《じっくり解説》職制とは?

職制とは?

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職制…

1.定義.<復> ギリシヤ語の相当語は[ギリシャ語]ディアコニアとその同族語である.新約聖書には使徒を始めとして,預言者,伝道者,牧師,教師,長老,監督,執事などの職務があり,それによって教会の活動が維持され運営される.この制度を,職制と言う.ただし新約聖書においては,職務の内容に不明確な点があり,制度として完全には確立していなかったように思われる.<復> 2.職務の区別.<復> 教会の第1の職務は,キリスト御自身によって選ばれ任命された使徒のそれである.使徒の職務はユニークなものであるから,厳密な意味でそれを継承することはできない.しかし,二次的な意味で恒久的に有効性のある職務と言える.この職務は特に,預言者,教師,伝道者の職務と関係があり,幾分異なる意味では,監督,長老,執事の職務と関係がある.使徒の職務は,管理的というよりも,むしろ祈りと宣教の職務として理解されなければならない.それは監督や長老の職務と対照的であって,地域的に定着した教化,指導の働きよりも,第一に宣教と伝道活動という世界大的で特別な働きである.<復> 新約聖書では,みことばの奉仕と管理的な働きとの間に明らかな区別がある.地域的に見れば,前者は長老,監督の形で行われ,後者は執事によってなされたようである.しかし,その場合でも,それは機能の相違であって,職務の相違を意味するものではない.例えば,食卓に仕えるために選ばれた7人は,みことばの力強い働きも行った(少なくとも,ステパノとピリポの場合はそうである).また使徒たちは,実際的な配慮にある程度かかわりを持たざるを得なかった(パウロは献金を集めるための計画を立てて実行した).<復> 特別で通常外の(extraordinary)職務と,通常の(ordinary)職務という区別がよくなされる.初代教会の時代においては,どこの教会でも宣教活動を何よりも中心的に行うという特別な状況にあったため,一方では「宣教者」たちが巡回活動によって伝道,奨励,教育の働きに従事し,他方,地域の牧師たちは新しく建てられた教会において,通常の実際的,霊的働きの必要に応えていたと言うのである.しかし,こういう単純な区別は多くの誤解を生む原因となっている.まずこうした考え方は,誤った理解の上に立っている.すなわち,みことばに関する職務と組織化に関する職務との間に基本的な区別があるという前提が見られ,あたかも地域の各教会では後者の働きだけがなされていたかのように考えているからである.しかしこうした考え方は,聖書に見られる事実によって否定されることになる,すなわち,使徒は長老でもあったし(Ⅰペテロ5:1),監督も教える務めを果すことができなければならなかった(Ⅰテモテ3:2).また,使徒や預言者がいる所では,地域の牧師は,みことばの奉仕の点で彼らの優位性を認めたが,彼らが存在しない所では,牧師たちがそれぞれみことばと礼典の奉仕をしなければならなかった.<復> 通常外の特別な働きが初期になされ,その後に長老・監督による通常の働きがなされるようになった,というように時間的に区別することも,歴史的な事実に合わないことである.地域的な働きを越えた宣教や教育の働きは,後になってもなされていた.宣教活動をした多くの人々は長老や監督であり,新しい地域での活動において,使徒的な働きをしたからである.宣教的でより広範囲にわたる教育的働きが,地域的な通常の働きの多くを占めているという理由から,G・ブロミリは「通常外の特別な」働きと「通常の」働きとに区別することに反対している.新約聖書の状況を,通常で一般的なものではなく異状で特異な状況と考えるなら,それは教会の職務を理解することを最も困難にし,その職務の働きを弱体化する,と彼は論じている.なぜなら,より広い範囲にわたってなされる働きのほうが地域的な働きよりも重要なもの,と見なす結果になるからである.しかし,これら両者の関係は競合のそれではなく,相互補完の関係にあると言うことができる.一つの地域の牧会的な任務は必要であり合法的なものであるが,それがすべてではない.どのような時代であっても,そうした働きとともに,宣教,教育,神学的必要が存在し,使徒,預言者,教師たちによって,それらの必要が満たされていた.そして,こうした職務を遂行した彼らは,同時に地域の長老であり監督であった.