).イエスの復活は,神がよみがえらせたことであり,それはすでに旧約の時代に先祖ダビデによって預言されていたことの成就であった(使徒2:25‐31).新約聖書の中に繰り返し現れる,神がイエスをよみがえらせたとの復活証言には,神のイニシアチブが際立った形で浮彫りにされている(例えば使徒2:32,4:10).パウロは贖いの計画の作者である神について証言する中で,神の絶対の主権を告白して次のように言っている.「事は人間の願いや努力によるのではなく,あわれんでくださる神によるのです…神は,人をみこころのままにあわれみ,またみこころのままにかたくなにされるのです」(ローマ9:16,18).救いの確かさは神の選びの計画の確かさ,つまり召してくださる神御自身のあわれみに根差している(ローマ9:11).ヨハネは歴史を貫いて働き,主権と全能を自己啓示される贖い主イエス・キリストを次のように証言する.「神である主,常にいまし,昔いまし,後に来られる方,万物の支配者がこう言われる.『わたしはアルファであり,オメガである.』」(黙示録1:8).<復> 神のイニシアチブは,神の救済史の諸段階において余す所なく発揮された.歴史に働く神の様々な行為は,神御自身のことばに基づいて説明され語り伝えられる経過をたどる.原始キリスト教会の宣教は,イエス・キリストにおける神の救いのいきいきとした内実と勢いとを語り伝えるものであった.宣教はただちに教育と結ばれ,例えば「イエスを主」とする信仰告白の定式(ローマ10:9),あるいはキリストの死,葬り,よみがえり,現れを基本とする福音の枠組み(Ⅰコリント15:3以下)を神学的に解説する形で信徒教育がなされ,福音理解が深められることとなった.口頭の教育を示唆するギリシヤ語の動詞「カテーケオー」がガラテヤ6:6に用いられているが(みことばを教えられる人と教える人の対応),この語から教理問答書を意味する英語の単語「カテキズム」(catechism)が派生したのである.Ⅰコリント15章の箇所で,キリストの死と葬りが「聖書の示すとおりに」と解説され,よみがえりと現れが「聖書に従って」と注釈されるところは,すでに原始キリスト教会の新約神学の基本線を反映するものと読むことができる.ここには,キリストを中心に据えて旧約聖書を理解する筋道が明白に示されている.「全聖書はただ十字架を教える」「全聖書はキリストを宣言する」とのM・ルターのことばは,キリスト教会のキリスト中心的旧約聖書理解を鮮やかに指し示している.実は,キリスト御自身が「その聖書が,わたしについて証言しているのです」(ヨハネ5:39)と言明されたことに,使徒以来のキリスト教会の旧約聖書理解と解釈の基礎が据えられている.<復> 3.贖罪の歴史の進展.<復> 神の贖罪の計画は神の支配の下にある歴史の中で,「漸進」と「深化」の原理によって推進された.旧約と新約をつなぐ印は神の民の歴史の連続性である,と言うことができる.この連続性は,神が御自分の民との間に立てた契約を太い軸として,救済の歴史の中で明白に示された.契約を守り,これを実現に至らせるひとつひとつの出来事の中で神の誠実は現された.神の歴史は神の誠実が証言される場である.創造に当って御自身のかたちに人間を造り,これといのちの契約を結ばれたこと,堕落した人間の罪の責任を明らかにした上で,なお女のすえが蛇のかしらを砕くとの約束(原始福音)を与えられたこと,ノアとの間に祝福の約束を結ばれたこと,アブラハムを選びその子孫に永遠の祝福を与え,彼らを通して諸国の民を祝福するとの契約を結ばれたこと,モーセを立ててイスラエルの民をエジプトから救い出し,シナイ山で契約を結び,服従を求められたこと,ダビデを王として立て,ダビデのすえから永遠の王座に着く者が出るとの約束を与えられたことの一連の事実は,御自分の民をバビロン捕囚から解放し,神の都に帰還させるとの力ある働きへと続いた.この契約実行の歴史は,御子キリストを救い主としてこの世に遣わされるという終りの時の大いなる出来事へと上り詰めた.イエス・キリストへと至る旧約の全歴史は,契約に忠実である神の救済の歴史そのものである.旧約の歴史的使信はまさに救済の使信であり,神の恵みの高さ,深さ,広さからして,この救済の使信は常に豊富かつ多彩である.<復> 旧約聖書と新約聖書の全体を貫くのは,この贖罪の歴史と使信である.神の救いの計画が一貫したものであるゆえに,救済の歴史には統一した見通しがある.