《じっくり解説》女性についての聖書の概念とは?

女性についての聖書の概念とは?

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女性についての聖書の概念…

聖書以外の一般の女性についての概念は大別して二つあると言える.その一つは,男性と比較して,下位に女性を位置付ける男尊女卑であり,もう一つは,男性に対立,挑戦する女性という構造でとらえ,男女の区別をあいまいにし,誤った画一化,同一化によって不平等を払拭しようとするウーマン・リブの考えである.これらのいずれもが示していない正しい女性の概念は,女性を創造された神の御旨の啓示である聖書の中に見出される.しかも,人間の創造と結婚の制定抜きには述べられない.<復> 1.旧約.<復> (1) 女性の創造.神は人(男と女)を他の被造物と区別して「神のかたち」に直接創造された(創世1:27,28,5:1,2,9:6,ヤコブ3:9).三位一体の神の三位格間に人格的愛による交わりがあるように,女も神とのタテの人格的契約関係と他の人である夫とのヨコの人格的交わりを持つ者として創造された.神はまず人(男)を造り,その人から女を造って「彼にふさわしい助け手」として与えられた.「男のかしらはキリストであり,女のかしらは男であり,キリストのかしらは神」(Ⅰコリント11:3)という秩序をもって彼らを創造し,深い有形的霊的な結合をもって一体とされた.一夫一婦の婚姻関係は人間を男と女とに創造された神によって制定された.「かしらと助け手」「人とその妻」は共に神の御前に平等であって,優劣や尊卑や上下の差はなかった.男女とも神から発し,神に従属しているのであって,かしらが助け手に勝るのではない.かしら=起源を意味するのである.ただし,男と女との区別はある.似てはいるが異なった存在である.それは,男も人の部分,女も人の部分であるから,互いに相手を得,互いに補い合って初めて完全となる相互補完の緊密な関係を持つがためである.この特別な一体は,相違しつつ,相互に依存し合い,助け合う義務と責任によって結ばれている.神は人(男と女)を祝福して,「生めよ.ふえよ」と命じ,かつ神の代理人として,すべての生き物を治め,管理する使命をお与えになった(創世1:28).神からいのちと権威とをゆだねられたので,人(男と女)には神に対する連帯責任がある.この目的を遂行するため,神の秩序に基づく分担があった.女は,堕落前は,夫とともに神の栄光を現し,神を喜び,自発的従順をもってかしらを助け,ふさわしく召しに応えていた.人(男)とその妻は,神と互いを喜び,一心同体とされ,祝福と光栄を与えられて,三者間の契約のうちに生きていたのである.<復> (2) 女性の堕落(人の堕落).神と等しくなろうとして高ぶり反逆したために滅びに定められた堕落した天使(サタン)が,神の御前を追放され,手下どもとともに地上に来た.このサタンがエバ(女)を誘惑した.この時,女は,進んで神に従うことのできる自由と能力を持っていた.ところが,「神のようになりたい」という貪りから,神の命令に背き,禁断の木の実を取って食べ,夫にも与えた.二人とも神の前に責任があったのに,二人はそろって,意志的に神に従わないことを選び,その瞬間に霊的に死んだ.この罪の結果,人は自らと断絶し,互いからも断絶した.祝福として与えられた結婚関係に亀裂が生じ,一心同体の調和は引き裂かれた.人は女を賜った神を非難し,女は蛇に責任を転嫁した.二性間の元来の一致は破られ,絶えざる戦いや争いが続くこととなった.すなわち,夫を支配したいができない妻,妻を征服,圧迫する夫である.人格的な交わりの代りに,互いを物のごとく扱い,自分を相手に与えるという愛を失って自分の欲望のために利用するようになったのである.神はおのおのに刑罰を宣告した.子を産むことは本来は女にとって祝福であった.