これは職制上の区別ではなく,機能の区別である.多様な必要,任務,召命により,異なった様式で一つの働きが遂行されたのである.従って,活動のためにある職制は,何か固定化した一つの型にはまったものではないことに注意しなければならない.それでブロミリは,使徒的な職務と地域的な職務との二つに区別する.そして,前者には使徒,預言者,教師,伝道者の四つを加え,後者には執事,長老,監督の三つを加える.以下,その区分に従って検討する.<復> 3.使徒的職務.<復> 新約聖書において,範囲のより広い職務として四つの主要な職務があるが,これらは相互の間に明確な区別があるというよりも,むしろ互いに他の性質を含む流動的なものと言うことができる.ただはっきりしているのは,その機能が地域に限定されてはいないということである,使徒は伝道と教育の両面の働きに従事し,預言者と教師は教育に,伝道者は伝道に主として従事した.<復> (1) 使徒.新約聖書では,使徒という用語は狭義と広義の両方に使われている.厳密には,直接イエスによって召された12人(後に11人)を指す.後にユダに代ってマッテヤが加えられた(使徒1:25,26).パウロも狭い意味の使徒に加えられるのにふさわしい人物で,主の地上の働きについて特別に知っていた者として加えられた(ローマ1:1以下,ガラテヤ2:7‐9).バルナバは使徒と呼ぶことができるようであり,イエスの目撃者であると考えられるので,12人と同じランクに加えることができるかもしれないが(参照使徒14:4,ガラテヤ2:7‐9),むしろ広い意味での使徒に加えられるのが普通である.広い意味の使徒には,アンドロニコとユニアス(ローマ16:7),シルワノとテモテ(参照Ⅰテサロニケ1:6),そしてアポロ(参照Ⅱコリント8:23欄外注)がいる.<復> 使徒は直接イエス・キリストによって召され(マルコ3:14,ルカ6:13,ガラテヤ1:1),キリストの生涯,特にその復活の目撃者である(ヨハネ15:27,使徒1:21,22,Ⅰコリント9:1).また彼らは自分たちの述べる教えについて,聖霊の霊感を意識しており(使徒15:28,Ⅰコリント2:13),奇蹟を行う権威を授けられていた(Ⅱコリント12:12).使徒の第1の務めが祈りとみことばの奉仕であったことは,彼らが伝道者であり教師であったということを示す.彼らはある地域にしばらくとどまることはあったが,おもに巡回の働きをなし,また地域教会を越えた働きをした.すでに指摘したように,使徒たちの働きはユニークであって,他の者がこのような権威ある知識と理解を得ることはできなかった.ただし,彼らの働きを二次的な意味ですることのできる人々はいた.宣教のため,また教理的あるいは霊的改革が求められるところでは,そういう特別に召され賜物を与えられた者がその仕事に当った.<復> (2) 預言者.新約聖書の時代には旧約聖書の預言の再興が見られた.初期にはバプテスマのヨハネ(マタイ11:9),シメオン(ルカ2:25‐35),アンナ(ルカ2:36)がおり,イエスの母マリヤ自身も預言の賜物を与えられたことを示している(ルカ1:46‐55).そしてイエス御自身が預言者の到来を予告された(マタイ10:41,23:34,ルカ11:49).ペンテコステの後,この約束は速やかに実現した.カイザリヤ,アンテオケ,さらにパウロの伝道した群れの中にも預言者が生れた(使徒11:27,15:32,21:9以下.参照ローマ12:6以下,Ⅰコリント14:32,ガラテヤ3:3‐5,Ⅰテサロニケ5:20).その中で預言者として名前を挙げられている者には,アガボ(使徒11:28,21:10),シメオン(同13:1),ユダとシラス(同15:32)がいる.また,ピリポに預言する4人の娘がいたことは(同21:9),アンナの場合とともに,旧約聖書と同じく女預言者のいたことを物語っている.<復> 預言の内容は,品物を用いて例示して将来を予告するということもあったが(使徒21:11),主として,単なる解説とは違った教育的な内容の教えや勧めがなされたり(Ⅰコリント14:31),直接的な霊感による指示や,時には幻を語るような面もあったと思われる.使徒職と同様に,恐らく巡回してなされる特別な働きでもあったと考えられるが,地域に密着した面もあったり,中には長老がそうした働きをしたということも考えられる.