神の称号とは?
神の称号…
聖書の中では,神の名称について多くの用語が使用されている.これらの用語を分類し考察する方法はいろいろあるが,ここでは特に旧約聖書を中心に,史的考察の線上で検討したい.<復> ヨシュア24:2において,イスラエル全部族をシェケムに集めたヨシュアは次のように言っている.「イスラエルの神,主はこう仰せられる.『あなたがたの先祖たち,アブラハムとナホルとの父テラは,昔,ユーフラテス川の向こうに住んでおり,ほかの神々に仕えていた.…』」.アブラハムが父テラとともに出立したウルの町は,1922年からの発掘により古代の大都市の偉容を現したが,その都市の中心は月神ナンナと,それを取り巻く神々であった.アブラハムの出立は,もろもろの偶像礼拝からの一神教の確立という神学的動機によるものであったが,その場合,創世1章以下に記録されているような創造伝承,堕落物語の伝承,神の救済の約束を何らかの形で保持したと考えられる.「メソポタミヤからの脱出は伝承を持つものの脱出であり,伝承の携行そのものも,脱出の一つの目的ではなかったか」(舟喜信「創世記」『新聖書注解・旧約1』p.62).ウルからカラン,カランからカナンの地へと移動したアブラハムはどこででも祭壇を築き「主(ヤハウェ)の御名によって祈った」(創世12:8等).しかし創世14:18‐20を見ると,シャレムの王メルキゼデクが戦場から帰ってきたアブラハムを祝福したが,この王は「いと高き神」(エール・エルヨーン)の祭司であった,と言われている.アブラハムはこの神の名称を自分の礼拝する神のものとして受け入れた.そして「天と地を造られた方,いと高き神」に「主」(ヤハウェ)を付け加えて誓っている(創世14:22).このことは,神の名称が融通性を持っていたことを示している.「エール・エルヨーン」は旧約聖書ではこの箇所以外に詩篇78:35に出てくるだけであるが,「いと高き方」(エルヨーン)という名称では申命32:8,イザヤ14:14以外に詩篇で何回も用いられている(9:2,21:7等).<復> 創世17:1では,99歳になったアブラハムに神が「わたしは全能の神(エール・シャッダイ)」と語りかけておられる.「エール」は「神」の通称であるが,「シャッダイ」の意味については「全能」「十全な」あるいは「山の」などといろいろ論じられている.「エール・シャッダイ」は,出エジプト6:3以外ではアブラハム(創世17:1),イサク(創世28:3),ヤコブ(創世35:11,43:14,48:3,エゼキエル10:5)と関係して用いられるのみである.「シャッダイ」だけでは,創世49:25やバラムの託宣(民数24:4,16),預言書(イザヤ13:6,エゼキエル1:24,ヨエル1:15)と詩篇(68:14,91:1),そしてヨブ記に31回用いられ,ルツ記に2回用いられている(1:20,21).これらの箇所は「全能者」と訳されている.<復> 「エール・シャッダイ」と並行して考察されるべき神名は,「永遠の神」(エール・オーラーム)である(創世21:33).前者が神の力と関係しているのに対し,後者は神の永遠性とかかわらせた称号と言えよう.このような永遠性と関連した称号として,「永遠の神」(エロヘー・オーラーム)(イザヤ40:28),「とこしえの岩」(イザヤ26:4),「永遠の腕」(申命33:27),「永遠に生きる方」(ダニエル12:7)を挙げることができる.<復> 一方,個人的な経験やかかわりを示す神の名称もある.創世16:13に,ハガルが主の名を「エル・ロイ」と呼んだとあるが,これはサラのもとから逃れたハガルが,主の使いによって励ましを受けた経験を告白して「御覧になる神」「顧みて下さる神」の意味で言ったと説明される.<復> 個人的な色彩の濃いことばとしては,「恐れる方」がある.