《じっくり解説》完全主義とは?

完全主義とは?

スポンサーリンク

完全主義…

[英語]Perfectionism,[ドイツ語]Perfektionismus.神の国の目標,キリスト者存在の理想,キリスト者としての聖潔の完成にかかわる教義.「完全」ということばは,「キリストに倣いて(イミタティオ・クリスティ)や「律法」と同様に,教会の歴史の中でそのキリスト教的性質が常に問われてきた概念である.だが同時に,キリスト者としての理想を追求するという課題は完全論の名のもとにいつの時代にも,キリスト者の生活の王道として積極的に取り組まれてきた.「完全」という用語それ自体のゆえに多くの誤解を招き,「完全主義者」となれば,一介の被造物が,しかも現実に欠点だらけの人間が…という意味で,軽蔑を込めて使われることもある.だが,ウェスリ(ウェスレー)のように,このことばを避けることを望みながらも,聖書の用語であるという理由で積極的にこの教理の説き明かしに当った神学者も多い.完全が説かれる背景には,「あなたがたは,天の父が完全なように,完全でありなさい」(マタイ5:48)とあるように,神に属する者として神のごとくあるようにという目標が立てられている.また,そこには「心のきよい者は幸いです.その人は神を見るからです」(同5:8)という人間の究極的な理想が描き出されている.それは,旧約聖書で生きて神を見る者はいないとされながらも見神の体験(ヨブ42:5)をしたヨブを念頭に置き,さらに「わたしを見た者は,父を見たのです」(ヨハネ14:9)という可能性を現在の生活の中で追求することである.<復> 2千年のキリスト教会が聖書に基づいて理解してきた「キリスト者の完全」という教理は,それが健全であれば,一見すると相反するような二つの局面を兼ね備えている.そうした局面を以下の三つの項目に整理してみる.<復> 1.完全の教理は,(1)キリスト者がこの世でクリスチャン生活の最高位の目標に到達することができると主張するものではないが,(2)その目標を相対的(relative)に達成することは—達成後なおも成長を伴うものであるが—この世に生きるキリスト者に与えられた神の約束であり,それが可能であると主張する.道徳的にも霊的にも,われわれが成長していく段階に限界を設定することはできないし,してはならない.この点で,自らが完全を極めたと豪語する人こそが最も完全から遠い存在かもしれない.パウロは「私は,すでに得たのでもなく,すでに完全にされているのでもありません.ただ捕えようとして,追求しているのです」と言って,後ろのものを忘れ,ひたむきに完全を目指して前進するように勧めている(ピリピ3:12‐14).「聖なる神に倣う」というのが課題であれば,課題それ自体に終りはない(エペソ5:1,Ⅰペテロ1:15).また,信仰者として確立していたとしても,なおも実生活の周辺的部分にはまだ信仰原則が行き届いていない領域や傾向が残っているものである.完全を目指す人であれば,そうした部分に広がっていく神の祝福をなおも求め,霊的に成長することを追求すべきである.また,してはならないことを行う罪(sins of commission)を避けることができたとしても、その罪をはるかに上回る数の,なすべきことを怠った罪(sins of omission)があるのである.そして,なすべきことをやり遂げたと思う時でも,われわれはいまだに「役に立たないしもべ」なのである(ルカ17:10).さらに言えば,完全ということばが目指しているのは単なる個人の霊性や道徳ではない.最終的な目標は,ウェスリのことばを借りれば,「聖書的聖潔を全土に広め,国家を,特に教会を改革することである」という広がりを持っている.すなわちキリスト者の完全は,神の御心が天上のごとく地上でも行われ,神のかたちに創造された全人類が神によって意図された人間性を全うし,神の国が社会全体に浸透していくことを目標としている.よって,キリスト教神学における「完全」とは,ラテン語のperfectus (perfected)を意味するのではなく,ギリシヤ語のteleio~sis (perfecting)が表しているように,限りなく進行中の完全を意味すると考えてよい.<復> だが反面,キリスト教神学は,この世において信仰者に約束されている相対的な完全(一見,矛盾した組合せのように感じるが)を「キリスト者の完全」ということばで表現してきた.