一方,パウロが偽預言者に対する注意を促していることから見ると,旧約聖書の時代以上に偽預言者が多かったのであろう.<復> (3) 教師.新約聖書の教会において,使徒及び預言者とともに,教師が特別の働きをしていた(Ⅰコリント12:28).パウロは教師という特別な働きの場のあったことを述べているし(Ⅰコリント14:26),彼自身,自分を教師と見なしている(Ⅰテモテ2:7,Ⅱテモテ1:11).もちろん教師は地域的な職務として,牧師(エペソ4:11)や長老(Ⅰテモテ5:17),監督(テトス1:9)をも兼ねるものとなっていったことは事実である.しかし,この教える職務には,地域に限定されない使徒的な要素もあった.ただ,使徒職との相違を挙げれば,教える職務は宣教的な面よりも教育的な面が中心であったと考えられる.また,預言者がより自由な形で勧めをしていたのに比べて,教師はその形式と内容において規則性が求められていたのであろう(参照Ⅰテモテ2:7).使徒たちが世を去り,異端的な教えが広がるにつれて,教師の働きは,地域に定着することが必要となっていったものと考えられる(参照Ⅱテモテ2:2).<復> (4) 伝道者.使徒,預言者,教師とは別に,伝道者が一つの職務として挙げられているが(使徒21:8,エペソ4:11,Ⅱテモテ4:5),彼らについて,またその働きの内容について,新約聖書にはほとんど述べられていない.ピリポ,テモテ,テトスがこのグループに属している.伝道者は,福音を宣べ伝える点では使徒に似た者であるが,使徒職に求められるような資格—キリストについての直接的な知識,キリストからの直接的な召命—というものはなかった.テモテの例から見ると,使徒と行動を共にする時もあれば,使徒を助けたり,使徒から派遣されて特定の働きをすることもあった.その中には,宣教,洗礼(バプテスマ)を授けること,長老を任命すること(Ⅰテモテ5:22,テトス1:5),戒規の施行(テトス3:10)なども含まれていた.彼らの権威は地域的というよりも,より広い範囲に及んでいたと思われる.
4.地域的職務.<復> このグループに属するものは,執事,長老,監督である.<復> (1) 執事.エルサレム教会における7名の任命(使徒6:1‐6)が執事の任職かどうかについては,議論のあるところである.ルカが彼らを執事とは呼んでいないことや,彼ら7名がそれぞれギリシヤ名で呼ばれ,ヘブル語を使うパレスチナのユダヤ人ではなくギリシヤ語を使うヘレニスティックなユダヤ人と考えられるところから,彼らは使徒に匹敵する働き手であったという主張がある.しかし,7名が「食卓のことに仕える」(使徒6:2)ために選ばれ,「もっぱら祈りとみことばの奉仕に励む」(同6:4)使徒たちと対比される働きにつく者として任命されている事実を考えると,執事の出発点がこの7名の選出にあったと考えてよいのではないだろうか.もちろん,この使徒的教会の段階においては,まだ執事の働きそのものは明確なものに発展していなかったわけである.しかし,それから10年あまり経過する中で,各地の教会に執事職というものが定着していったことは明らかである(ピリピ1:1,Ⅰテモテ3:8以下).<復> (2) 長老.長老は,使徒,預言者及び教師とともに,教会の比較的初期に登場する.エルサレムでは,ヤコブとともに長老たちが会堂の方式に沿って教会を治めている(使徒11:30,21:18).エルサレム会議のような場合には,長老たちは使徒たちとともに全教会的な議事に参加している(使徒15:2,6,23,16:4).長老は,パウロがアンテオケに滞在していた時代には現れていない(使徒13:1)し,パウロの書簡の初期のものにも言及されていないが,恐らく教会の統治のことがまだ中心的な問題ではなかったのであろう.しかし,第1回伝道旅行の時にはパウロとバルナバは,設立された教会すべてに長老を立てている(使徒14:23).その立てる方式についてはほとんど知られていないが,恐らくユダヤ人の会堂の場合のように選出し,その上で使徒によって任職されたのであろう(参照Ⅱテモテ1:6).さらに後の時期になると,使徒の補助者によって任職されたようである(参照テトス1:5).<復> 見守ることとともに,教えることが長老の望ましい機能とされている(Ⅰテモテ5:17).使徒,預言者,教師がその巡回する教会に対して奉仕することができなくなるにつれて,教えることと宣べ伝えることは地域の長老たちの役目になっていった.