《じっくり解説》福音と文化とは?

福音と文化とは?

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福音と文化…

1.聖書の世界と文化.<復> 「わたしには天においても,地においても,いっさいの権威が与えられています.それゆえ,あなたがたは行って,あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:18,19).この宣教の大命令には,天における人間関係と地における人間関係に対するイエスの主権が宣言されている.それは,地上のあらゆる国の人々,すなわちそれぞれの民族文化に養われた人々を弟子となるべき人間として位置付けている.このように,宣教の大命令で,民族文化が相対的なものとして位置付けられている以上,福音は文化と無関係ではあり得ない.宣教の大命令に含まれている民族と文化の内的関連は,20世紀における人類学の最大の発見でもあった.そこでは,文化とは「人間の生活の仕方のうち,学習によってその社会から習得した一切の部分の総称」と定義された.この文化概念は,今世紀における文化相対主義の土壌となった.そして,今日の人類の課題は,民族文化と両立する人類文化の形成にある.今日,人類は共通の文明に生きている.しかし,共通の文化を形成しているとは言えない.この事態に,福音はどのような答を準備しているのであろうか.パウロによれば,イエスは「天にあるもの,地にあるもの,地の下にあるもののすべて」が「主」と告白すべき方であり,その統合の中心に立つ人格である(ピリピ2:10,11).<復> (1) 文化命令と人類.聖書は人間に関する記述を文化命令,「生めよ.ふえよ.地を満たせ.地を従えよ.海の魚,空の鳥,地をはうすべての生き物を支配せよ」(創世1:28)で始める.それは,一見,今日人類が達成している状況に対応している.実際,人口の増加に伴い複雑化する人間関係に応じて,社会を形成し統治し,「地を満た」すに至っている.その手段が,後半の「地を従えよ.海の魚,空の鳥,地をはうすべての生き物を支配せよ」である.前半が人間の文化的形成に関係するとすれば,後半はその文明に関係している.文化は,それぞれの風土や生業と深く関係した生活を通して形成され,学習を通して継承される生活のすべてである.<復> (2) 文化命令と家庭.この文化は,男と女から成る人間,すなわち夫婦に始まる.文化的伝統は,夫婦を単位とする家庭の主権が保護され,尊重される社会において継承され,豊かに開花し,絶えざる微調整を通して伝承される.家庭は,常に何かが始まる柔軟な生活の座である.従って,家庭の主権が尊重されない社会は硬直化し,新しい事態に対応して自己を変革する力を喪失する.それゆえ,神は,文化命令に先立って,人間を男と女に創造し(創世1:27),この夫婦(人間)に文化命令を与えられた.実に,男と女という全く性格の異なる者の共同生活と協力のもたらす多産性には,刮目(かつもく)すべきものがある.ここに,世界人権宣言を初め,多くの国の憲法が,(両親の一方を欠く家庭をも含め)家庭の主権を前提とし,家庭の保護を国家の第一義的任務と規定するのである.<復> (3) 原罪と文化.今日,家庭を巡る問題はますます深刻化し,問題を抱えた家庭の増加や福祉対策の遅れが新たな社会問題を生み出し,コミュニティから文化創造の力を奪っている.その原型は,エデンの園におけるアダムの罪に見出し得よう.信頼する能力はあらゆる人格関係を成立させる基礎であり,神関係と人間関係形成の前提である.幼児期における個人的な不信の体験が人間関係の形成の阻害要因となるように,エデンの園での神への不信の行為が人類の原罪として,豊かな交わりの形成への阻害要因となった.エデンの園での善悪の知識の木の実を巡る神との最初の契約は,神への信頼を生活を通して経験的に確立する試金石であった.善悪の知識の木は,元来,いのちの木の象徴している,人口の増加や人間関係の複雑化に伴い現出する問題を解決するため必要とする,判断基準としての善悪の知識を象徴していた.人間は,自分の心を喜ばせる快い声に耳を傾け,神の信頼を裏切り,神への不信に根差して背信行為(原罪)を犯した.その結果,彼らは次々と責任を転嫁し,アダムとエバは,心が通わない分裂の悲哀を初めて味わった.こうして,人間は関係を形成する基本的な力を喪失し,人類の悲惨が始まった.神はただちに,将来女の子孫として生れる者によって罪が克服され,この創造の目的が実現することを約束された(原始福音,創世3:15).人間は,エデンの園から追放され,地上でこの文化命令を遂行すべく定められた.<復> (4) 民族と文化.