すなわち,しょせん人間は,被造物である限り,神のように完全無欠という意味での完全には足りないものであるが,この世に生活しながらも,キリストにあって([ギリシャ語]エン・クリストー)神の国に生きることによって可能になる,特定の種類の完全が聖書に約束されている.それは,この世という矛盾と混乱に満ちたものを背景として土の器というもろい人間存在の中に宿るからこそますます輝かしい完全であるのかもしれない.<復> 新約聖書で「完全な」と訳されていることばの中に,[ギリシャ語]テロス(目標)という語から生れたテレイオス,テレイオテースがある.このことばは霊的・道徳的意味における「成熟した大人らしさ」(Ⅰコリント14:20,エペソ4:13,14)を表しており,完全の概念はキリスト者としての成熟を意味する場合が多い.また,このことばは70人訳(ギリシヤ語訳旧約聖書)においてヘブル語シャーレームの訳として神に向かって真っすぐな全き心を表している.こうした聖書の概念にのっとって,ウェスリはキリスト者の完全を全き愛と定義し,フェヌロンやキェルケゴールは,それは神への愛ゆえに与えられる心の純潔であって,ただ一つのこと(神)を望むこと,すなわち「心を尽くし,思いを尽くし,知性を尽くし,力を尽くして,あなたの神である主を愛せよ」(マルコ12:30)に完全の概念が集約されると考えた.それは神との関係における完全で,そこに約束されているのは,父なる神と子なる神の間に存在する完全な交わりが弟子と主との間に存在するということである(ヨハネ17:22,23).<復> 完全の恵みを受けた者が罪性から解放されていると説かれている時,それは決して,すべての点で神の完全な基準に照らして合格した「罪なき完全」を達成したという意味ではなく,またその人物は誘惑からも自由にされた,罪を犯せない聖域に達したという意味でもない.しかし,相対的な完全を保っている者は,自分の知っている神の律法を意識的に犯すことはせず,また心が神の愛に満たされているゆえに,様々な欲望や邪悪な考えすなわちキリストに反する思いから解放されている.内にキリストが支配し(ガラテヤ2:20,エペソ3:17),世と調子を合せずに,心の一新によって完全をわきまえている(ローマ12:2).それは,行いによってでなく,愛によって神の前に全うされている状態である(ローマ13:10,コロサイ3:14).これこそがキリスト者の完全のかなめである.ここから,様々な御霊の実が成熟し,結ばれてくるのである.イエスは,弟子たちが愛の中にとどまり,主の戒めを守るなら,御自身が体験しておられる喜びが弟子たちの内に全うされることを約束された(ヨハネ15:9‐11,16:24,17:13).その喜びは世の何ものをもってしても奪い去ることはできない(同16:22).またイエスは同様に,世の患難に押し流されることのない,世が与えるのとは違う種類の神的な平安をも約束されている(同14:27,16:33,ピリピ4:7).さらに主との親密な交わりの中では,自由に大胆に神の前に出て,何でも求めることができ(ヨハネ15:7,16:23,Ⅰヨハネ3:21,22),「全き愛は恐れを締め出す」と言われている(Ⅰヨハネ4:18).<復> 他に聖書の中で「完全」と訳されていることばの中に,カタルティシスがある.これは,Ⅱコリント13:9「あなたがたが完全な者になることを祈っています」(参照ヘブル13:21)に使われているように,「健全な,あるべき姿にする」「備えて完成させる」という意味である.そのほか,「全き」と訳されていることばの中には,ヘブル語のターミーム(創世17:1.参照ヨブ12:4)があり,これは70人訳でギリシヤ語のアメムプトスに置き換えられているように,「欠けのない」「責めるところのない」という意味である.アメムプトースはⅠテサロニケの「キリストの来臨のとき,責められるところのないように,あなたがたの霊,たましい,からだが完全に守られますように」(5:23)と,完全という概念にさらに具体的内容を加えている.責められるというのは,基本的には個人の意識的な行動領域に当てはまる道徳的なことばである.むろん,その人が罪を意識していないから罪がないというわけではないし,意識していなければ責められないというわけでもない.意識しなくても人を傷つけることがあり,また深層心理に何が隠れているか計り知ることはできない.だからこそ,真の完全は達成するものではなく,追求し続けていかなければならないものなのである—常に,「神よ.私を探り…私のうちに傷のついた道があるか,ないかを見て,私をとこしえの道に導いてください」(詩篇139:23,24).