新約神学はイエス・キリストについての多様な証言,多彩な描写の中に,神の贖罪の意思とその実現という,ただひとつのテーマが奏でられているのを注意深く聞き取ろうとする学である.ただあわれみによって罪ある人間を救い,御自分の民とするという神の恵みの約束は,先に見たように歴史の中でたびたび繰り返され,そのたびに内容がより明らかとなった.ヴォスが述べるように,この啓示の進展は,事柄が次第に明確にされて行く様を指す漸進性(progressiveness)の原理に並べて,事柄が繰り返されながら,らせん状に上り詰めて行く様を指す反復性(recapitulation)の原理に貫かれている.時とともに事柄の中心点が鮮明にされることが,ここでは重要なポイントとされる.<復> 神の救いの啓示は平板なスタイルをとらない.全聖書の証言は,神がキリストにおいてなした救済の働きの「朗誦」(G・E・ライト,F・F・ブルース)であり,この朗誦の中に反復されるダイナミックなリズムを聞き分けることが,新約神学の任務である.リズムの繰り返しは機械的なものに終ることなく,主要なテーマをより明るく澄んだものとして提供する役割を果している.<復> 新約神学の取り扱うテーマは多くあるが,それらは組織神学で扱われるような形で,項目別に聖書の中に現れてはいない.反対に,啓示の進展のそれぞれの時代の背景の中で,多様な姿をとり,時には入り組んだ形をとって展開される.そこには多彩な文学様式が用いられ,多様な表現形式がとられて,救済の行為の豊かな内容と深い奥行とが表出されている.直接の記述に併せて比喩的な表現がとられることが多く,予型論的解釈を施すことによって旧約聖書に記述されている歴史の事実・制度・人物などの新約的な意味を究めることが必要となる.事実,パウロはアダムをキリストの予型と見なした(ローマ5:12以下).もっと大きな目で見れば,神の民イスラエルがエジプトから救い出されたことは,キリストによる救済の全行為とそれがもたらす神の民への祝福の総体の予表である.新約神学は新約の光に照らされながら旧約を理解し,語句の用法や文体の特色に十分に意を用いて,いわゆる文献的研究を進める.しかも,そのような研究は聖書の各部分をばらばらに切り刻むのではなく,反対に,創造者・贖罪者である神の歴史における行為を太い軸として,聖書全体を切り離しがたいひとつからだとしてとらえることを目指す.そのようにして,聖書全体に鳴り響いている神の声を一層よく聞き取ろうとするのである.新約神学のこのような成果が,組織神学により豊かな資料と素材を提供することとなる.<復> 新約神学のねらいは,贖罪の歴史の進む様をしっかりと見詰めながら,聖書をその書かれた目的にかなって読み,研究することに尽きる.新約神学の方法として,著者別,文書別の研究があり,それぞれの特色やねらいを明らかにすることが広く行われてきた.強調点の相違に留意しながら,新約聖書中の神学の発展を跡付けることも試みられている.新約聖書中の主要なテーマを取り上げて,その内容の発展・深化を究めることは,多くの人の採って来た方法である.旧約聖書に現れる神学的キーワードのほとんどは新約に持ち越され,福音の光の下で新しい意味を持つようになった.同じように,旧約聖書で取り扱われる主要テーマも,新約に流れ込んで新しい角度と深みを備えることとなる.単純な対応を超えた巧みな対比も見られる.通常挙げられる主なテーマは次の通りである.神の主権,神の統治,創造と再創造,神の民,選びと契約,罪,審判と救い,出エジプトのパターン,奴隷の身分と救贖,贖い主キリスト,義認,生と死,信従,愛,終末.
4.成就のモチーフ.<復> 「神は,むかし先祖たちに,預言者たちを通して,多くの部分に分け,また,いろいろな方法で語られましたが,この終わりの時には,御子によって,私たちに語られました」とヘブル人への手紙の著者は啓示の歴史を証言している(1:1,2).約束の救い主を待望する時は終りを告げ,時満ちて,神は御自分の独り子を世に遣わされた.それは,御子の受肉と生と死と復活とにより,特に,御子を律法の下にある者となすことによって,律法の下にある罪人を贖い出し,神の子としての身分を授けるためであった(ガラテヤ4:4,5).キリストの来臨によって,待望の時は終りを告げ,同時にキリストはすべての預言と啓示に終りを告げられた.<復> 旧約と新約を,約束と成就の関係でとらえることは,何よりもイエス御自身の旧約聖書解釈と適用に根差している.