しかし,今や身ごもる苦痛が必要以上に増し加わり,苦しんで出産することとなった.その上,堕落した世界に不可欠な秩序として夫が妻を支配する構造が置かれた.また,本来栄えある特権であった労働が,今や額に汗して糧を得る手段となった.治めていた自然に,逆に人間のほうが支配されることになった.人(男も女も)はやがて,罪の刑罰である肉体の死(体と霊魂の分離)を迎え,そこから取られた土に帰ることとなったのである.<復> 堕落の結果,レメクが2人の妻をめとった(創世4:19)ことからもわかるように,厳格な,しかも祝福された人間関係の基であった一夫一婦制は崩れ,一夫多妻へと傾斜していく.旧約聖書において,一夫多妻制は許容されてはいるが,決して神の積極的な御旨ではない.人(男と女)は歪められた不自然なものではあるが神のかたちを持ち,堕落してはいるが意味のある存在として驚くべき価値を持っている.創造時の,あのあるべき状態への回復は,贖い主を通して,罪人が新しく造られた者となることによって成就する.人(男と女)に対するこの神の贖いの御計画は徐々に完成に向かって展開していく.すなわち,女は男から造られたが,救い主は処女の胎から人としてお生れになったのである.<復> (3) モーセ以後.聖書以外の基準によれば,原始社会,文明社会を問わず,女性の立場は弱い.侮辱,虐待,圧迫が加えられ,性的目的物や,男性に隷属する苦悩の動物のように見られることは絶えたことがない.しかし,聖書では,女性が子供,娘,姉妹,妻,母,やもめ等,種々の立場において持つ尊厳,意義と受けるべき福祉と安全が述べられている.信仰共同体イスラエルすなわち神の民への賜物として,少数ではあるが高い地位と強い影響力を持つ女性として,女預言者ミリヤム,さばきつかさであり預言者であったデボラ,女預言者フルダ,同じくイザヤの妻が与えられた.イスラエル民族の危急存亡の際,神の摂理によってエステルがペルシヤ王妃となった.再三再四,罪人を救うための神の御計画は危機に瀕したかのように見えた.しかし,神はイエス・キリストの受肉のために,敬虔な女性たちを用い,アブラハムの子孫,ダビデの子孫として救い主を世に遣わされた.その過程にはサラ,リベカ,レア,タマルがおり,異邦の女ラハブやルツも救い主の系図に見えている.しかし逆に,イスラエルを罪に陥れ,災いをもたらして神の御計画に反逆した女性や,夫の信仰を害した女性も少なくない.例えばレメクの妻たち,エサウの妻たち,ディナ,ヨセフの妻アセナテ,モーセの妻チッポラ,デリラ,ミカル,バテ・シェバ,エン・ドルの霊媒をする女,ヤロブアムの妻,イゼベル,アタルヤ,ノアデヤがいる.これらは女王,王妃,女預言者,著名な指導者の妻などである.妻として良い影響も悪い影響も与える力を持っていたと言えよう.一方,何の注目すべき地位もない平凡な女性たちをも主は良きわざのために用いられた.女奴隷ハガル,愛されたうばデボラ,助産婦のシフラとプア,モーセの母ヨケベデ,アビガイル,ヨナタンらをかくまったバフリムの農婦,シュネムの婦人,ナアマンの妻に仕えていた娘,祭司の妻エホシェバ等である.<復> 神の女性への顧み,保護は,様々に表されている.例えば不妊の女を顧みて,サラにイサクを,リベカにヤコブを,マノアの妻にサムソンを,ハンナにサムエルを与えて母とならせた.また,子に対しては,父と同じ尊敬を受け,かつ,子らを信仰に導く義務と責任を有するようにされた.また,相続人となる男子がいない時,父の相続地は娘が継承した(民数27:1‐11).罪深い暴虐に満ちた社会における弱者,女奴隷(申命21:10‐14),やもめ(同24:17,19)への配慮も見過しにされていない.また姦淫罪においては,男女両成敗(レビ20:10)で刑罰は平等であった.<復> 神礼拝においては,女性も宗教的務めを担っていた.