《じっくり解説》信仰生活とは?

信仰生活とは?

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信仰生活…

信仰生活とは,イエス・キリストを個人的に救い主として信じた者の生活のことを言う.その生活については,個人としての信仰生活,教会としての信仰生活,家庭人としての信仰生活,そして社会人としての信仰生活との4項目に分けて考えることができる.<復> 1.個人としての信仰生活.<復> 「私たちは,キリストについての初歩の教えをあとにして,成熟を目ざして進もうではありませんか」(ヘブル6:1)とあり,「あらゆる点において成長し,かしらなるキリストに達することができるため」(エペソ4:15)と記されているように,イエス・キリストを救い主として信じて信仰生活を始めた者は「成熟を目ざし」また「あらゆる点において成長」することが期待される.そのためには,個人的な信仰生活のあり方として,少なくとも次の三つは不可欠な基本である.<復> (1) 神を礼拝する生活.「人は,神を礼拝するために造られた」とA ・W ・トウザーは言ったが,人がクリスチャンになったということは,人の本来造られた目的である「神を礼拝する」生活に回復されたことを意味する.だから信仰生活において最優先させなければならないのは,「神への礼拝」である.それは後述する教会生活においても中心でなければならないが,個人としてもそれは中心に位置付けられなければならない.礼拝というのは,英語のworship,もともとはアングロサクソン語weorthscipeからきており,「ある対象に価値を帰する」という意味を持っている.それゆえ礼拝とは,礼拝の対象である方,つまり私たちを創造してこの地上に存在させ,御子イエス・キリストによって贖いを完成し,私たちを御救いに入れて下さった方に価値を帰する,別の言い方をするなら,この方に栄光を帰するという行為を指すことになる.それが一定のある行為というだけでなく,「食べるにも,飲むにも,何をするにも,ただ神の栄光を現わすためにしなさい」(Ⅰコリント10:31)とあり,また「あなたがたは,代価を払って買い取られたのです.ですから自分のからだをもって,神の栄光を現わしなさい」(同6:20)と記されているように,日々の生活及びその全存在をかけて神の栄光を現すことなのである.聖書はさらに「あなたがたのからだを,神に受け入れられる,聖い,生きた供え物としてささげなさい」と勧め,「それこそ,あなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ12:1)と言う.献身の生活こそが神への礼拝そのものであるということになる.<復> この献身の生活を確かなものにしていく上で重要とされるものにデボーションがある.デボーション(devotion)はもともと献身という意味を含んでいるが,献身の生活を確実に具体化していくためのものとして,クリスチャンの間で一般には「静思の時」などと呼ばれている.つまり,個人的な礼拝のひと時のことである.一日の仕事を始める前に,ある時間を聖別し,神に賛美をささげ,聖書を開いてみことばに聞く.そして祈りをする,ということが習慣化されるべきであろう.なぜならこのデボーションの確立こそは信仰生活の基礎だからである.<復> (2) 恵みの良い管理者としての生活.「それぞれが賜物を受けているのですから,神のさまざまな恵みの良い管理者として,その賜物を用いて,互いに仕え合いなさい」(Ⅰペテロ4:10)と記されているように,クリスチャンは神から委託されている「さまざまな恵みの良い管理者として」生活することが求められている.この生活の仕方のことをクリスチャン・スチュワードシップとも言う.このスチュワードシップというのは,ギリシヤ語のオイコノミアを英語に訳したものだが,このオイコノミアは,オイキア(家)とノモス(法律)の二つのことばからできていて,一般に家事や家政の意味に使われている.そのように,神の家族としてのクリスチャンが,神から委託されている地上のすべてのものを正しく管理していく責任を意味している.委託されているものというのは,私たちの生命も,能力も,金銭も,持物も,時間も,Ⅰコリント12章に出てくる賜物をも含む,天地宇宙のすべてである.これらすべてを,真の所有者であり委託者である神の意志に従って正しく用いること,これは日常的な信仰生活の基本原則である.このことについて聖書は多く言及している(Ⅰ歴代29:14,マタイ25:14‐30,ルカ12:42以下,16:1以下,テトス1:7).<復> (3) キリストをあかしする生活.