そのため,長老の職務と資格に関心が持たれるようになり,それとともに発展が見られるようになったと思われる.それが長老職の分化をもたらしたのであろう.<復> (3) 監督.異邦人教会では長老の代りに監督という名称が使われるようになった,という考えがある.新約聖書では,「長老」と「監督」は互換性のある用語として使われている(使徒20:17,28,テトス1:5‐9).しかし,監督がすべて長老であることには間違いないとしても,その逆が真実であることは疑わしい.<復> 後になると,長老たちに支援される監督という存在の傾向が,新約聖書の中にさえ見られる.例えば,エルサレム教会のヤコブは後の時代の意味での監督ではないが,明らかに指導的立場にあった(使徒21:18).また明らかに一時的なものであるにしても,テモテやテトスの指導的機能は,少なくともある地域にとっては,個人による監督的指導の必要のあったことを示している.<復> 主イエスとその使徒たちのモデルは職制の原型となるわけであるが,新約聖書も教会の歴史も,使徒の権威が監督だけに集中するというようなことを認めていない.むしろ,明確なものはないにしても,三つの機能,すなわち,慈善的奉仕,霊的管理,指導的統治というものの中に,また執事と長老と指導的長老という三つのグループの存在の中に,将来の三つの職務というものの萌芽が見られる.ブロミリによると,3世紀までには,各地の信者の群れに対して,三つの職務の組織化が指導されている.すなわち,その場合,1人の監督と少なくとも2人の長老と3人の執事が任命されたのである.<復> 宗教改革の時に,カルヴァンは四つの職務を,教会の通常の政治としてキリストが定めたものと考えた.すなわち,牧師,神学教師,長老,執事である.長老は人々の代表として,牧師あるいは監督とともに,戒規に対する責任を負った.実際に小会を構成したのは牧師と長老と執事であり,この小会が地区会議を構成した.これが後の改革派教会の原型を生み出す.スコットランドでは,長老が終身的な職務として任職され,陪餐会員と病人とに対する責任を持った.Ⅰテモテ5:17に基づき,教える長老と治める長老とが同じ立場で会議を構成した.これが後の長老派教会の原型となった.<復> 5.教会の働きと職務.<復> 教会は地上に組織され,その構成員は地上の人間である.しかしながら,教会の支配者はキリストであり,教会員はキリストに結合されているゆえに天的性質を所有することを,われわれは聖書によって教えられている(Ⅰペテロ2:9).従って,教会の働きは聖書を通して,神によって定められており,その目標,手段,組織もそれに基づいて決定される.<復> 教会は三重の目標を荷なっている.その第1は主なる神に対するものであり,教会は何よりも礼拝する群れである.イエス・キリストの贖いのゆえに,われわれははばかることなく神に近付くことができ,聖霊の助けにより正しく真実に自らをささげる礼拝をするように導かれている(ヨハネ4:23,24,ローマ12:1,Ⅰペテロ2:5).パウロが使徒として召されたのは,異邦人により神の御名があがめられるためであった(ローマ15:8‐16).<復> 教会の働きの第2の目標は,聖徒たちに対する奉仕である.それは具体的には,特に信者相互のための教育という形で現れる(エペソ4:12).信仰者はみことばを教えるように召された人々の奉仕により,互いに成長する.教育された者はさらに他の人を教え育てることができるようになる.相互の教育によって,キリストのからだである教会全体が結び合され,成長し,愛のうちに建てられる(エペソ4:16).<復> 教会の働きの第3の目標は世に対するものであって,宣教という形でなされる.この宣教について,教会は二面を持つ.一つは山の上に立つ町のように人々に見られて,人々を引き寄せる面(マタイ5:14),もう一つは,地の果てにまで福音を運んで行く福音の使者という面(マタイ28:18‐20,ルカ24:28,使徒5:32,ピリピ2:14‐18)である.この二つは,車の両輪のように互いを必要とする.<復> これら三つの目標の間には密接な関連があり,全体として一つの召しである.例えば,パウロは異邦人伝道に召されたが,その目的は彼らが救われて神をあがめるようになることだと言う(ローマ15:9).教育と礼拝も切り離すことができない(コロサイ3:16).また,礼拝が神への賛美で満たされる時,その礼拝はこの世に対する最も強力なあかしとなる.