旧約と新約の関係を解く鍵は,旧約とイエスの関係をイエス御自身がどのように洞察し,証言されたかを正確に見ることにある.安息日にナザレの会堂でイエスに手渡されたのは預言者イザヤの書であったが,イエスは特に61:1以下の箇所を開き,主のしもべの歌を朗読し,その箇所を解説する形で説教をされた(ルカ4:16以下).その切り出しとしてイエスの言われた「きょう,聖書のこのみことばが,あなたがたが聞いたとおり実現しました」とのことばは,明らかに,御自身における預言の成就の宣言であった.自分こそ,イザヤの預言した「油を注がれた者」であるとの宣言は,時の成就だけではなく,書かれた神のことばの成就をも明らかにしている.<復> エマオ途上のふたりの弟子に現れた復活の主イエス・キリストは,御自身の復活という事実啓示を悟らせるために,ことば啓示の解説を与えることをよしとされた.「それから,イエスは,モーセおよびすべての預言者から始めて,聖書全体の中で,ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた」と記される通りである(ルカ24:27).旧約聖書全体の使信の中心点は,キリストの受苦とそれに続く栄光とにしぼられる,ということがイエスの言明であった(同24:26).イエスはさらに,使徒とその仲間たちに対して現れ,「わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは,必ず全部成就する」とすでに教えていたことを思い出させられた(同24:44).<復> 使徒ペテロのペンテコステ説教に現れる「これは,預言者ヨエルによって語られた事です」(使徒2:16)との言明は,イエスによってもたらされた終りの時における旧約預言の成就を証言するものである.「これは…事」(“This is that which was spoken by the prophet Joel”)を表題にとったF・F・ブルースの著書This is That(1968)は,旧約聖書の中に現れるテーマ,イメージ,パターン,モチーフによって表象される神の救済の約束が,メシヤ・イエスにおいて成就されて行く道筋を釈義に基づいて入念にたどるもので,全体として,新約聖書の旧約聖書解釈原理を提示している.本書の副題The New Testament Development of Some Old Testament Themesが説明する通りである.そこでは,神の統治,神の救い,神の勝利,神の民,ダビデの子,しもべメシヤ,羊飼いなる王の七つのテーマが扱われ,旧約と新約を結ぶ聖書神学の有効なアプローチが示されている.ブルースのもうひとつの著作The Time is Fulfilled, 1978(『時満ちて』)も,同じような手法で,旧約—新約の有機的関係を論じている.<復> イスラエルの民の礼拝における信仰告白は,神が歴史の中に行われた力あるわざを朗誦の形式で言い表すのが定めであった.その典型を,申命26:5‐9に見ることができる.ここには,族長の選びに始まり,エジプトからの救出,カナンでの土地の嗣業の賦与に至る一連の恵みのわざが簡潔にまとめられている.時とともに,この「歴史的クレドー(信仰の告白)」はより豊かなものとされ,詩篇78篇などに見る賛歌へと発展して行った.パウロのピシデヤ・アンテオケ説教では,申命26章の旧約聖書ケリュグマ(宣教の教え)が新約聖書ケリュグマの序文として用いられ,ダビデを中継点としてメシヤ・イエスへと一気に至る贖罪史の流れが,明白に,またダイナミックに証言されている(使徒13:16‐41).アンテオケ説教のイスラエル史回顧が族長にまでさかのぼっているのに対し,パウロのアレオパゴス説教では,創造にまでさかのぼっている(同17:22‐31).創造と贖罪とは,旧約のイスラエルの民においても(例えば詩篇104篇),パウロにおいても,明確に関連付けられていた.創造と贖罪における神の歴史的行為の連続性と統一性とが,パウロの福音理解の軸を成していたと言うことができる.神の救済の歴史は,一貫して神の宇宙的計画に根差すものであり,その展開は人類と全宇宙の全き贖いという終局の目標を指している.旧約聖書と新約聖書はひとつの有機体として,神の恵みに発する救済の歴史と使信とをパノラマの形で展開している.新約神学は,恵みの契約の展開のすべてを見渡し,イエス・キリストにおける成就を凝視する学である.<復> ルカを「贖罪史の神学者」と呼ぶことが普通であるが,マタイも旧約と新約の関係を証言することに力を注いでいる.