例えば会見の天幕の入口での務めや(出エジプト38:8),賛美(Ⅰ歴代25:5,6),礼拝(ネヘミヤ8:2,3)の奉仕に携わった.ただし,神の民のしるしである割礼を身に帯びていなかったので女性は祭司職にはつけなかった.異教社会ではしばしば,宮で仕える女性が不道徳に直結していたからでもあろう.後期ユダヤ主義ではヘレニズム思想の影響も加わって,女性蔑視の傾向が増していった.<復> 2.新約.<復> イエス・キリストは,女性を本来の基準で取り扱われた.ユダヤ教の指導者たちは女性が聖書を読んだり研究したりすることを禁止したが,イエスは女性を聴衆,従者,弟子として受け入れられた(ルカ8:2,3).イエスの母マリヤ,女預言者アンナが,イエスの地上の生涯の初めにかかわっている.イエスは,不道徳なサマリヤの女に御自分のほうから話しかけ,信仰に導き,証人とされた(ヨハネ4章).また,ベタニヤではマルタ,マリヤにみことばを教え,親交を持たれた.イエスは,女性の悲しみ,苦しみに対して無関心ではなかった.深いあわれみと同情をもって,長血の女(マタイ9:20‐22),カナン人の女の娘(同15:21‐28),18年間腰が曲っていた女をいやされた(ルカ13:10‐17).息子に先立たれたナインのやもめ(同7:11‐17),兄弟が死んだマルタとマリヤ(ヨハネ11章),会堂管理者ヤイロとその妻(ルカ8:40‐42,49‐56)を慰め,死にさえ勝利するいのちの主であることを示すため,死人を生き返らせて下さった.<復> またイエスは,罪深い女(ルカ7:36‐50),姦淫の女(ヨハネ8:1‐11)をパリサイ人たちの糾弾から守り,新しいいのちへの歩みに招き入れられた.また,社会的に弱い立場にあった女性の権利を保護するため,結婚は神の制定であるから,不貞以外の理由で,むやみに離別してはならないことを強調された(マタイ19:3‐9).<復> また,日常生活からたとえ等を用いてイエスが神の国を説明された時もしばしば女性が登場する.パンを焼く主婦(マタイ13:33),1枚の銀貨を探す女(ルカ15:8‐10),裁判をしてくれるよう頼むしつこいやもめ(同18:1‐5),生活費全部であるレプタ二つをささげたやもめ(同21:1‐4),キリストの再臨に備えるよう教えるたとえの中の10人の娘たち(マタイ25:1‐13)などである.<復> イエスは十字架上の死と復活の時,女性に目撃者,証人としての重大な任務を与えておられる.復活後,イエスはまずマグダラのマリヤに現れ,彼女とともに墓に行った他の女たちをも,再三にわたって告げられていた苦難と十字架と復活が成就した喜びの使信を弟子たちに伝える者とされた.また五旬節の日,約束の聖霊が弟子たちに注がれた時,ペテロは,悔い改めてイエス・キリストの名によってバプテスマ(洗礼)を受けるよう勧めている.旧約時代,神の民のしるしである割礼は男性のみのものであったが,バプテスマが割礼に代って神の民のしるしとなったので,女性も受けることができるようになったのである(使徒8:12).そして,預言者ヨエルが語っていたように,神の霊はキリストを信じたすべての人つまり息子にも娘にも,青年にも老人にも,しもべにもはしためにも賜物として与えられた(同2:18).神との根本的な関係においては,男女,老若,貧富を問わず,みな等しく神に創造された者であり,かつ堕落し失われた罪人である.そして,救い主イエス・キリストの恵みは,男女の差別なく,神の主権によって与えられて教会は成長した(同5:14).<復> 女性の信者も,男性信者同様,公の礼拝の場に集まった.その中には預言をする者もおり,例えば伝道者ピリポの4人の未婚の娘がそうである(使徒21:9,Ⅰコリント11:5).使徒パウロの同労者として,異教社会に福音を導入するのに熱心にかかわった女性たちも少なくない.