ヤコブがミツパで,妻たちの父ラバンに追い付かれた時,「アブラハムの神,イサクの恐れる方が,私についておられなかったなら,あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう」(創世31:42)と抗議をしている.創世31:53でもヤコブは「父イサクの恐れる方にかけて誓った」と言われているが,彼には,父イサクの信仰深い生活とそれに応答して下さる神の祝福が心に印象付けられていたと思われる.そしてこのようにして,「アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神」という名称は,イスラエルの民にとって,先祖たちとの個人的なかかわりの中で導きと守りを与えられた神を覚えさせるものとなった.<復> 1.ヤ〓ウェ(神聖四文字).<復> 出エジプト3章には,エジプトのパロから逃れてミデヤンで羊を飼っていたモーセに,ホレブの山で燃える柴の中から神が語りかけられたという記述がある.「わたしは,『わたしはある.』という者である」(出エジプト3:14).「あなたがたの父祖の神,アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神,主(ヤハウェ)が,私をあなたがたのところに遣わされた」(同3:15).また6:2,3で「わたしは主(ヤハウェ)である.わたしは,アブラハム,イサク,ヤコブに,全能の神(エール・シャッダイ)として現われたが,主(ヤハウェ)という名では,わたしを彼らに知らせなかった」.この「主」という名は,ヘブル語アルファベットでヨード,ヘー,ワーウ,ヘーの四文字から成ることばであり,ユダヤ人たちによって神聖な発音すべからざることばとされた.英語ではテトラグラマトンと言うが,これはギリシヤ語のテトラ(四つ)とグランマタ(文字)に由来し,ラテン語でもこう呼ぶ.そこで,学術語としては「ヤハウェ」あるいは「ヤーウェ」と読んでいるが,あくまでも便宜上の発音にすぎない.本項目でも便宜上「ヤハウェ」を使用している.ユダヤ人たちは,この神聖四文字のところを実際に発音せずに「主人」や「主」を意味する「アドーナーイ」と読み替え,そのために,神聖四文字の四子音文字に「アドーナーイ」の母音符号を付けた.そうすると「エホウァ」(エホバ)とも読めることとなり,英欽定訳(1611年)では神聖四文字をJehovahと訳した.ただし,最近の英訳ではほとんどこれをThe Lordと訳している.エホバの証人あるいはものみの塔と言われる異端は,ラッセル(1852—1916年)によって始められた旧約重視の分派であるが,その宗派名は神聖四文字を正しく理解していないところから付けられたと考えられる.<復> 新改訳では,これを普通の「主」(アドーナーイ)と区別し,ゴシックの「主」と印刷した.「旧約聖書においては,特に,文語訳ではエホバと訳され,学者の間ではヤハウェとされている主の御名を,この訳では太字で〈主〉と訳し,それによって主の御名がしるされている箇所を明らかにした.太字でない〈主〉は〈主〉を代名詞などで受けた場合かまたは通常の〈主〉を意味することばの訳である」(『聖書・新改訳』の「あとがき」).口語訳及び新共同訳ではすべて「主」と訳され,区別をつけていない.<復> それではこのヤハウェ(神聖四文字)の意味するところは何であろうか.出エジプト3:14,15と6:3で言われているのは,アブラハム,イサク,ヤコブには「全能の神」として御自身を啓示しておられた方が,今モーセには「主」(ヤハウェ)として啓示され,それを「わたしはある」または「わたしは,『わたしはある.』という者である」と説明されたということである.これについて一般の批評家は,モーセがミデヤンの地で,ミデヤン教の祭司であったしゅうとのイテロから,彼らの拝んだ山の神を紹介されたと考える.イテロの拝んでいた神は,メルキゼデクの場合のように真の神であったと考える学者もある.またフロイトのように,エジプトのパロ,イク・ン・アトンの崇拝した一神教太陽神の影響をモーセが受けたとする説もある.