「証」という字は「言」と「正」とから成っているが,これをクリスチャンに当てはめるならば,「イエス・キリストを信じるならば救われる」という神のことばが正しいことを証言するということになろう.キリストは昇天される前に「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき,あなたがたは力を受けます.そして,エルサレム,ユダヤとサマリヤの全土,および地の果てにまで,わたしの証人となります」(使徒1:8)と言われた.神はすべての人が救われることを願っておられるが(Ⅰテモテ2:4),その計画を進めるにはどうしても証人が必要である.なぜなら証人は事実を証言し,その事実ほど説得力を持つものは他にないからである.証人の資格は学歴でもなければ能力でもない.事実を目撃したか,あるいは経験したかだけが問われる.私たちが明確にキリストによる救いを経験しているとするなら,誰もが証人としての資格を持ち,またそれを証言する義務がある.だから,「みことばを宣べ伝えなさい.時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」(Ⅱテモテ4:2)と聖書は勧めている.<復> もう一つ,あかしとはただことばでキリストを伝えるだけでなく,「神を礼拝する生活」すなわち神に栄光を帰する生活,そして「恵みの良い管理者としての生活」がなされている日常生活そのものがあかしでなければならない.「言」が「正」という「証」は,その人の言っていることばに対し,なるほど正しいという,生活の裏付けがあってこそ効力を発揮するのである.<復> ただ,事実を事実として証言するというのは,日常の社会でも,損得や利害がからんだ問題に直面すると,時にはいのちをかけなければならない場合もある.初代教会のクリスチャンたちが事実をそのまま証言することによって,しばしば不利で危険な立場に追い込まれた事実によってもそれを知ることができる.だからであろうか,証人と訳されているギリシヤ語は,殉教を意味することばと語源を同じくしている.<復> 2.教会員としての生活.<復> 信仰生活は神との個人的なあり方に基礎を置くが,その実際は教会生活を抜きにしてはあり得ない.教会生活の重要さとその実際について記す.<復> (1) 教会の「かしら」なるキリストに連なる.信仰生活は個人的にイエス・キリストを救い主として信じそれを告白し,バプテスマ(洗礼)を受けることによって始まるが,聖書によるならば,「一つのからだとなるように」バプテスマを受けたのだということである(Ⅰコリント12:13).つまり,聖書は教会を「キリストのからだ」と言っているが(エペソ1:23),バプテスマを受けて入信したということは,キリストをかしらとする(同1:22)からだなる教会に組み込まれ,「キリストのからだの部分」になったということにほかならない.だから信仰者が「キリストにある」という場合,それが立場上や霊的なキリストとの結合を意味するだけでなく,キリストをかしらとするキリストのからだなる教会に連なってこそ,キリストとつながっていることが具体化する.<復> (2) からだなる教会の部分として.教会を「からだ」と表現しているというのは,それが有機的な生命共同体だということを意味している.だから教会に連なっていることによって,かしらなるキリストにつながって自らの信仰生活のいのちを保つことになり,他の部分はまた一つの部分(口語訳では「一つの肢体」)としての自らのために不可欠であり,また自らは他の部分(肢体)のために不可欠な存在ということになる.そしてそれぞれには,いろいろな種類の賜物,奉仕,働き(Ⅰコリント12:4‐6)があるので,それらを互いに尊重し合いながらそれぞれの役割を果していく必要がある.さらにからだは一つの有機的な組織体でもあるように,教会にも役員会を初め,よりよくからだなる教会が機能するための種々の機関やグループなどの組織があるので,そのいずれかに積極的に参加し,果すべき責任を担っていくようにと私たちは組み込まれている.その意味でも教会から孤立しては,自らの信仰的生命を維持することは不可能ということになる.<復> (3) 教会員としての特権と責任.人はこの地上に生を受けた時,天国の籍を持つ(ルカ10:20,ピリピ3:20)が,そのひな型とも言うべく,この地上の教会にも籍を持つことになる.「教会籍(または教籍)」はその人が受洗した時にできる.すなわちその教会の「教会員原簿」に登録されて,その教会所属の会員であることが確定され,そこに教会籍ができる.教会籍があるということはその教会の正会員であることを意味し,その教会を構成する正規のメンバーとしての特権と責任を持つことなのである.