《じっくり解説》礼拝とは?

礼拝とは?

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礼拝…

1.用語と定義<復> 2.礼拝の基本原理<復> 3.公同礼拝の要素<復> 4.公同礼拝の構成<復> 5.公同礼拝の本質<復> 6.公同礼拝の特質<復> 1.用語と定義.<復> (1) 用語.礼拝を意味する聖書における用語は多様である.礼拝・拝むというような用語だけでなく,礼拝者の内的な思いを表すことば(あがめる・感謝する・より頼む・恐れかしこむ・おののく),動作を表すことば(唱える・ほめたたえる・仕える・仰ぐ・ささげる・手を上げる・ひれ伏す・ひざまずく・身をかがめる・呼び求める),あるいは礼拝行為の一要素(祈祷〔祈り〕・賛美・律法や聖書の朗読・その解説や教え・いけにえや供え物の奉献奉納・香をたくこと)などによって,礼拝行為が意味されているからである.こうした用語の多くは,礼拝者側を中心としたものである.しかし,このことは決して聖書的な神礼拝の概念が,人間中心の主観的な,礼拝者の宗教感情に基づくものであることを意味してはいない.<復> (2) 定義.供え物の最初の言及はアベルとカインの物語のうちにあり(創世4章),祈りの最初の言及は創世4:25にある.しかし,礼拝を神と人間との人格的な交わりという点でとらえるとするならば,神が人間を神の像(かたち)に造られた創造のみわざと不可分である.神は個人的な人間との関係のみを考えておられたのではなく,神の民としての人間との関係を意図して創造された.最初の始祖たちの堕落によって罪人となった人類に対して,なお神は神の民を持とうとして,アブラハムとその子孫とに対して恵みの契約を結ばれた.そのアブラハム契約の進展としてモーセを通して結ばれたシナイ契約において,イスラエルは「祭司の王国,聖なる国民」とされた(出エジプト19:6).彼らは,主なる神を礼拝する「会衆」であり,そのために「集会」する民であった.「教会」の語源となったエクレシアとは,まさに,この会衆であり,集会である.従って,聖書的な礼拝の中心的な概念は,神の恵みの契約に基づいて,民が共に集まって行う公同的礼拝にある.神との契約関係は,個人の全生活領域に及ぶものであり,「食べるにも,飲むにも,何をするにも,ただ神の栄光を現わすために」(Ⅰコリント10:31)生きることを求めるが,神は,公同礼拝のために,人間の地上的な生活の必要を配慮して,終末的な目標をもって特定の日を聖別された.<復> 2.礼拝の基本原理.<復> (1) 神の啓示の進展.礼拝の唯一の対象であるべき契約の神は,旧約時代においても新約時代においても,同一の三位一体の神であるが,独り子の御子の来臨による啓示の時までは,異教的な神々に対して唯一性が強調された.また,その時までの旧約聖書時代の礼拝の特徴は,表象的,予表的な点にあった.それはモーセを通して啓示された宗教全体にわたる性格であった.従って,旧約時代の礼拝は,御子の来臨と彼のみわざの達成とによって新しい礼拝の時代へと移行すべきものであった.「というのは,律法はモーセによって与えられ,恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」(ヨハネ1:17).ゲリジム山でもない,エルサレムでもない,「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます.今がその時です」(ヨハネ4:23)と,主イエスは神の啓示の全体を知る者として,新しい礼拝の時代の到来を告げている.従って,礼拝の対象としての神が,たとい同一であるとしても,ユダヤ教礼拝とキリスト教礼拝が同一であることを意味してはいない.