エデンの園を追放された人間は,人口が増加し,言語に従って国々に分れ住み(創世10,11章),それぞれの文化圏を形成していった.しかし,相互不信と背信に根差す内部分裂や外部との闘争のため,多くの民族は文化的統合を実現するには至らなかった.<復> a.ユダヤ民族と文化.聖書に登場する民族のうち,そのほとんどが歴史の舞台から消え去ったにもかかわらず,ユダヤ民族は,その民族統合を辛うじて実現して,今日に至っている.ユダヤ民族は,「地上のすべての民族」の祝福の基として信仰の父アブラハムを通して神に召された(創世12:2,3).彼らは,神への服従を正義とする族長たちに導かれて12部族を形成し,エジプトで大きな民族へと成長した.出エジプトの後,シナイ山でモーセを通して十戒(十のことば)と律法を与えられた.彼らは,長老制度のもとに法の遵守を正義とする,法の前に平等な法社会を形成した.さらに王国時代には,預言者を通して「孤児と寡婦を顧みる」という,社会的弱者に対する公正が追求された.このように,善悪の知識の木の実に象徴された正義は,民族の歴史の進展にともない段階的に啓示され,民族性を培い,文化を形成していった.この神の導きは,子供の成長に応じて,家庭で子供を教育し,配慮をする父親に比せられよう(ヘブル12:5‐11).民族とその文化的性格を形成する神は,その子に行動の原理を提示する,父なる神であった.王国時代に続く亡国とバビロン捕囚の試練を経て,法への服従を新たに誓ったユダヤ民族は,キリストの福音を通して自己の罪を悔い改め,人格的行為主体として完全な大人となり,すべての民族の長兄となるはずであった.しかし,彼らは自己の選民意識に災いされ,自己の殻に閉じこもり,キリストの福音を拒み,人類的交わりから自らを隔離したのであった.今日,国境を無意義化させるボーダーレス時代の到来とともに,人類文化はどのように形成されるのであろうか.<復> b.律法と文化.民族文化の形成は,意志的生活形成をその成員に課する社会規範である法の支配をもって始まる.法はすべての構成員を,血縁・地縁関係から解放し,彼らに区民・市民としての権利を承認し,平等の正義に自覚的に連帯して生きる座としてコミュニティを提供する.特にモーセの十戒は,卓越した内容によってそれ以後のコミュニティと民族文化形成に自然法的型を提供した.<復> ① 暦と教育.十戒はイスラエル民族のすべての成員に共通の生活経験の座を指定し,民族文化の形成と継承を可能とした.それは,社会的時間としての暦と父母畏敬を中核とする教育を通してなされた.暦(安息日)は,社会とその成員(基本的には家庭)に労働への拡散と神礼拝への収斂(しゅうれん)という生活のリズムを与え,民族的生命の鼓動と呼吸を保証し,その展開と統合を可能とした.また父母の教育権を社会的に最大限に尊重することによって,民族文化の伝統がそれぞれの家庭に担われ,家庭を通して伝承され,生活を基盤とする民族的統合を将来的に保証し可能とした.実に,安息日規定(第4戒)と父母畏敬の規定(第5戒)は,民族に交わりと生活の秩序を確保し,コミュニティを確立した.今日の日本社会の現実がこの対極にあるとすれば,その示唆するところは大きい.<復> ② 民族性の形成と十戒.十戒(十のことば)は上述の二つの戒めを除いて,他は定言的禁止命令である.定言的禁止命令は,それに対応する具体的事例の出現に応じて,命令者を意識しつつ,自己の良心に従って判断し,個人的また集団的にその適用を見出すことを,当事者に課している.その結果,良心と社会正義の理念に導かれ,その集団と個人を取り巻くすべてが全面的に調整され,統合されて,民族的アイデンティティーが民族性として結晶し,確立される.十戒の最初の三つの戒めは,対神関係における禁止命令であり,神との交わりにおける良心の働きを促した.また第6,7,8,9の戒めは社会的人間関係に関する禁止命令であり,人間関係における良心の働きを促し,正義によるコミュニティ形成の基盤となった.また,第10戒は,″貪り″という自己の内面の罪に関する禁止命令であり,自己を貪りと所有の対象への執着から解放し,良心を誤った自己愛から解放した.この良心におけるアイデンティティーの確立は,人間が,人格的行為主体として,民族的伝統と人類的交わりに自覚的に連帯する基盤でもある.<復> c.人類と文化.キリストの福音は「時満ちて」ユダヤ教を母として古代ローマ帝国に出現した.ローマ帝国は,人類史上初めて出現した諸民族から成る国家であり,統一世界であった.そこで,キリストの福音は,すべての民族に提供された.それを受け入れたすべての国民は,キリストにある人格的な一つの交わり,すなわち公同の教会へと招き入れられた.この公同の教会を通して,民族文化を越えた全人類的な人格的交わりと文化形成への道が開かれた.