教会は本来[ギリシャ語]エクレーシアと言い,″召された者たちの集い″という意味であるから,導かれた教会は神の摂理によるのだという自負のもとに,遠距離への転居などの特別な理由のない限り,教会を転々としたり,教会籍を移したりするなどを,軽率にすべきでないのは当然である.<復> さてその特権と責任であるが,それらを次の四つの面から記す.<復> a.運営上の特権と責任.個々の地域社会は,①その教会の正会員たる信徒,②信徒の中より選挙された役員,並びに,③主に召されて伝道者となるために献身し,教会,教団の認定を得た牧師—以上によって構成され組織される.すべての教会員(この場合,牧師も教会員の一人)は神の前に平等で,その所属教会に対して同等の責任を持つ.従って,教会の大切な事柄を決定するためには教会員全部が同等の議決権を持つ教会総会を開いて協議,決議する.通常の事務についてはその処理を役員会にゆだねるが,その役員の選出及び意見の反映等は,一般会員の責任ある自覚によることは言うまでもない.<復> b.財政上の特権と責任.運営には財政的裏付けがなければならない.教会の財政は原則的に会員の献金によってまかなわれる.教会における献金は,私たちの全生活を神にささげる献身を意味しており,それはまた神への感謝のささげ物である.「ひとりひとり,いやいやながらでなく,強いられてでもなく,心で決めたとおりにしなさい.神は喜んで与える人を愛してくださいます」(Ⅱコリント9:7)とあるように,それは本来自由なものであるが,主の教会を愛する者として,その働きが活発であるようにと願う者であるなら,その必要を満たそうとするのは,教会員としては当然の義務であり責任である.特に月定維持献金といったものには誠実でありたい.もちろん献金は,単に「必要を十分に満たすばかりでなく」「神への多くの感謝を通して,満ちあふれるようになる」ためだと聖書は教えている(同9:12).つまり献金は義務だけではなく,祝福を受けるための特権でもあるということである.<復> c.集会出席への特権と責任.「ある人々のように,いっしょに集まることをやめたりしないで,かえって励まし合い,かの日が近づいているのを見て,ますますそうしようではありませんか」(ヘブル10:25)と勧められているように,信仰生活にとって集会出席は重要である.集会出席は,①集会の中にいます主(マタイ18:20)にお会いするため,②信仰を養われるため,③同信の兄弟姉妹との交わりを深めるため,④未信者へのあかしのため,クリスチャンとして欠かしてはならない義務でありまた特権である.全部の集会に出席できればそれに越したことはないが,それは無理としても,努めて多く出席できるよう祈り求め,出席の妨げとなる事情を解決する方向に持っていくべきである.教会における最も中心的な集会は礼拝であり,これを守ることは信仰者にとって祝福のもとである最高の特権であるとともに,神聖な義務であると心得るべきであろう.ただしこれに出席することで責任を果したかのようないわゆる礼拝信者だけで終ることなく,祈祷会その他の諸集会にも積極的に励むことが望ましい.<復> d.奉仕における特権と責任.奉仕とは,強制されてではなく自発的に,報酬目当てではなく,愛と感謝のゆえに主と教会に仕える態度をもってなすべきものである.キリストは誰が偉いか,という議論をしていた弟子たちに「人の子が来たのも,仕えられるためではなく,かえって仕えるためであり,また,多くの人のための,贖いの代価として,自分のいのちを与えるためなのです」(マルコ10:45)と教えられた.このように,神の国は奉仕と特権の上に成り立っている.そしてこのことは,教会についても当てはまる.聖徒たちの奉仕によってキリストのからだ(教会)は建て上げられる(エペソ4:12).そして奉仕は奉仕する者自身を建て上げて益する.実際の奉仕には様々な分野があるので,それぞれに与えられている賜物と教会の必要に応じてなされるべきである.<復> 3.家庭人としての信仰生活.<復> 教会の一員であるクリスチャンは,一人の家庭人でもあるはずなので,そこでの実生活の中にその信仰が現されていくことが期待される.聖書によれば,私たちは「神の家族」(エペソ2:19)なのであるが,同時にこの地上における血肉の家族を持っているのも事実である.これはまた,神より与えられた家族なのであるから,それに対する責任を信仰者として果す心構えが必要だと聖書は教えている.使徒パウロが「もしも親族,ことに自分の家族を顧みない人がいるなら,その人は信仰を捨てているのであって,不信者よりも悪い」とさえ言っている(Ⅰテモテ5:8)ことによってもそれは明らかである.家庭は創造の秩序の中で天地創造,人間創造に次いで創造され,神はこれを聖なるものとして祝福されたのであるから,信仰者は聖書的な家庭観に基づいて家庭を考え,それにふさわしい生活を営むことが期待されるのは当然である.