十全なる神の自己啓示に基づいた礼拝をささげていることにおいて,ユダヤ教礼拝とは異なるのである.<復> (2) 受け入れられる礼拝.堕落した人間の腐敗は,その宗教心にまで及んでいるので,礼拝者の気の向くままにではなく,神御自身が礼拝様式に至るまで啓示された.神に受け入れられる礼拝とは,神の命じられたところに従ってささげられる礼拝ということである.「神礼拝について,禁じられていない事柄は許されている」という見解に立つなら,人間的な工夫は必ず異教的な要素の導入に陥り,神の不興と怒りを招く.「まことの神を礼拝する正しい方法は,神ご自身によって制定され,またご自身が啓示したみ心によって制限されているので,人間の想像や工夫,またはサタンの示唆にしたがって,何か可視的な表現によって,または聖書に規定されていない何か他の方法で,神を礼拝すべきでない」(「ウェストミンスター信仰告白」21:1).<復> (3) シナゴーグ礼拝からの伝統.神の啓示の進展に伴う新しい霊的な礼拝の時代への突入は,決して旧約時代の礼拝のすべてからの革新を意味しているわけではない.キリスト教会の礼拝が,ユダヤ教シナゴーグ礼拝から多くのものを継承したことを否定することはできない.型表的,象徴的であった祭司によるいけにえ奉献を中心とした神殿礼拝が,第一神殿の崩壊と捕囚時代を経て,律法の朗読と解説を中心としたシナゴーグ組織と礼拝に道を開いた.少数の帰還民による神殿再建後も,そのシナゴーグ礼拝が神殿礼拝と矛盾することなく存続し,エルサレムにおいてさえも発展したことが,神殿礼拝において予表されていた真理がイエス・キリストの十字架と復活において成就したことによってもたらされた新しい時代のキリスト教礼拝に,普遍的な様式を持つシナゴーグ礼拝を継承させることになったとも言える.<復> 3.公同礼拝の要素.<復> (1) シナゴーグ礼拝の感化.初代のキリスト教徒たちは,ユダヤ教シナゴーグに属しており,パウロの伝道活動も,ユダヤ人共同体の存在する町では,シナゴーグ礼拝の場で行われたことは,使徒の働きにおいて明らかである.そこでは聖書朗読とその解き明かし,祈祷,信仰告白,賛美から成る,いわゆるみことばの礼典が行われた.キリスト教会がユダヤ教から完全に独立した宗教として存在するまでには,シナゴーグ礼拝の遺産を自らのものにするだけの期間があったのである.<復> (2) キリスト教礼拝の独自性.シナゴーグ礼拝の影響は否定できないが,キリスト教会の礼拝は,神殿礼拝が表示していた真理である,イエス・キリストの十字架と復活と,聖霊によるその復活の主の御臨在を,みことばの礼典においてだけでなく,聖晩餐を加えた礼典において表現していた.このキリスト教礼拝の独自性は,キリスト教会の最初の礼拝から示されていたものである(使徒2:42).全一回的に十字架においてささげられたキリストのいけにえと,そのいけにえを嘉納された神の確証としての復活と昇天の事実は,キリスト教礼拝を独自のものにしたばかりでなく,公同礼拝の核心となった.また,みことばと聖餐におけるイエス・キリストの現臨は,終末的な約束の実現の保証であったから,それはキリスト者がこの世において生きる希望となり,慰めとなり,礼拝における賛美・告白・感謝・献身の応答を引き出した.<復> (3) 礼拝順序の言及.前述した礼拝を構成する諸要素については,多くの関連言及が新約聖書にはある.その時代には,旧約聖書しか存在しなかったが,主のことばが権威をもって語られたばかりでなく,使徒たちの書簡も公的に朗読されたし(コロサイ4:16,Ⅱペテロ3:15,16),その使徒たちの教えに基づく説教さえもなされていた(Ⅰテモテ4:13).