長い歴史的過程を経て,キリストの福音により,また十戒を自然法として受容し,民族的閉鎖性から開かれた人格的交わりの世界へと移された人々は,真の民族文化を確立し,主体的に人格的に交わる道を見出し(エペソ2章),今日,全人類的文化圏を形成するに至っている.キリストの福音が人類にもたらした文化史的意義がここに見出されよう.キリスト教の影響を考慮に入れないで,今日の人類の統合を考え得る人はいないであろう.<復> 2.福音と文化.<復> 以上の考察により,民族文化がその民族の抱く正義観と関係があることが示された.<復> (1) 正義と民族性.民族文化を評価するナショナリズムの背後には,それぞれの民族生活に固有な社会秩序の整序の仕方,特に民族的伝統に根差した固有の正義観が存在している.世界には,民族の数だけ多くの正義観が存在することになるのだろうか.聖書の正義観の発達や児童における正義観の発達は,これらの正義観が人格的世界へと統合され,整序され得ることを明らかにしている.ユダヤ民族は,社会生活の展開に応じて,その正義観を信仰における神への服従,法のもとの平等,社会的弱者に対する公正として段階的に展開させ,その社会に生活する人々に主体的に文化的伝統の形成に参加し,コミュニティを形成する道を提示した.また,臨床児童心理学者J・ピアジェーは「児童における道徳判断の発達」という臨床研究を通して,児童の正義観が権威への服従,法のもとの平等,公正さとして段階的に展開することを証明した.そして,この正義観の段階的・漸成的形成は,実際,紀元前はユダヤ民族において,紀元後はキリスト教の影響下にある諸民族において,不十分にではあるが教育を通して実現され,人類的伝統を形成した.また,世界の政治形態も歴史とともに王政・共和制・民主制へと展開し,正義の要求の段階的充足を反映している.さらに,精神分析学者E・H・エーリクソンの人間精神の漸成的な八つの発達段階に関する研究は,その発達段階に現れる両面感情の段階的克服に対応して主体的な力としての徳がスケジュールにしたがって展開することを明らかにした.このことは,子供の意識野(や)にある人間関係の全体が精神の発達に対応して整序され,正義の感覚が質的に展開し,伝統を継承するに足る性格が形成されるに至ることを示している.これらは正義と民族文化との相関関係を示し,文化相対主義が,公正としての正義の主体的担い手である人格世界の出現において統合されることを示している.<復> (2) 良心と人類文化.人間は,父母のもとで正義の感覚を身につけ,性格を確立し,父母から独立して,平和的な国家及び社会の能動的形成者となり,文化形成の主体となる.これは,「教育基本法」第1条(教育の目的)に反映されており,日本の教育の中心的課題でもある.それは,自己の性格や自分の立場を相対視し,全体的状況を踏まえて,全面的に対処・調整し得る人格的自己,すなわち良心の確立において可能となる.このような性格的自己から人格的自己への行為主体の転換が自覚的に遂行されると,人格的交わりの主体としての自己が実現する.それに対し,性格的自己(民族文化)は,特定の社会にのみ妥当するおきての遵守を通して形成される.それは,既に完結した閉鎖的統体としての民族文化(民族性)に固着し,現に存在する開かれた他民族との関係への目を閉じさせる.このようにして,多くの民族は闘争のうちに滅び去り,その歴史を終えた.これは,絶えず新たに出現する人間関係と文化の形成を自他から奪い,開かれた精神において全体的なものを自己の判断の中に反省的に取り入れることを求める,良心の要請に反する罪である.性格は,将来社会的分業を担い,相互に協力してコミュニティを形成する基礎となる良いものである.そして,人格的交わりの世界にも,独自の秩序があり,それは交わりの理性としての良心に支えられる.この所有の対象である性格的自己の立場から交わりの主体としての人格的自己の立場への転換,律法の義の立場から良心の立場への転換は,神の国の交わりの決定的条件である.成人にあっては,性格形成に有効に機能した律法の役割はすでに終り,なおそれに固執するなら,人格的交わりを損なう.ここに,神の民の条件として,この転換(悔い改め)において福音を信じることが必要となる.この悔い改めと福音の信仰を通して,人間は神の国の一員である本来の自己と出会い,自己のアイデンティティーを確立する.ひとは,青年期には自己の理想にしたがってイデオロギーを形成し,終生変らない交友関係に入り,コミュニティ社会の構成員となる.信仰告白は,このような人格関係への門口で神に求められる,人格共同体へのイニシエイション・セレモニーでもある.その時期は,通常,刑事責任を問われるに至る14歳頃が一つの目安となろう.