ヨッパのドルカス(タビタ),ピリピで回心したルデヤ,ユウオデヤ,スントケ,ローマのマリヤ,ツルパナとツルポサ,ルポスの母,ケンクレヤの女執事フィベ,そして夫アクラとともに,行く先々で宣教者たちに協力し,家庭を開放して教会の礎を築き,発展させる主のわざに労したプリスキラ(プリスカ)などが挙げられる.教会の中において,女性も,おのおのに与えられた御霊の賜物に応じ,信仰から来る愛を動機として,主とみことばと教会に仕えた.女性の性情や自己犠牲的献身は誠実な奉仕を生み,教会の力ともなった.女性信者の存在の与える影響は良きにつけ悪しきにつけ大きい.悪い例を挙げれば,いのちと喜びにあふれるピリピ教会ではあったが,ユウオデヤとスントケという熱心な2人の女性信者の不和が原因で教会分裂の危機を迎えたようである(ピリピ4:1‐3).また,イゼベルという偽預言者の忌むべき教えと不品行をなすがままにしているテアテラの教会(黙示録2:18‐29)を主は非難しておられる.<復> テモテの祖母ロイス,母ユニケは,テモテが幼い時から一貫して聖書によって真の神を教えた(Ⅱテモテ1:5,3:14,15).子供に信仰教育を行うことは,子供に対する義務であるとともに神に対する義務をも果すことである.子が救いに導かれ,全人的に成長し神の器として整えられるのに,母の人格と信仰は多大な影響力を持つと言える.<復> やもめは,社会的身分的に無視あるいは軽視されて弱い立場にあったが,信仰の共同体である教会の中では,存在と人格を認められ,位置付けられている(Ⅰテモテ5:3‐16).教会には,保護者を持たない婦人たちに霊的な面でも物質的な面でも配慮と保護と指導をなす務めがゆだねられていたのである.<復> パウロ書簡の中で女性についての考察に必要な箇所を列挙してみよう.Ⅰコリント7章(キリスト者の結婚に関して),同11:3‐16(公同の礼拝における男女の秩序),同14:33‐36,Ⅰテモテ2:9‐15(教会における夫婦の態度),エペソ5:22‐33,コロサイ3:18,19,Ⅰペテロ3:1‐7(結婚の奥義,夫と妻の相互の責任,役割=妻は夫に服従し,夫は妻を愛することでキリストと教会の結合のかたちを地上において反映すること),ガラテヤ3:27,28(キリストによって神のかたちが罪人のうちに再生される時,男女は神の御前に差別されない)などが挙げられる.Ⅰコリント7章では結婚の決定においては,男(夫と妻の父または保護者)が主権を持つが,一夫一婦制,貞操を守る義務,姦淫の禁止等妻が夫と同様に配偶者の全人格的忠誠を要求する権利を持つことや,結婚関係において互いに依存し合うことが記されている.不品行が当然のように行われていたコリントの町では驚くような,キリスト者の家庭内の基準が明確にされたわけである.結婚についても独身についても再婚についても男女は平等,公平に取り扱われていると言える.Ⅰコリント11:3‐16によれば,女のかしらは男,男のかしらはキリスト,キリストのかしらは神である.「かしら」は上下関係の「上」,主従関係の「主」という意味ではなく,「起源」を意味している.創造時,女は男をもとに男のために造られたが,人の自然の誕生においては,男は女から生れる.しかし,すべては神から発しており,男女とも神に従属するのである.主にあっては,女は男を離れてあるものではなく,男も女を離れてあるものではない.ここに,男女の基盤と相互補完依存,一致の根拠がある.神はまず,人をひとり創造し,その人から女を創造し,人を二人創造された.結婚によって,神は,再び二人の人を一心同体,ひとりとされる.結婚関係は,相手以外のすべての者を除外するひとりの男とひとりの女の排他的結合である.聖書は厳格な一夫一婦制を主張して,妻には「自分の夫」に従い,夫には「自分の妻」を愛せよと命じている.エペソ5:22‐6:4によれば,キリストが教会の贖い主でありかしらであるように,夫は妻の保護者でありかしらである.家庭において,子供の第1,第2の権威は父(夫)と母(妻),そして,妻のかしらは夫,夫のかしら,家庭の主はキリストである.