そればかりか,当時の教会に発生していた異端的な教えに対抗して作成されたと思われる信仰告白文や(Ⅰテモテ1:15,3:16,Ⅱテモテ2:11‐13),すでに用いられていたと推定される賛美歌の引用や(ルカ1,2章の賛歌,黙示録4:11,5:12等),歌うことの勧告(エペソ5:19,ヘブル13:15)が,福音書にも書簡にも見られるのである.しかし,新約聖書には,礼拝順序についての指示や,完全な公同礼拝の描写はない.<復> (4) 教会史における礼拝.2世紀の記録には,交唱形式による賛美や罪の告白や十戒(十のことば)の朗唱が公同礼拝に見られたことも知られている.また,使徒信条の原型となった信仰告白文が各地の教会で用いられたことも確かである.こうしてみことばと聖餐とから成り立つ一まとまりの礼拝は,神の側からの部分と礼拝者が応答する部分とから編成されていった.神の側の部分は,任職された教職者によって代理的になされ,応答部は会衆一同によって行われた.古代教会の歴史とともに進展した礼拝要素がある一方,コリント書簡に見られるように初代教会の初めから,礼拝に腐敗と無秩序が入り込み,常に戦わなければならなかったことも事実である.しかし,特に中世以後の教会は,初代教会の伝統から遠く離れた,複雑で歪められた礼拝様式に陥った.宗教改革は礼拝の改革でもあったが,彼らの礼拝改革は今なお完遂されておらず,特に主日ごとに聖晩餐を守ることは,なおざりにされている.中世の複雑で形式的な礼拝の単純化が,宗教改革者たちの礼拝改革のごとく主張されるが,彼らが意図していたのは聖書的な礼拝の復興であって,主の制定された宗儀である礼典さえも儀式的な要素として無視してしまうことでは決してなかった.極端なピューリタニズムによって,今日のプロテスタント教会の礼拝は彼らの意図していたところとは異なる方向に向かい,礼拝の様式を規定した簡単な「礼拝指針」さえも軽視される傾向にある.霊的な礼拝とは,御霊によって権威付けられ,制御され,ささげられる礼拝のことであり,聖書によって公認される要素と様式に従って行われる礼拝である.<復> 4.公同礼拝の構成.<復> (1) 新約聖書に諸要素の言及はあるが,その完全な編成順序の指示は見られない.しかし,教会とは,一緒に礼拝するために集まる神の民のことであるから,彼らの間には一つの礼拝様式が必要であり,公認の諸要素が公同の礼拝として構成されるためには式文化されなければならない.それらは礼拝の神学と伝統に基づいて,編集構成されるべきである.下記の礼拝順序は,主としてカルヴァンが1545年にシュトラスブルク(ストラスブール)における主日朝拝のために立てたものである.公同礼拝は,本来,みことばと聖餐において統一された全体であるから,決して第1部と第2部に区分されるべきではない.しかし,聖餐は信者たちによってのみ守られるので,その前に,未信者を退出させたり,一度解散した後に聖餐礼拝のために信者たちが集まったりすることが,古代教会における習慣であった.また,改革者たちは,少なくとも主日礼拝ごとの聖餐を回復することを求めていたが,果せなかったため,みことばのみの礼典と聖餐式が行われる礼典とに分けて考えざるを得ないのである.<復> (2) 礼拝順序の実例.<復> a.御言の部.<復>〔招 詞〕(詩篇128:8)(教職者)<復>今日では詩篇95‐100篇なども用いられる.<復>〔罪の告白〕<復>教師の言葉に続いて,会衆は心の中で祈る.<復>〔赦しのみことばと宣言〕<復>慰めと赦しのみことばに続いて,御前にへりくだって罪を認め,イエス・キリストを信じる者に,神は恵み深くあられることを信じるように告げ,御父と御子と聖霊の御名において赦しを宣言する.<復>〔十戒前半〕(会衆一同による朗唱)<復>〔祈 祷〕<復>教師は「主は私たちとともにおられます.主に祈りましょう」と告げ,律法を心に刻み付け,それに従って生きるように,また,律法を犯したすべての咎を私たちに帰せられないほど,恵みが豊かであることをほめたたえて祈る.