この3:14の「わたしは,『わたしはある.』という者である」ということばの意味,あるいはその略語と説明される「わたしはある」ということば,また神聖四文字ヤハウェは何を意味しているのであろうか.<復> 以前にはヤハウェということばを,エジプト語のヤーハ(月神)とウェ(1)と比較したり,アラビア語の代名詞ファ(彼)から「ああ,彼」と説明する学者もあったが,今日では受け入れられていない.最近では,北西セム語の語根フィ(「である」という意味)に由来すると考える学者が多い.また,ヘブル語ハーヤー(〓〓〓)に相当するアッカド語のエウまたはエムが「に変る」「のようになる」という意味であることから,その使役形「に変える」「のようにする」と説明する学者もいる.いずれにしても,この方向であれば,神聖四文字ヤハウェは動詞に由来し,「わたしは『わたしはある.』という者」(エフイェ・アシェル・エフイェ)や「わたしはある」(エフイェ)の説明と一致することになる.オールブライトはこのことばの原意に使役形の意味があると考え,この神名の意味は「わたしは存在するものを存在せしめるもの」であるとする.一方,ロラン・ド・ヴォーは「わたしは存在するもの」と説明し,ヤハウェのみが唯一の実在神であることを表していると理解する.そして,人間のあらゆる理性を超越した全存在者なる神がここに啓示されたとし,根本的には黙示録1:8の「わたしはアルファであり,オメガである」とあるのと同じ神であるとする.<復> ここに,モーセに現れたヤハウェ神が,カナンやその他のオリエント地方で拝されていた豊穰神や多産神の神々と全く違っている点がある.この場合,ヤハウェを動詞の普通の形態ととるか,使役形ととるかは別として,「である」と訳されるヘブル語の動詞ハーヤーは英語などのBe動詞と違っていることを理解しておく必要がある.ギリシヤ的な思惟においては,静止の様態が物の本性の中心であるが,ヘブル的な思想では動作が中心であり,文法においても「である」という存在様式を表す動詞は存在しない.あるものが形容詞で修飾されたり,所属を表示する場合,Be動詞に当る動詞なしで表現するのである.従ってヘブル語の動詞ハーヤーは「である」ではなく「になる」という意味である.その一人称の未完了形エフイェは,一応「わたしはある」としか訳せないが,それによって表現されている内容は,この神が天地を創造し,完成されてからも,休止しているのではなく,絶えず歴史に働きかけ,人に語り,これを動かしておられるという事実である.人間は,理性,宗教的祭儀,教団の教義によって,神を一定の概念や様式や解釈の中に押し込めようとするが,ヤハウェなる神はいつもこれを打ち破られる.<復> 以上のことを理解するならば,モーセが一方では「アブラハム,イサク,ヤコブの神」にお会いしながら,しかも彼らには知らされなかった主なるヤハウェ神にお会いしたと言われる理由が明らかになってくる.また,創世4:26で「セツにもまた男の子が生まれた.…そのとき,人々は主(ヤハウェ)の御名によって祈ることを始めた」とあり,創世記だけで主(ヤハウェ)ということばが独立詞としてだけでも135回用いられている理由も明らかになってくる.主(ヤハウェ)なる神は,今や出エジプトという大事業によって御自分の民を選び出し,律法を授けてこれを訓練し,シナイにおいて新しい契約を結ぼうとしておられる.これらは,アブラハム,イサク,ヤコブの知らなかった新しい神のみわざである.主(ヤハウェ)がそれをなさるのである.しかもヘブル思想においては,静的な神観念,抽象的な神定義は存在しないから,神の新しい働きが示されることは,もう一度神の名によって示されなければならない.そして,そのためには主(ヤハウェ)という神名以上に適切な用語は見当らないのである.<復> 出エジプトという壮大な神の御計画の中には,アブラハムへの「あなたを大いなる国民とする」(創世12:2)という約束は当然含まれていた.