助け手である妻は,かしらである夫を敬い,自発的従順をもって仕える.かしらである夫は,自分の体のように,自発的献身をもって妻を愛する.この秩序は女性を卑しめる秩序ではなく,女性を保護し,家庭の調和を保つための秩序である.箴言31:10‐31に描かれている理想の妻はその実例と言えよう.彼女は有能で信頼でき,夫や家族のため,他の人々のため望みを神において明朗快活に喜んで労する.自分に与えられた知性,親切でまめやかな配慮をする能力,健康な身体,神を恐れる人格を用いて,神の栄光を現し,夫の誉れとなる.また,創造性と個性的賜物を健全な方法で発揮し,他者を富ませる.このような妻を育てるのは個性を抑圧したり隷従を要求することなく彼女の夫が妻を信頼し,賛辞を惜しまず評価し激励するからであると言える.<復> Ⅰペテロ3:7では妻は夫よりも弱い器であること,いのちの恵みを共に受け継ぐ者であることが記されている.女性は身体的にも精神的にも弱いので,夫の権威と保護が必要であると書かれている.神は,家庭の重大事を決定する責任を元来は女性に負わせてはおられず,妻が夫に服従することで,夫の保護を受けられるようにされた.すなわち,外部の社会からの圧迫,自分たちの子らからの侮辱,悪しき御使い(サタンの軍勢)からの霊的な攻撃等から妻は守られる.Ⅰコリント11:10に「ですから,女は頭に権威のしるしをかぶるべきです.それも御使いたちのためにです」とあるのは,かぶり物をしていない女は,かしらである夫の権威によって守られていないので,悪い御使いの影響にさらされているという意味とも考えられる.キリスト者の妻が未信者の夫に対してどう対応するかについては,Ⅰペテロ3:1,2に「自分の夫に服従しなさい.たとい,みことばに従わない夫であっても,妻の無言のふるまいによって,神のものとされるようになるためです.それは,あなたがたの,神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです」とある.夫をキリストに導くために,神は,静かな希望と愛にあふれる忍耐強いきよい行い,黙々と夫に仕える生活を妻に求めておられる.信者でない夫を持つ女は,夫が一緒にいることを承知している場合は離婚してはならないとある(Ⅰコリント7:13).妻が自分のかしらである夫に主にあって従い通す時,夫のかしらであるキリストが責任をもって夫を救いに導き,かしらの役割を果し始めさせて下さるのである.「しかし,もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば,離れて行かせなさい.そのようなばあいには,信者である夫あるいは妻は,縛られることはありません.神は平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです」(同7:15).このように,神に従う中で,妻は夫に従うのであって,夫に従うことが神に敵対することになる場合は,神に従うのである.夫に服従することは,キリストに服従することの一部だからである.ところで,妻は自分の夫に従い,夫は自分の妻を愛せよとの家庭内の秩序に関する命令は,女はみな男に従い,男はみな女を愛せよという家庭外の範囲における秩序にまでは拡大できない.ただし,相互服従(エペソ5:21),相互愛(ヨハネ15:12,17,Ⅰヨハネ4:7,11)は,すべてのキリスト者への命令である.教会では,妻たちは黙っているようにと戒められている(Ⅰコリント14:33‐36).これは,礼拝中に異言の解き明かしや預言の意味を質問したり,礼拝を妨げる私語を禁じているのである.学びたければ,家に帰って夫に尋ねること,その時には,静かにしてよく従う心をもって教えを受けること(Ⅰテモテ2:11)である.