そして,「もしだれかが罪を犯したなら,私たちには,御父の御前で弁護してくださる方があります」(Ⅰヨハネ2:1)という約束があり,これは,神との完全な関係に入っている人がいつでも自分に適用しなければならない戒めでもある.確かに,被造物であるわれわれは,両刃の剣よりも鋭い神のことばによって刺し通されれば,心の底まで神の前にさらけ出され,すべてを見通しておられる神の前に弁明すること(ヘブル4:12,13)は不可能であろう.しかし,弱さに(意識的な罪にではない.参照同10:26‐31)同情して下さる大祭司イエスがわれわれのために弁護者として立たれる時,きよめられて,責めのない状態で神の御前に出ることができる(同4:14‐16).これこそがキリスト者の完全を得た者の確信である.<復> これらすべては,平均的クリスチャンの姿ではないかもしれない.しかし,聖書はそれを「この終わりの時に」「御子によって」(ヘブル1:2)与えられるクリスチャンの標準として描いていることは確かである.だからこそ,パウロ書簡にあるような「ふさわしく歩みなさい」という勧め(エペソ5:1‐8,ピリピ1:27,コロサイ3:12)がなされるのである.パウロは,あの問題の多かったコリントの教会に書き送る時でさえ,その水準を落すことはしない(Ⅰコリント1:2‐9).<復> 2.完全の教理は,(1)その目標をこの世を超越した永遠の世界に定めながらも,(2)日常生活の中に永遠に至る意義を見出していく.完全を追求する者は,この世の産物や一時的な喜びに心を奪われてはならない.いや,むしろ逆にこの世は,真実なキリスト者に迫害と災いとを押し付けてくる.そうした中でキリスト者は常に,「地上にあるものを思わず,天にあるものを思い」(コロサイ3:2),キリストの再臨とそれに続く栄光を待望して,「最後まで耐え忍」んでいく(マタイ24:13)姿勢が必要である.そのようにやがて来るべき「重い永遠の栄光を」慕っている時,今の時の患難は軽く感じられるものである(Ⅱコリント4:17,18).<復> だが反面,キリスト者の完全は,現実逃避の「あの世的」な傾向に走ったり,社会とのかかわりから離脱したりしてはならない.キリストが十字架にかかって愛を実践されたのは,この世の真っただ中においてである.われわれがキリストの愛を実践するように教えられたのも,「互いを愛する」という,社会とのかかわり合いの中でである(ヨハネ15:12).そして,キリストにある時,性別も職業も社会的役割も再解釈され新しい意義を与えられ「何をするにも,人に対してではなく,主に対してするように,心からしなさい」(コロサイ3:23)という姿勢になる.神はクリスチャンを世から呼び出し,生れ変らせ,その上で今度は世における愛のパン種として世へと送られる.世の中のしかるべき仕事はすべて,神の御心を実践し隣人に仕える場となる.それはちょうど,病人を見舞い,牢にいる人を訪ねることがキリストに対してする愛のわざであると考えられているように,日常生活の場で働く者も,「あなたがたが,これらのわたしの兄弟たち,しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは,わたしにしたのです」という主のことばを聞くことができる(マタイ25:40).<復> 総合すれば,完全を追い求める者は,自分の身体も魂も自分自身のものでなく主に属すると確信しながら,この世にあって主からゆだねられた良きものを最善に管理活用して,永遠の世界にある栄光への階段を昇っていくことを学ばなければならない.世俗から聖別されて,しかし世から逃げるのではなく,世に生きて,世俗に勝ち,世を支配することを修得しなければならないのである.<復> この点に関して歴史的に振り返ってみると,中世の修道院思想とそれを批判したルターのプロテスタント神学との対照の中には,考えさせられる事柄が多く含まれている.新プラトン主義の影響を強く受けて発展していった修道院思想は,魂が神の最高善(summum bonum)に近付くためには,魂が物質の世界から抜け出なければならないと教えた.そこで,実践(praxis)を捨てて観照(theoria)に生きる神秘主義や,肉性を殺すことによって霊性を高揚させる禁欲主義が完全に至る道と見なされるようになった.完全への道は,当然,道徳的な退廃に染まっている俗世から離脱し,俗世間の生活とはかかわらない修道僧や教職にのみ可能とされていた.