マタイの場合には旧約章句の引用が多く見られるが,そこでは神がイエスにおいてなしておられることは,神が預言者を通して約束されたことの成就であることが明白に解説されている.マタイの福音書では,イエスの誕生物語と幼児物語の部分で旧約章句の成就を記すことが目立っている.受難と復活の物語でも,他の福音書の場合と同じように約束の成就が記されるが,マタイの取り扱いの特色は,イエスの生涯の全体にわたって旧約預言の成就を証言することにある.そのことは,誕生について「このすべての出来事は,主が預言者を通して言われた事が成就するためであった」(マタイ1:22)と記されることに対応するものとして,受難について「すべてこうなったのは,預言者たちの書が実現するためです」(26:56)とのイエスの自己証言を配置することから十分に認められる.このふたつの箇所は,イエスの歴史の全体を全旧約聖書の成就としての救いの出来事として描き切るための,重要な額縁を成している.個々の旧約章句の直接引用だけが意味を成すものではないことが,マタイのこのような総括表現から知られる.<復> 5.新約聖書の正典性と新約神学.<復> 聖書信仰とは聖書の権威に全面的に服する信仰である.イエスの宣べ伝えた神の国の福音は,神の国のもたらす祝福を多くの角度から説き,これを約束するものであった.パウロの宣教を支配するモチーフは,キリストの来臨,活動,特に死と復活における神の救済の働きに集約されていた.神の働きは御自身の民イスラエルの歴史における働きの成就であるとともに,全旧約聖書の成就でもあった.パウロの宣べるところ,また書くところには,神の働きの多面性が正確に映し出されており,神の恵みの富の豊かさが力強く証言されている.新約聖書の描く神の救済活動は単色で塗りつぶされるものではなく,多色の塗り重ねによって表現されるものである.単彩ではなく多彩である.新約神学は,この多様性と統一性を常に問題にして来た.<復> 新約聖書が旧約章句を引用する場合,動かすことのできない前提とされているのは,旧約聖書の神のことばとしての権威を十分に認めているということである.キリスト教会が旧約・新約両聖書を正典として受け入れた時,そこには全聖書を貫く統一性の理解があったばかりでなく,全聖書への全き信頼が告白されていた.しかもこの聖書への信頼は,聖書の中心であるキリストへの信仰と固く結ばれていた.新約聖書の権威は,それがキリストにおける神の啓示である,というまさにその事実の上に認められるものである.神の国の到来,救いの大いなる時の到来を告げる新約聖書は,この神の恵みの支配をいきいきと告知する.それが福音である.神の国の使信は,今ここに神の国がある,というその現在性に信仰の目を向けさせる.<復> 新約神学は新約聖書を単にキリスト教の古典的文献として取り扱うのではない.むしろ,キリスト教会の正典として取り扱う.新約聖書は歴史の中で生成されて来たし,それぞれの記者の多様な才能を神が不思議に用いられることによって書き記されて来た.それゆえに新約神学は新約聖書を歴史的・文献的に研究し,ふさわしい批評的方法を当てはめることを恐れはしない.しかし,その研究の全局面は,聖書が書かれた目的にかなって押し進められる.新約神学を志す者は,新約聖書正典の全体に目を配り,そこに啓示されている真理をバランスを保ちながらくまなく探究する.新約神学が明らかにしようとする神の救済使信の統一性は,聖書正典の統一性に根差している.新約神学は聖書の中心であるキリストを深く究める学的研究を,「主イエスよ,来てください」(黙示録22:20)との祈りと展望とをもって推進する.→聖書学,聖書神学,旧約神学.<復>[参考文献]H・ボアズ『新約聖書神学とは何か』教文館,1985;C・C・ライリー『概説新約聖書の神学』聖書図書刊行会,1981;Guthrie, D., New Testament Theology, IVP, 1981 ; Hasel, G., New Testament Theology : Basic Issues in the Current Debate, Eerdmans, 1978 ; Ladd, G. E., A Theology of the New Testament, Eerdmans, 1974.(石丸 新)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社