なぜなら,神が夫を妻の霊的な面でもかしらとして立て,夫を通して妻を啓発し聖化されるからである.夫はかしらとしての義務と役割を放棄してはならず,妻はかしらとしての夫の権威と責任を奪ってはならない.なぜなら創造の秩序ではアダムが先,次にエバであったのに,堕落はエバを経て,アダムに来たからである.エバはサタンに欺かれて罪を犯したが,アダムは欺かれずに罪を犯した.彼は「妻の声に聞き従い」,禁断の木の実を食べることが神の意志に背くことを明確に認識していながら,自ら,神に従わなかったのである.アダムがエバの霊的かしらとしての責任を放棄し,妻がその役割を代行した悲惨の結果である.エバが欺かれたように,キリストの花嫁である教会も,異教的教え,偽教師によって欺かれる危険を警告して,専ら,かしらであるキリストに従うよう勧められている.罪が入ったのは女が発端となったが,救いがもたらされたのも処女マリヤという女を通してキリストが来られたからであった.神は堕落時の女の重大な過失を,救い主を産むという光栄によっておおわれた(Ⅰテモテ2:12‐15).これらの箇所を女性全般に適用して,女性の教会や社会における活動を制限あるいは禁止するものととらえる解釈があるが,慎重に考察すべきであろう.<復> 女が教会の公の集りで終始黙っていなければならないと文字通りに解釈した場合,Ⅰコリント11:5,13と矛盾する.そこでは女が祈りや預言をすることを禁じているのではなく,権威のしるしとしてのかぶり物を卑屈のしるしのごとく誤解して頭に着けていないことが指摘されているのである.さて,ギリシヤ語では,男,夫を意味する語はanthro~pos, ane~rであるのに対し,女,妻を意味する語はgune~一語である.従ってこれを女と訳すか妻と訳すかで大きく違ってくる場合がある.妻が夫に教えたり夫を支配することは禁じられているが,母親が息子を教育することや女性が教会学校の教師,宣教師,伝道者として働くことまでも含むのだろうか.男が性を根拠として,神の前に女より特権ある有利な立場,地位を持っていると言われているのではない.ガラテヤ3:27,28には,キリスト・イエスに対する信仰によって神の子供とされ,バプテスマを受けてキリストにつくものとされ,キリストを着た者は,ユダヤ人もギリシヤ人も,奴隷も自由人も,男子も女子もなく,キリストにあって一つであると記されている.賜物と召命によって,各キリスト者は,種々の領域に遣わされ,その場で神の栄光と隣人の徳を建てるのである.聖書は,キリストに贖われた教会がしみやしわや傷のない聖さを持つように,キリストのものとされた女性(妻)の身なりにまでも言及している.すなわち,外面を着飾るのではなく,柔和で穏やかな霊を宿す内面の人柄や良い行いを飾りとするようにということである.<復> 男女が対立することによっては人間の社会は成立しない.男女は創造の秩序に従い,本来与えられている相違を明確に保ちつつ,相互に依存し,協力して,おのおのの義務と責任を果す時,最高にそれぞれの使命を全うし,神に栄光を帰することができるのである.→結婚,創造の教理,教会・教会論.<復>〔参考文献〕『新聖書注解・新約1—3』いのちのことば社,1972—73;田辺滋『聖書の結婚観』いのちのことば社,1980;J ・E ・アダムズ『クリスチャンの家庭生活』いのちのことば社,1976;“Feminist Theology,”“Anthropology,” New Dictionary of Theology, IVP, 1988; “Woman, Biblical Concept of,” “Women in the Church,” Evangelical Dictionary of Theology, Baker, 1984.(三木冨美子)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社