ある意味で,教会のヒエラルキーのどの段階にいるかという外的な事情で,その人の完全の度合いが測られるような傾向もあった.アウグスティーヌスやトマス・アクィナスの神学にもこうした新プラトン的な禁欲主義の色彩は濃厚であった.<復> このような脱世俗的な完全主義に鋭い批判の矢を浴びせたのがルターである.彼は,人間の内なる罪性は,キリスト者になったとしても決して打ち砕かれることなく残存するという教理(invincible concupiscence)に立ち,キリスト者は生涯,神の前に同時に義かつ罪なる存在(simul justus et peccator)であると主張して,完全主義を嫌ったことは確かである.だが,キリスト者を聖と俗に分離して二重の倫理を階層に分けて当てはめる中世の考え方に反対して,ルターは修道院を廃止し,すべてのキリスト者は愛によって隣人に仕える祭司の職分を負っており(万人祭司),神はその職分を追求させるために世の様々な職業へとキリスト者を召しておられる,と説いた.これは,高い水準の完全主義を廃止してすべてを俗のレベルに下げたというのではなく,逆に,世のすべての職を聖のレベルに引き上げたと考えることができる.ここで完全主義が民衆の生活の中に浸透する道を見出したことになる.<復> 宗教改革後の完全主義の発展は,ピューリタン神学の中に,またフォックスを初めとしたクエーカーやウェスリ(ウェスレー)のメソジスト運動の中に見ることができる.キリストにとらえられたこれらの人々は,修道院の僧侶でも隠者でもない.彼らは世にあってごく普通の生活をしている民衆である.彼らを通してキリストの世に対する愛が自然に流れ出,その純潔な生活,正直な言動,謙遜な態度,清楚な服装,これらすべてのことが,ぜいたくで自己中心な世の生活に対する挑戦となる.そこにはおごりのかけらもない.生活力も才能も家庭もすべて神の賜物であり,それらは隣人愛の管として御心のままに用いられ,そこにはパリサイ的な自己顕示はない.そして隣人愛は,個人生活において実践されるばかりか,人々を圧迫し神によって与えられた生命の尊厳を傷つけるような社会状況・慣習に対しては積極的に挑んでいく.彼らの生涯は無心に神の国のためにささげられる.とはいえ,完全の追求は,中途半端な自己否定で続けられるものではない.そうしたことから,プロテスタントの世界でも完全論を強調するのは,ごく一部の人々にとどまっているのが常である.やがてこれらのグループが成長し教会のレベルにまで広がる時,会衆の中に不純な分子が存在し,さらに組織の中でも妥協が余儀なくされるようになると,完全主義が,単なる主義として形骸化される危険性がいつもあるのである.<復> 3.完全の教理は,(1)聖化され,相対的な完全に到達し,なおも成長していく過程には,「あらゆることについて自制し…自分のからだを打ちたたいて従わせる」(Ⅰコリント9:25‐27)といった自己否定や敬虔の修練の積み重ねが必須であることを認めつつも,(2)それが,ただ神の恵みによることを確認するものである.このダイナミックスは,パウロの「捕えようとして,追求しているのです.そして,それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです」(ピリピ3:12)というパウロのことばに見事に表現されている.キリスト者の完全は,その「格闘は血肉に対するものではなく…暗やみの世界の支配者たち」を相手にした戦いであり(エペソ6:12),常に「誘惑に陥らないように,目をさまして,祈って」いかなければならないのである(マタイ26:41).それは不断に自己否定の道であることを,キリスト教の伝統的神学は強調している.自己否定とは,肉欲を従わせるための苦行・自虐行為という否定的な概念ではない.神の意志こそが行動の唯一の基準であると確信して,自己中心的に惰性と堕落の生活を送りやすい自らの意志をあえて否定して,神の御心を選び取ることである.それは,肉性の攻撃の中で信仰を堅持するという防御的な戦いにとどまらず,神の意志を積極的に生活の中に具現していく攻撃的な戦いである.これは確かに,世にあって様々な矛盾にもまれながらの戦いであるから,完璧な勝利を得られるものではない.だが,その不完全さにあきらめてしまってはならない.宗教にとって最も恐ろしいのは,矛盾を前にしてあきらめてしまうところからくるマンネリズム—緩慢な死である.完全を追い求めることは,積極的・前向きに狭き門から入ることを意味する.