このような転換期は,民族文化のレベルでは,異文化間交流に伴う平和的な国際関係の樹立の要請において訪れる.この異文化間交流を導くのは,民族性形成に機能した正義の感覚や道徳ではなく,人格的統合機能としての良心であり,倫理である.使徒パウロは良心における悔い改めの普遍的可能性を,初めて明らかにした.律法を持つユダヤ人も,律法を持たない異邦人も,共に良心において罪人であり,良心の要求を満たすことにおいて義人となる(ローマ2章).この認識は,諸民族から構成されるローマ帝国における諸民族の交流と統一世界の形成への潜在的要請に対応していた.人間は,民族の一員として肉において己の義(所有)を追求する.しかし,肉(民族的・性格的閉鎖性)において自己の義を追求して犯した罪を良心において,人格的秩序に属する神の民として悔い改め,より豊かな愛の交わり(Ⅰヨハネ1:3,4.公同の教会)に生き,人類の一員となる.そのような良心は如何にして形成されるのであろうか.その良心の形成される機制を,パウロは,ピリピ1:9以下の祈り「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって,いよいよ豊かになり,…イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされ」で展開している.これによれば,福音にかかわる深い知識と,キリストと感覚を共有することを可能にする識別力との相互補完的働きにより,キリストを中心とした愛の交わりが豊かに形成され,その人格共同体の中に働く愛が善悪の判断を導き,キリストのからだである教会が形成される.ここに,新約の人間が,旧約の人間に比して,完全な者,成熟した人,成人と言われる理由がある(マタイ5:48,Ⅰコリント2:6,エペソ4:13他).イエスは,実に,彼らのうち最も小さい者でも,バプテスマのヨハネより偉大である(マタイ11:11)と言われた.また,その与える希望の豊かさと確実さのゆえに,全人類的文化の統合の座である神の国は,人知を越えた賛美の対象となる(ローマ11:33‐36).異民族間の文化交流と人類的統合の要請のもとに,イエス時代のローマ世界は,人類が人格的自己に覚醒し,新しい歩みを模索し始めた時代であった.まさに,時満ちて,神の国の福音は世に現れた(マルコ1:14,15).この福音において,教会は実質的に人類統合の担い手となり,創造の完成者となった(ローマ12:1‐18;Ⅰコリント12章;エペソ2章).<復> (3) 福音と民族文化.ユダヤ教を母とするキリストの福音が,世界の諸民族の文化的統合の担い手となるためには,克服すべき問題があった.それは良心における人格的交わりの障害となる民族文化の取扱いの問題であった.「使徒の働き」の前半はこの問題に当てられている.第1の層は,同一民族(ユダヤ人)より成る教会内での地方的な文化・習俗の違いに端を発した問題であった(使徒6:1‐6).弟子の数が増え,ヘブル語を話すユダヤ人とギリシヤ語を話すユダヤ人との間に問題が発生した.その問題に対しては,当該地方の文化や習俗に通じた信頼できる人物(執事)に処理をゆだねて解決がはかられた.これは,それ以後の民族教会内での問題処理の範例である.<復> 第2の層は,外国人を宣教対象とすることに伴う問題であった(使徒10:1‐48).それは,外国人伝道に先立つ外国文化受容と関係している.ペテロは,ユダヤ人には律法上禁じられている外国人の慣習に関して,「神がきよめた物を,きよくないと言ってはならない」との神の声を聞く.ここでは,外国人の生活習慣,文化の積極的受容が原則として求められている.外国人を得るために,自己の儀式律法の要求を超え,良心の立場において外国人と連帯し得ることが神の求めなのである.ペテロはコルネリオの求めに応じ,聖霊のあかしをもとに,その家の人に洗礼(バプテスマ)を授けた.このことは,すべての民族文化が福音によって聖化され,キリストのからだの重要な構成要素となることを示した.<復> そして第3の層は,教会全体として福音と文化の問題に対する原則確立の問題であった(使徒15:1‐34).それは,ユダヤ主義キリスト者による外国人キリスト者への割礼強要と関連して提起され,エルサレムで開催された使徒会議において一応の解決を見た.その結果,キリストの教会が,ユダヤ民族文化とは異なる次元にあることが確認され,ユダヤ教から完全に独立した,全人類的な公同の教会が確立された.これらの記事は,キリストの福音が,民族文化とは次元を異にし(ローマ1‐8章),すべての民族文化を一つのいのちへと組み込む新しい秩序を含み(ローマ9‐11章,エペソ2:11‐22他),愛における実践を通して新しい人類文化を形成すること(ローマ12‐15章)を示し,文化命令が原則的に成就したことを示している.