<復>〔十戒後半〕(会衆一同による朗唱)<復>(キリエ・エレイソンで結ばれる)<復>〔啓蒙の祈り〕<復>御霊の照明を求める祈り.<復>〔詩 篇 歌〕<復>〔聖書朗読〕<復>カルヴァンは,聖書朗読それ自体の意義と効果については,カトリック教会の習慣に反対していたことから,重要視していなかった.彼は聖書日課の制定にも反対していた.しかし,単純に言って聖書は″書かれた神のことば″である.文字・文章・書簡の朗読の軽視,他方,解き明かしとしての説教において初めて神のことばとなるかのような主張は行き過ぎであろう.むしろ,今日では,随意に選択された短い章節に基づいて行われる主観的な説教が,果して″説かれる神のことば″と言えるかどうかを問うべきである.<復>〔説 教〕<復>説教は,人間の側の経験に基づくあかしとは全く区別されなければならない.カルヴァンの説教が主として講解説教であったのは,預言者たちが主のことばを告げるために遣わされたように,説教者は神の代理者として召された神のことばを語る者であるとの自覚に立っていたからである.神の恵みの契約のことばとしての聖書は,十字架と復活(昇天)のキリストに導き,彼において私たちとともに住むことをよしとされた神の救いの力として語られなければならない.教会暦に基づき福音書を中心にして作られた「聖書日課」による説教は,イエス・キリストを中心に据えているかの印象を与えるが,聖書全体がキリストをあかししていることは,主御自身の主張である.聖書全体を通してキリストの福音を宣教する「神の愚かさ」(Ⅰコリント1:21)に徹することが説教者の務めである.<復>〔祈 祷〕<復>説教後の祈りとして記されている祈祷文はかなり長いものである.それは今日,一般的に説教前になされる牧会の祈りよりもはるかに長文である.<復>〔詩 篇 歌〕(会衆一同による賛美)<復>聖餐式が行われない礼拝においては,この賛美に続いて〔アロンの祝祷〕で終る.<復> b.聖餐の部.<復>〔献 金〕<復>〔執り成しの祈り〕<復>〔使徒信条〕<復>キリスト教信仰のうちに生き,死ぬことをあかしするために,会衆一同で歌う.<復>〔聖別の祈り〕<復>〔主の祈り〕<復>〔制定のみことば〕(Ⅰコリント11:23‐29)<復>〔勧 告〕<復>主イエスの御名において,ふさわしくない者を除くことを宣言した上で,「自らの信仰と生活を吟味してあずかること,自らのうちにあるみじめさを自覚するとしても,心に刻まれた福音の恵みを賜った主が受け入れて下さり,聖なる食卓にあずかる者として下さることを確信しましょう.さらに,イエス・キリストが父なる神の栄光のうちにおられる天に,私たちの魂と心とを上げ,地上の朽ち果てるものに気落ちすることなく,パンとぶどう酒によって表示されている主を求めましょう」と勧告する.<復>〔陪 餐〕<復>まず教師があずかり,次いで執事たちがあずかり,その後に全会衆が陪餐する.<復>〔詩 篇 歌〕<復>〔感謝の祈り〕<復>〔讃 詠〕(シメオン頌)<復>〔祝 祷〕<復> 詩篇歌が改革教会の礼拝で歌われるようになったことは,カルヴァンの貢献に負うところが大であり,確かに霊感の書としての「詩篇」が礼拝の歌として旧約時代から初代教会に至るまで歌い継がれてきたことは否めないが,今日の詩篇歌復興運動について考える時,賛美歌集にこだわる意味からではなく,詩篇歌の旧約時代の作品としての限界,すなわち,キリストと彼による救いのみわざの成就の賛美が覆われてしまっているということも忘れてはならない.<復> (3) 公同礼拝の式文化.公同礼拝として会衆が一つになってささげるためには,礼拝の定式化が必要であることは言うまでもない.それを定式化する範囲と実践に関しては,教会によって見解が異なっている.