その家庭と信仰者とのかかわりについて,ここでは四つの点を取り上げる.<復> (1) 家族の救い.家族の一人が信仰を持って救われるということは,その家族全体に救いが及んでいく始まりだと考えてよい.ザアカイがキリストに出会って回心した時,「きょう,救いがこの家に来ました」と言われた主のことばは暗示的だし,事実,初代教会の伝道の中では,家族ごとに次から次へと入信してバプテスマを受けた例を多く見ることができる(使徒10:1‐48,16:15,31‐33,18:8).一家のうちで最初に入信した者は,時に抵抗にあったり,様々な試練や戦いに直面することもあろう.しかし「主イエスを信じなさい.そうすれば,あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)とは聖書の約束である.忍耐をもって祈りつつ,身近な家族の中で「キリストの福音にふさわしく生活し」(ピリピ1:27),家族の救いを待ち望むことこそ,信仰者が期待される生活である.<復> (2) クリスチャンホームの建設.クリスチャンホームが築かれるためには,クリスチャンの結婚が前提となる.これから結婚を考える者であれば,神を第一とした信仰の家庭という目標と理想をしっかりと掲げ,配偶者となるべき人の選択については,外見や学歴や経済力ではなく,必ず信仰を第一の条件とすべきであろう.日本の教会の場合,女性に比べて男性の青年が少ないと言われ,「不信者とでも,後で導けば」という考えに陥りやすいが,「不信者と,つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません」(Ⅱコリント6:14)という聖書の戒めもあり,実際には導くはずの本人までもが信仰を失うというケースが多いのである.<復> 信徒の家庭であるならば,キリストは家庭の救い主でもあるから,一家の主人はキリストであると心すべきである.夫婦や家族の間にも人間である限り問題を生じることはあろうが,全員がまず主キリストの御旨に従おうとするところに解決がある.夫婦の関係について,妻に対しては「主に従うように,自分の夫に従いなさい」(エペソ5:22)と勧められ,夫に対しては「キリストが教会を愛し,教会のためにご自身をささげられたように,あなたがたも,自分の妻を愛しなさい」(同5:25)と勧められている.さらに子供たちに対しては「主にあって両親に従いなさい」(同6:1)とある.上記の勧めのことばによってもわかるように,夫の妻への愛,妻の夫への従順,子供たちの両親への尊敬,これが神の望まれる家庭の実際的な秩序である.<復> (3) 家庭での礼拝.健全なクリスチャンホームを建て上げていく上で必須なのは家庭礼拝の励行である.家庭礼拝は,キリストが家庭の主であることを毎日覚え,確認するという意味でも,また子供たちに信仰を継承するという点でも欠かせない.家庭礼拝が,一日の原動力となるよう願うなら,朝それを持つことが一番である.しかし現代のように社会の構造が複雑になってくると,朝みながそろってというのはやさしいことではないであろうが,時間をいつにするかは工夫するとして,ともかく実行し,継続することは家庭の祝福に直結する.<復> (4) 家の教会.キリストを主とする家庭は小さな教会のようであるのが理想で,その家庭は神の救いの計画の進展のためにあると言ってもよい.初めの頃にはキリストの教会には会堂がなかったので,ユダヤ教の会堂を借りるか,信徒の家庭が開放されたらしく,聖餐の礼典と思われる「パンを裂き」が「家」で行われ(使徒2:46),幾つかの教会は「家の教会」と呼ばれていた(ローマ16:5,Ⅰコリント16:19,コロサイ4:15,ピレモン2節等).このように聖書を見ると,初代教会では「家」が伝道と教会形成に重要な役割を果していたのがわかる.今日でもいわゆる家庭集会から教会が形成されていったという例は非常に多い.家庭が開放されて近隣の人々の救いのため,子供会や交わり会,あるいは聖書の学びのサークルなどに用いられるとしたら,ある意味で家庭は,その地域における伝道の前線基地の役目を果すことになる.<復> 4.社会人としての信仰生活.<復> クリスチャンはこの世から召し出された者であって,その意味ではこの世の者ではないので,時にこの世から憎まれることがあり,とかくこの世にあっては悩み多い生活となるだろうと主は言われている(ヨハネ16:33,17:14,16).確かにクリスチャンにとって,悪魔の支配下にあり,暗黒と腐敗に満ちたこの世で(エペソ2:3,6:12)生活することは容易でない.