それは,服従と修練なしに,忍耐と自制なしに,積極的な愛の実践なしに,達成できるものではない.<復> しかしながら,キリスト者の完全は,徹頭徹尾,神の恵みによるのである.完全の特質となっている自己犠牲,喜び,敵を赦す愛,迫害に毅然と向かっていく勇気,これらすべては,人間の内側からわいてくるものではなく,神によって外から与えられなければならない.それは,イエス・キリストを通して神の国が到来し,→今ここに/・・・・←悪に対する愛の勝利が神の奇蹟によってなされるという,神の恵みがつくり出す現在の可能性である.そして,完全の教理はキリスト中心に展開される.そもそもわれわれのために「義と聖めと,贖いとになられた」のはキリストであり(Ⅰコリント1:30),罪に死に,神に対して生きて下さったのはキリストであるがゆえに,われわれが同様な状態に到達するか否かは,われわれがどれほど密接に「キリストにつぎ合わされる」かにかかっているのである(ローマ6:5‐11).換言すれば,外なる世・内なる世に対する戦いの勝敗を左右するのは,信仰者が「信仰の創始者であり,完成者であるイエス」をどれほど熱心に凝視し,内住のキリストに対してどれほど真剣に応答するか,という信仰姿勢にかかっている(ヘブル12:2,ガラテヤ2:20).そして,人が主に向く時,顔のおおいは取りのけられて,鏡のように主の栄光を反映させながら,栄光から栄光へと,主と同じかたちに姿を変えられていく(Ⅱコリント3:16‐18).主に向くとは主を見ることであって,教会の伝統はそれが祈りを通してなされることを強調してきた.中には祈りと黙想の生活に没頭することで見神の理想を達成しようとするクレーメンスのような神秘主義的傾向も生れた.<復> また,先の聖句に続いて記されているように,キリストにつながれ,キリストのごとく変えられることは,すべて「御霊なる主の働き」である(Ⅱコリント3:18).正統的な神学は,人の内と外との両方にある世俗との戦いは聖霊の力によって進められることを一貫して認めてきた.中でも特に18世紀のウェスリは,聖霊の特別な働きによって相対的な完全の達成を体験として意識できることを強調した.完全の達成が,義認の後にある成長を経た後,瞬時的に体験できると言うのである.その「時」を必ずしもはっきりと意識することはできないとしても,少なくとも今現在自分が神と全き愛の関係にあることを体験的に意識できると主張した.完全主義における聖霊の強調は,19世紀のアメリカ・ホーリネス運動に受け継がれ,そこでは「聖霊によるバプテスマ」とキリスト者の完全とが同義に扱われるに至る.また今世紀のペンテコステ運動でも,聖霊によるバプテスマがカリスマ的な解釈を受け,様々な霊的能力を与えられた人が完全と見なされるようにもなる.<復> また信仰,聖霊とともに,伝統的にキリスト教会は勝利の秘訣が「恵みの手段」にあることを主張してきた.あらゆる恵みを管として導く祈りや,自らをむなしくして肉の誘惑と戦うための断食,十字架と復活のキリストにつぎ合されるバプテスマ(洗礼)の恵み(ローマ6章),中でも,そのつぎ木されたキリストとともに成長し,十字架と復活の事実を実質的に深めるとされる聖餐の恵みは尊ばれてきた.完全を追求する者が,愛や慈善の行動に励むことも,信仰を確立し全うするための恩寵の手段と考えられる(ヤコブ2:22).また,キリスト者の完全は個人が自分一人を相手に成し遂げるものではなく,常に「互いに」という土壌で培われるものであるから,ウェスリなどは,互いをいさめ,互いに罪を告白し,互いの霊性に対して責任を担い合い,互いに赦し合い,愛し合い,互いに対して小さなキリストとなることが(エペソ4:32),完全の恵みを受ける手段であると主張した.こうした原則は古来からの修道院の生活や様々なクリスチャンの共同体にも同じように見られるものである.<復>〔参考文献〕J・ウェスレー/J・フレッチャー『キリスト者の完全』(合本),日本ウェスレー出版協会,1987;Flew, N., The Idea of Perfection in Christian Theology, Oxford : Oxford University, Press,1934; Warfield, B. B., Perfectionism, New York : Oxford University Press,1921‐32.(藤本 満)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社