その日その日にささげられる礼拝の全体が定められ,朗読すべき聖書も,歌われる賛美も,ささげられる祈祷文も定められている教会もある.それらの教会では,制定されている教会暦・聖書日課・諸式順序・祈祷文・賛美が指定される.それらはいわゆる「祈祷書」にまとめられている.改革者たちの場合も″古代教会の慣習に従った″「祈祷書」を制定したが,前述した通り教会暦や聖書日課の制定には多くが反対していた.<復> 宗教改革時代の終り,英国の宗教改革を意図して開かれたウェストミンスター会議は,「祈祷書」の制定ではなく,「礼拝指針」を作成した(1644年).それは次のような内容である.序文,教会の集会と公同礼拝における態度,説教前の祈祷,みことばの説教,説教後の祈祷,主の聖晩餐の礼典執行.以来,長老派系の教会はそれに倣い,「祈祷書」に従った礼拝ではなく,自らの作成した「礼拝指針」に基づいてではあるが,単純で自由な礼拝を特徴とするようになった.そのことが,今日の多くのプロテスタント教会の礼拝の貧しさをもたらしたと評価されている.事実,教派の一致・礼拝の公同性・司式者の便宜といった観点から,「指針」とは別に「諸式文」を作成して使用しているのが現実の教会の礼拝である.その「式文」には,礼拝順序だけでなく,祈祷文も記載されている(それは例文であって定式文と理解されている場合もある).従って,「礼拝指針」と「式文」とを一つにして考えるならば,改革者たちの作成した「祈祷書」に近付いていると言える.公同礼拝を主宰される御霊なる神による秩序と自由と一致を具現するために,また,そのような礼拝におけるキリストの現臨を信仰をもって認めるためには,旧約時代の預言者たちのような叫びが,常に会衆に向かってなされなければならないであろう.<復> 5.公同礼拝の本質.<復> (1) 中心としてのキリスト.使徒たちの宣教の中心は,十字架につけられたナザレのイエスが神の御子キリストであることを,復活において確証されたということにあった(「使徒の働き」における説教参照).それはまた,公同礼拝のみことばと聖餐において,世の終りまで繰り返して示されるべきただ一回的な出来事であった.私たちのために死んで,よみがえられたキリスト・イエスは,神の右にいまして,今もとりなしておられる事実こそが(ローマ8:34),私たちを大胆に神に近付ける根拠である(ヘブル7:25,10:19,22).聖霊は,御自身の霊感によるみことばによってキリストをあかしし,礼典を通して,そのキリストに私たちを結び付け,彼のうちにとどまらせるのである.御霊によるキリストの御臨在こそ,キリスト教礼拝を空虚な異教礼拝から区別する事実である.会見の幕屋・神殿が象徴していた「民とともに住まわれる神」であるイエス・キリストの御名によって,「ふたりでも3人でも…集まる所には,わたしもその中にいる」(マタイ18:20)との主の約束は,みことばと聖餐を中心とした公同礼拝において現実となる.<復> (2) 終末的な目標.旧約聖書時代は第7日の安息日が公同礼拝の日であった.それは創造主のみわざの完成を目標とし,奴隷的な労働からの救出を約束する終末を約束するものとして,週の終りの日であった.イエス・キリストの来臨と救いのみわざの成就によって,新約時代の公同礼拝は,週の初めの日である,主の復活の日曜日に移行した.そのことは,主イエスによって実現された神の救いに信頼して,神の栄光の器としての生活に向かわせるのである.しかしなお,その生活の完成は終末にかかっているゆえに,世の終りまで希望をもって公同礼拝に集まり続けることを促すのである(ヘブル10:23‐25).そればかりでなく,公同礼拝そのものが終末的な目標を持っている.