また「あなたはわたしの前を歩み,全き者であれ」(創世17:1)との命令も,シナイ律法の先触れと考えられよう.こうしてアブラハム,イサク,ヤコブの神は,天地創造の唯一神であり至高者でありながら,個人の生活にも深くかかわられる方として,モーセに対しても同じ方として現れられた.一方,人間のあらゆる限界を超えたところで絶えず働き,人の思いを超えて新しく神の救いの歴史を創造されるお方としては,「ありてあるもの」「わたしは『わたしはある.』というもの」主(ヤハウェ)として新しくモーセに顕現されたのである.<復> 2.批評学と神の名称.<復> 主(ヤハウェ)は,キッテル新約神学辞典によれば旧約中5321回用いられている.一方,神名を表す一般的な用語「エロアハ」及びその複数形「エローヒーム」は,イスラエルの「神」という意味で2千回以上用いられる.「エローヒーム」が複数形であるのに唯一神を意味することについては,威厳を表すための複数形であるとか,カナン語からの慣用形の借用であるとか様々な説明がなされているが,どの説明にもはっきりした証拠はない.<復> この主(ヤハウェ)の神名とエローヒームという神名の用法の違いに注目して,批評学の先鞭をつけたのが,フランスのアストリュク(1684—1766年)である.彼は,モーセが創世記を書いた時に幾つかの文書資料を用いたのではないかと推測した.そして神がエローヒームと呼ばれているところをA文書としてつなぎ合せ,ヤハウェと呼ばれているところをB文書としてつなぎ合せ,それ以外に10の断片的2次資料の存在を考えた.アストリュクの仮説を発展させたのはドイツのアイヒホルン(1752—1827年)であり,彼はアストリュクのA文書をエローヒームという神名からE資料,B文書をヤハウェという神名からJ資料と名付け,両資料の編集者を最終的にはモーセと別人であるとした.さらに資料分析は創世記からモーセ五書全体に及び,ヴェルハウゼン(1844—1918年)の発達説(いわゆるJEDP説)によって頂点に達する.ヴェルハウゼンによれば,まず分裂王国時代になってJ資料が南ユダ王国に,次いでE資料が北イスラエル王国に存在するようになり,さらに前622年のヨシヤ王宗教改革の時にD資料が現れる.最後に捕囚後,神名エローヒームのP資料が現れて,最終的なモーセ五書編纂はエズラの時代とする.そうすると,創世1:1‐2:3と4節前半にはヤハウェという神名が使われていないから,これはP資料であって捕囚期後の作品である.2:4後半から4章の終りはJ資料で,王国期初めの編集であるとする.この場合ヴェルハウゼンは明らかにヘーゲルの歴史観の影響を受けており,イスラエルの宗教を,他の民族の宗教と異なるところのない原始的な宗教に起源を発していると考える.これを独自の宗教として育て上げたのは前8—7世紀の預言者たちであった.ヤハウェ神はもともとイスラエルの一部族の部族神として拝まれていたにすぎなかった.初めはカナンのいろいろな神々と共存し,一緒に拝まれていたが,ヤハウェ神の中に見られる倫理性を純化し,他の異教神と区別したのがイスラエルの預言者たちである.しかし彼らの場合に,まだ宇宙全体の唯一の創造神という概念は見られない.それはバビロン捕囚の間のメソポタミヤ宗教との接触により弁証的に出現した.第2イザヤと祭司典編者により,創造伝承と救済伝承が統合され,エローヒームという神名はそれを表すために用いられた,と考える.<復> 神名をもとに文書を分ける方法が根拠のないものであることは,1941年ユダヤ人学者カッスートによって弁証された(Cassuto, U., The Documentary Hypthesis).今日,神名を文書資料分析の基準にすることができないということは学者間の通説になっているが,それでもJEDP説の大枠を認め,神名の起源を古代オリエントの諸宗教における神名比較にのみ求めて,啓示の側面を考察に入れようとしない学者は多い.<復> 3.