しかし神のみこころは,クリスチャンをこの世界から取り去ることではなく,この世にあって悪から守られ(ヨハネ17:15),「地の塩,世界の光」としての役割を果すため(マタイ5:13‐16)に,この世に遣わされているのだというのが聖書の教えるところである(ヨハネ17:18).クリスチャンは確かに神の国に属し,またキリストの教会の一員であるが,信仰生活は決して現実と遊離したところで営まれるのではなく,この世の一社会人として,現実の具体的な問題の中で営まれていくものなのである.<復> (1) 市民として.かつてキリストは,パリサイ人とサドカイ人から,当時の支配者であった皇帝カイザルに税金を納めてよいかと問われたことがある.それに対してキリストは「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と答えられた(マタイ22:21).これは神につける民であっても,地上の国の市民として,国家に対して果すべき義務は果すべきだということなのである.パウロも「だれにでも義務を果たしなさい.…税を納めなければならない人には税を納め,恐れなければならない人を恐れ,敬わなければならない人を敬いなさい」(ローマ13:7)と勧めている.<復> ペテロはまた「人の立てたすべての制度に,主のゆえに従いなさい」(Ⅰペテロ2:13)とも言っている.神の立てた制度に従うのは当然だが,人の立てた制度には従う必要がないのではと思うクリスチャンがあるとしたら,それは聖書的ではないということになる.この世の秩序や組織,国家の権威などは,たといそれが神を知らない人々によって立てられ,運営されているものであっても,なおそれは神の摂理のうちに立てられたものであるから,クリスチャンは信仰的良心をもってこれに従うように,というのが新約聖書の一貫した教えである.もし権力者が神に敵対する政策をとる場合には,「人に従うより,神に従うべき」(使徒5:29)であるとしてこれに抗議し,時に真理のためには身を殉じなければならない事態もあり得よう.だから上に立つ権威ある者たちが誤った方向に行かないように「王とすべての高い地位にある人たちのために願い,祈り,とりなし」をするようにと勧められている(Ⅰテモテ2:1).<復> (2) 職場で.家で集会を開き,パウロの伝道を助けていたアクラ,プリスキラ夫妻も「彼らの職業は天幕作りであった」(使徒18:3)とあるが,人はこの世に生きる以上,何らかの職を持って働く.それはただ生活の資を得るためというだけのことでなく,それによって社会になすべき分を尽すことにもなるのであるが,それ以上に,それによって神に仕え,神の栄光を現すことを目的として働く.その目的さえあるならば,職業に聖俗や貴賤の区別はない.ただ職業を選択する時,単に収入や名誉心から決めるのでなく,職業と召命という言葉がラテン語,ドイツ語,英語で同じであることに暗示されているように,これも神に仕える場への召命として自覚し,自分の賜物に基づいて選ぶというのがクリスチャンのあり方である.そうするならば,働きそのものを通してということと,導かれた職場そのものが伝道の場,神の栄光を現す場となるはずだからである.<復> (3) 地域社会で.初代教会における伝道の進展は,いろいろな地域に散らされた信徒たちがあかしをしたり,みことばを宣べ伝えたりしたことによって著しさを増していった(使徒8:1‐4,11:19,20).その散らされた信徒たちのことをギリシヤ語でディアスポラと呼んでいるが,今日でも信徒は,あかしのため,キリストを宣べ伝えるため,それぞれの地域に散らされているディアスポラであると言うことができる.だからクリスチャンであるがゆえに遊離するということでなく,その置かれているコミュニティに関心を示し,貢献すべきことがあれば率先して協力し,犠牲を払ってでも地域社会の向上のために尽そうとする積極性があってよい.それがあかしとなり伝道につながることもあり得るからである.ただし,信仰的良心に反するような偶像に関することや不道徳なことは,たとい摩擦を生じても,断固自分の立場を明確にしなければならない.日本の社会は根本的に異教文化であり,また無神論的唯物論的文化が背景と言えるので,そうした中でクリスチャンが地域社会から遊離せず,しかも妥協せずというのには相当の知恵を必要とするが,何とか日本文化を逆に生かしながら,福音がそこで力を発揮できるようにと期待される.→家庭生活,職業,キリスト教倫理.<復>〔参考文献〕尾山令仁『信仰生活の手引き』いのちのことば社,初版1956,新版1989;堀越暢治『教会生活入門』いのちのことば社,初版1973,新版1990;岡村又男『主に喜ばれる教会生活』いのちのことば社,1985. (村上宣道)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社