<復> (4) 日本と福音.このように,福音はすべての人の心に良心を機能させ,民族文化を超えた人類的交流における文化を可能とするとともに,国際的分業をも可能とする.すべての民族は,対等な形で,人格的良心において共同関係を形成し,国際社会の一員となる.その共通の基盤は,家庭を基底としたコミュニティの形成であり,社会正義の実現を目指した国民的交流と民族文化の確立にあった.私たちは,この点で,日本には文化形成の主体的能力が,極めて少数のキリスト者からなる教会コミュニティをほかにしては,存立していない恐れのあることをまず認めなければならない.実際,家庭とコミュニティの主体的形成は,今日まで日本の行政的配慮の対象となったことはなく,それらは天皇制を隠れ蓑とした権力者の自己保存のための操作の対象として利用されてきた.また,黒船の到来を通して自国の後進性に愕然とした当時の指導層が,尊皇攘夷から尊皇開国へと転換し,殖産興業を通して日本の近代化を図らざるを得なかったため,この事態はさらに増幅されて今日に至っている.そのため,村上泰亮らの展開した武家の社会制度としての「イエ社会」を政府と企業の体制に導入した.それと同時に,神島二郎の指摘するように,企業は労働者を単身者として受け入れ,家庭やコミュニティを無視し,あるいは従属させて,日本の家庭と社会を行政と企業の従属物とし,それに内在する社会形成力の抑圧を政治的課題としてきたのであった.このようにして経済成長に専念した結果,今日,日本は経済大国となり,経済的にも余暇の観点からも家庭とコミュニティの形成に向かい,本来の民族的統合を実現し,人類の一員として責任を果し得る段階に到達した.この段階において国際的責任を果すためには,意識の転換を図り,社会的時間としての暦の意義を確認し,文化的伝統の伝達者としての父母の地位を確認し強化しなければならないであろう.これは民族文化形成の必須条件だからである.週休2日制等労働時間の短縮は,家庭の交わりを可能とし,主の日の礼拝を機軸に正義と愛の理念においてコミュニティを形成する条件を整備するであろう.家庭も社会もその性格を形成するためには自由な交わりとその時間が保証される必要がある.そして国民の祝日が,国民的解放と連帯の喜びを精神的に共有する日となる時,民族文化は形成されることであろう.そのためには,教育権が父母にあることを明確に認識し,教育に関しコミュニティが父母と連帯することが急務となるであろう.そして,教会がコミュニティにおける交わりを組織し,家庭や教育の問題の処理に当ることができれば,福音の光のもと,日本的なものがその豊かさにおいて全容を現す日も遠くはないであろう.実に,教会の使命である福音宣教を通して,日本の民族文化は全人類的交わりに救い入れられ,形成される.ソドムは10人の正義の人によって救われるはずであった(創世18:32).<復> 3.終末と文化.<復> キリスト教は諸宗教のうちでただ一つ信仰告白を要件としている.それは民族文化から人類文化への自覚的転換を意味していた.その文化は,良心における人格的交わりとして,教会を通して形成され,伝承される.その構成単位は家族であり,一人の信仰者によって家族は清められ,文化を共有する(Ⅰコリント7:14,使徒16:31).このようにして,人間は人類的文化の担い手ともなる.それは,文化命令が完全に実現される来るべき時代の先取りであり,保証である.現在,神の国を継ぐべきキリストのからだである見えない教会が形成されつつある.実に,パウロは,この世を,キリストにある胎児が成長しつつある母胎に見立てている(ローマ8:14‐25).福音は,すべての民族文化を取り込み,キリストのからだを建て上げる(エペソ4章).神の民は,福音の進展とともに,世界の諸民族から召し集められ,その特性に従って教会の諸器官を形成しつつある.そして,この世から選び分けられた人々の数が満ち(黙示録6:11),キリストのからだが完成した時,最後の審判を通して諸国民から選ばれた(マタイ25:31‐40)新しいイスラエルは,新天新地に,キリストの花嫁として生れ出(黙示録21章),すべての被造物は神にあって虚無から解放され,神の栄光をほめたたえるに至るのである.→キリスト教と文化,コンテキスチュアリゼーション・神学の.<復>〔参考文献〕J・ピアジェ『臨床児童心理学』Ⅲ,同文書院,1954;神島二郎『日本人の結婚観』筑摩書房,1976;村上/公文/佐藤『文明としてのイエ社会』中央公論社,1979;C・トレモンタン『パウロス』中央出版社,1978.(宇佐神正明)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社