その他の神名.<復> 神聖四文字は発音すべからざることばなので,アドーナーイ(主)と読み替えるが,アドーナーイは一般に「主人」または「主」を表す用語で,旧約中約400回用いられている.国家の支配者(創世42:30),家来の主人(同24:65),夫(同18:12)などいろいろな場合に用いられるが,敬称としての用法もある(創世23:6,15,24:18等).神名「ヤハウェ」と結合して用いられることも多く,特にイザヤ書,エレミヤ書,エゼキエル書に多い(参照イザヤ7:7,エレミヤ1:6,エゼキエル2:4等の欄外注).<復> 神名を表すためには,主(ヤハウェ),神(エローヒーム)や前述の用語以外に,神の性質や働きを表す幾つかの通称や表現がある.「天と地を造られた方」(創世14:19,22),「イスラエルの創造者」(イザヤ43:15).神は初めに天地を造られただけでなく,それ以後も世界の統治者であられる.それは「陶器師」と表現されている(イザヤ29:16,45:9,64:8,エレミヤ18:6等).神の聖なる性質を強調するために「聖なる方」(イザヤ40:25,ハバクク3:3),「ヤコブの聖なる方」(イザヤ29:23),特に「イスラエルの聖なる方(者)」という表現は,旧約中31回のうちイザヤ書だけで25回用いられている(1:4,5:19,24,41:14,16,20等).6章の召命体験を反映したイザヤ独自の表現と言える.神のいつくしみを表すために「羊飼い」(詩篇23:1,28:9,80:1「牧者」.参照エゼキエル34:11以下,ホセア4:16).あまりにもヘブル的な神名用語として「岩」がある(申命32:4,18,31,37,詩篇18:31等).また神の民を統治し,幸いを与える側面を強調して「王」または「イスラエルの王」と呼ばれる(詩篇47,93,96‐99篇,イザヤ44:6,52:7等).イスラエルにはサウル以後,王制が敷かれたが,最終的には神政政治であるべきであり,王も民も,主権と栄光を主(ヤハウェ)に帰すべきであった.<復> 4.新約聖書における神の名称.<復> 新約における神の名称はすべてイエス・キリスト中心である.初代教会はおもに70人訳ギリシヤ語旧約聖書を用い,それを神のことばである聖書として受け取り,ナザレのイエスにおいてすべてのメシヤ預言は成就したと宣言した.70人訳聖書では,エローヒームを「セオス」,ヤハウェは「キュリオス」と訳したが,イエスは「セオス」であり「キュリオス」である.これは復活の主にお会いしたトマスの告白に最もよく表明されている(ヨハネ20:28).彼は「私の主.私の神」と告白した.この場合の「キュリオス」は多分「アドーナーイ」であったと思われるが,ギリシヤ語では「ヤハウェ」も「アドーナーイ」も同じように「キュリオス」なので区別することはできなくなっている.ともかくトマスはイエスを「私の神」と呼んで礼拝した.ユダヤ人にとって,ヤハウェ以外の者に「キュリオス」を使うことは神冒涜以外の何ものでもなかった.イエスが死刑を宣告されたのも自分を神としたことによる.しかし初代教会は,大胆に「イエス・キリストは主(キュリオス)である」と告白し続けた.それによって旧約の「ヤハウェ」の意味は深化し,拡大したと言えよう.<復> それではどのように深化し,拡大したのであろうか.<復> 第1に,神がその愛するひとり子イエスをこの世に送り,罪の贖いとして十字架につけ,信じるすべての者が価なくして救われる道を開かれたことである.それはユダヤ人や異邦人の区別なくすべて信じる者に与えられる救いであった.このような徹底的な,無代価の,恩寵のみ,信仰のみによる救いの道が「イエスは主(キュリオス)である」という告白の中に含まれている.<復> 第2は,このようにして救われたすべての者は,単なる個人の集合ではなく,イエス・キリストをかしらとしてキリストのからだなる教会の一員となる.