みことばと聖餐において,礼拝する民のただ中に御霊によって霊的に臨在するキリストは,私たちを彼とともに十字架に死に,共に葬られた者とするだけでなく(ローマ6:4),共によみがえらせ,共に天の所に座らせて下さるのである(エペソ2:6,コロサイ3:1‐4).それゆえ,初穂としてよみがえられたキリストのおられる所に私たちを向かわせるために,公同礼拝は,天上の永遠的な,キリストにおける神との交わりをかたどり,保証し,その前味となるのである(ヘブル12:22).永遠に生きておられるイエス・キリストと彼のみわざとにおいて,地上の教会の礼拝は,天上の御国の礼拝と連携しているとさえ言える.<復> 6.公同礼拝の特質.<復> (1) 畏敬.キリストの現臨を中心とする礼拝は,キリストにあって神とともに住むことの表現であるから,礼拝を特徴付けるのは,何よりもまず神に対する畏敬でなければならない.それは,一切において私たち人間をはるかに超えた方であり,全知全能の栄光に輝いた聖なる方である神の御前において,礼拝者にふさわしい心情,姿勢,態度,雰囲気である.この神に対する思いは,礼拝者の側の謙遜と結び付いたものである.プロテスタント教会の多くにおいて,「ひざまずく,ひれ伏す」という礼拝の姿勢は無論のこと,「両手を上げる,手を合せる」という祈祷の姿勢さえも見られなくなった.目をつぶって祈るか開けたまま祈るかは重大な問題でなく,真実に神に祈っているかどうかが問題であるのは確かである.しかし,神をあがめている・畏れているという思いは,そのことを表す姿勢と切り離せない.公同礼拝は聖書講演会とは全く違った場であることを,礼拝者自身どれだけ自覚して,座しているだろうか.来会者の誰がただちに彼らは神を礼拝しているのだと認めるだろうか.それほど今日の教会の礼拝に畏敬の雰囲気は見られないのである.<復> (2) 喜び.畏懼(いく)の念と対照的に思われるだろうが,独り子である御子を十字架の死に渡されるほどに,私たちを愛して下さった計り知ることができない神の愛によって,何ものによっても断たれることのない,神との永遠の平和な交わりに入れられている喜びは,公同礼拝に反映されなければならない.神の園は,エデン,すなわち,喜びの園である.その御住まいを「恋い慕って絶え入るばかりです」と告白した詩人は,続いて「私の心も,身も,生ける神に喜びの歌を歌います」と言い表している(詩篇84:1‐3).この喜びは,礼拝の要素としては,特に賛美で表されるだろうが,霊的に神が臨在する公同礼拝全体を包む特質である.主なる神とその民の関係,キリストと彼の教会の関係が,夫婦の関係にたとえられる時,それは人間的なもろい絆とは比べようもない,永遠に断たれることのない愛の交わりが意味されている.神とともに住むに値しない者をキリストにあって受け入れたもう神の愛は,公同礼拝の本質と結び付いており,それを喜びと感謝と賛美に満ちたものとするのである.→礼典,説教,家庭礼拝.<復>〔参考文献〕J・カルヴァン『キリスト教綱要』Ⅳ/2,新教出版社,1965;後藤憲正『改革派教会の礼拝』新教出版社,1987;吉岡繁『キリスト教会の礼拝』小峯書店,1972;R・B・アレン/G・L・ボロー『よりよい礼拝をささげるには』聖書図書刊行会,1989;R・アバ『礼拝』日本基督教団出版局,1961;岸本羊一/北村宗次編『キリスト教礼拝辞典』日本基督教団出版局,1977;野田秀『礼拝のこころえ』桜ケ丘教会出版委員会,1979;山崎順治『礼拝の守り方』いのちのことば社,1982;Rayburn, R. G., O Come, Let Us Worship, Baker, 1980 ; The Westminster Dictionary of Worship, Westminster, 1972.(山崎順治)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社