教育が行われる中で宣教が推進することも,明らかな事実である(マタイ28:19,20).<復> この教会の三つの目標を果していくために,聖書は三つの手段を挙げている.その第1はみことば(神のことば)である.みことばによらなければ,礼拝(出エジプト20:4‐6,マタイ15:9,コロサイ2:23)も,教育(ヨハネ17:17,テトス1:9,Ⅰペテロ1:23)も,宣教(Ⅰコリント1:21,エペソ4:11,12,Ⅱテモテ4:2)も正しく行われることができない.主のことばが広く豊かに語られ,聞かれ,広められていく中で教会の成長が見られてきたことは,初代教会の時代からの事実である(使徒12:24,19:20).<復> 手段の第2は秩序である.神は無秩序の神ではなく,平和の神であり,教会にも秩序を求められる(Ⅰコリント14:40).しかも,このことは礼拝において礼典をみことばに忠実に行うこととも関係し,さらに愛の思いをもってなされる訓練(戒規)も含んでいる.聞かれ信じられるみことばは服従される必要がある.信者は互いの重荷を負い合い,互いに愛し合うようにというキリストの命令を行うよう勧められている(ガラテヤ6:2).教会の訓練(教会戒規)は公的なものばかりでなく,教会内での信者の相互の訓練,牧会が教育的になされる(ローマ15:14).<復> 第3の手段はあわれみのわざである.キリストは弟子たちを用いて飢えている者たちに食物を与え,また弟子たちに力と権威とを授けて,病に苦しむ人々にいやしを与えるようにされた.主にある兄弟姉妹に仕えることは,主御自身に仕えることである(マタイ25:31‐46).良きサマリヤ人のたとえに見られるように,助けを必要とする人を助けることは,主の愛をもって隣人となることである.まず信仰のある人に対し,そして機会があればすべての人々に対し隣人となるのである(ルカ10:36,ガラテヤ6:10).あわれみの働きは,礼拝においては献金という形でも表される.パウロはエルサレムの貧しい聖徒たちを助けるための献金を,神へのささげ物と見なした(Ⅱコリント9:12‐15).助けを受けたユダヤの信者たちは,異邦人の福音への従順を知らされて,二重の喜びに満たされた.宣教師や教会の慈善の奉仕によって,福音に心を閉していた異教の地の人々が心を開かれるのを見る時,その奉仕が宣教の手段ともなっていることを教えられる.<復> このように,教会の働きの目標のための手段を用いるに当って,教会のかしらであるキリストは,その手段に必要な賜物を与えて下さる.それゆえすべてのクリスチャンは,これら三つの手段を用いることができるように,何らかの賜物を与えられているのである.例えば,すべてのクリスチャンは,聖書のことばに従って神を賛美する(礼拝におけるみことばの働き).また,聖書を用いて仲間の信者を教え励まし訓練する(教育におけるみことばの働き).さらに,人々にキリストの御名を告白する(伝道におけるみことばの働き).秩序の点でも,あわれみのわざの点でも同じことが言える.このように,信仰者には共通な賜物が与えられている.またそれだけでなく,ある信仰者には通常以上の賜物と召しとが与えられていて,神のみことばの理解の面で,権威をもって宣べ伝える面で優れている.そのような人は,伝道や教会の教育において,また礼拝において神の御名をあがめ,実を結ばせることができるであろう.こうした特別の賜物を与えられた者が神の召しの中で訓練され,教会の承認を受け,特別の奉仕をすることになる.それがみことばのために仕える牧師や教師や伝道者の職務(使徒20:28,ヘブル13:7,Ⅱテモテ4:2)であり,秩序のために仕える長老の職務(Ⅰテモテ5:17,テトス1:5)であり,あわれみのために仕える執事の職務(ローマ12:8)である.→教会政治,奉仕,教会・教会論,カトリックの職制.<復>〔参考文献〕吉岡繁『教会の政治』小峯書店,1962;Bromiley, G. W.(gen. ed.), The International Standard Bible Encyclopedia, Eerdmans, 1986 ; Clowney, E. P., Living in Christ’s Church, Great Commission Publications, 1986.(鈴木英昭)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社