「イエスは主(キュリオス)である」とは,この地上における教会がやみの中に福音を宣べ伝える戦いの教会であり,キリストの約束の中にすでに勝利を確信しつつ,奉仕とあかしに励み,キリストの恵みを体験することを意味している.<復> 第3に,「イエスは主(キュリオス)である」という告白は,世界の最終的主権者が誰であるかを示している.ヨハネの黙示録では,イエスは「王の王,主の主」であると呼ばれている(19:16).また「主よ,きたりませ」と待望の主であり,その日に新天新地が現れ,すべての者はさばかれる.<復> このような方が,ベツレヘムのうまぶねで生れ,ナザレの大工として生涯を送り,病める者をいやし,福音を語りつつその生涯を一人の人として過された.このような救いの道はまことに「ヤハウェ」の働きとしてのみ理解することができる.ことばをかえて言えば,「人の心に思い浮かんだことのないもの」(Ⅰコリント2:9)を,「ヤハウェ」であるがゆえに開いて下さったのである.<復> イエスが主(キュリオス)であるということは,同時にこのイエスが,天の神を「父」として啓示し,この奥義を明らかにするために聖霊なる神の働きがあることを示され,三位一体の神の秘義を示されたことに現れている(三位一体論,キリスト論のよくまとまった解説としては,H・ジェーコブス『キリスト教教義学』第1,6,7部を参照のこと).このようにして旧約の神の名称は,新約における三位一体の神の啓示において,完全にそれぞれの有機的,統一的な意味を明らかにする.<復> 5.日本語の神の名称.<復> 日本にキリスト教が伝達された時,ハビエル(ザビエル)(1506—52年)らが苦労したのは,天地創造の唯一神という神観念を持たない日本人に,どのような神の名称を用いたらよいかということであった.ハビエルは最初ヤジロウの助けによって神を「大日」と訳す失敗を犯している.さらに「天道」とか「天主」と訳してもしっくりいかないので,ラテン語の「デウス」をそのまま用いることにしたと言う.ギュツラフ(1803—51年)が尾張の漁師岩吉,音吉らの助けによってヨハネの福音書を訳した時,神を「ゴクラク」,ロゴスを「カシコイモノ」,聖霊を「カミ」と訳したことは有名である.中国でもキリスト教伝来以来,「セオス」を「天主」と訳すべきか「上帝」と訳すべきかで議論がなされてきた.<復> 1887(明治20)年に翻訳が完了した旧約聖書(文語訳)では,「神」「エホバ」「エホバ神」を神名用語として用いている.<復> 「神」「主」などの称号は,日本の異教的土壌では自明ではない.例えば便所に「福の神」などと書いてあったりする.<復> 「神」「主」「主」など日本語訳における神の称号が,内容面においても正しく理解されるために,教会は日常絶えず努力をする責任と必要性を持っている.そのためには一般社会の啓蒙の前に,教会内部で,用語がいかに正確に聖書の概念を表明し得るかという普段の神学的作業の必要性の自覚から始めなければならない.→キリストの称号,神(かみ)論,創造主,主.<復>〔参考文献〕H・ジェーコブズ『キリスト教教義学』聖文舎,初版1970,改訂2版1982 ; T・C・フリーゼン『旧約聖書神学概説』日本基督教団出版局,1969;T・ボーマン『ヘブライ人とギリシャ人の思惟』新教出版社,1957 ; Kittel, G./Friedrich, G. (eds.), Theological Dictionary of the New Testament, Vol.3, pp.65—119, pp.1039—95, Eerdmans, 1966 ; Botterweck, G. J./Ringgren, H. (eds.), Theological Dictionary of the Old Testament, Vol.1, pp.267—84, Eerdmans, 1978.(鍋谷堯爾)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社